「……神殿…!?そんな所で待たないといけないのですか?」


次の週末、あれほど待ち焦がれた筈の瞬間を前に、の猜疑を含んだ声が村長の家の居間に反響した
まあまあ落ち着きなさい、とを宥める長の妻を傍らに、当の長は鷹揚に深く頷いて顎の白髭を扱いた


「そうだ、神殿じゃよ。」


家の壁越しに長が見上げた方角に、村の興隆と共に守護神・アテナに奉じられた言い伝えを遺す神殿があった
…とは言え、倹しい村人が建てた物である。あくまでも控え目な規模の建造物であり、有名なアクロポリスのパルテノン神殿などとはもとより比ぶべくも無い
――古代、ローマ人達は美しい景観を誇る丘陵や山の上をこそ人間の住家としたが、ほぼ同じ文化を持つギリシャ人達は逆に其処を神の住まう所と考え、競って神殿を建てた
呼び名こそ違え、同じ神に奉られた神殿一つを例に取ってみても、現実主義者のローマ人は町中のアクセスの良い場所を選んで建てたのに対し、ギリシャ人達は有人の境を越えた高地ばかりを選択したのであった
人と神の居住地を歴然と分かったギリシャ人は、存外ロマンチストであったのかもしれない
…話を戻そう
村の神殿に参り、そこで許婚を待つようにと指示されたは、長に釣られて神殿の方角を見上げた
村の神殿、とは言え、それが聳えるのは小高い山の上である
男達の足で凡そ一時間、女の足であればその倍近くは掛かる筈だ
況して、まだ少女の域を抜けないの弱腰を以てすれば、更に時間を要するのは目に見えた話であった
近くの川で早朝に潔斎を終え、質素ながらも小奇麗な衣装を身に纏ったは、突如昼までに神殿のある丘に一人で登れと言われ、些かげんなりした表情を隠せなかった


「許婚殿は正午丁度に参られるそうだ。…何、お前の足とてまだ充分に間に合おう、そう案じるな。」

「…はい、それは心得ておりますが…。」


は言葉尻を濁した
…計算の話ではないのだ。要はの心の準備の問題であった
13歳の少女…しかも、ただの田舎の村娘に取って、見た事もない「許婚」に初めて会うと言うだけでもう十二分に緊張の極限なのだ
そのギリギリの状態の上、一汗も二汗も掻きそうな裏山にさあ登れ、と言われても困惑しない方がおかしいだろう
折角、精一杯綺麗に着飾った純白のキトンが許婚を前に汗でドロドロに崩れた姿なぞ、想像したくもなかった
多少遠慮がちに見せたの戸惑いを察した長の妻が小さく頷いたが、その夫は二人の間を流れる空気を敢えて退けた


「ともかく、許婚殿に失礼があってはならん。それが肝要だ。
 …よ、解ったら疾く神殿へ向かいなさい。」


白髭の間から下された「厳命」に、はただ黙ってコクリと頷くしかなかった







×××××××××××






の荒げた呼吸がリズムを刻み、神殿の静謐な空気を震わせては消えた
はぁ、はぁとゆっくり息を整えた後、はようやくの事で両の足を階段に交差させた
地面から女神神殿への階段は、大抵の神殿と同じくほんの数段程度である
元より神に奉じられた建物自体が人里離れた高地に建てられているのであるから、今更に敷居を高くする必要はないのであろう
そのたかが数段の階段を正に老人の如くのろのろと上がり、は本殿の石の床に両の踵を揃えた

…そう言えば、前に此処に来たのは何時だっただろう?もう随分長い事足を踏み入れていない気がするけど…

は疲労に塗れた己の身体を翻し、たった今まで息を切らしつつ登って来た山道を見た
乾燥著しい初夏のこの季節、神殿への道は青々と茂る雑草に被われる事もなく、登山道と表現しても差し支えない程度にまで道筋が比較的はっきりとしている
…だからと言って、無論その傾斜が緩くなる訳ではない
それは今、絶え絶えに紡ぎ出されるの呼気が証明している
結局、此処まで登って来るのに二時間半以上も費やしてしまったのだから


