夕刻、早々に店を辞したはソロ邸へと急ぎ帰宅した

  …店長はにもう少し居てもらいたかった様子であったが、とてその気持ちは同じだ
  只、カノンの残した一言が今のの命運の総てを残酷に支配している以上、自身には何一つとして選択肢は残されていなかった
  『屋敷の用事が残っていますので』と吐きたくも無い嘘まで吐いて店を後にするの後姿は、傾き掛けたアッティカの夕日の色と相俟って酷く寂しげであった



  「おや、さん。随分早いですね。もう少しゆっくりなさっても宜しいのに。」


  ソロ邸の裏口からそっと帰宅したの姿を、執事が見咎めた
  ジュリアン直々に許しを与えたのだ、それこその帰宅が真夜中になっても誰も文句は付けないだろうし、門を閉ざしもしない
  実際、カフェは深夜営業であるので、が帰って来るのは日付変更線前後であろうと執事ですら踏んでいた程だ
  意外な表情の執事に対し、は極力疑念を抱かせぬように肩を竦めて笑ってみせた


  「あまり遅くなってはお屋敷の皆様に迷惑が掛かるだろう、との店長の配慮です。…何とは申せ、私はこちらの使用人ですから。」

  「そうでしたか。…久方ぶりのお店は如何でしたか?」

  「一月半で何もかもが変わってしまう…と言う訳ではありませんでした。けれど、お屋敷とは仕事の勝手が違うので久々に困惑しました。」


  …これは嘘だ。
  店に帰って数時間もしないうちに、また元の勘を取り戻して生き生きと立ち働いていたのは誰でも無い自身だったのだから
  最後にが口にしたのは、偏に屋敷の主・ジュリアン――に一日の気分転換を与えてくれた張本人――への遠慮である
  無論、執事にはそれは判り過ぎる程判っている


  「ともあれ、お疲れ様でした。また明日からは宜しくお願いしますよ、さん。今日は良くお休みください。」

  「ありがとうございます。お言葉に甘えてそうさせていただきます。」


  軽く会釈した後、は自室へと屋敷の階段を昇り始めた
  踊り場まで差しかかった矢先、ポーン、ポーン…と目の前の大きな時計が7回鳴ってに刻を告げた

  …7時、か。

  文字盤と振り子を交互に見上げ、はチラリと窓の外を一瞥した
  …ハイシーズン真っ只中のこの時期、日没は8時とまだ遠い

  「今夜」と言ったけど、カノンは一体何時来るのだろうか…。日が落ちてからすぐかもしれないし、もっと深夜かもしれない
  最初の時の事を考えたら…おそらくは深夜。

  何れにせよ、はその男を待たなくてはならない
  自室の鍵を開け、中に入ったはカーテンを開けた
  が愛して止まない岬のカフェが斜陽に染まる。…本来であれば、まだ其処に居た筈であったろうか
  ふう、と一つ溜息を落とし、は窓の鍵だけを開けてベッドに腰を下した
  最後こそカノン一人のためにぶち壊しになってしまったものの、久方ぶりのカフェ体験が気分転換になったのは確かだ
  窓から見える茜色の空に、今は何処か違う空の下にいるであろう愛しき主の姿を重ねてはその名を口にした


  「ジュリアン様…。今頃何をしていらっしゃるのだろう・・・。」


  …きっと彼は何処かの華やかなパーティーの席で、身分も容姿も申し分ない女性の手を取っているかもしれない
  それはこのソロ家に取っては寧ろ喜ばしい事であるのだが、そう考えるだけでの心は俄かにさんざめくのだった

  ジュリアン様の幸せを祈ろう。私に出来るのはそれだけ。それだけにしておかないと……私はいつか、壊れてしまう…

  主・ジュリアンへの恋心と共にカーテンを再び閉ざし、は使用人用の浴室のある宿舎へと部屋を後にした




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  熱いシャワーを浴びて主への思慕の念を振り切ったの胸中は、時間の経過に連れもう一人の男の事で満ち始めた
  …ジュリアンの居ない今夜をわざわざ狙ってやって来るその目的とは、一体何なのか
  を脅迫する執拗な男の冷たい視線を思い起こすだけで、何やら身体の芯からうそ寒くなっては身震いをした
  キュッ。
  シャワーのコックを閉じ、バスタオルを頭から被る
  バスタブを跨いで洗面台の大きな鏡の前に立ったは、分厚いタオルの間から垣間見える胸の十字架をじっと見詰めた
  …魔を払う力を持つと言う純銀で象られた十字架は、金属のその性質故に非常に酸化し易い
  何時もは衣服の下に隠しているため本人自身も気に掛けないが、こうして裸になって鏡の前に立つと随分とその黒ずみが目立つ
  交叉の中心に埋められた暗青色の石とその周囲の境界が曖昧に見える程に、錆付いた十字架。
  は鏡の中の己を見据えたまま、クロスを手に握った


