声のした方を振り返ると、泉に一番近い樹の幹に一人の男が寄掛ってこちらを見ていた










       ……長く蒼い髪に、蒼い瞳…そして整った顔立ち
       私を助けてくれた、双児宮の主と同じ顔をしていた


       ……けれど、違う









       「……貴方は、誰?」

       「……サガが拾ってきたとか言う女はお前か?」

       私の質問に応えなかったのは別段なんとも思わなかったけれど、替わりに答えた言葉には幾許かの侮りの気持ちが滲みでているような気がして、
       私は思わず眉を顰めた

       「…そう、恐い顔をするな。折角の顔が台無しだぞ。」

       男は、口の端を僅かに上げて低く笑った
       気に障らない、といえば嘘になるけど、私はそれ以上厳しい表情を作る気にはなれなかった

       「………貴方は、誰?……応えて。」

       「…先に自分の名を名乗るのが礼儀と、親に教わらなかったのか、お前は。」

       男は、一向に悪びれる風でもなくさらりと言った

       「…。私の名は。……それで、貴方は一体、サガの何だというの?」

       「…サガも、あいつも物好きなことだ。どこの馬の骨とも知れぬ女を拾って世話をするなどと。…あいつにしては珍しいことではあるがな。」

       私は、右足で泉の水を底から大きく蹴り上げた

       「…応えて。」

       「…俺は、カノン。あいつの…サガの双子の弟だ。」

       「カノン……。」






       私は、顔を上げて彼の瞳を覗きこんだ
       サガより、ほんの僅かだが瞳の色が淡い
       しかし、見た目だけでは殆ど区別がつかないのが現実だろう
       強いて言うなら、カノンの方が服装が遥かにラフなので区別がつくかもしれない

       …服装で人を判別する、というのもなんだか芸がないかもしれないが






       カノンは、相変わらず口の端に薄い笑みを浮かべたまま、こちらに歩み寄ってきた

       「…サガは、俺のことはあまり他人には話さんからな。…不肖の弟ということで、な。」

       カノンはこっちを向かず、そのまま私の傍にどっかりと腰を下ろした
       流石双子というだけのことはあってか、近くで見ても殆ど同じようにしか見えなかった

       「、と言ったな、お前。その左足でよくここまで来られたな。…まぁ、殆どリハビリ段階の問題ではあるがな。」

       私の足のことを話しているにも関わらず、カノンの視線は泉の水面を捉えたままだった

       「サガは…あいつは優しいだろう。あいつは昔からそうだ。…神のように優しい男、と言われ続けているからな。…誰にでも、優しい。」

       …カノンの最後の一言に、どうしてだろうか、どくん、と胸が痛くなった
       私の心の中で、整理しきれないたくさんの気持ちが混ざり合っているようだった








       …そう、サガは優しい
       とても優しい







       ……でも、それは私だけに対してではなく、他の人々についても言えることだわ

       それでも、心のどこかでは私だけへの特別の優しさが存在するような気がする
       …いや、そうであってほしいと私が望んでいるだけかもしれない


       そして、それよりももっと重要なのは、サガの優しさに垣間見えるあの虚ろで寂しげな瞳だった
       思い出すだけで、私の胸をいたく締めつける、あの表情




       …彼が、サガが優しいとき、彼の心の中では…














       「……。」

       気がつくと、カノンの瞳がものすごく近いところにまで迫っていた

       「えっ??」

       私は思わずびっくりして仰け反ってしまいそうになる
       さっきまではずっと水面を見つめていたカノンの瞳が、今は私を捉えて離さない

       「あいつは……いつも独りだったのさ。ずっと、な。」

       「独り…って。」

       「サガは、俺と違って自分の望みを素直に表現するようなヤツじゃない。…だから、いつも言い出せずにいるし、
       逆にだからこそ独りを選んでしまうんだろうな。…本人の意思や願望とは関係なく。」

