「……サガ様?どうなさいました?」


サガ。それは一つの記号。
己の名を呼ばれて初めて、少年は今自分が小さな村に居る事に気付いた
小さな村の、小さな家。
彼の住む聖域の巨大な宮殿と比ぶれば『小屋』と称しても差し支え無い民家の窓ガラスに、自分の姿が映っている
小奇麗によく手入れが行き届いたその窓ガラスにぼんやりと浮かび上がるサガの、更にその背後には一人の少女が立っていた
物憂げにサガの背を見遣るガラスの中の許婚の視線に気付いたサガは、今更ながら窓ガラスにそっとその掌を当てた


「……いや、随分と空模様が悪いのが気に掛かったのでな。」

「そう…ですか。何かお悩みでもあるのでは…と思ったのですけれど。」

「何故そのような事を?」

「いいえ。…ただ、此処の所、こちらにいらしてもあまりお話をしてくださらないような、そんな気がしたので。」


ガラスに映るの少々上目遣いの視線の意味する所を正しく解し、サガは束の間その青眸を伏せると己の身を翻した
少女を向き直り、何時もの柔らかな笑みを湛えた瞳を向ける


「私は何時もと変わらないよ……。さあ、折角淹れてくれたお茶が冷めてしまう。座ろうか。」

「はい。ではお菓子も持って来ますね。…私、今度はペパーミントのクッキーを焼いたんです。」

「それは楽しみだ。」


許婚のその言葉に俄に憂いを晴らしたは、パタパタと軽やかな足音と共にキッチンへと消えた
少女の屈託の無い後姿を見送る事暫し、サガは再び窓を顧みた
―――ギリシャの冬は、曇天と雨天が手を取り合ってくるくるとワルツを踊っているようなものだ
夏のすっきりとした青空のイメージと裏腹に、秋から冬に掛けてはほぼ毎日のように灰色の雲に覆われ、まるでかの英国に居るような気分にさえさせられる
今日もそのご多分に漏れず、窓の外はどんよりとした曇り空の色に染まっていた

サガがの許婚としてこの村に訪れるようになり、早半年も過ぎただろうか
特別な任務でもない限りは毎週末に顔を見せるようにはしていたとは言え、時の流れは少年の身には殊更早く感じられるものだ
最初は話題にすら事欠く程、二人の間の会話は一向に進まなかったものの、来訪を重ねる毎に自然と話し込む時間は増えて行った
は村の話を、そしてサガは聖域の話をお互いに語る事が一番多いだろうか
機密事項に当たらない限り、サガの任務の内容も話題に上ることがある
特に外界に赴いた折の四方山話などは、村の世界しか知らぬに取っては余程興味を掻き立てられるのだろう、それこそ文字通り目をキラキラさせながらサガの紡ぎ出す言の葉ひとつひとつに耳を傾けていた
サガもそんなの姿を見るに付け、心の中がじんわりと温かくなり自然と微笑を浮かべてしまったりもする
『許婚』と言う『形』自体は、他者から突然与えられた情況に変わりない
…だが、その『形』から『実』が生まれる事も十二分に在り得るのだ
少しづつ近付く心の距離を、二人ともが確かに感じていた………筈なのだが。

………これより何年の後に、私はと結ばれる。それで良いのではないか。それの何が不満なのだ、サガよ………

窓の外一杯に拡がる暗い灰色の空に己の心を映し、サガはガラスの表面に置いた掌をゆっくりと握り締めた





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話は数週間前に遡る

珍しく晴れ間の覗いたある日の午後、サガは闘技場に立っていた
ここ聖域では今はまだ姿無き主・女神の意思の下、総ての聖闘士が己の拳のみを以て闘う事を義務付けられている
…だが無論、それは『外敵』を前にしての話だ
聖域内の者同士であれば武器による手合わせも許されており、拳の劣る雑兵に至っては警備の際にもその所持を認められている
その日のサガは利き手に短い剣を構え、槍を手にした雑兵と渡り合っていた
簡素な短剣はその束の端に更に小さな球体が誂えられており、古代にローマ軍で用いられていた型の物と思しい
所謂『グラディエーター』と言う代物だ
―――勿論、サガとこの雑兵は諍っている訳ではない。唯の訓練だ
グラディエーターを手にしたサガと裏腹に、長い槍を持った雑兵は表情を強張らせジリジリと足元を小刻みに滑らせている
周囲に陣取る他の雑兵達の間にも無言の緊張が走り、誰一人として身動きをする気配すら感じさせない