  「…かなりくすんでる…。それほど時間が経過していると言う事よね。」


  嘗てその十字架を自分に与えてくれた人の面影を、は脳裏に再び描いた
  歳に似合わぬ穏やかな表情の少年が、の頭を撫でる
  もう何年も…いや、十何年も前の光景なのに、微に細に思い起こしてしまうのは何故だろうか
  あの日の少年は、今はもう立派な大人になっている事だろう
  …一体どんな人になっているのだろうか
  は少年の名前を胸の裏(うち)でそっと呟き、大人になっているであろう彼の姿を思い浮かべた
  …途端、その姿が別の男と重なる
  眉を顰め、は頭を大きく横に振った

  …だって、名前からして違うじゃないの。あの人が、あんな凶悪な男になって良い筈がない。…確かに、見た目は似てはいるけれど………
  もしかして、何度も思い出すうちに顔の記憶が入り混じってしまったのかもしれない。きっとそうだ

  ふう、と短い呼気を洩らしては顔を上げた
  バスタブの遥か上方に小さく開いた窓から、乾いた夜風が中に吹き込みの素肌を掠める


  「もう良いわ、考えるのは止そう。…あの人はあの人。きっと今は何処かで幸せに暮らしているに違いないんだから。」


  タオルで頭髪をぐしゃぐしゃと乱暴に拭い身体に巻き付けると、は浴室の扉に手を掛けた




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  一つの覚悟を抱いて鍵を開けたを迎えたのは、誰も居ない自室の何時もと変わらぬ光景だった


  「やっぱりまだ、よね…。」


  部屋の掛け時計は9時前を指している
  浴室を出た後、従業員用の炊事場で貰ってきた簡単な夕食のトレイをデスクの上に置いて、はベッドに腰を下した
  鍵が開いたままの窓からは、余人が侵入した形跡は無い。…尤も、カノンほどの男ならその様な手掛かりすら残さずにこの家に侵入するのも容易いだろうが
  つまり『鍵を開けておく』と言う行為は、ただがカノンに屈している現実を示すためだけのサインに過ぎない
  そうやってに精神的苦痛を与えるのがカノンの遣り方なのだろう
  …嗜虐心しか持たぬ男のやりそうな事ではある

  半刻前に日も落ち、ニュクスの祝福を受けた空はようやく夜らしい色合いに包まれている
  その何処からか、カノンはやって来る
  思い起こせば、最初に彼が此処に来た時も夜であった

  …あの人が昼の住人なら、カノンはまさに夜の住人…

  チリ。
  は纏ったシャツの合せ目のボタンを一つ外し、胸に下がる十字架を手繰り寄せ、掌に乗せた
  殊更長い鎖にヘッドが繋がれているのは、それが礼拝用に誂えられたものだからであろう
  鈍い光を放つ十字架を暫し凝視した後、はそれを鎖ごと襟元から外してデスクの前に座した

  …たまには磨いてみようか。確か、銀磨き用のクロスがあった筈。

  鏡台兼デスクの上から二番目の引き出しをガラリと引き、は奥から小さな水色の布切れをつまみ上げた
  以前にも何度か使用したそれは、ところどころに黒っぽい汚れが残っている
  研磨力の低い黒ずんだ箇所を避け、はなるべく綺麗な部分で十字架を優しく包んだ
  ビザンチン様式のその十字架は殊更凹凸が多い
  磨き易そうな裏面にまず指の腹を当て、布越しにゆっくりと上下に擦る
  シュ…シュッ…。
  数度往復した所では一旦布から十字架を取り上げ、電灯に翳した
  浴室の鏡に映った物とは到底同じには思えぬ程の美しさに、思わず笑みが浮かぶ


