二週間後、遂にソロ家の代替わり披露パーティーの日が近付いた

  主ジュリアンの面目を自分が潰してしまわぬ様、はパーティーの開催を告げられたその日からデザートのメニューを練りに練った
  無論、料理との兼ね合いも必要である
  ソロ家専属のシェフ達との綿密な打ち合わせも欠かす事はない
  パーティーは立食形式で進められるため、料理もデザートもサーブに適したサイズに落さねばならない
  料理の場合、ある程度はその場でも切り分ける事が可能であるが、デザートの方はあらかじめ一口大にカットしておくか、または器自体を至極小振りの物で作る必要性に迫られるだろう

  …小さくとも見目麗しく。しかも数を沢山こなすには…?

  幾つものメニューの案を書き出しては破り、結局は実際作ってみてから全体のバランスを整える事に決め、は二週間の間創作に専念する事にした
  …とは言え、主へ捧げる毎日のデザート作りとそのサーブを辞めた訳ではない


  「随分熱心に準備を進めてくれているそうだね、。…きちんと夜は寝ているのかな?」


  昼下がりの一時、熱い紅茶を含みながらジュリアンが笑う
  その笑顔を見ているだけでは胸が一杯になった


  「はい。毎日パーティーのメニューを考えるのが楽しくて仕方がないくらいです。」

  「そうか、それは良かった。…でもはか弱い女性の身体で一人、我が家のパティシエールを勤めてくれている。
   くれぐれも身体の調子には気をつけてくれないと、私も心配になってしまうよ。」


  の返事に笑みを重ねつつ、ジュリアンは労わりの言葉を掛けた
  ぎゅうっとの胸が喜びの悲鳴を上げそうになるが、一呼吸置いて自らの心のざわつきを抑えた


  「お言葉、ありがとうございます。当日は素晴らしいお菓子を供する事がかないます様、一層努力を重ねる所存です。」


  …ジュリアン様の為に、頑張ろう…

  は主の麗しい横顔に内心で誓った




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  「…それで、お坊ちゃんには特に動きはなしか。」


  パーティーを目前に控えたある夜、の部屋の隅に立ったままカノンが問いを投げ掛けた
  満月を間近に控えた夜空は思いの外明るく、窓から差す月影がカノンの影を一層長く作り出す


  「そうね。貴方がいぶかしむような様子は無いわよ。
   …尤も、私もここ数日は厨房に篭りっきりの時間の方が多いから、逐一ジュリアン様のお側に控えるわけにも行かないんだけど。」


  デスクに向かったままはカノンに答え、眼前の本のページを捲った
  が今開いている『地中海スタイルのデザート』と言うタイトルの本の他、『フレンチのデザート』『パーティーの盛り付けのヒント』『ル・コルドン・ブルーの菓子』などの本がデスクの上に所狭しと積まれている
  パラパラとページを繰りながら、は時折付箋を付けたり小さく唸ったり、はたまたメモを走らせる
  背後に立つカノンはその様に少々呆れた表情をしたが、にそれが見える筈はない
  …が、振り返りこそしないものの、カノンのその気配を読んでは手を休めず付け加えた


  「その辺に座ってて構わないわよ、カノン。このままでも話くらいなら出来るでしょう。」


  須臾挟んで、の背後からギシっとベッドの軋む音だけが返って来た
  …勿論、カノンがそこに座った音である


  「…随分熱心だな。」


  ボソリ、とカノンが呟くと、は付箋を持つ手を少し止める


  「カノン、貴方でもジュリアン様と同じ事を言うのね。」

  「…別に。お坊ちゃんにそう褒められでもしたか。」

  「ジュリアン様は私の『主』だもの。労いのお言葉を下さったのよ。…それだけ。」


  カノンはの背中を凝視した
  そのまま暫く黙っていたが、徐に両の手を組んでその容良い顎を乗せる


  「…ジュリアンにはこれ以上深入りするなと言った筈だが。」

  「…判ってる。ただ…私の我儘みたいな物だから。気にしないで。」

  「………お前のためだ。」


  …え?とは咄嗟に身体ごとぐるりと振り返った
  無理もない。カノンの口からそのような類の台詞が出てくるとは、到底想像の及びも付かないだろう
  向き直ったの正面に座っていたカノンは、ふいと顔を横に向けて視線を脇に落とした
  その表情は硬く、そしてどこか暗い
  先程の一言に一瞬ドキリとしたも、カノンのその横顔に対して掛けるべき言葉を失った
  二人の間を月明かりだけが横切る