「…まあ、とにかく時間に間に合って良かった。」


は、頭上遥かより地上にあまねく光熱を放つ太陽の角度を目で計り、まだ正午には至っていないのを確認すると安堵の溜息を吐いた
先程まで早鐘を打っていた心臓が、深い溜息のおかげが少し緩慢に鼓動を刻み始めたのを感じる

…それにしても。


「間に合ったのは良いけど。」


…肝心の許婚とやらは何時やって来るのだろう?

はキョロキョロと一通り辺りを見回してみたが、光の射す神殿の入口はおろか、仄暗い内部の見える限りの空間にすら人影らしき物はついぞ見当たらなかった
先程目測した太陽の角度から考えても、約束の正午までさほど多くの時間が残されている訳ではなさそうだ
…男が先に待っていなければならない決まりではないが、少女の身で独り見知らぬ男を待ち続けると言うのは存外心細く我慢ならないものだ
は暫く神殿の入口と中程を往ったり来たりとウロウロした揚げ句、はたと気付いて真っ直ぐに神殿の奥へと足を向けた

…こんな時こそ、神と向かい合うにはまさに最適ではないだろうか

まったく今更ではあるが此処が女神神殿である事を思い出したは、神殿の一番奥まった部分に設えられた小さな祭壇の前に立つと己の衣服をサッと改めた
険しい山道の連続で多少汗に塗れてしまったものの、小綺麗な絹地で作られた純白のキトンはの身体の動きに合わせてさらさらと優しい衣擦れの音を醸した
そのまま祭壇の麓に膝を折り、見えざる女神を想像したは軽く額付く

…我が村の護り神たる女神、どうか私の許婚が優しい方でありますように。……それから。

一刻も早くその人が此処に現れてくれますように…私の胸が緊張で弾けてしまうその前に、といかにも少女らしい心の裏(うち)を吐露し、はゆっくりと面を上げた
…花と供物の捧げられた祭壇には、女神の姿も気配もない
いや、もしかしたら神はすぐ側に降臨しているのかもしれないが、一介の村娘であるにはその気配を感じ取る術は無い
頭では判ってはいるものの、溜息を隠し切れないは僅かにその肩を落とす


「女神は君達の守護神であったのではないのかな?
 …そのように落胆を露にするのは些か無礼に当たると、そう思うが。」


背後から響いた透る声色に驚いたが、咄嗟に立ち上がって振り返る
…神殿のほんの入口の部分に誰かが立っているようだ
尤も、中は薄暗い殿内の事だ。の側からでは完全に逆光になっていて、黒抜きにされたその人影の輪郭しか見えない
コツ…、と石と何か固い物の触れ合う音と共に、入口に立つ人物の全貌が少しづつ大きく、そして詳らかにの視界を彩った

…すごい。金色…だわ。

薄暗い殿内を反射して黒光りする黄金の鎧
先程の耳を揺るがした固い音は、どうやら鎧の踵と大理石の床のぶつかり合った物であるらしかった
目の前に立つ一人の男は、頭の先からまさにその爪先まで金色の鎧でびっしりと覆われていた

…これが、話に聞いていた黄金聖衣と言う物だろうか

女神を護る十二人の戦士にしか着用が許されないと言う、最高峰を極める聖衣
がそれを目にするのは、生まれて初めての事だった
唖然としたが男を見上げる

あの人が言っていた通りの大きな人だわ…。

あの人、とは一週間前に村を訪れた聖域の使者の話である
双子座の黄金聖闘士はどんな人だと詰め寄ったに、使者は自分と同じくらいの身の丈だと話したが、正にその通りだ

…もしかして、聖域の男とは皆こんなに大男揃いなのだろうか?

