「教皇。射手座のアイオロス、双子座のサガ、参りました。」


漆黒の教皇宮をアイオロスの低く太い声が軽く揺るがした
聞く人が聞けば――そう、例えば横に座すサガのような知己が――彼の声が若干緊張に上ずっているのが判るのだが、アイオロスとさして近しい訳でもない雑兵達には十二分に威厳と自信に満ち満ちた言葉と受け止められた様子だった
『流石は黄金聖闘士よ』、雑兵達の顔には一様にそう刻み込まれている
彼らのその表情を一瞥し、サガは一呼吸置いてアイオロスの先の言葉に続けた


「何か御用でしょうか。」


…判りきった事を。

宮殿を警護する雑兵達の手前、教皇に伺いを立てる形を取らざるを得ないのが今のサガには若干疎ましくもあったが、おそらくそれは横に跪礼する少年も同様であろう

要は、形式なのだ。

そして、それは今の一連の台詞に限らない。今日のこの謁見自体が、一つの形式を厳格に踏襲し執り行われるのだ
…だが、謁見の形式の馬鹿馬鹿しさは兎も角、その内容の核心部分を二人は知らない
それ故にアイオロスは声を僅かに上ずらせ、サガは殊更慇懃に伺いの台詞を奏上したのだった
チリチリと微かな音を醸し、二人の脇に設えられた灯火が揺れる


「…うむ。」


法衣の袖をバサリと大きく翻して番兵達に人払いの意を示し、教皇は玉座に沈めたその身を僅かに正した
外は季節外れの嵐。大神ゼウスの怒りにでも触れたかの如き雷鳴が宮殿の奥深き玉座付近にまで時折轟くと、暗闇によって構成されるこの空間は一層不気味な空気を漂わせる
だが、それも今の張り詰めた二人に取っては、毛程の恐怖も掻き立てるには及ばないのだった
雑兵達が全員退出したのを見届け、教皇は無言の業を守る二人の少年の面持ちをチラ、と見遣った

…好対照とはこの事か。

眼(まなこ)を常より大きく見開き緊張を漲らせているアイオロスと、顔から一切の表情を消し、瞳を閉ざすサガ。
まさに二人の正反対の性格を映し出すかの如き面構えだ
これが常の謁見であれば教皇も仮面の下で微笑の一つくらい浮かべたものであるのだが、流石に今回は憚られた
――人間を努めて厳かにさせるのが、『儀式』の持つ残念ではあるが重要でもある一つの側面であるのだから
そして、それだけではない。今回の謁見により、二人のうちの一人にはより残酷極まりない現実が突き付けられるのだ
笑いなど浮かべる余地は教皇に残されてはいなかった
目の前に並ぶ少年の表情を観察するに止め、教皇は二人を傍らへ招き寄せる身振りを示した


「よく来た、二人とも。」


……儀式は完遂せねばならない

意を決して殊更感情を消去した教皇のその顔は仮面に遮られて目前の二人には決して見えないが、或いはサガに類する表情だったかもしれない
奇妙な儀式は、教皇の主導により残酷にも再開されたのだった


××××××××××××


「………いわば、新たなる聖戦の時が差し迫っているのだ…。
そこで私は、そろそろ教皇の座を二人のどちらかに譲ろうと考えた。全員への触れは後日いたすが………。」


………来るべき聖戦に備えての女神降臨の旨を告げた後、教皇は遂に今回の謁見の核心に達した
時折届く雷鳴以外には物音一つとして立たぬ宮殿内に、少年二人の息を飲む音がはっきりと聞こえる
アイオロスは兎も角、表情を消し去ったサガでさえも、やはりこの瞬間に至っては緊張を拭い去る事は不可能であった



「仁・智・勇を兼ね備えた射手座のアイオロス。…これよりは、お前に教皇の座を任せる事にする。」



………なんだ…と……?

刹那、サガは己の耳を疑った
驚愕の余り、一瞬我を忘れて瞠り掛けた眼は素早く伏せたものの、サガは激しい内心の震えに襲われた……自らを手放し兼ねない程の、恐ろしい衝撃に。

…私でなく、アイオロスが………何故だ……?
教皇となるために、私はさえも手放したと言うのに………その私が選ばれないだと………!

