私は、いつものようにサガがこの双児宮に帰ってくるのを待っていた
 
       教皇補佐の日は、サガはいつもより帰ってくるのが遅くなることが多い
       …今日も、多分遅くなるかもしれない





       案の定、10時を過ぎた頃、サガからの使いが双児宮にいる私のところに伝言を携えてやってきた
       渡されたメモには、執務が長引いているため帰着が日を越すこと、そして先に休んでおくようにと書かれていた
       …おそらく、急いで書かれたに違いない
       それでも、サガの字はきちんと整い、秩序立っている
       それは、サガの几帳面な性格を反映していた
       そして、そこに込められたサガの気持ちも…









       12時近くまではソファで本を読んでいた私も、流石に眠気に耐えられずそのままずるずるとベッドに潜り込んだ


       天蓋の薄いカーテン越しに、大きな窓が見える
       窓の更に向こうの暗い海を見ながら、私は今日一日のうちにあった事を思い起こしていた







       ちょっとした気分転換のつもりで行ってみた散歩…のはずだった
       …実際、森の中で綺麗な泉を見つけたときは、それは嬉しかったのだから


       だが、そこで私は出会ってしまった…彼と時を同じくして生を享けたという一人の男に
       そして彼の意志の強い眼差しに射られるうちに、私は大事な事を思い出したのだ

       あの日聖域の荒野を流離いながら、深い絶望の中でたった一つ、私が欲して止まなかったものを





                『どうせだれも、いないもの…』





       あの時の…私の心の叫び
       誰にも届く事はない、と判っていた
       助けが来るはずもない、と諦めていた
       …だけど、心の中で唱えずにはいられなかった
       ほんの一筋で良い、私の心に光が差してくれたなら

       誰も信じられない…いや信じたいけれども信じるほどに裏切られてゆく
       私を沈める、諦観の淵の底で
       それでも、信ずるに値するものがこの世界にたった一つだけでも存在すると思いたかった
       だから…心の中で、声に出した







       …そして、サガが現れた








       「、君の心の声が私を呼んでいた気がするのだ」




       あの日、サガが私に語って聞かせてくれた言葉
       その意味が…ようやく私にも判った気がする

       私は、唯偶然にサガに命を救われたと思っていた
       だが、それは少し違っていたのだ


       信じていた…愛していた者に裏切られ、あの時私はたった一人だった
       絶望のように深い孤独の中で…それでも僅かな光を求めた、私の心の叫び

       サガは…サガにはその私の声が届いていたのだ
       …そしてそれは、サガが私と同じ気持ちを持っていたから
       サガの穏やかな笑みに、時折僅かに過(よ)ぎる寂しそうな表情


       「サガは、俺と違って自分の望みを素直に表現するようなヤツじゃない。…だから、いつも言い出せずにいるし、
       逆にだからこそ独りを選んでしまうんだろうな。…本人の意思や願望とは関係なく。」


       泉の滸(ほとり)で聞いた、カノンの言葉が私の胸に響く

       サガは…いつも優しい
       勿論、私以外の人間に対しても
       でも、それは彼の心の中の孤独の裏返しなのではないのか


       「私は、私は蘇ってはいけなかったのだ。・・・このサガは・・・!」


       あの晩、サガはそう言った
       自分は…自分という存在は罪深い、と

       過去に、一体何があったのかは私にはよく分からない
       唯、サガは自らに大きな罪悪感を負って生き続けているのだ
       そして…その罪の意識が彼を孤独に追い立てている
       自分は、皆と同じようには到底許されざる存在なのだ、と
       私にはそう思えてならなかった

       サガが微かに笑む度、私は胸がちくちくと痛くなった
       それは、彼の深い悲しみが知らず知らずのうちに私にも届いていたからだ
       …そして、私同様に「信ずるに値すべきものの存在を、たった一つの光を求めたい」というとてもとても小さな願いも


       サガの、側に居たい
       …命を助けられたからとか、看病してくれたから、とかそういった表面的な理由ではなく
       同じ気持ち…同じ願いを分かち合いたい
       お互いの存在が、「たった一つの光」になれたなら










       カタン








       寝室の扉が小さく音を立てて開かれた
       どうやら、サガが帰ってきたようだ



       ザアアァァァ―――


       開け放たれた扉の向こうから、外の音が聞こえてきた
       気が付かないうちに、雨が降り始めていたらしい

       私は、ゆっくりとベッドから起き上がると左足を庇いながら扉のほうへと近づいた


       「…サガ…?」



       いつもなら、遅くなってすまない、と笑いながら入って来るのに
       今夜は、物音一つ発しない



       …もしかして、勝手に扉が開いただけかもしれない

       私は、恐る恐る扉の向こうを覗き込んだ










       …そこには、濡れそぼったサガが俯いて立っていた
       普段は少し癖のある長い髪も、多量の雨水を含み、さながらストレートヘアのように衣服に張り付いていた




       「…サガ。」




       …私の再びの呼びかけにも、一向に返事は無い


       「サガ、そんな格好では風邪を引くわ。早く入って。」


       扉に自分の身を凭れさせたまま、私はサガの片腕を引いた
       サガのシャツの袖から、一滴、一滴、雨水が滴り落ちる


       「…サガ…。」


       まるで私の言葉など耳に入ってもいない様子だった
       いや、言葉どころか、私の存在すら視界に入っていない

       どうして良いか判らず、私は扉に凭れかかったまま立ち尽くしていた

       …サガに何かがあったのは間違い無い
       唯、何があったのかのまでは私には判らなかった










       「…、左足が治ったら、自分の国に帰りなさい。」








       暫しの無言の後、サガが小さく呟いた




       「どういう…こと?サガ。今何て言ったの?」




       あまりのショックに、私は即座にサガに聞き返していた



       「…、君の国には、君を待つ家族や人々が居る。彼らの許に帰りなさい。」

       「何を…」


       何を言っているの、と言おうとして、私は言葉を詰まらせた
       僅かに上げられたサガの目元に、水滴が溢れていたからだ
       …雨に濡れただけではない
       サガの表情は酷く曇ったまま、唯泣いていた



