教皇補佐の任務が終わったのは、夜も深くなった時刻だった

       思いがけず時間を超過してしまったのは、私自身が書類の一部に欠損を発見したからだった

       他の者であれば、たかだか書類の2,3枚と侮っていたかもしれない

       …いや、私も彼らのように考えることができたらどれほど良いだろう





              …しかし、私は怖いのだ





       無論、ミスが恐ろしいのではない

       …彼らに…一度は自ら手に掛けてしまった彼らに必要ではない、と思われることが怖いのだ

       有り得ない…愚かしいことだと、自分でも思う
       おそらく杞憂に過ぎない、とも分かってはいる

       だが…私は自分が一人であることに耐え切れないのだ
       偽善でも良い、自分が一人ではないと思えるためなら何をしても良いとまで考えてしまうのだ




              いつも、姿の見えない何かに追い続けられている




       そんな感覚にもう長いこと襲われ続けている



       孤独から逃れるためなら……私はどんな卑劣なことも厭わないのだろうか
       ……は、はこんな私の姿を知っても、変わらずにいてくれるだろうか


       あの日、傷を完全に癒すことができなかったこの私を…











       教皇宮を辞し、私は自分の宮、双児宮へと続く長い階段を降り始めた
       教皇ご自身は、随分前の時刻に奥の宮殿にお退きになっておられた

       入り口に差し掛かったところで、私は後ろを振り返った




       …嘗て、万人を欺いて自らが君臨した教皇宮




       此処に一人でいると、自分の愚かしさばかりが脳裏に浮かび上がる
       …歪んでいる
       宮殿の巨大な鏡に映し出された自らの姿も…そしてその心の裏(うち)も



       こんな場所は、早く離れてしまったほうが良い
       少なくとも、此処に一人で居てはいけない



       私は、最早後ろを振り返ることは止め、ただ真っ直ぐ自宮への階段を再び降り始めた

       眼下に、アテネの夜景が遥かに拡がる



           そこに暮らす、多くの人々
           市井の暮らし、市井の人々



       これが今、私が守るべきものなのだ

       …しかし、それは自らの罪を滅するために、か?
       私自身が、一番欲して止まないものは、本当は何なのか


       …その答えを、私はとうの昔に知っているのだ
       そして、その答えを、私は遂に手に入れたのだ

       喜ばしいことの筈であるのに、何かが心に暗い影を落とす







       双魚宮から順に、一つづつ階段を踏みしめる
       段を一つ、数えるたびに自らの罪が一つづつ消える訳ではない
       子供じみた考えだと、自分でも少々苦笑いしてしまう

       しかし唯、今は双児宮に一歩でも近づくことを嬉しく感じてしまうのだ
       …私を孤独から解き放つ存在に近づくことが












              「おい、待て。」










       無人の人馬宮を通過しようとした時、不意に後ろから呼び止められた







       「何を…している?」


       私が鋭く嗜めると、影は闇から姿を現した


       「ふん、俺がいつ、何をしようとお前には関係あるまい。…そうだろ、サガ。」

       「そうはいかん。…いくら女神のお許しを得たとは言え、私同様、お前もその身に多大なる罪を負っていることを常に忘れてはならん、カノンよ。」

       「フッ、ご苦労なことだ…お前はそうやって何時まで良い子でいるつもりなんだ?…昔から変わらんな。…いや、あながち良い子とも言えんか。」

       「…どういう…ことだ。言ってみろ、カノン。」


       私は、目の前にいる同じ顔をした弟の胸倉をグッ、と掴み上げた
       カノンの顔に、僅かながら苦悶の表情が浮かぶ


       「クッ…、俺は、昔からお前に言っているだろう。…『己に正直になったらどうだ』、と。ただそれだけだ。」


       カノンは、苦悶の中にも不敵な嘲りの笑いを見せた
       私は、カノンの胸倉を掴む拳に、更に力を込めた


       「…だから、それはどういうことだ、と聞いている。」

       「…さあな。おまえ自身の胸に聞いてみたらどうだ?…そうだな…唯、このまま行けばお前の犠牲者がまた一人増えるだけだと言って置こうか。」


       私の腕を振り解き、カノンは先程まで私が立っていた場所に唾を吐いた




       「カノン…貴様、に何をした!?」




       カノンの台詞に私はある種の予感を感じた
       …カノンは、この弟はに会い、何かを吹き込んだ…そんな予感を
       最早、それは予感というまでも無く危惧ですらあった


       背を向けたカノンに、私は再び詰め寄った

       憎い…という単純な感情以上に、私の心の奥底の何かを再びこの弟に気取られてしまった気がした
       …「何か」と言わずとも、私にはそれが何であるかは十分判ってはいるが




       「…お前が愛しているのは…お前自身だ。に、自分自身の姿を映し見ているに過ぎん。」

       「…な…何だと!」

       「は…確かに傷付き、孤独だ。…だがお前は、そんな彼女の姿と己の孤独な姿を重ね合わせているだけではないのか。
       …そうではないと言い切れるか、サガよ。」


       カノンの言葉に、私の胸の奥深い部分で暗い光がチカチカと点滅した


       「サガ、お前の孤独は彼女のものじゃない。それと同様、の孤独もお前のものではない。には、自身の暮らしや人生がある。
       それを妨げる権利は、お前には…いや、世界中の誰にもない筈だ。…そして何より、お前はそのことをとっくに理解している筈だろう。」

       「カノン…!」




               「サガ…今のお前にはを愛する資格は、無い。」





       カノンは最早私の方を見向きもせず、そう言い放つと人馬宮から歩み去ろうとした
       数歩ほど歩いたところで、カノンは足を止めた


       「…何がにとって一番重要なのか、それを考えることだ。」


       吐き捨てるように呟くと、カノンはそのまま姿を消した























       …どの位の時間が経っただろうか
       私は人馬宮の回廊に立し尽くしたままだった







       カノンの発した言葉の一つ一つが、私の胸に重くのし掛かっていた
       …にとって一番大切なこと
       …の歩んできた人生、そしてこれからの彼女の人生

       一体何が、彼女の為になるのか?
       そのことを考えたことが無い訳ではない
       寧ろ、左足の傷にヒーリングを施した時の私はそのことだけを考えていた



       唯、どうしてもあの時…スターヒルに立っていた時、私に届いたの心の叫びが忘れられないのだ






                     『どうせだれも、いないもの…』






       痛切なまでのその叫びに、己の心が重なり合った
       共鳴…という現象が本当にあるとすればおそらくそういうものだろうか


       呼び合っている、その気持ちをただ確かめ合いたい

       …それですら、私の「欲望」であるというのだろうか



       人馬宮の入り口から見下ろす灯りの一つ一つが、私の目に染みた











                 私の手にした籠の中の、傷ついた小さな小鳥
                 …傷が癒えたら、飛び立って行く小鳥
                 それを少しでも…何時までも手元に置いておきたいと願うことは、なんと浅はかなのだろう








       遣る方ない暗い気持ちを抱えたまま、私は再び夜の階段を降り始めた









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