  「…当日は、俺も屋敷の影からジュリアンを見張る。手に入れた出席者リストの中に少々気に掛かる人物がいるのでな。
   お前も出来るだけジュリアンから目を離すな。」


  ギシッ。
  長い沈黙の後、カノンは再びのベッドを軋ませて立ち上がった
  そして無言で頷いただけをその場に残し、月光降り注ぐ窓にその長い指を掛けた




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  パーティー当日、は早暁からソロ邸内を駆け回っていた

  メニューの多くは前日に下ごしらえを終え、後は飾り付けなどの最終工程を残すばかりだ
  だが、生のフルーツをふんだんに使った物や一部の菓子は、それでもやはり当日に作らざるを得ない
  それ以外にも、フルーツ盛りの様な特殊メニューは無論当日の、しかも開始直前に着手した方が鮮度の都合上無難だろう
  時間配分を誤らぬ様、は時折時計を横目にしながら厨房とホールを往復する
  …週末のイベントに相応しく、パーティーの開始は黄昏時だ
  しかし、だからと言ってのんびり準備を進める訳には行かない
  料理との位置バランスの確認のため、また脇に置かれた椅子や彫刻の配置の確認も兼ねて、は厨房の手を止めては配置図片手にホールの敷居を度々跨いだ


  「あっ、さん。この燭台の位置なんですが、こっちとこっちだとどちらが良いですかねぇ?」


  飾り付けに駆り出されたと思しき給仕の若い男が、早足で通り過ぎようとしたを呼び止める
  はその場に立ち止まると、手にした配置図と実際の飾りの全体像を交互に見比べながら、首を傾げて数秒考え込んだ


  「う―ん、そうねぇ。こっちのテーブルの此処の部分にはオードブルが並ぶんだから………、その燭台はあそこに置いた方がバランスが良いかも。」

  「成る程。ありがとうございます。」

  「他には何か質問はある?あれば出来るだけ答えるわよ。」

  「…精が出るね、。」


  いいえ、今のところはそれだけです、と答えた給仕の男の語尾に重ねて、の背後から聞き覚えのある声が届いた
  あっ、と小声を上げてが振り返る


  「ジュリアン様!」

  「厨房の仕事もあるだろうに、こんな所までチェックさせてしまってすまないね、。」


  咄嗟に頭を下げようとしたを片手で制して、ジュリアンが持ち前の上品な笑みを浮かべた
  さっとの頬に微かな赤味が差す


  「いいえ。私に取っても今日は初めての経験ですから、こうしてできるだけ慌てる事が無いように前以て心積もりをしているのです。」

  「流石は私のパティシエール。…、今日は何時もとは違う君の作るデザートを楽しみにしているよ。」


  すれ違い様ポン、と優しくの背中に触れ、ジュリアンはホールを出て行った
  高鳴る鼓動をそのままに、はその背中が視界から完全に消えるまで黙して見送った
  手にした配置図で、紅潮した自分の頬を覆う
  紙切れに隠れた口元から小さな溜息と共に主の名が零れ落ちた


  「ジュリアン様……。」


  やはり抑えられないのだろうか、この想いは…
  ………叶わなくても、構わない。

  ああ、と再び溜息を洩らしは胸に手を当てた
  刹那、の脳裏にカノンの言葉が過ぎる
  『ジュリアンを慕うのは止めておけ。でなければ、お前自身が必ず傷付く。』
  『………お前のためだ。』
  そこまで思い起こし、は自分の心が奇妙にざわつくのを感じて自らの腕で身体を抱いた

  …何で、こんな時にあの晩のカノンの横顔を思い出してしまうのだろう
  身分違いの恋はしない方が良いと、カノンはそう忠告してくれただけなのに…

  ポーン…
  俯いたの耳に、半時を報せる時計の音が長い余韻を残した


  「…いけない!そろそろブリュレの仕上げに入らないといけない時間だわ。」


  心の裏(うち)からカノンの面影を滅却して、はバタバタと厨房への道を辿った




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  日の翳り始めた刻限、パーティーは幕を上げた
  総てのセッティングを2時間前に終えたは、新品の制服に袖を通して鏡の前で身形の最終チェックを済ませ、会場に入った
  これからの数時間は、専属パティシエールとして招待客のもてなしをする事が自分に課せられた任務である
  …勿論、カノンとの約束も忘れては居ない
  屋敷の使用人として、そして望まざる間諜として、主の一挙手一投足までも具に観察する必要もあった