       「…サガ…。」

       「総ては…総てが私一人のエゴイズムだったのだ。君には君の人生や生活があるにも関わらず、
       私はそれを省みることが出来なかった…いや、省みたくなかったのかもしれぬ。…すまないことをした。」

       「サガ。」


       何かを言わなければ
       …でも、後に続いて言葉が出てこない

       サガの方へ手を伸ばした拍子に、私は大きくバランスを崩し倒れ込みそうになった
       サガの腕が、咄嗟に私の身体を掴む
       彼の胸に凭れかかった私は、ぞっとした
       …その胸が、あまりにも冷たかったから
       そしてそれは外の雨に打たれたからではなく、もっと他の要因によるもののように思えた




       サガは無言のまま私を横抱きに抱きかかえると、そのまま扉の中へと入って行った
       寝室の中は小さな灯りが一つ、点されているだけで薄暗い
       しかし、その中でも私を抱えるサガの表情がとても固く暗いのが判った
       …おそらく、サガはとても傷付いている
       何が一体、彼をここまで追い詰めたのか
       聞きたいけれど、彼の今の表情がそれを拒んでいるのが伝わって来る
       私は何も言えぬまま、唯冷え切ったサガに抱きかかえられていた


       サガは、私をベッドにそっと下ろした
       その行為はとても丁寧でもあり、同時に私を突き放そうとするものだった
       私の表情(かお)を、見ようともしない
       サガはそのまま私に背を向けると部屋の出口に向かって一歩、また一歩と踏み出した




       「どこへ行くの、サガ…。」




       やっとのことで喉の奥から搾り出した私の言葉に、サガが立ち止まった
       …しかし、決して振り返る気配は無い

       この晩何度目かの静寂の後、サガは口を開いた




       「、君を真に幸福にしてくれる人の許へ行きなさい。…真実に君の事を考えてくれる…理解してくれる人間の許へ。
       私は…私のような人間では、君に決して真実の幸福をもたらしてはしてやれない…。」




       サガの言葉に乗せて、どっと私の胸の中に闇が押し寄せて来た
       それはサガの深い悲しみの気持ちだったのか、それとも拒絶された私の寂しさだったのかは判らない
       もしかするとその双方なのかもしれなかった


       さっきまでこのベッドの中で回想しながら暖めていたサガへの想い
       それは今も決して無くなりはしない
       唯、私のその想いが闇の中で行き場を無くしている
       『サガ、貴方と共に、ずっと居たい』
       その気持ちを伝えたいけれど、今の彼には届かない


       それは「信ずるに足るものが在ると信じたい」という彼の小さな願いがおそらく誰かによって切れ掛かった糸のように細く細く削られてしまったから
       今にも切れそうな希望の糸の上で、サガの心がバランスを失って倒れそうになっているのが判った
       私は、サガを傷つけたその「誰か」を無条件に呪ってしまいたかった
       …そしてそんなことには何の意味も無いと判っているから、決して出来はしない事も







       暫くその場に立っていたサガが、私に背を向けたまま再び扉に向かって歩き始めた



       その後姿が視界から消えた時、私の目からは涙が溢れ出した
       深く傷ついたサガに言葉一つさえ掛けてあげられない

       自分という人間の無力さ、小ささを、私は責めずには居られなかった









       開け放たれた扉の向こうから聞こえる雨音は、一向に止む気配を見せなかった





















       翌朝になっても、サガは帰って来なかった

       一睡すら能わず、私はベッドの中で凍りついたようにうずくまっていた

       外からは、しとしとと雨の降る音が耳に届き続けていた
       一晩中降り続いた雨水が、私の胸の中で暗く渦を巻いて流れているようだった


       このベッドに背を向けたサガに、どうして何も言ってあげられなかったのか
       彼の悲しい気持ちが、こんなにも伝わって来たのに
       無理を押してでも、私の想いを伝えれば良かった

       夜通し、私は自分を糾弾し続けていた
       時間が経てば経つほど、その思いは強くなって私を苛んだ

       …今ごろ、サガは何処でどんなに苦しんでいるだろう

       泣き腫らしてすっかり赤くなった目を私は再びシーツに押し付けた










       カツン





       刹那、私の耳に廊下から微かな足音が届いた






       「サガ……?」


       伏目がちにシーツから上げられた私の視界の隅に、青い髪が映った
       …サガが、帰ってきた


       「サガ、帰ってきたのね。」


       私は慌てて上体を起こすと、ベッドから飛び降りるようにして戸口に駆け寄った
       …無論、駆け寄ると言ってもそれは気持ち上のものだけで、実際にはよろよろと一歩づつ踏み出していたのだけれども

       『サガ、私は貴方と居たい。…一生、ずっと。』
       …何があっても、今度こそはサガに私の気持ちを伝えよう
       私は、そう決めて歩いていた


       「サガ、私……。」


       ようやくのことで扉に辿り着いた私は戸口の向こう側に声を掛けた


       「……。」


       私の呼びかけに応えて振り返ったのは…サガと同じ姿をした淡い色の瞳の持ち主だった








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