可笑しな想像をしたが今にも笑い出し兼ねない表情を露にすると、目前の金色の男は身体同様にやはり金色の兜に覆われた頭部を傾げた
やや目深に兜を被っているため、やはりその表情は口元以外の部分はほぼ見えないが、を訝しんでいるようだ


「…何か、私は笑われるような事をしただろうか。」


低く、本当によく透る声だった
うっかり聴き入ってしまいそうになる自分を抑制して、は小さく頭を垂れた


「ごめんなさい。別に貴方の事が可笑しかった訳ではないの。」

「…そうか。」


男は短く応え、の脇をするりと通り抜け祭壇の前に無言で膝を折った
摺り抜け様、の肩に男の長い髪が一筋、触れた

…あれ……この髪………

見覚えのある、深い色合いの青。
長さまで同じなのは、只の偶然なのだろうか
…言われてみれば、この声音にも聞き覚えがある気がして来る
は自分に背だけを見せる男のすぐ後ろまで近寄り、同様に膝を折って座した
祭壇に向けて一つ緩慢に跪礼した男が、己の頭をすっぽりと覆い尽くす黄金の兜を両の手で外した
男が兜を脇に置くと、大理石の床に触れた部分がカラン、と甲高く澄んだ金属音を上げた
は露になった男の顔を前に廻って今すぐ眺めたい衝動に駆られながらも、流石に実行には移せず黙ったまま男の背だけを見た
目の前の白いマントを流れる美しい髪は兜の下に隠れていた部分だけぽつぽつと撥ねており、外側に向けて広がりを見せつつもその下部は再び重力の戒めを受けていた
の穿つような視線を背で受け流し、男は再び整った口元を開いた


「我等総ての聖闘士、そしてピルゴス村を守護したもう女神よ。
 双子座の黄金聖闘士サガ、列びにピルゴスの乙女、此処に二人打ち揃い婚約の儀相調いました事、ご報告奉ります。」


男の改まった第一声の内容にぎょっとしたはあっ…と小声を漏らしたが、直ちに男に倣い深々と叩頭した

…サガ。サガって言うんだ、この人……!

自分のすぐ目の前にある、美しく長い髪。がっしりとした広い肩。そして低く厚みのある肉声。
顔こそ見えないが、少女のに取ってはこれだけで充分に胸躍る現実だ
…何せ、それが彼女の将来の夫だと言うのだから
たっぷり数分近くも経っただろうか、サガはようやく頭を上げた

見えざる女神と一体何を語らっていたのだろう?

サガの心の裏(うち)など露知らぬが素朴な疑問を抱くと時を同じくして、目の前に跪いた男がおもむろにスッと立ち上がった
見たい見たいとずっと思っていた許婚のその顔が、今の方を振り返る


「さあ、立ちなさい。」

「あ……は、はい。」


サガに声を掛けられたの表情は、正に心此処に在らずと言った風情だった
…見上げたサガの顔の造形の、何と端正な事だろうか
の暮らすピルゴス村にもサガと同じ歳嵩の男は何人かいるが、その誰とも比較出来ない程に目の前の男は美しい
生まれて初めて、は男性に対して「美しい」と言う形容を抱いたのだった


「…どうしたのかな、私の顔に何か付いているのかな?」


フッ、とさも可笑しげな笑い声がその整った唇から滑り落ちて初めて、ははっと気付いて開きっぱなしの口許を閉じた


「……御免なさい。」

「別に咎め立てている訳ではない。…君がだね?私はサガだ。
 神の定め給うた縁とは言え、これから何かと宜しく頼む。」

「…いえ、こちらこそ宜しくお願い申し上げます…サガ様。」

「私達は許婚だ。私の名は呼び捨てで構わないよ、。」

「…はい、……サガ。」


が言われた通り男の名を呼び捨てで呼ぶと、サガはにこりと優雅な笑みを浮かべた
うっすらと射す光の中でさえ、その端正な顔立ちがくっきりと映る

…どうか、今の私の顔がこの人に見えませんように……。

神殿の奥に己の顔を向け、は紅潮した頬にそっと両の手を当てた
己の掌で頬の熱を冷まそうと目論んだのであるが、指の先までもが浮かされたような熱気を帯びており、余計に胸が早鐘を打つ

…ええい、この人が私の許婚なのは紛れも無い事実。私自身がそれに慣れないで、一体誰が慣れるって言うのよ…!