必死で表情を消し続けつつも、サガの心の裏(うち)には怒りとも落胆ともつかぬ形にならない感情が次から次へと湧き出し、表面に噴出しそうになるのを抑えるより他に今はなす術が無かった

…眩暈がする。

訳の判らぬ感情が激しい渦を巻く中、サガは伏せた瞳で隣に跪くアイオロスを一瞥した
そのアイオロスは、何が自分の身に起きたのか少々把握しかねた様子で目を剥いている
…自分かサガか、どちらかが選ばれると事前に判っていても尚、この現実が実感出来ないのだろう
アイオロスらしいと言えばそうかもしれないが、隣の少年に取ってはそれは何よりも残酷なリアクションと言えなくも無かった


「わ…私がですか…?」

「うむ。」


アイオロスの発した一言により、儀式はサガを置き去りに再三進行し始めた
…いや、教皇もアイオロスもそのつもりは毛頭無いのだが、サガの時間は静止せざるを得なかった
最早、その後の教皇の言葉はサガの許には欠片たりとも届きはしない……経験した事の無い大きな疑念に苛まれているサガには。

…何故、だ。換え難い代償を支払った…この私が……
もしや…アイオロスも婚約の破棄を受諾した、と!?……いや、この男にはそのような選択は出来はしない筈だ
だとすれば一体……

表情一つ崩さぬサガの内心を襲う激しい感情の渦は、あたかも重いカーテンに閉ざされた堅固な家屋の窓の外を吹き荒れるハリケーンに準(なぞら)えられるかもしれない
その家に住む事を許された教皇とアイオロスには、到底嵐の存在を知る由も無い
そしてその事実が尚の事、サガの矜持を一層の闇へと隔ててしまうのだった

…許せない。アイオロスも……そして私を選ばぬ目の前の教皇も………!

目の前の現実から独り無残にも虐げられたサガに出来たのは、己の裏の憎悪をひた隠し、教皇への忠誠の文言を優雅に紡ぎ上げる事だけだった








××××××××××××××××××××








「……サガ様…!こんな夜更けに、一体どうしたと言うのですか…?」


花落としの激しい雨の中、玄関近くの窓の外にひっそりと立つ許婚の姿を捉え、は急いで扉を開けた
ザアアアアアアァァァ。
日中に輪を掛けて勢いを増した雨は、の語尾を遮る
…日付を跨いだこの時間、の家族は既に寝静まり、居間にいるのは一人きりだった
実は鳴り止まぬ雷に眠り損ねてしまったのであるが、或いはそれは何か予感の類だったのかもしれない
玄関脇のアーモンドの大木の傍に、サガは黙って立っていた
の家の居間の微かな灯りが、サガの纏う聖衣の金色を闇夜にぼうっと鈍く浮かび上がらせている

…何か良くない事があったのだわ…

濡れそぼって張り付いた幾筋もの髪で、サガの表情は窺い知れない
だが、には許婚のその曇った面持ちが手に取る様に感じられた
玄関の簡素なテラスから一息に、は木の下へと走る
近付いて見れば、散り敷いたアーモンドの白い花弁がぬかるむ足元で夜陰を反射し、聖衣の合間より覗くサガの肌から血色を全て奪い去っているようにも思えた
は思わず息を呑んだ


「…サガ…様………。」


の小さな呼びかけにも、サガはピクリとも反応しない
見上げたサガの双眸は半ば閉ざされ、常は縹深きその瞳も今は色褪せ、生気を散じて何処を見るとも覚束ない
声を失ったの頬を、打ち付ける雨に似た一筋の雫が伝い落ちた
顎を伝った雫は二人の足元のアーモンドの花弁を微かに揺るがし、雨に交えてそのままピルゴスの大地に流れ、そして消える


「……済まない。」


サガの青白い唇が僅かに動いた
は今一度、許婚を見上げる


「…サガ様…。」


は許婚の名を呼んだきり、再び沈黙に落ちた
…これ以上は何も言ってはならない、何も訊いてはいけないと、にはそう解っていたからだ
そして、のその優しさが痛い程実感できるだけに、サガは己の内面を蝕む暗い野心と矜持の存在を心底呪いたくなるのだった
…呪ってみた所で、自分には何も変える事は出来はしないと、そう解っていても。

―――カッ!