  「…裏は大分綺麗になった。次は表ね。…こっちはちょっと磨きにくそうなんだけど。」


  の顔が映りそうな程に白光りする裏面を返し、今度は表を上に向ける
  つるりとした裏面は一時に研磨を施す事が可能だが、表面はどうやら同じ調子で磨くのは難しい
  まずは、真ん中に埋め込まれた暗青色の石――瑠璃の類であろうか――に布が当たらぬよう細心の注意を払わなければならない
  多孔質の石は硬度が低い。故に、研磨用の布と言えどうっかり傷を付けてしまう可能性が高いからだ
  は人差し指の先に布を被せ、まず石の周りを慎重に擦った
  流石はパティシエールだけの事はある。細かい作業に指先が震える事も無く、些細な隙間も綺麗に磨き上げた
  そして、今度は十字の四方を一つづつ磨く
  装飾の凸面の麓に錆の黒い溝が残らぬ様、注意深く磨くその横顔は昼間と同じくすっかり職人の表情だ

  …およそ15分程で、表面の三方向までの作業が終わった
  後は鎖に連なる上辺を残すのみである


  「…そう言えば、まだ食事を済ませてなかったわね。」


  よし、と満足げに一人ごちてが一休みしようと腰を上げたその矢先、背後のカーテンが僅かに揺れた


  「…待たせたか。」

  「この間よりは随分早いお出ましね。」


  何時の間にか窓の脇に立っていたカノンに一瞬たじろいだであったが、なるたけ落ち着いた様子で言葉を返し、身体ごとぐるりと振り返った
  振り返り際、手元の磨き布で十字架にさっと覆いを施す


  「今日は折角ジュリアン様が下さった休日を邪魔してくれてありがとう。」

  「…随分な口を利いてくれるものだな。、お前自分の立場が良く判っていないと見える。」

  「…判ってるわよ。どうせならただ一言文句を言いたかった、それだけよ。」


  チッ、とカノンの整った唇から舌打ちが漏れた
  はデスクから離れ、再びベッドに腰を下す


  「…そこの椅子に座ったらどう?」


  の提案を、カノンは無言で拒絶した
  座る、と言う行為は、有事の際対処するまでに幾許かの時間を要する
  つまりそれだけ寛いでいる証であり、同時に相手に心を許している事を示す行為でもある
  …カノン程の男がそれに甘んじる筈がないのだが、も判っていて薦めるだけ薦めてみた
  窓を背にしたまま、カノンはベッドに座るを一瞥した
  話し声が外に漏れぬよう、何時の間にか窓は再び閉ざされている
  外を吹く爽やかな風と裏腹に、どんよりと重く澱んだ空気が二人の間を流れた
  沈黙を破ったのは、闖入者の方であった


  「お坊ちゃんは今日は留守か。」


  すっと一歩横に近付き、壁に軽く背を凭れてカノンが訊ねた


  「そうよ。…だから貴方は今夜此処に来たんでしょう?」

  「…別に、そうでなくとも構わんさ。ただ、今夜俺が来ると言えば、お前はさっさとあの店から帰っただろう。」

  「それだけの為に……!?貴方って本当にどうしようもなく酷い人ね。」

  「それは褒め言葉と受け取っておこう。」


  傷付いた様子のの横顔を見遣り、カノンはクク、と笑い声を洩らすとゆっくりと両の腕を組んだ


  「無論、それだけのためではない。お前が早いうちに屋敷に帰宅すれば、ゆっくりと話を聞く事が出来るだろう。…現にこうしてな。」

  「…で、話って何よ。」

  「まあそう急くな。…夜は長いのだからな。」


  カノンの残忍極まりない笑みに、の背筋にゾクゾクとした戦慄が走る
  ニュクスの神の祝福は、どうやら今宵のには無縁の存在に等しかった




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  「…ふん、それでお坊ちゃんの帰りは明日になると言う事か。」


  カノンがさもつまらないと言った風情で吐き捨てた
  他に返事のしようがないので、は黙って頷く

  …カノンがの部屋を訪なって小半時、ようやく二人の間に会話らしい会話が交わされるようになった
  ジュリアンは何処かに外遊に出たようだ、とから聞かされ、カノンは壁に凭れた背中を少し上げた


  「まあ何時もの事だな、お坊ちゃんの外回りは。」

  「本当にジュリアン様の事に詳しいのね、貴方。」


  訝しげに詮索するの視線を交わし、カノンが僅かに首を傾げる


  「俺を探っても無駄だ。それとも、お前も遂にスパイに成り下がったか?」

  「そんな訳無いでしょう。この際言っておくけど、私はあくまでもジュリアン様と何時も通りに接しているだけであって、ジュリアン様を探ったり疑ったりはこれっぽっちもないわよ。」