  …どうせカノンの目から免れられぬなら、せめてジュリアン様をずっと見ていよう。
  遠巻きでも良い、ジュリアン様の晴れ姿を片隅で祝いたい…使用人としてでも。

  きゅっと唇を引き結んでホールの敷居を跨いだは、眼前に繰り広げられる非日常の世界に文字通り息を呑んだ
  社交界、とは斯くも眩い物なのか
  会場に一歩踏み込んだ所で、は暫く立ったまま目を瞠った
  そのの前を、黒いイブニングドレスの女性が目もくれずさっと通り過ぎる
  ドレスとタキシード、それに宝石のシャワーがシャンデリアの灯りに燦然と煌いた
  …それは、小さな村に生まれ育ったに取ってはまさに絵本の世界の光景である
  無論、ソロ邸に住み込みで働くようになってからは――そしてジュリアンの私室を垣間見てからは――絢爛たる世界を身近にしている自覚だけは芽生えてはいたものの、
  流石にこれほど所狭しと雲の上の人々が立ち並ぶ景色はの度肝を抜いた


  「さん…・・・、さんの持ち場はあっちですよ。」


  口を開いたまま棒立ちのの袖を、先程の給仕の男が軽く引いた
  あっと我に返ったの顔を見て、給仕の男が銀盆を手にしたまま肩を竦める
  は気恥ずかしげに眉尻を下げた


  「ごめん、…教えてくれてありがとう。危うくずっと突っ立っている所だったわ。」


  給仕の男は構わない、と手をヒラヒラさせて、客にカクテルやシャンパンを配るために会場内に溶け込んで消えた
  も自分の持ち場であるデザートのテーブルに急ぐ
  品のある白い麻のクロスに覆われた丸いテーブルが、の持ち場だ
  豪奢な燭台を中心に、純銀のコンポートに大きく盛り付けられたフルーツ、そしてジュレ、ケーキ、マカロンなどが放射状に飾られている
  勿論、配置はが自ら調整したものだ
  元々一口大のサイズのマカロンを始め、小さなキューブ状にカットされたケーキやココットに入ったブリュレはテーブルの上だけでなく、銀盆に載せられて飲み物同様給仕係が配って回っている
  はその様子を見ながら、テーブルの上のデザートの総量と状態を具に把握する
  足りないものは近くの給仕の者に指示を出して持ってこさせるし、時間の経過と共に供する予定のジェラートを会場に持ち込むタイミングも併せて図る
  当然自らもデザートをサーブするのを忘れない
  テーブル近くを通る貴婦人や紳士達に、失礼に当たらぬよう細心の注意を払いながら声を掛けた

  …それにしても、此処にいる人達はみんなジュリアン様のような生活をなさっていらっしゃる訳よね…

  人通りが切れた合間、はテーブル脇に立ったまま内心でうーんと唸った
  世の中、ハイソサエティな人々は数多存在すると言う事だろうか
  キラキラと照明に反射するジュエリーがやけに眩しい――勿論、それらはパーティー用のフェイクである事は判ってはいるが――
  まあ私とは関係ない話なんだけどね、とがテーブルを向き直った矢先、背後から声が掛かった


  「…あの、そちらのジュレをいただいてもよろしいかしら?」


  張りのある瑞々しいその声は、おそらくは若い女性の物だ
  はい、と返事をして振り返ったの前には、やはりうら若い女性が一人立っていた
  …年の頃はまだ少女と言っても差し支えなさそうではあるが、凛とした落ち着きと威厳はどう見ても少女のものではない
  女性がニコリと笑うと、脇から菫色の長い髪がさらりとドレスに流れた
  それを後ろに流す手の仕草がまた、気高い香りを放つ
  ほう…と無意識に呼気を洩らしたは、次の瞬間にはっと我に返って手元のジュレを女性にゆっくりと手渡した


  「ありがとう。…こちらの夏は暑いですけれど、空気が乾いていて過ごしやすいですわね。」

  「失礼いたしました。…左様でございますね、少し汗を掻く様な陽気でも、木陰に入りましたら随分と過ごし易く感じられます。」


  話の内容から察するに、どうやらこの女性は随分遠い国から来たようだ
  だが、その流暢な言葉はギリシャ語だ
  残念ながらギリシャ語は社交界の共通語ではない
  と言う事は、この女性はこの国と何らかの深い繋がりがあるのだろう
  …しかし、それを詮索するような下卑た真似をがする事は無い

  女性は再び微笑すると、すっとごく自然に脇に反れてホールの端に退いた
  彼女のすぐ横に立っているスキンヘッドの男は、体躯から推測するにボディガードか何かだろう

  随分品のある方だこと。世の中にはあんな素敵な女性もいらっしゃるのね。
  …そう言えば、ジュリアン様は何処だろう…?