サガの後背で、稲光が閃いた
自分を見上げるの顔を、雷光が照らし出す
それは、恐ろしい程純白に彩られた少女の顔だった
刹那、サガの心の奥底に一つの暗い声が過ぎた

を、抱いてしまうが良い。

の首筋が異様に白く浮かび上がって見える
我に返ったサガは、はっと息を呑んだ

……私は、今何を………!?

閃光が走り去った後にサガの視界に映ったのは、サガも能く知る何時ものの顔と、それに続く首筋だ
何一つ、常と変わりはしない
雨を含んだサガの背を、じっとりと嫌な汗が走った

…では、今宵お前は一体何を求めて此処までやって来たと言うのだ、サガよ

私は………私はただ……ただ此処より他に行く宛がなかった。ただそれだけだ

奥底より再度沸き上がる不気味な声に、サガは苦しげに返答を絞り出した
ククク…と脳裏で悪意に満ちた嘲笑が渦を巻く

…だから、此処にやってきたのだろう………を求めて。
今となっては己の欲望を律して独り身を守る必要もないのだからな
お前の好きに振る舞えば良いではないか

…それは………それは違う!

サガは姿無き悪意に叩き付けた
だが、その肩が小刻みに震えるのを、闇は決して見逃さない
サガを取り囲む悪意は、巧みに誘惑の声をその耳元に囁いた

お前の目の前に立つを見ろ、サガよ。
…こんなにもお前の事を慕って案じているではないか
彼女はお前の許婚だぞ。お前が以前にを手放す決意を下したとしても、彼女自身は何も知らない
『自分はサガの許婚だ』と、最初(はな)から今まで何の疑いも持ってはいない
にはサガ、お前が必要だ。…お前だけがに幸福を与えられる存在なのだ
さあ…何一つ臆す事などないのだぞ。目の前のをかき抱け!


「………違う!」


黒い囁きを振り払い、サガは頭(かぶり)を横に振った
驚いたが顔を上げて許婚を覗き込む


「…サガ様、どうなさったのです…?!」

「……いや、何でもない。何でも…。」


サガの端正な唇から、はぁ……と微かな呻き声が漏れる
己の顔の半分を片手でゆっくりと覆い隠し、サガは顔をから背けた
得体の知れぬ悪意の声に翻弄されている自分の姿を、にだけは見せたくなかったのだ
…その声が彼に唆す不善が、目の前に立つに深く関係しているだけ尚の事、である

私は…そう、私はを愛している
だが………私はそのを己の矜持の犠牲に供した。卑劣極まりない行為と知りながら…だ。
その私に、に触れる資格などあろう筈が無いのだ

もう片方の手で固く拳を握り、サガは己自身と己の奥底の悪意の両者に言い聞かせた
余程強く握ったのだろう、ツツ……と、サガの指の腹を紅い筋が彩った

随分と苦しい事だな。…では、おめおめと此処へ戻って来て、に指一本触れず、何一つ語らずにどうする心積もりだ、サガよ

黒い嘲笑の声は一層大きさを増し、サガの苦悶に揺さぶりを掛ける
頬を打つ雨までもが、今や横殴りにサガを責めていた
嵐の中、長い事サガを見上げていたは、許婚の掌から垣間見えたその唇が真っ青に変じているのに気付き、咄嗟に片手を伸ばした


「サガ様、此処は冷えます。…とにかく中に入られては」

「触れないでくれ!!」


の語尾は、サガの強い拒絶の声に遮られた
…許婚として知り合ってこの方、サガが厳しい物言いをするのをは聞いた事が無かった
ビクリと身体を強張らせ、は伸ばし掛けた己の手を止める
はっとしたサガは頬を覆っていた手を離し、拒絶の衝撃冷め遣らぬを見下ろした


「…すまない。君を傷付けるつもりはなかった。……ただ、今は私を一人にしておいて欲しい。」


憔悴と苦悶に歪んだサガの表情を暫し無言で見詰めていたは、そのまま静かに一つ頷いた
何も訊かず、ただじっとサガを見守る殉教者の様なの横顔。
まだ少女以外の何者でもない筈のその横顔に、弱さと強さの複雑に入り混じった凛とした美しさを感じ、サガは己のしてしまった浅はかな決断を改めて悔いた

他に行く場所が無かったと言いつつも、に何かの救いを求めて此処に来てしまったのも真実だ
…だが、穢れ切った卑劣な自分がの前に立つ事も、ましてや触れる事など許される道理がないではないか
矜持にしがみ付き、己を貶めた今の自分にそれでもまだを愛する事が赦されるならば…出来る事は唯一つしか残されてはいない