…ゴクリ。

槍を手にした雑兵の喉元が静かに一度、上下する
至極微かである筈のその音が、本人も含めその場全員の鼓膜を揺るがした――その次の瞬間。
長い槍の切っ先が貫いた筈のその空間は、もぬけの殻になっていた
慌てた雑兵が身を翻すと同時に、ついぞ先程上下させたばかりのその喉元にチクリとした軽い痛みの感触が走った


「………ひッ…!!」


カラン。
槍の木製の柄が軽やかな音を立てて闘技場の地面を叩き、二、三転して止まった
………サガのグラディエーターの先端が、雑兵の喉元をピタリと捉えている
己の武器を咄嗟に放棄してしまった雑兵は、剣の切っ先に触れぬようごく小さくその口をパクパクと動かした


「ま…参りました。」

「…宜しい。では、これにて終了とする。」


片膝を落す程に低く構えたサガは、手にした短剣を一旦下げ、姿勢を正すと再びその切っ先を天に向けて示した


「古(いにしえ)、『兵』は『武器』を意味していた。――つまりは戦時、己の腕を延長したものが『武器』であった訳だ。その意味ではより長い武器の方が有利であると誰もが考えがちだ。
 …だが、果たしてそれが正しいか否か、今証明されたと言っても過言ではあるまい。
 武器を選ぶ際、長さに頼ればその分機動性を失う。それは重量と小回り、二つの利点を犠牲にしてしまうと言う事だ。
 今、私が手にしているこの短剣は非常に短い。敵を討つにはかなりの至近距離に踏み込む必要が生じる。
 だが、同時にこの剣は非常に軽量で、且つ俊敏に動かす事が可能だ。」


最後の一言と同時に、サガはそれを証明するかの如く短剣を手元でくるくると数回、回転させて見せた
大道芸のような鮮やかなその手捌きに周囲から低い歓声が沸く


「このように短い武器を手にした相手が素早く近付けば、長い得物を手にしている方は後ろに大きく下がって武器を使うか、或いは武器自体を放棄せざるを得なくなる。
 何れにせよ、真に有利なのはどちらであるか、誰の目にも明らかだろう。
 ひいては、武器そのものではなく、己の俊敏さが明暗を分けると言う事だ。…解っただろうか。」


はいっ、と大きく答え、両膝を地に落としたままの雑兵がサガを振り仰いだ


「では、これにて本日の教練は終了とする。」

「ありがとうございました!」


その場の全員が声を揃えて一礼し、緊張の一時は終わりを告げた



「相変わらず理論運びが上手いなぁ、流石はサガだ。」



散り散りに闘技場を後にする雑兵達を見送るサガの後背から、聴き慣れた低い声が届いた
振り返ったサガの目の前に少し距離を置き、腕組みをした少年が笑顔で立っている
良く鍛え上げられたその太い両の腕は、『少年』の呼称に似つかわしくないかもしれない


「…アイオロスか。一体何時から来ていたんだ?」

「なに、勝負が着く少し前さ。…尤も、最初から勝負は着いていたも同然だろうけどな。」


アイオロスと呼ばれた少年はハハ…と如何にも屈託無い笑い声を洩らしつつ、サガの方へと近寄った
赤銅に焼けた短い癖毛が、久方振りの陽光を受けてその色を一段と鮮やかに透かす
アイオロスはサガの手に未だ握られたままの短剣を一瞥すると、すぐ脇にある大理石の塊の上に腰を下した
――古代ギリシャの建造物は概して非常に壮大に見えるが、よくよく観察するとそれらはある程度の大きさの大理石の円筒を積み重ねただけの構造をしている事に気付く
比較的地震の多いこの国では、折角造った宮殿も一度の地震で崩れてしまう事が多い
この闘技場もその類に漏れず、周囲をぐるりと飾っている列柱群のいくつかは無残にも崩れ、数多の円筒が無造作に転がったままになっている
図体の大きな男達が雁首並べているのだから、それこそ教練など後回しにして片付けるなり修復なりしたら良かろうに、とも思えるのだが、広大な聖域には無数の建造物が存在するせいか誰もさして違和感を持たないらしい
かくして、崩れた大理石はこの様に椅子替わりにされている訳だ


「今日はグラディエーター<そいつ>が得物だったのか。」

「…ああ。」


アイオロスに短剣を渡し、サガもすぐ横の大理石に腰掛ける
アイオロスと対を為す色合いのサガの長い髪を冬の湿った風がじっとりと撫で、過ぎ去った
短剣の刃を指の腹でじっくり拭いつつ、アイオロスが笑う


