が身体の力を抜くと、男も腕の力を緩めた
男に後ろから軽く羽交い絞めにされた姿勢のまま、はようやく自由になった口を開いた
「……騒ぎはしないから、灯りを点けても良いかしら?」
「…ああ、好きにしろ。」
小声で囁いたの腕を離し、男は短く返事をした
パチッ。
手を伸ばし、がスイッチをオンにする
…部屋を出る時に窓のカーテンは閉じていたため、部屋の照明が外に漏れる事は無い
ドアの方を向いたままのの前に、照明が背後の男の影を描き出す
先程からのこの身体の感触でうすうす判ってはいたが、どうやら随分大きな体躯の持ち主の様だった
恐る恐る、は男に尋ねた
「…あの、そっちを向いても良いかしら。ずっとこうしていないといけないのだったら別だけど。」
「構わん。向きたければ向け。」
男は冷たく言い放つと同時に、からその身体をすっと離した
首をゆっくり捻り、はおずおずと部屋の内側を振り返ってあっ、と小さな声を上げた
…目の前に立っていたのは、ジュリアンよりもずっと大きな男だった
年の頃も、まだ青年期の入り口に立つに過ぎないジュリアンよりかなり上に思える
主・ジュリアンがまさに『貴公子』然とした品性を漂わせていると表するならば、さしずめこの男は『精悍』とでも表現するのが妥当なところであろうか
が見たこともないほど粗末な衣装を身に着けているにも拘らず、逞しい体躯からは洗練された「男」のニオイが香り立っていた
眉間に皺を寄せ、険しい表情を浮かべたその顔は、一つ一つのパーツが端整に作りこまれた彫像のようだ
…服装以外の何処をどう見ても、泥棒には見えないわ。………それに………。
は己の記憶の糸を手繰り寄せ、溜息交じりにその頭(かぶり)を横に振った
そして声のトーンを更に一つ落とし、男に重ねて尋ねた
「…あの、見たところ泥棒ではなさそうだけど、此処に一体何の用かしら。」
途端、男の表情が更に険しさを増した
鬼の形相で睨まれ、ビクリとは反射的に一歩後ろに下がる
………違う、絶対に。
チリリ。
は壁に背を凭れたまま恐怖に胸を上下させると、その胸元に下げた十字架を服の上から握った
それは、がまだ幼い頃からずっと肌身離さず身に付けているものだ
チェーンが長いため、クロスの部分はいつも服の下に隠れている
の恐れおののいた眼差しを正面から見据え、男はさも愉快そうに口の端を上げた
「…そうだ、俺は泥棒じゃない。だとしたらだ、お前は一体どうすると言うんだ。」
「どうするって…、別に…。只………。」
「只?」
「貴方の目的が何なのか、それを知りたいと思っただけよ。」
恐怖に駆られている割に、の言葉は落ち着き払っている
男はそれに気付くと、フ…と短く笑いを洩らした
「おい、お前。」
「お前じゃなくて、よ。」
「…そうか。では、お前、この屋敷で働いているんだな?」
「ええ、きっとそうでしょうね。」
が故意にぼかして答えると、男はチッと短く舌打をして一歩近付いた
もう一度、の片腕を強く掴む。…今度は正面から
ギリリ、との手首が鈍い音を立てて撓る
「真面目に答えてもらおう。…俺はそんなに気が長くはないのでな。とやら、お前はこの屋敷で何をしている?」
の目の前に立つ男には、苛立ちと言うよりは寧ろこちらをいたぶって楽しもうとする嗜虐めいた表情が浮かんでいた
…この男、普通じゃない…。
は顔を背けて答えた
「…パティシエールよ。」
「…見ない顔だとは思ったが。では、最近入ったと言うジュリアンお気に入りの菓子職人とはお前の事か。」
…この男、ジュリアン様の事を知っている?それに、この家の事も随分詳しいみたいだわ。……誰なの?こんな男、この一月余りの間に屋敷では見掛けなかった。
尤も、この顔をちらりとでも見掛けていたら、私も忘れる筈がないだろうけど…。
「ジュリアン様のお気に入りかどうかは知らないけど、多分貴方が言ってるのは私の事だと思うわ。」
「成る程。それは好都合。」
クク、と男は悪意に満ち満ちた笑いを零した