  ふと気付いて、は辺りの様子を窺った
  愛しき主の姿を探してそこかしこを彷徨うの視線が、不意に異なる者を検出した
  …会場の隅で、あくまでも目立たぬように壁に背を凭れている男。
  黒いタキシードに身を包んでいるその男は…そう、カノンだった

  …『当日は会場を見張る』とは言っていたけど、まさか客として会場に紛れ込んでいるなんて…!

  流石に肝を冷やしたは、ゴクリと固唾を呑んだ
  …それにしても、目立たぬようごくごく標準的なタキシードを身に着けているとは言え、カノンのあの堂々たる体躯だ。社交界の紳士たちとは明らかに一線を画している
  ひょっとしたら本人はボディガードを装っているつもりなのかもしれないが、精悍な面立ちと長い髪が目に付かぬ筈が無い
  実際、が見付け出したくらいなのだから
  以前に岬のカフェに彼が座っていた時もそれは驚いたが、今回のの驚きはそれをはるかに凌ぐ
  何せ、密偵対象と同じ会場に堂々と紛れ込んでいるのだ
  知らぬ振りをして近付きカノンに何か言ってやろうかと思っただが、カノンのその視線の先を目で追って、はたとその動きを止めた
  …伏せ気味なカノンの視線の向こう側には、先程に声を掛けたあの女性
  が手渡したジュレを時折スプーンで掬い口元に運びつつも、隣のスキンヘッドの男と話に興じている

  …あの女性が一体どうしたのかしら?『気に掛かる人物がいる』ってカノンは言ってたけれど、まさかあの人の事?
  隣の男性ではなさそうだし…

  は首を傾げ、もう少しカノンと例の女性を交互に観察した


  「…あっ………!」


  何度目かの視線をカノンから女性に移した矢先、は小さく声を上げてその眉を顰めた
  …主・ジュリアンが、例の女性の手を取って挨拶をしている
  勿論テーブルからではその会話の内容までは聞こえないが、主が女性の手の甲に口付けを落すのを見るや、の胸はきゅうっと締め付けられた

  …ジュリアン様は今日の主役。きっとああして社交辞令をして回っているのだわ…

  何度か自分にそう言い聞かせ、は自らの心を鎮めようと務めた
  …が、二人の会話が終わる様子は無い
  俄かに不安に駆られたは、デザートの乗ったトレイを手にいま少し近い所まで移動した
  数mの場所まで近付いて、ようやくは二人の会話を辛うじて拾う事に成功した
  二人との間には沢山の列席者が挟まっているが、不思議な事にそれでも二人の会話だけは判別できる
  これは『カクテルパーティ効果』と呼ばれる物で、特定の対象に意識を集中した場合、多少の雑音が挟まってもその対象の話し声をきちんと捕えられると言う有名な現象である
  …楽しげな様子の主の声がの耳元に聞こえて来る


  「…貴女に一度お会いしたいと思って、今夜こうしてお招きした次第ですが……いや、想像以上にお美しい…。」


  ようやく捕捉した途端届いた主のその言葉に、は無言で息を呑んだ
  硬く引き結んだ唇は今にも張り裂けそうだ
  そんなの様子など露知らぬ二人の会話は更に続く


  「御冗談を。それよりも、今日は貴方の16歳のお誕生日に合わせての代替わりパーティーですとか。
   …亡き祖父に代わり、重ねてお祝い申し上げますわ。」

  「冗談ではありませんよ。…しかしミス・沙織、貴女のその可憐な唇から私への祝福の言葉を頂けるとは、それだけで嬉しいものですね。
   パーティーはお気に召していただけましたか?」

  「ええ、総てが大変素晴らしいですわ。」


  くすり、と品に満ちた笑い声を洩らし、沙織と名乗るらしい女性はジュリアンの背中の向こうに見えるを視界に止めた
  銀盆を手にしたまま、何やら心配そうに主を凝視するのその眼差しに含まれる微量の情動を解し、沙織は僅かに目を細めた