………サガは、決意した。
の正面に向き直ったサガは、ニコリとその唇に柔らかな笑みを湛えた


「家に入りなさい、。君まで濡れて風邪を引いてはいけない。」

「……サガ…様……?」

「こんな夜更けに、君を驚かせてすまなかった。もう二度と、君にこの様な迷惑は掛けない。
…さあ、早く家に戻りなさい。私も聖域に帰る。」


が何か発するより前にサガはくるりと背を向け、大木の葉の合間から荒れる闇夜を見上げた
『…何か私に言いたい事、伝えたい事があったのではないですか?』
永遠に封じられてしまったのその一言が、足元の雨水と共に流れ、消えて行く。…明日になれば、嵐の存在などすっかり忘れ去られてしまうであろう、ピルゴスの春の大地に

去り際、サガは数歩離れた所で足を止め、背を向けたままその青眸を伏せた


「………私は、何時か私ではなくなってしまうかもしれない。」


伏せられた青眸から一筋の涙が伝い落ちたのは、へのその愛故か、それとも己の無力さに対する絶望のためか。または内面に潜む黒い闇への怒りのためか
闇夜の中、木の下にただ一人置き去りにされたには、サガのその涙すら目にする事は出来なかった
…嵐は止むところを知らず、春の夜空を一層鮮やかに雷鳴が引き裂いた









××××××××××××××××××××








未明。…大部分の闇と至極僅かな光の入り混じる、逢魔の刻
スターヒルの大地から天を見上げた教皇は、仮面の下でその眉を顰めた
ヒュゥゥゥゥゥゥ
夜半を越え、最早雷鳴と風だけになってしまった嵐は聖域の上空で渦を巻き、教皇の法衣の裾を強く引く
禁区であるが故か、教皇は常であれば絶対に顕わにせぬ苦渋を顔に深く刻み、憂悶の溜息を一つ落とした

……北極星が、僅かに傾いている。

それは、教皇だけが知る秘事の一つである
『聖戦の前触れ』
明らかな凶兆を前にすれば、教皇の如き立場であれども幾許かの焦燥を感じずにはいられない
――いや、教皇であるが故、より一層の苦悶を抱いてしまうのだ

先代の女神の施し給うた封印は、あとどれほどの時間その効力を持つのだろうか……
それまでには、アイオロスが次代の教皇として聖域内を一枚岩に纏め上げる事を願うばかりだが…

北極星の角度の遷移を目で占い、教皇が溜息交じりに仮面の下の唇を引き結んだ次の瞬間、紫紺の光と共に背後を善からぬ気配が掠めた


「誰だ!?」


折からの強風に靡く法衣をバサリと翻し振り返った教皇の視界を、冷たい金属の輝きが暗く彩った
嵐の闇を反射して煌く鈍い光沢は、教皇も嘗てはその身に纏った憶えのある金色の鎧の醸す物に他ならない
―――十二体存在する黄金聖衣の一つ、双子座の聖衣。
一際重厚な造りの聖衣の背に付属するマントが、湿った夜風を孕んで重々しくはためいた
異様に白光りするマントの裾を一瞥し、教皇は仮面の下に隠された視線を目の前の男の顔に向けた


「サガか…。お前、どうして此処に…」


教皇の問い掛けに、男は答えない
ただ無言のうちに青眸を伏せ、その場に跪礼を作った
…非の打ち様も無いほどに恭しく、礼を踏んだ所作
そして双眸を伏せたその面持ちの、なんと端整で美しい事か
これ程までに不気味さを感じさせる完璧な様式美を、教皇は見た事が無かった

…なんとも恐ろしい男よ、サガ………

ジャリ。
息を呑んだ教皇の足元が微かに動き、祭壇の剥き出しの大理石が小さな音を立てる
嵐の中にも拘らず、至極僅かなその音は対峙する双方にはっきりと届き、二人の形勢に大きな穴を穿った
ぬかった、と声には出さぬが教皇の胸中に一抹の焦りが過ぎる
一方のサガは、あいも変わらず優美な表情を崩さず、身動(みじろ)ぎ一つだにしない
それが更に薄気味悪く感じられ、教皇はものの半日前に己の下した判断の正しさを皮肉にも今一度実感してしまうのだった