サガに背を向けたは、ゆっくりと深呼吸を数度繰り返し、昂ぶる己を素早く鎮めて振り返った
目の前のサガは、やはり可笑しいと言わんばかりの妙な笑みを浮かべている

…そうだ!すっかり忘れていたけど…。

刹那、その僅かに上がった口角と自分の記憶の中の何かが重なった
それまでの胸の高鳴りも何処へやら、は俄かにサガに詰め寄った


「…あの、一つ貴方に伺いたいのですが。……もしかして、貴方は先週いらしたお使者様ではないですか?」

「何故、そう思うのかな?」


サガはその長い首を若干傾げてみせた
首を傾げるその動きに合わせ、癖を帯びた彼の長い髪がさらりと揺れる
…首を傾げるその返事だけでは、彼が肯定したいのか否定しているのか、には如何とも断じ難い
はう…と小さく唸り、サガを見上げていた己の視線を少し脇に落とした


「…その、何がどうと言う訳ではないんです。ただ、貴方のその口許に覚えがあるような…そんな気がするんです。
 あっ、後、髪の長さとか、色とか。…その低い声だって………。」


己の記憶の糸を必死で手繰っているのだろう、サガに向けて断片的ながらもなるべくはっきりと事例を列挙しようとするの前向きな姿勢をすぐ傍らで見ているうち、サガは心底可笑しくなって来てフフ…と笑い声を漏らした


「…それで、私と似た口許と声と髪を持つその使者とやらは、どのくらいの身長だったのかな?」

「…えっ…、それは勿論、貴方と同じくらいの…。………!」


流石にそこまで答えて、は質問者の意図を正しく理解した
サガを見上げるその眉間を俄かに顰め、が抗議の声を上げる


「判っていて私をからかったんですか?随分意地の悪い事をなさいますね。」

「怒らせてしまったなら済まない。そう言う意図はなかったのだが、君がいつ気付くだろうかと私も気にしていたのでね。
 …気を悪くしないで欲しい。」

「……いえ、別にそこまで怒っている訳ではないですから…。」

「…そうか、それは良かった。無礼は重ねて詫びる。……、私を許してくれるだろうか?」


の背に合わせ、サガは己の身体を少し屈めるとその顔を覗き込んだ
薄暗がりの遠目にでも綺羅綺羅しい程に整然としたサガの相貌だ、それをごく間近にしたがサガに異議の申し立てようもなく、ただ黙って頷くのが精一杯だった
一方、そんな事は露知らぬサガはどうやらが自分を許してくれたらしいと受け取り、ふわりとした柔和な笑みを浮かべた
…それもまた、の言の葉を更に奪い去る罪深い仕種であるのだが。
ただ、は今しがた初めて目にしたサガの顔の表面の造形だけではなく、自分を揶揄する言葉の内にサガの内面の顔までも感じ取った気がした

…素敵な人。私の許婚がこの人で良かった………。

は一歩下がってサガを見上げると、少し笑ってみせた


「…さあ、行こう。」


優しい表情を崩さぬサガは、顔だけ振り向いたままの姿勢で再びにその背を向けた


「……行くって、一体何処へ?」

「君の村へ降りる。村長始め、村の衆にお披露目の意味も兼ねて挨拶をしないといけないだろう。
 …疲れているのなら、此処から私が君を背負って行っても良いが?」


衆目に晒されたその光景を考えただけで、顔から火が出兼ねない
は丁重に頭を振って辞退の意を示し、くすりと笑ってゆっくり歩き始めたサガの後を必死で追った







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