「そうか、ジュリアンのお気に入りのパティシエールか。見れば、随分と度胸が据わっているようだ。…俺が怖くはないのか?」
「…怖いわよ、当然でしょう。自分の部屋に見知らぬ………そう、見知らぬ男がいるんだから。」
「その割にはあまり恐ろしくはなさそうな口調だな。…つまらん。」
フン、と男は鼻で笑い、掴んでいたの左腕を更にねじ上げた
カツン。
その刹那、の二の腕に男の肘が触れ、服の下から金属音が漏れた
訝しげな表情に変じた男が腕を掴んだままもう片方の手での袖を乱暴に捲り上げると、露になった金色の腕輪が部屋の照明を燦然と反射した
はっとして身体をよじり交わそうとしたを、男は器用に壁に抑え付ける
「ほほう、屋敷の使用人にしては随分と高価な物を身に付けているようだな。…それに新しい。」
男は腕輪を長い指でなぞり、留め金に手を掛けた
パチン。
蝶番を軸に二つに割れた黄金の塊をの腕から外して、男はニヤリと笑った
「…返して、返してよ。貴方、泥棒じゃないんでしょう?」
躍起になって延ばしたの手をさっと掴み、男はの身体をぐい、と自分に引き寄せた
男の仕草の、その一つ一つが奇妙な余裕に満ちている。…まるで、捕獲した獲物をいたぶり回すかの如くに
「お前、パティシエールと言うのは仮の姿で、本当はジュリアンの情婦なのか?」
「なっ……、そんな訳無いでしょう!」
カッと上気しては即答したが、それは紛れも無い事実だ
男は愉快そうに首を傾げ、の目の前に腕輪を突きつけた
「では、この腕輪の内側に彫られた『私のへ――ジュリアンより』の文字は一体何だ?」
「え………!?」
腕輪の内側の端に小さく刻印されたその文字を見付けると、は思わず驚愕の声を上げた
…とてつい先程ジュリアンからこの腕輪を貰ったばかりなのだ。しかもジュリアン直々に腕に嵌めたのだから、その様な文字列の存在に気付くはずもない
目を丸くしたをチラリと一瞥し、男はさっと腕輪をから遠ざけた
「フン…どうやら本当に情婦ではないようだが。ジュリアンも幼いとばかり思っていたが、案外歳相応に成長していると言う事か。
尤も、こんな所ばかり成長してもらっても俺としては仕方が無いがな。」
男のその一言を、は聞き逃さなかった
壁を背にして男の胸に正面から半ば抱かれた姿勢のまま、は顔を上げた
「ちょっと待って。貴方、本当に何者なの?…屋敷の事には詳しいし、その口振りではジュリアン様の事を随分昔から知っているみたいに思えるのだけれど。」
が至極低く問い質す声に対し男は焦るどころか、再びその口の端を片方上げて不敵に笑い飛ばした
「そうさ。俺はあのお坊ちゃんが3歳の時から知っている。…尤も、あちらさんは俺の事など毛ほども気付いていない筈だがな。」
「3歳…。じゃあ13年もの間、一体何を…?」
13年と自分で言っておいて、は自らの記憶の端に奇妙な影が横切るのを一瞬感じた
…がしかし、今はそれどころではない
の身体を捕える男の腕の力が、俄に増す
「そいつは極秘事項だ。…だが丁度良いところにお前が飛び込んできた。俺としてはそれを最大限に利用させてもらう事にしようか。」
「…どう言う事よ…?」
を壁に押し遣り、男は更にその胸板をに肉薄させるとスッと顔を横にスライドした
容良く整ったその酷薄な唇が、の耳に触れる
「、お前には今後、俺に協力してもらう。」
ぞっとする程の重低音が、の鼓膜にじわじわと染みた
の背筋に氷のような緊張が走る
「…協力って、一体何を…。」
「ジュリアンのお気に入りのお前にしか出来ない事だ。」
「もしも…、もしも拒むと言ったら…?」
「お前に選択肢は無い。…主から拝領したばかりのこの腕輪を失くしたと知ったら、さぞジュリアンは落胆するだろうな。」
「………。」
ククク、と男の低い笑い声がの耳道を伝って全身を蹂躙した
暫し沈黙に落ちたは、やがて男の厚い胸の隆起に掌を当てて押し遣った
「…判ったわ。一体何をさせるつもりかは知らないけれど、出来るだけ協力する。