…やはり、私は間違ってはいなかった。
今は、この埒の開かぬ沈黙を破るより他に無い


「サガよ、お前が今宵此処に来た理由を、私は理解しているつもりだ。
 …であればこそ、お前に頼みたい。このまま双児宮に帰ってはくれまいか。」

「無駄だと解っているからこそ、人は懇願するものです。」


サガの唇から、慇懃の衣を纏った拒絶の言葉が短く叩き付けられた
冗長な演説よりも、端的な言葉の方が威力を持つ事を知ればこその返答であると言っても過言ではない
『今更下らぬ真似をするな。』一歩も譲らぬサガの意思が、ひしひしと空気を伝って教皇を脅かす

…斯様な事態は、判断を下した段階で予測してはいたが…。

跪礼を守るサガから視線を逸らす事能わず、ふぅ、と教皇の口を不意に小さな呼気がついた


「……何故お前を次期教皇に選ばなかったのか、それを訊きに来たのだろう、サガよ。」


…最早逃げ回る訳にも行くまい。

教皇は姿勢をやや正し、サガとの距離を自ら詰めて見せた
全ては、目の前の男から何らかのリアクションを引き出すためである
非常事態と言って良いこの状況を乗り切るためには、やれる事は試さざるを得ない
一方のサガは、教皇の投げ掛けた決定的なその一言にも顔を上げる事は無く、目を伏せたまま沈黙を守った
教皇は自分が後手に回ってしまっているのを感じつつ、敢えて危険な賭けに出る決意を下した


「サガよ、では逆にお前に訊こう。何故私がアイオロスを次期教皇に指名したと思うか?……サガ、お前では無く、だ。」


ピクリ。
それまで彫刻の如く礼を貫いていたサガの頬が、僅かに動く
『お前ではなく』…教皇のその一言は鋭い棘と化し、サガの自尊心に修復不能の穴を穿った


「…う………。」



風一つ無い水面の様相を呈していたサガの口元は微かに歪み、そこからは時を経る毎に苦悶とも取れる吐息がいくつも漏れ出した
はあはあ…と荒い呼吸の中、サガがようやくの事で言の葉を搾り出す


「教皇、私は………私を……何故………。」

「サガよ、まだ解らぬか。私がお前を教皇に選ばなかったその理由を。」


再びこの場を支配すべく、教皇は語気に一層の厳しさを加えて言い放った
伏せたままのサガの顔は今や全体に苦悶が刻み込まれ、頬にはじっとりと脂汗が伝う


「先日の謁見で、私はお前に一つ尋ねた。『教皇たる者、配偶者を得ることは罷りならん。故に婚約を破棄せよ』と。…憶えているか。」

「無論です。…ですからあの時、私は諾(うべな)ったのではないですか。………それが何故……。」

「だからこそ、だ。お前がそれを諾ったからこそ、私は決めたのだ。…お前を次期教皇にするわけには行かんとな。」

「……何故です!?歴代の教皇は皆、未婚が絶対条件であった筈。婚約を破棄した者も居たではないですか!」


サガは語気を荒げ、教皇に問い質した後ではっと息を呑んだ
仮面の下で教皇が眉を顰めるのが、何故か判る


「…やはり知っていたのだな。聡いお前の事だ、もしや事前に何か勘付いて調べたのではないかと薄々あの時感じてはいたが…。」


殊更わざとらしく、教皇は一つ溜息を落として見せた
そこは、流石は教皇である。演技に関しては一日どころではない長があるのだが、或いは幾許かの本心も含まれたのかもしれない
今や油汗に冷や汗まで加えたサガの顔が、俄かに蒼褪める


「ですが……お言葉ですが教皇、前以て条件を知っていたからと言って、私が非を犯した事になるものでしょうか?」

「サガよ、履き違えてはならん。お前が次期教皇より外れたのは、お前がその条件を知っていたからではない。…お前のその冷酷な聡さ故だ。」


教皇は一旦言葉を切り、サガに背を向けた
…無論、不意の事態に備えての警戒を怠りはしない


「あの日、お前も知っての通り、私はお前と謁見する前にアイオロスと謁見した。
その折、アイオロスにも問うたのだ。『妻帯を禁じられた教皇になるためには今の婚約を諦めねばならん、是非や如何に?』とな。そう、お前に尋ねたのと一字一句同じ事をだ。」