  「そうむきになるな。お前があのお坊ちゃんの忠実なる使用人だと言う事は先刻承知だ。」

  「…その『お坊ちゃん』って表現、どうにかして貰えないかしら。聞いててあまり愉快ではないのだけど。」

  「俺がヤツをどう呼ぼうが、それは俺の勝手だ。付け上がらないで貰いたいものだ。
   …それとも、お前はジュリアンに惚れてでもいるのか?…俺がその呼称を使うのが許せない程に。」


  カノンの最後の言葉に、はカッと頬を染めた


  「違うわよ!ただ私は、ジュリアン様のお側で役割を果たしたい……それだけよ。」


  叶わぬ想いは、抱くなかれ。
  は自分自身にそう言い聞かせるために、敢えてはっきりと断言した
  その言の葉と表情の明らかな食い違いを見逃すカノンではなかったが、無言でを暫し見詰め、そして軽く頷いた


  「判った。それについてはもういい。…それよりだ、お坊ちゃんに何か妙な事はあったか。」


  カノンが話題を変えたので、も俄かに正気へ戻った
  少し顔を俯けて、ここ一週間程度の記憶の糸を必死に手繰る


  「…別段おかしな事は無かったと思うけど…。」

  「そうか。他に、ヤツが何か変わった事を言ったりはしなかったか。」

  「変わった事………。」


  カノンと同じく腕組みをして考えていたが、突然あっと小さな声を上げた
  その声に、カノンが顔をに向ける


  「何だ、言ってみろ。」

  「…変わった事…と言う程じゃないかもしれないけど、再来週に大きなパーティーを開くと言うお話を伺ったわ。」

  「パーティー?…このソロ邸でか。」

  「ええ。随分沢山の方々を招く予定みたいだったけど…。」


  カノンはの話を聞くや、眉を潜めてその視線を俯けた
  その端整な表情には不意に奇妙なデジャブーを覚え、ドキリとした
  …もう十数年も前に見た、酷く苦い光景を。人を傷付ける痛みを知った、その記憶を。


  「…どうした?」


  カノンに問い質されて初めて、はようやく現実に立ち返った
  ベッドから顔を上げたを、カノンが壁際からじっと見据えている
  その表情には先程の懐かしい面影は微塵も無い


  「いいえ、別に…。」

  「何か思い出したか。」


  フン、とカノンは片方の口元を上げるあの皮肉な笑みを浮かべた
  一瞬、自分の遠い記憶までも見透かされたのかとは驚いたが、冷静に考えてみたらカノンが言っているのはあくまでもジュリアンの件だとすぐに気付いた
  一つ安堵の溜息を落とし、がその身体を少し前に乗り出す


  「そう言えば…そのお話をジュリアン様から伺ったのは昨日の事だけど、さっき使用人の宿舎で少し耳に挟んだ話だと、何でもそのパーティーは代替わりの披露目が目的だとか何とか。」

  「…そうか、成る程な。それはさぞかし派手にやるのだろうな。」


  カノンがああ、と深く頷いた。どうやらこれで得心が行ったらしい


  「ジュリアンがソロ家を継いでまだ半年も経っていないからな。そろそろ生活の変化にも慣れて来たからこのあたりで…と言った所か。」

  「…そうみたいよ。本当に良く知ってるわね。」


  今更だけどね、と言わんばかりにが肩を竦めると、側に立つカノンが僅かに目を細めた
  …もしかすると、笑っているのかもしれない
  初めて目にしたカノンの笑顔に、は先程とは別の意味で驚いた


  「まあ、とにかく沢山の人が呼ばれているって事ね。当日は、私もパティシエールとして腕によりを掛けて仕事をするつもりではいるんだけど。」

  「それは重畳。…しかしお前のその話では、誰が呼ばれているかまでは判らないだろうな。」

  「…そうね。代替わりのお披露目って事だから、恐らくは各界の著名人とか上流階級の人たちとかなのでしょうけど。
   それと、ソロ家自体が世界に名立たる財閥なのだし、他の有名財閥の会長とかも居るのではないかしらね。」


  有名財閥の会長。
  その一言にカノンはピクリと反応した
  …何か、心当たりでもあるのかもしれない
  暫し黙した後、カノンはクルリと背を向けた


  「もう帰るの?」

  「…ああ。少し調べたい事が出来たのでな。」


  訝しむを振り返ったカノンは、己の視界の端に何か光る物体が覗いているのを捕え、その動きを止めた
  つかつかとデスクに近寄り『それ』を間近にしたカノンが、低い呻き声を発してに詰め寄る