  「特に…先程いただいたフルーツのジュレはとても素晴らしかったですわ。
   デザートのテーブルに立っていらした方はきっとパティシエールだとお見受けしましたが、…貴方は良い職人をお持ちですのね。」


  沙織からようやくの事で好意的な言葉を貰い余程嬉しかったのだろう、ジュリアンは目元を微かに緩めて笑った


  「それは良かった。…あれは私の自慢のパティシエールなのですよ。本当に私の為に良く働いてくれています。
   じき、うちの使用人の中では一番の腕利きになるでしょう。…それはさておき。」


  コホン、とジュリアンは咳払いを一つ落とし、実にさりげなく沙織の背に腕を回した


  「沙織、貴女とは二人きりでゆっくりとお話がしたい。テラスへ出てみませんか。」

  「…ええ。」


  ジュリアンにエスコートされテラスへ進み際、チラリ、と沙織が後ろを見遣る
  残されたスキンヘッドの大男のすぐ後ろで、沙織の視線に気付かぬままのは片方の拳をきゅっと握り締めた

  …「使用人」……。そうよね、私は使用人だもの。どんなに頑張っても決してそれ以上の存在にはなれはしない…

  悲しい面持ちに満たされたまま、はしかしそれでもテラスに一番近い窓辺のすぐ側まで駆け寄った
  二人は一体何の話をするのだろう
  ここまで来れば、もうそれは至極当然の成り行きで。

  ………そして、其処では胸の裏(うち)の想いの総てを失った


  「気分が悪いので」その場を他の者に任せ、は一直線に自分の部屋へと屋敷の階段を駆け上った
  その打ちひしがれた後姿を、タキシード姿の男だけが黙って見詰めていた




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  パタン。
  自室のドアを閉めるや否や、はベッドに身体を伏せて泣き始めた
  窓から漏れる満月が、の横顔を青く染める

  …判っていた、判っていた筈なのに。

  嗚咽が漏れぬ様、は顔を布団に押し付けた
  …そんな配慮でさえも今は忌々しい程なのに
  本当は、大きな声を上げて泣してしまいたい
  …だが、それは出来ない。自分はこの家の『使用人』だから
  他の人間には気付かれてはいけないのだ。例えパーティーの歓声が邸内を大きく包もうとも

  …でも………


  「ジュリアン様を好きにならなければ良かったのに……。」


  ぽつり、とは苦しいその胸の裏を小声で吐露した


  「…だから、ジュリアンを慕うなと言っただろう。」


  が顔を上げると、ベッドのすぐ傍らにタキシード姿の男が立っていた
  こちらを見おろす端整なその横顔に青白い光が差し込み、くっきりと輪郭を描き出す


  「カノン……。」


  涙に崩れたの顔をこの男にしては珍しくじっと凝視して、カノンはの伏したベッドの脇に腰を下した
  ギシ。
  カノンの屈強な体躯を受け止め、ベッドが悲鳴を上げる


  「私を笑いに来たのね、愚かな女、と。」


  上ずる声を震わせながら、が短くカノンに問い掛けた
  パチン。
  返事を寄越す代わりにカノンはタキシードのネクタイを外し、ついでシャツのボタンを上から数個外した
  戒めより開放された長い首を、大きな手でさする
  横目で見遣るには、月光に浮かぶその光景が不思議とスローモーションの様に映った


  「………お前の想いに気付かぬあの男が愚かなのだ。」


  失意に打ちひしがれた筈のの胸が、思いも寄らぬその一言にドキリと大きな鼓動を刻んだ
  は半分身体を起こすとカノンの正面に座った
  おそらくカノンは顔を背けてしまうだろうとは思ったが、驚いた事にカノンはその顔を逸らさず、いや寧ろ真っ直ぐにを見据えた
  自らの予測とは悉く異なる展開に、の胸のリズムが更にピッチを上げる


  「…忘れたいか、あの男の事を。」

  「………え…?」

  「ジュリアンの事など、忘れてしまえば良い。そうだろう?」

  「それは………そうかもしれないけど。でもそんな事…。」


  忘れろと言われても、容易く忘れられる筈も無い。…それが恋心の成せる業であるなら尚の事
  カノンが一体何を言おうとしているのか、には微塵も見当が付かない
  困惑を露にその眉を寄せたに対し、カノンは視線をそのままに言葉を続けた