       「カノン…。」

       「どうやら、、お前は気がついているようだな。あいつのそんなところが。」

       「…え?」

       「お前の今の表情を見ていれば分かるよ、そのくらいはな。伊達に28年も双子はやってない。」

       「……そう…かな……。」

       私は、泉の水面を見つめた
       浸したままの右足には、泉の中心から噴出す波紋が幾重にもぶつかっては砕けてゆく










       しばらくの間、私とカノンは黙って水面を見ていた









       「・・・、お前、どうして聖域に迷い込んできたんだ?」

       カノンは、静かに私に問うた
       思わず、私はビクっと身動ぎをした

       「…私は、日本…自分の国で、働いていたの。…だから、ギリシャへは、気分転換にちょっとした観光で、ね。」

       「……嘘、だな。それは。」

       「え…?」

       「ここは、観光客がそう易々と侵入して来られる場所じゃない。…ごく稀に一般人が入ってくることもあるにはあるが、それはほんの入り口のことだ。」

       「……。」

       「、お前はこの聖域に迷い込んで来た。…そう、そしてそれは、お前が自分自身の心に迷いを抱いていたからだ。」

       カノンは、私の瞳を真っ直ぐに見据えていた
       私は思わず言葉に詰まってしまった

       「この聖域の奥深くにまで迷い込んでくるのは、己の生き方に深く絶望を抱いた人間…と昔聞いた事がある。」

       私は、カノンのその言葉に沈黙で応えるしか術を知らなかった

       「俺は、あいつ・・・サガじゃない。だが、もし良ければ・・・、お前のことを俺に教えて欲しい。」

       すぐ傍にあるカノンの瞳は、自分が今言っていることは決して冗談ではないということを物語っていた
       サガの表情はいつも優しいけれど、カノンの視線は相手を確実に捕らえる鋭さを秘めていた
       しかし、それでいて、こちらに何かを強要する不愉快な類のものではない

       「私は・・・。」

       気がつくと、私は自ずから自分のことを語り始めていた













       私は、自分の国の小さな会社で事務の仕事をしていた

       こじんまりしたその会社は、とてもアットホームで私にとって居心地の良い場所だった
       大学に進学して以降、ずっと私は一人暮しだった
       就職もそこで決め、親元には帰らなかった
       両親は最後まで、私に戻ってきて欲しかったようだったが、私はそれを拒んだ
       一度経験してしまった都会暮らしを捨てられなかったのもある


       しかし、何よりも・・・離れたくなかった人がいたからだった


       彼とは所属していた部活動が同じだった
       一級上だった彼は、当然私より一足先に就職してこの街に留まった
       ・・・だから私も、ここで暮して行きたかった

       今すぐは無理でも、いつかは結婚したいと思っていた
       だから、とにかくここから離れる訳にはいかない、と思った



       ……ただ、それだけだった








       彼の態度がだんだんよそよそしく感じられるようになってきたのは、私が働き始めて半年ほど経ったころだった

       入社2年目に突入した彼は、仕事に熱意を燃やしていたし、私もようやく職場に慣れ始めたころだった
       だから、以前は頻繁に取っていた連絡が、少し途絶えがちになっても致し方のないことだと思っていた








       魔、というのは、そんなちょっとした隙を狙っていたのかもしれない









       いつもと同じようにくたくたになって帰ってきたある晩、私の携帯が鳴った
       久々に聞いた彼の声は、少しくぐもって小さかった


       「俺………結婚するんだ。」

       「え………????」

       仕事の疲れも忘れるほど、私は目の前が真っ白になった
       勿論、彼の結婚の相手が私ではないことは悲しいことに一瞬にして理解できた


       あまりの衝撃に、返す言葉も思いつかない


       「俺…さ、高校の時から付き合ってた娘がいたんだ。」

       「どうして……?」




       どうして、の後は聞きたいことでいっぱいだった
       どうして、それなのに私と付き合っていたの?
       どうして、私に彼女のことを教えてくれなかったの?

             ……どうして、あなたは今そんなに平気でいられるの…???