「雑兵達は拳に自信の無い分、武器に頼りがちだからなぁ。ついついリーチの長い武器の方が有利に思えるんだよな。
しかし、その考えを覆すだけじゃなく、武器に頼らない事の重要性まで一度に教えてしまえるんだから、サガは流石だ。」

「…煽てても何も出ないぞ。」

「煽ててやしないさ。事実俺だったら、剣を振り回しながらそこまで考えつくのは無理だ。」

「なに、教練の前に予め筋書きを作っておけばさして難しくなど無い。」

「…成る程。その手があったか。でも俺だったら、折角考えておいても忘れてしまうかもな、やってる内に。」


アイオロスは再三ハハハ…と笑い、剣をサガに返した
台詞の内容とは裏腹に、少年の笑いには不思議と自虐の匂いが無い
心底翳りの無い者だけが持ち得るこの朗らかな笑い声が、サガには非常に眩かった
相手から褒められているのだから素直に喜べば良いのだろうが、サガはそれよりも彼のこの屈託の無さこそが羨ましいのだ
―――「翳り」とは、ひとたびそれを感じてしまったら二度と拭い去る事は出来ないのだから

何故かは判らないがサガが眉を顰めたまま酷く無言に陥っているのに気付いたアイオロスは、パン、とサガの肩を叩いた
…ああ、と我に返ったサガは気を取り直すかの如く短剣を鞘に収め傍らに置いたが、まだその表情はどこか暗い
…サガがアイオロスの前でこの類の表情を見せるのは、実は初めてではない
これまでにも時折サガが妙に暗い顔に転じる瞬間に出くわす事があったが、アイオロスはそれをサガの真面目な性格に帰属するばかりで、まさか自分のせいだとは露ほども考えた事は無かった
十三歳の少年には無理からぬ事だろう……ましてや彼の解放的な性格では。
仕方ないな…と少し首を傾げたアイオロスは、思い切って話題を変える事にした


「そう言えば、最近はどうなんだ、サガ?」

「………何の事だ?」


愁眉を開いてサガが訝しげにアイオロスを見る。……作戦成功だ
アイオロスは歳不相応にがっしりとしたその肩を一つ竦めて見せた


「それは勿論、あの娘(こ)の事さ。…毎週通っていると聞いたぞ。」

「どこで聞いたのか、私にはそっちの方が気に掛かるが。」

「さあ、そいつは秘密だ。…で、どうなんだ?」


この男にしては珍しくやけに食い下がってくるのに面食らい、サガは一つ咳払いをした
こんな時でも、サガの仕草はとても十四歳の少年の物とは思え無い程に落ち着き払っている


「どうと言われても………取り立てて、別に。」

「別に、って事は無いだろう?半年も経って。」


……ああ、そう言えばもう半年も経つのか。

アイオロスのその一言に、サガは今更ながら内心で指折り数えた
サガが聖域よりの使者の形(なり)で初めて村を訪れたのは、確か心地よい風の吹く初夏だった


「歳月の流れは早いものだな。」

「…何だい、それは?今更ごまかさなくても良いじゃないか。」


サガの一言が余程奇妙に思えたのだろう、アイオロスは眉をへの字に曲げた
サガとしては心底そう思ったからこその台詞だったのだが、どうやら残念ながらアイオロスの期待に背いてしまったらしい
埒が開かないと感じたアイオロスはずい、と身を少し前に乗り出した


「…で、とか言ったっけな、その娘(こ)。手を繋ぐとか、キスするとかしたのか?」

「な……っ!アイオロス、何を言っているのだ一体!?」

「照れるなよ。…怪しいなぁ。」


狼狽するサガの表情を見遣り、アイオロスがニヤリと笑う
サガはアイオロスともう随分長いこと付き合いがあるが、何時もの豪快な笑いとは程遠い、彼のその微妙なニュアンスを含んだ笑顔を目にするのは初めてではないだろうか
違和感に気付いたサガは、間髪を入れずにはっと我を取り戻した
歳不相応に端整な口元を更に端整に歪め、サガが問う


「お前の方はどうなんだ、アイオロス?今の訊ね方から考えると、お前の方は随分進んでいるように思えるが。」


少し上目遣いなサガのその一言に、今度はアイオロスがぐっ…と言葉を詰らせた
揶揄の腕は、どうやらサガに一日の長があるようだ
流れが真逆になったのを実感したサガは更に続けた