  「お前がそれを望むなら、俺がお前の中からジュリアンに関する記憶を消してやると言っている。」

  「…!?」

  「…元々、そのつもりだったんだがな。お前を利用するだけしたら、最後に俺に関する記憶の部分だけ消去して開放する予定だった。」

  「何故そんな事を…。」

  「時が来たからだ。」


  これ以上無いほど端的に答え、カノンは窓を仰いだ


  「…今夜を最後に、ジュリアンはソロ邸からその姿を消す。」

  「何ですって!?カノン、それはどう言う事なの?…まさか、ジュリアン様を誘拐するつもり?」


  ずい、とは身体を前に傾げた
  窓から降り注ぐ月光を睨み付けたまま、カノンが続ける


  「誘拐、か。それは半分は合っているが、もう半分は違う。
   …何故なら、それがジュリアンに与えられた宿命だからだ。俺は所詮その幇助をしているに過ぎない。」


  『宿命』と言うその二文字には不可解な表情を露にしたが、カノンは敢えてそれを無視した


  「お前に取っては信じ難い話かもしれないが、ジュリアンは………『神』をその身に宿す男。」

  「神………、ジュリアン様が…。」

  「そうだ。ジュリアンの中に眠る『神』は、あやつが16歳を迎えるその日、目を醒ます。…それが今日だ。」

  「でも、カノンが何故それを?」

  「その『神』の忠実なる僕と言う事さ、俺はな。
   …だが、ジュリアンに宿る『神』がその目を醒ますまで、あやつの身にに何も起こらないと言う保証は無い。だから時折監視に来ていた。」


  ジュリアンを手に掛けるつもりはないと言っていたのはその事か、とは初めて得心が行った
  …だかしかし、それと自分が一体何の関係があるのだろうか
  カノンは此処へ来て、ようやくヘと視線を戻した


  「そこにお前が飛び込んで来た。
   俺とてただあやつの覚醒を待つだけが仕事ではない。ジュリアンの側近くに仕えるお前を抱き込めば、その分手間が省けるだろう。」

  「それで私を利用した、と言う事なのね。」

  「そうだ。もしも最初の段階でお前が何らかの抵抗を見せたら、それこそその場で殺してしまっても一向に構わなかった。」


  殺す、と言う物騒な単語がまさか自分に向けられるとは予測だにしなかっただけに、は正直ぎょっとした
  驚いた表情のを見遣り、カノンが冷笑する


  「だが、お前は叛意を示さなかった。…であれば、総てが片付いた後、お前から俺とこの一件の記憶だけを消してこの屋敷に残そうと考えていた。
   明日になれば、ジュリアンはいない。邸内は大騒ぎになるだろうが、俺の事など微塵も憶えていないお前は他の者達と共に主の姿を捜し回るだけだ。
   ………だが。」


  カノンはそこまで事情を白し、徐に表情を硬くした
  の瞳をただじっと見据える


  「お前はあの女とジュリアンの会話を聞いてしまったのだろう。その涙の痕が良い証拠だ。」


  その指摘が動かしがたい事実であるだけに、は黙り込むより他になす術が無かった
  カノンは無言でを見詰めていたが、やがてスッと右手をの肩に置いた


  「帰るか、サガと出会ったあの村へ。…ジュリアンもあの女もそしてこの俺も、総てに関する記憶を消して。」

  「カノン……。」

  「お前を絶望に追い落としたあの女とジュリアンは、これから骨肉相争う事になる。何故なら、あの女も紛う事なき『神』であるからだ。
   …ジュリアンはまだその事には気付いていないだろうが、やつに眠る『神』はそれを遥か昔から知っている。
   だからこそ二人はあの場で出会ったのだ。…まるで男と女が惹かれるようにな。」


  カノンの最後の一言が、の心を残酷に抉る
  沙織と言う名の気高い女性の姿を思い起こし、は頭を俯けた

  …あの女(ひと)が、『神』…。そしてジュリアン様も

  神ならぬ身のに、為す術は何も無い
  届かぬ想いは、益々遠い物になるだけだ。…それこそ、これ以上無い程に


  「…忘れてしまえ、ジュリアンの事など。お前の気持ちに気付きもしない愚かな『神』など、憶えておく必要は無い。」


  冷静な表情のまま、カノンの手に力が篭る
  の背に食い込むカノンの指からじわじわと熱が伝う
  が顔を上げると、カノンは端整な口元を僅かに歪めた


  「…お前の作った菓子を先程口にして、其処に秘められたお前の想いに驚いた。
   だが、菓子に姿を変えたお前の愛を、あいつは何一つ理解などしてはいない。この俺にですらはっきりと判るにも拘らず、だ。
   …或いは、『神』とはそう言う残酷なものなのかも知れん。」