「…では、アイオロスは…。」


教皇に追い縋るかの如く面を上げたサガのその動作を背に感じ、教皇は今一度ゆっくりとその身を翻した
その場に跪礼したままのサガを見下ろすと、表情により一層の厳しさを加え口を開いた


「私のその問い掛けに対し、アイオロスはこう答えた。『婚約者を悲しませるくらいなら、私は教皇となる事を拒否する。』と。」

「な…そのような事を……!」


先日の謁見の折、垣間見たアイオロスの蒼白な表情をサガは再度思い出した
アイオロスの性格ならそう答えるかもしれないと判ってはいたが、まさか本当に婚約者を取ったと聞いてサガは驚愕を隠し切れなかった
信じられない。サガの顔にくっきりと刻まれたその言葉を一瞥した教皇は、更に続けた


「そして、アイオロスは続けてこうも言った。『今回の婚約破棄の条件を別にしても、自分よりもサガの方が教皇に相応しい筈だ。だから彼を次期教皇に選定して欲しい。』とな。」

「アイオロスが………!?」

「そうだ、お前を次期教皇にしてくれ、と。
 ………だから私はアイオロスを選んだ。」


何故です!?
片膝を浮かせ、サガは間髪を入れず教皇に詰め寄った
二人の間を隔てるのは、今や天より吹き降ろす強い風ばかりだ


「まだ解らんか!!」


突然、これまで無いほどに強めた教皇の語気が一振りの鞭と化し、サガをビシリと打った
サガの脳内をビリビリとした衝撃が駆け巡り、どっとその場に両膝を折る
ぐっ……とサガの口元から呻き声が漏れたが、教皇はそれには一切構う事無く言葉を続けた


「サガよ。私がお前を次期教皇に選ばなかったのは、偏にお前がそれに相応しい人格ではないからだ。
 教皇の座のためには婚約者も平気で捨てる。そんな男のどこが教皇に相応しいと思うか?
 教皇たる者に一番必要とされるのは、聡明な頭脳でも頑健な肉体でも無い。必要不可欠な物、それは他人の痛みを知る慈しみと愛の心だ。
 己の地位のために他人を傷付ける事を厭わぬ冷酷なお前には、万民を博く愛する事を旨とする教皇たる資格は無い。」


教皇の言葉の刃が、サガの胸を一気に貫いた
両膝に続き、その両の掌までも地面にめり込ませ、サガは荒い呼吸の中で教皇を見上げた
サガが見上げた視界一杯に鋭い雷光が闇を裂き、そして消えた


「…私が……私が平気でを捨てたと……?」

「違うか?」


地面を掴んだサガの手がブルブルと震え、やがてその震えは全身に達した
それは純粋に怒り故のものか、はたまた別の感情を交えた複雑なものに起因するのか
サガ自身にも、その答えは最早明確には判らなくなりつつあった
…ただ、確実に言えるのは。


「私は………私はを愛しています。そのを私が平気で捨てたなどと……!」

「あの日、顔色一つ変えずに婚約破棄を受諾したのは、誰でもないお前自身ではないか。違うか、サガよ。」

「私が何の躊躇いもなくを捨てたと、教皇は本気でそう思されるのですか…!」

「お前が自ら婚約を破棄したと知れば、お前の許婚は深く悲しみ、傷付く事であろう。…それでもまだ彼女を愛していると、お前はそう言えるか。」


サガの脳裏を、先刻のの顔が掠める
その表情に滲む不安と憂いは、偏に己の罪深さが与えたものだ

…確かに、私は教皇の座のためにを手放した。だが、その決断の裏には…血の滲む苦しみと、一生涯私を苛む悔恨が刻み込まれているのだ
何故なら……そう、私はを愛しているのだから
を真実に愛しているからこそ、私はの悲しみと苦しみを少しでも減じたいと、そう願ってに接して来たのに……それを……

―――許せない。

昼間、次期教皇選定の儀式の折に教皇に抱いた怒りを遥かに凌駕する憎悪が、サガの心の奥底にふつふつと沸き上がった

次期教皇失格の烙印だけならば、まだ辛うじて己を保つ事は出来るかもしれない
だがそれに加え、自分の中に大切に抱いている愛の存在までも否定する権利が、果たして目の前の老人にあると言うのか