………但し、ジュリアン様に害を成すような事はしない。それでも良いわね?」
「安心しろ。俺とてあのお坊ちゃんに傷が付くような真似は望みはしない。
、お前にはこれからも普段通りジュリアンに接してもらう。基本的にはそれだけで良い。
只、もしジュリアンの身辺やジュリアン自身の行動に何かおかしな事を見付けたら、すぐさま俺に報告をしろ。」
「報告って、一体どうやって…。」
「…数日か、長くとも週に一度、俺がこの部屋に来る。夜になったら窓の鍵を開けておけ。その方が俺も侵入しやすい。」
取り敢えずジュリアンに危害を加えるような事はしなくても済みそうだと感じ、はゆっくりと頷いて見せた
話の折り合いが付いたためか、男の顔からも狂気じみた色が失せ、端整な面立ちが際立った美しさを漂わせる
男はのその視線に気付くとクルリとに背を向け、顔だけで振り返った
「腕輪は預かっておく。…そうだな、もしもジュリアンに見咎められたら『失くしたらいけないので後生大事にしまっている』とでも言い繕っておけ。
…ではまた来る。くれぐれも俺の存在を気取られるな。」
そのまま真っ直ぐ窓に向かって数歩前進し、鍵に手を掛けた所で男はふと気付いて再び振り返った
「そうだ、名乗るのを忘れていたな。互いの名も知らん様ではお前も遣り難いだろう。
…俺の名はカノンだ。」
…カノン…。
初めて知ったその男の名をが心の裏(うち)で呟き終えた時、既にカノンの姿は部屋から掻き消えていた
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翌日から、また元通りのの毎日が始まった
午前中に昼食後と夜のデザートを粗方作り、その後は時間に合わせて細かな仕上げを施す
無論、ジュリアンへの飲み物のチョイスとサーブもの受け持ちだ
他の時間はシェフ達の教えを受けたり、或いは執事や給仕係の者達と歓談して過ごす点までもが以前と全く変わらない
…だが、ジュリアンと直接話をする段となるとは途端にカノンの事を思い出し、つい気後れしてしまうのだった
…一体、ジュリアン様に何があると言うのかしら…
食後の一時、楽しそうにティーカップを傾けるジュリアンを見るにつけ、は周囲に悟られぬよう肩で小さく溜息をついた
まるで自分がスパイにでもなり下がってしまったかのような罪悪感が、後から後からの胸を苦しめた――いや、強制された形とは言え、は確かにスパイの役割を担わされているのであるが――
…それに、ジュリアン様から頂いた腕輪も失くしてしまったし……
何時それがばれてしまうかと思うと、は自然、ジュリアンとの間に距離を挟むようになった
あの一件以降、がジュリアンの部屋に呼ばれる事が無いのも今となっては一つの救いだ
…やっぱり、この想いは胸の裏(うち)に秘めておいた方が良いって事かもしれないわ。腕輪の、あのメッセージはとても嬉しかったけど…
「、どうした…?何か元気が無い様子だが。」
俯いたまま脇に控えるに気付き、ジュリアンが声を掛けた
は、はっとして純銀のトレイを持ち直すと素早く笑顔を作る
「申し訳ありません、何でもございません。…お茶の濃さは如何でしょうか?」
「ああ、今日は昼食が軽かった分、デザートもお茶もどっしりした満足感があって丁度良いよ。量は控えめにしてあるし、ね。」
「左様でございますか。…ジュリアン様の御気に召していただけましたら、私も嬉しゅうございます。」
は、空いた右手を無意識裏に自分自身の左腕に遣って答えた
無論、其処にあの腕輪は存在しない
失くしてしまったが故にはそれを気に掛けて左腕を庇っているのであるが、パティシエール用の服の袖の作りは少々ゆとりを持たせてあるため、
ジュリアンを含めた他人には腕輪の有無など皆目判らない
ジュリアンはのその仕草を目に留め、手にしたカップを置くと微笑した
「、久々に岬のカフェへ手伝いに行ってみたらどうだい?」
「…え……?」
主の唐突な提案に、は目を瞠った