「お前の所は、確かロドリオ村だったな。…ほほう、存外に手が早いのだな。」


サガがクク…と喉を鳴らして笑った途端、アイオロスの顔は真っ赤に変じた
どうやら、図星であったらしい

――現在、サガとアイオロスは聖域の黄金聖闘士の中では唯一、十代半ばに差し掛かった年齢だ
先代より黄金聖闘士を務める天秤座の童虎を除けば、残りの者は未だ十歳にも満たぬ子供ばかりである
自ずとサガとアイオロスの二人が他の者達を指導する役割になっていたのだが、どうやら人生における通過儀礼もこの二人が先んじられたようだ
サガにと言う許婚が選ばれるのと時を同じくして、このアイオロスにも同様に許婚が選ばれていた
アイオロスの許婚はピルゴス村の近くに位置するロドリオ村の娘であると、サガも知らされている
自分がの村に挨拶に行ったのとほぼ同じ時期にアイオロスもロドリオ村に顔を出した筈なのだから、こちらの付き合いも半年に及ぶ計算だ
サガと対照的な性格のアイオロスの事だ、異性に対してもそれこそ臆する理由など無いのだろう
自分はまだ見た事の無いアイオロスの許婚に彼が積極的に話し掛けている所を想像して、サガは得心し頷いた


「…成る程な。で、お前は許婚殿と手を繋ぐだけではなく、もうキスもしたと。そう言う事かな。」

「う……、な…何だよサガ。それはいけないか?」

「誰も悪いとは言っていないだろう、アイオロス。星占で定められたと言っても、結婚まで何もしてはいけないとまで決められている訳ではないだろう。」


些か意地の悪い笑い声を洩らしつつサガが言うと、アイオロスは赤い顔の下の方にある口元をモゴモゴさせて頬を掻いた


「そ…そうだよな。そうだよ!そりゃいつかは結婚するとは判ってるけど、それまで全部お預けにする必要は無いよな。ははっ!」


…まこと、アイオロスらしい。

サガは目尻を下げ、クスリと声にならない笑いを零した


「彼女の事を愛しているのだな、アイオロスは。」

「…ああ。いつかはまだ判らないが、結婚式の日が今から楽しみだよ。
星占で許婚を定められたくらいだから、教皇猊下が式を執り行って下さるのだろうな。」


心底待ち遠しい様子のアイオロスの傍らで、サガは俄に息を呑んだ
目の前の男を微笑ましく見ていたその表情が、一瞬にして掻き曇る

『結婚式』、…そして『教皇』。
どうして私は今までそれに気付かなかったのだ………!


「………おい、サガ。一体どうしたんだ?」


アイオロスの怪訝な声が、その場を完全に離れていたサガの意識を揺さぶった


「あ………ああ、いや、何でもない。」

「そうか?…何か変だぞ、サガ。」

「うん、いや。お前の結婚式には私は同席しても良いものかな、と思ったものでな。」

「何だ、そんな事を気にしていたのか。当然じゃないか、是が非でもサガには来てもらうよ。
 …それにしても、そんな当分先の事まで気に掛けるなんて、サガらしいなぁ。」


はっはは、と豪快に笑い、アイオロスはサガの背中を思い切り叩いた
鈍い音が響き、サガがごほっと大きく咳き込む
おっと済まない、と謝り掛けたアイオロスを片手で制し、サガは立ち上がって何時もの柔和な笑みをアイオロスに向けた

…この男<アイオロス>には、決して気付かれてはならない。


「その時は祝いの酒の一本でも提げて行こう。花婿になったお前を精一杯冷やかしてやるから、今から楽しみにしておく事だ。
 さて、私は武器庫にこの剣を返しに行かねばならないので、また後で。」

「おお。今度は俺が教練する時間だな。じゃあな、サガ。」


雑兵達の相手をする準備の一環で手甲を付け始めたアイオロスに背を向け、サガは足早に闘技場を後にした
――いや、本人は何時も通りに至ってゆっくり歩いているつもりだったが、心の底に沸き上がった疑念が彼を急き立てずにはいられなかったのだった








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「………やはりそうだったのか…!!半年もの間気付かなかったとは迂闊だった………。」


教皇宮に併設された書架のとある本棚の前で、サガは小さく唸り声を洩らした
誰も居ない薄暗がりの空間は囁きに似たサガの驚嘆を余す所無く吸収し、闇へと完全に葬り去った
……サガが手にした書物には、彼の危惧した『現実』が唯の記録の形で坦々と綴られていた









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