カッ!
サガの全身を稲妻が駆け抜ける
苦悶に塗れた頬に、青白い光が暗く歪んだ影を落とした


「教皇、貴方に………貴方に……!」


ジャリ…と不気味な音を立てて祭壇の土を掴むと、サガは己の身体を引き起こした
対する教皇は法衣に包まれた身を咄嗟に半歩引き、拳を前に突き出して身構える
サガの憎悪が暗い小宇宙と化し、夜陰の冷気を孕んで俄かに膨れ上がる


「サガよ、それがお前の真の姿か!
…やはり私の目に狂いは無かった。お前は断じて神の化身などではない。お前は…そう邪悪の化身だ!」

「黙れ!教皇、貴方に………いや、お前に……私を…私の愛を否定する権利は無い!!」


教皇が身をかわすより僅かに先んじ、サガの拳が法衣の下の左胸を貫いた
己の胸を手で押さえ、教皇は祭壇にどっと倒れ込んだ
仮面に隠された口元から鮮血が滴り、無垢の大理石を赤黒く染め上げる
無論通常の人間であれば即死であるが、絶え絶えの息の中、それでも尚片肘を突き顔を持ち上げたのは、老体とは言え黄金聖闘士の要たる所以だろうか
ぐっ…と咽に沸き上がる血を吐き捨て、教皇はサガに向けて仮面の下で愁眉を寄せて見せた


「サガ……哀れな男よ。………お前の愛は断じて真の物では無い。お前の人生がこれより先、愛に満たされる事は決して無いのだ。」

「黙れ!まだ言うか!」


サガの拳が、今度は教皇の右胸を貫いた
骨の砕ける鈍い音がサガの耳を掠め、更なる血飛沫が数滴、その端整な頬を染める――――未来永劫消えぬ、咎人の刻印を
最早顔を上げる事すら叶わぬ教皇は、遂に最期の時を迎えつつあった
地に伏せたまま、教皇が血に塗れた口を微かに押し開いた


「サガ……よ、お前の悲劇はこれから幕を開けるのだ。
 天よ………サガの残りの生涯に呪いあれ!!」


一度天を指した教皇の指が再び地に落ち、やがてピクリとも動かなくなった


「黙れ!黙れ!黙れ!!」


最早ただの骸と化した教皇の肉体を、サガは何度も続け様に拳で打ちのめした
拳に穿たれた傷口からは、魂を持たぬ赤黒い血がただ生物的に流れ出し、大理石の祭壇に貴(あて)なる贄を供した
罪人の証を頬にくっきりと刻んだサガは、己の狂気を冷ますべく荒れる息をやや静めた


「呪いなど…この私に取っては一矢にも及ばぬものを。」


足元に転がる教皇の骸を見下ろし、サガは吐き捨てた


「教皇よ……に別れを告げる決意を下した時から、己の罪業の深さは自分自身痛い程解っていましたとも。
『何かを得るためには、真に大切なものと引き換えにしないといけない』と、そう私は知っていたのですからね。
そしてその決断を下すのに、どれだけ私が苦しんだ事か。今この瞬間でさえも、私はに対する深い悔恨に苛まれているのです。
教皇、貴方はそれを見落とした。そんな貴方の掛けた呪いなど、一体どれ程の力があると言うのでしょうか。」


吹き荒れる嵐に替わり何時の間にか星々に煌々と彩られた夜空を見上げ、サガは肺の底から深い溜息を一つ落とした

…満天の星とは、まさにこの事か。


見れば、東の空が微かに白んでいる

もうじき、夜が明ける
夜が明けたら、私はサガとしての人生を一つ残らず捨てて生きなければならない
『サガ』は『教皇』の特命を帯びて何処か遠くの地に赴くのだ……そう、皆が忘れてしまう程、途方もなく長い間―――いつか、私に破綻の訪れるその日まで。
出来ることなら、『サガ』は死んでしまった事にでもしたい。その方が、君を待たせないで済むからだ
だが、私が平穏無事に『教皇』に成りすますためには『サガ』を殺す事は出来ないのだ
……だから、。私が君を訪(おとな)う日はもう来ない。何の音沙汰もない私の事を君はきっと待ち続けるだろう
私はまた一つ、君に対して深い罪を犯してしまうのだ
……今後一生、君に会う事は叶わない。それが、私が私自身に課した一番の罰となるのだ


………済まない。」


寂しく落ち窪んだサガの双眸に、上空の明けの明星は弱々しい光を投げ掛けた








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