  「……お前が何故これを持っている!?」


  ベッドに腰を下したにずい、とカノンが肉迫する
  ギシ。
  反射的に後ろに下がったをカノンが更に追い、二人の重みにベッドが軋んだ
  壁に追い込まれたにはもう後が無い
  に覆いかぶさった姿勢のまま、カノンはその端正な顔をに近付けた


  「どうしてお前がこれを持っている!?」


  十字架を手に、猜疑を滲ませたカノンの低い声がを容赦無く責め立てる
  恐怖に息を呑んだは、上手く口を利けない
  その間にも、カノンはますます肉迫する
  絶え絶えになる呼吸を整え、ようやくの事ではその口を開いた


  「…貰ったのよ、昔の事だけど…。」

  「嘘を吐くな。」

  「本当よ。カノン、貴方を初めて見た時もしや、と思ったけど…。」


  は、すっと大きく呼吸をして、眼前に迫るカノンを正面から見据えた


  「………私、ロドリオ村の出身なの。」

  「何だと…!?」


  驚愕に見開いたカノンの目が、俄かに赤味を帯びた鈍い光を放った
  ひっ、と悲鳴を洩らしそうになるのを堪えながら、が続ける


  「小さい頃、毎週日曜のミサに来るその人の事を好きになったの……何時の間にかね。
   幼いながらに一生懸命その人の気を引きたくて、僅かの時間でも見つけて会話を交わしたの。
   もう十三年も前にその人は来なくなってしまったけど。…いなくなる直前、その人がこれを私にくれたのよ。私の夢が叶う様に…と。」


  思い出の内の苦い部分は敢えて伏せて、はその過去を淡々と語った
  話が進むに連れて、カノンの顔色が僅かに青ざめる
  そしては最後に、長年胸に秘め続けたその名を呟いた


  「………サガ。それがその人の名よ。」


  カノンはその名をに突き付けられると、黙したままその身体をから反らし、に背を向ける形でベッドの端に腰を下した
  その広い背中に、が問い掛ける


  「カノン、貴方……サガを知っているのね。」


  カノンは答えない。
  は横たわっていたベッドの壁際から身体を起こし、ゆっくりとカノンの隣に移動して無言で座った
  カノンはそっぽを向いていたが、暫くするとシャツの胸のボタンを上からいくつか外した
  4つ目のボタンが外れ厚い胸の隆起が露になると同時に、其処ににも見覚えのある十字架が姿を現した
  あっ、とが驚いて声を上げる
  カノンはその十字架をに向けて翳し、軽く握り締めた
  銀色の長い鎖が、カノンの手の中でチリリと場違いに澄んだ音を立てる


  「…サガと俺は、双子だ。この十字架は幼い頃に死んだ母が俺たちにくれた物だ。」

  「…双子だったの…。やっぱり。」

  「サガは俺の兄だが、俺はあいつを兄などとは思っては居ない。」


  歯噛みするカノンの表情に、明らかな憎しみの色が滲む
  何があったのかは判らないが、兄弟の間を何らかの憎悪が広く深く隔てているのだろう。…よくある話だ
  は恐る恐るカノンに訊ねた


  「サガは今……。」

  「死んだ。…少なくともそう思った方が良い。」


  吐き捨てたカノンに、もそれ以上訊くのは諦めた

  …もう十三年も前の人間だ。死んだとでも思った方が、不安な現実を見るより気が楽かもしれない

  は自分にそう言い聞かせ、ふう、と一つ溜息を落とした


  「貴方はちゃんと持っていたのね、その十字架。」

  「…生憎、俺にはこれをくれてやるような人間は居なかったんでな。」


  …この男(ひと)にも、人間らしい所があるんだ

  苦笑を洩らしたカノンに向けて、はニコリと笑った


  「…そう。でも、貴方がずっと持っていてくれたんだから、きっとお母さんは喜んでいるのではないかしら。」


  その一言に、カノンは妙な心地を覚えた
  の穏やかな笑顔をこうして直視していると、自分の調子が少しづつではあるが狂わされて行く気がする

  …サガを想っていた過去と言い、つくづく妙な女だ。

  カノンは十字架を胸に戻し、ボタンを留めると徐に立ち上がった
  の掌に憎き兄の十字架を載せ、今度こそ窓に手を掛ける
  …と、またしてもその手を止め、カノンはベッドに座るを振り返った
  目を合わせぬ様に少し顔を背け、暫し躊躇った後で一言呟いた


  「ジュリアンを慕うのは止めておけ。でなければ、お前自身が必ず傷付く。
   ……これから嵐が来る。総てを奪い尽くす程の嵐がな。」


  を一度だけ見遣り、カノンは再び闇へと帰った









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