       「ごめん……。」

       彼の声は、それきり途絶えた
       自分で勝手に思い描いていたとはいえ、密かに抱いてきた夢が、跡形もなく砕かれてゆくような音が耳の奥に木霊した

       就職が決まったときに喜んでくれた彼の笑顔が脳裏に浮かんだ


       …あのとき彼は、何を思っていたのだろう?


       喜んで私の肩を抱いた、その向こうで、もう一人の誰かを想っていたのだろうか?


       「距離」ってなんだろう?


          こんなに近くにいても彼の心の中に存在しなかった自分
          遥か彼方にいても彼の心の住人だった女(ひと)
          少しでも近くにいたくて、必死にもがいていた私
          もがけばもがくほど、彼の心から遠ざかっていたのだろうか?
          …それとも、最初から近くになど存在しなかったのか?



       携帯を握り締めたままいつまで冷たい床に座り込んでいても、答えは一向に収束しなかった



       ……ただ、「此処」にはいたくなかった




       翌日、私は会社に長期休暇の願いを提出した
       こんな急に提出しても受理されまい、とタカを括っていたが偶然閑散期であったため、あっさりと受け入れられた




















       「…彼に、裏切られたということよりもね、一人で勝手に夢を描いていた自分がどうしても許せなかったの。」


       私は、膝を抱えたまま目の前の泉を見つめていた
       泉の中央部からは、相変わらず透き通った水が湧き出していた

       あの時、止め処もなく流れ落ちてきた涙を思い出した
       …今はもう、枯れ果ててしまったけれども



       「お前は、悪くない。」



       ぽつり、とカノンが言い放った
       カノンは、ずっと黙ったまま私の話を聞いていた

       「でも。」

       「それでも、お前はその男のことをずっと好きだったのだろう?」

       「……。」


       「ならば、自分を…自分の過去を責めるのは止せ。」


       カノンの瞳が強く光って見えた
       彼の強い意志が、そのまま宿っているかのように

       「今はまだ無理でも、もう少し時が経てば、それまでの総ての時間が無駄ではなかったと解る時が来る。…きっとな。」

       カノンはその端正な口の端を少し歪めて笑うと、立ち上がってぽんぽん、と自分の服の裾を軽く叩いて土を落とした
       木々の間から零れる強い日差しがカノンの背後に煌いて、一瞬目が眩みそうになった


       「…掴まれ。」


       カノンの差し出した手を、私は思わず握っていた

       …サガと同じくらい、大きな手
       でも、カノンの掌はサガのそれより荒れていた
       そして、サガの掌のものとは違う温かさを持っていた


       この人は、どんな生き方をしてきたのだろう?


       カノンの手に掴まりながら、私は自然とそんなことを考えていた

       サガと違って、カノンは多くを語らない
       唯、こちらの話を黙って聞いては、ぽつりぽつりと言葉を返すだけだ

       …それでも、その言葉がこんなに心に染み込んで来るのは何故だろう?














       私とカノンは、泉を離れて歩き出した


       松葉杖を突いてゆっくりと歩く私を、カノンは少し先から待ってくれていた

       先に行っては振り返って待ち、私が追いつくとまた先に進む
       そのやりとりを延々繰り返し、森をようやく抜けた
       普通に歩けば、ものの10分もかからない距離も、リハビリ中で足の不自由な私にはその何倍もの時間が必要だった

       カノンは、終始無言で私を導き続けていた


       これがサガであったなら、きっと私をその逞しい体に優しく抱きかかえて連れ帰ってくれるだろう


       サガは、いつでも私にその手を差し伸べてくれる



       …だが、カノンは違う

       彼は、私が自らの力で立ち上がって歩き出すのを待っているのだ
       …結局は、自分一人で己の壁を乗り越えなければならない私を、少し離れたところから見守ってくれている
       そして、いざと言う時にはその手で助け起こしてくれる



       いつでも分け隔てなく差し伸べられる手と、さりげなく見守ってくれる手

       一個の人間としての「私」が真に必要とするのは、一体どちらなのだろう?








       カノンは私を双児宮の入り口までそのまま送り届けると、踵を返して森の中へ去っていった










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