  「カノン…私のデザートを食べたの…?」

  「何も口にしない招待客では不自然だろう。どうせ何か口にするなら、お前の作った物の方が安全だと思ったからだ。お前も随分努力していた様子だったしな。
   ………旨かった。こんな時に言うのも可笑しいかもしれんが。」


  多少逡巡を交えて呟いたカノンのその一言に、は絶望の淵から微かな光を仰いだ心地がした
  が少し目を細めると、叶わぬ想いとそれに気付いてくれていた人が居たと言う喜びが涙に姿を変えて溢れ出した
  カノンはもう片方の腕もの背に添える


  「、お前は帰れ、ロドリオ村へ。…忌々しい記憶を総て消し去ってな。
   …これからジュリアンとあの女の間で激しい争いが始まる。だがそんな事はお前には関係無い、それで良い。」

  「カノン、貴方は…?」

  「俺は『神』の僕として、海底に戻る。」

  「海底…?」

  「ああ。ジュリアンに眠る『神』とは、海神・ポセイドンの事だ。当然拠点も海底にある。」


  はカノンの話を聞いて少し黙っていたが、やがてその顔を上げた


  「カノン、私も其処へ連れて行って。…お願い。」

  「何を言い出すのかと思ったら、…馬鹿な事を考えるのは止めておけ。」


  カノンは驚いてを制し、肩に置いていた手での腕を掴んだ
  ギシ…との腕がカノンの腕力に軋む
  どうやらカノンはの提案に幾許かの苛付きを隠せない様子だった


  「ロドリオ村なら、戦禍に巻き込まれずに済む。だから戻れと言っているんだ。
   …あの村は、神であるあの女の守護を得られる特殊な地区に位置している。
   例えポセイドンにより地上が壊滅的なダメージを受けたとしても、最後まで持ち堪えられるのはあの村くらいなものだ。
   …それに幸い、俺はポセイドンの僕としては一番高位にある。だから村が壊滅する手前で攻撃の魔手からお前を救う事も出来る。
   それにも拘らず、お前はまだジュリアンと一緒に居たいなどと世迷言を言うのか?」


  若干早口で説明を施した後で、カノンははっとした
  …腕を掴まれたが、カノンを真っ直ぐに見詰めて頭(かぶり)を横に振る


  「ジュリアン様じゃない。…私は、ジュリアン様じゃなくて貴方と居たいの、カノン。」


  眉尻を下げたの目元から、無色の雫がカノンの腕に次々と滴り落ちた


  「貴方は…貴方だけは、私の心の裏(うち)の苦しみと悲しみを判ってくれていた。パーティーの時もそうだし、その前も…。
   今だって、こうして私の苦しい記憶を消して安全な所に帰そうとしてくれている。カノンのその気持ちだけで私、幸せなの。
   …でも、悲しい記憶を消して村に帰ったら、私は貴方の事も思い出せなくなってしまう。それは嫌。」


  はそこで言葉を切り、穏やかに笑って続けた


  「だからカノン、私を連れて行って。…海の底の世界まで。
   …サガと出会った生まれ故郷より、貴方の住む未知の世界で私は生きたい。」

  「…海底にはジュリアンも居るんだぞ。『神』に目覚め、お前の事など露知らぬかもしれないあの男が。」

  「構わないわ。」


  は目の前のカノンの胸にそっと凭れた
  僅かに背けた頬にカノンの銀の十字架が布越しに触れ、チリリ、と鎖が小さな音を立てる
  フッ、とカノンは胸の内のを見おろして笑った


  「サガには感謝しなくては行かんのかも知れないな、生まれて初めての事だが。」

  「…そうね。それと、この十字架を下さった母(ひと)にもね。」


  顔を上げて笑ったの顎に、カノンは片手を掛けた


  「海底(むこう)では、俺にも菓子を作ってくれるか。」

  「貴方にも…じゃなくて、貴方だけのために作るわ。」


  そうか…と万尋の海の如くに深い青眸を細め、カノンは唇をのそれに重ねた








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