双児宮
双児宮までよくぞ来た。私は、今回担当、双子座のサガだ。…君の来訪を心より歓迎する。
ああ、私の如き罪深き人間であってもまだ他人に「教える」事が叶うとは、なんと神は慈悲深い存在であろうか。(溜息)
…いや、これはまた埒も開かない事を言ってしまったようだ。独り言だ、気に留めないでくれ。
では早速始めるとしようか。
…フ。そうだな、今回は「心情」の描写に関するものの内から、まさに私に相応しいものをいくつか挙げてみよう。
まずは、「憐憫の情」を挙げてみることにしよう。
「憐憫」は「れんびん」と読む。「憐」も「憫」も「あわれむ」と読む。
熟語ではこのように同じ意味合いの漢字を重ねて表現することも多い。
この「憐憫の情」は「あわれみの気持ち」を意味している。
この場合の「あわれみ」は、どちらかと言えば上から下を見下ろして「あわれむ」感がある。
また「憐憫」は「憐愍」とも書く。この「憐愍」も読みは同じ「れんびん」だ。
「憐」「憫」それぞれを使った別の熟語に「可憐」(いじらしい様子)、「不憫」(かわいそうなこと)が挙げられるだろう。
これらは君もよく耳にするのではないだろうか。
…それから、「憫笑」(びんしょう)という表現もある。これは「さげすんで笑うこと」だ。
…まさに私の如き罪多き人間にはぴったりであろう?…フフ。
次に…そうだな、今の「憫笑」に連なる表現として、「白眼視」という言葉を取り上げてみようか。
この「白眼視」は、君も知っているだろうが、「冷たい目で見ること」だ。
砕けた言い方として「白い目で見る」などとも言うが、この語源を知っているだろうか。
「白眼視」は、中国で後漢末〜三国末期の間に存在した「竹林の七賢」の一人、阮籍にまつわるエピソードに由来する。
阮籍は、本来隠者であったのだが、時の権力者によって魏に無理やり出仕させられることになる。
ところが、彼は当時の形骸化した礼教(らいきょう)・礼法主義を真っ向から批判し、自らの心の赴くままに行動した。
時は下克上の時代。形式だけしか重んじられなくなった礼法など為政者の都合の良い道具、
微塵の価値も無いと苦々しく思っていたのであろう。
彼が母を亡くした時、彼は一切の形骸化した服喪の礼儀作法を無視してひたすら感情のままに悲しみを顕にした。
…宴席で肉を食べたりもしたそうだ。
…彼はそうすることで世間一般の「形だけの悲しみ」の風潮に一石を投じたのだろう。自由奔放な彼らしい話だ。
…実に羨ましい。(溜息)
そして、この母の葬儀で弔問に訪れた客に対して、阮籍は相手によって「白眼」と「青眼」を使い分けて対応した。
礼教主義者には白目を剥いて対応し、心ある人々に対しては歓迎する気持ちを顕にして対応したそうだ。
これ以降、冷たい目で見る事を「白眼視」と言うようになったそうだ。
逆に歓迎の温かい眼差しのことを「青眼」と表現する。
日本の古典でもこのエピソードは取り上げられている。
「徒然草」に「阮籍が青き眼、誰もあるべきことなり」という記述が見られる。
古典の時間に習った憶えのある人もいるだろう。
…私は、きっと皆から白い目で見られているのだろうな。
私が皆から「青眼」で迎えられる日など、決して私には許されるものではないのだ。
(五分の沈黙)
……………。
すまない、どうも気分が優れないようだ。
君をこのまま此処で見送ることしかできない私を許してくれるだろうか。
次はもっと晴れやかな顔で君を迎えることが適うように努力しよう。
……では、また会おう。…う…うう…
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