「此処に来る時に何時でも手伝いに行って良いと約束をしておきながら、その実まだ一度も帰ってないだろう。…たまには店長に元気な顔を見せてきなさい。
明日は、用事で私は家を留守にする。帰ってくるのは明後日になると思うから、ゆっくり行って来ると良い。」
「しかし、宜しいのでしょうか?」
「宜しいも宜しくないも、私自身が家にいないのだから構うものか。外の空気を吸って、元気に帰って来て欲しい。
…それと、再来週にこの家で大きなパーティーを開催する事になりそうだ。
今までには退屈させてしまっただろうが、ようやく腕の見せ所の到来だ。大人数のパーティーだから、是非張り切って自慢のデザートを振舞って貰いたい。」
「過分のご配慮、ありがとうございます。…ジュリアン様のご期待に精一杯応える所存です。」
が喜びに顔を上げると、ジュリアンも満面の笑みで頷いた
「期待しているよ、………私の大切なパティシエール。」
そしてテーブルから立ち上がり際、ジュリアンはの頬にスッと軽く口付けた
自室へと消えるジュリアンの背中を見送りながら、は再び高鳴り始めた胸にそっと手を当てた
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翌日の昼前、はカフェの空気を久々に満喫していた
朝方にひょっこり店に現れたに店長は最初こそ驚いたものの、以前と変わらぬ父親めいた笑顔でを迎え入れた
「この一月半の間に、随分雰囲気が変わったな。…おかえり、。」
「…今日一日、皆さんのお手伝いをさせていただきます。」
店の更衣室兼休憩室のロッカーに、自分の名札がまだ貼ってある。
はただそれだけで胸が一杯になった
中から綺麗に畳まれた店専用の制服を取り出し身に付けると、まだ客の居ない店内を足取りも軽く一周して厨房に立った
…一月半しか経っていないのがまるで嘘のようだ
誰一人として変わっていない店の面子がこれほども懐かしく思えるのが、今のには何とも不思議だった
…それは、が叶わぬ恋に身を焦がしているからかもしれない
今日だけは、ジュリアン様の事は忘れよう。…ジュリアン様の事を忘れてしっかり心を休める、それこそが真にジュリアン様のためになるはずだから。
厨房の小窓から、は外を見た
客席のある海側とは逆に位置する厨房の窓からは、アッティカの荒涼とした山々が緩く長い稜線を描く
日差しが苛烈を極めるこの季節、山肌は多くの部分が茶色に染まり、所々に濃い緑を残すばかりだ
この地味な光景も、の居ない一月半の間に少しづつその姿を変えている
次に此処に帰る日、この窓から見る山はどんな色をしているだろう。
…そしてその時、私の胸の裏(うち)に息づくこの想いは………。
いけない、いけない。今日はジュリアン様の事は考えないと、今誓ったばかりじゃないの…!
クリームを泡立てる手を止め、は自分の頭を帽子の上からコツン、と軽く叩いた
人の恋心とは、兎角堰き立てる事は難しい様である
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人の影も増え始めた昼下がりになって、はようやく以前のテンポを取り戻した
夕方から夜のピークに向けてのデザートの下ごしらえを手早くこなしながら、時折客席を回ってオーダーを取ったり食器を下げたりと休む事無く動き続けた
休憩より何より、ソロ家に居る時と違って一度に大人数を相手にするのが今のに取っては楽しい
デザートも、複数の種類をそれぞれ沢山拵える
以前は毎日やっていた筈のこの行為がこんなにも楽しく、そしてこれほど大きな張り合いを感じるのは初めてだった
最初は少し心配そうに遠くからを見ていた店長も、久々にの鼻歌を聞く段に至るや、小声で笑いを洩らした
それに気付いたが、ミントの葉を片手に振り返る
「何ですか、人の後姿に笑って。」
「いやごめん、なんとなく…ね。どうだい、久々の店は?」
「…とても楽しいです。『故郷は、遠きにありて思うもの』と言うのは本当かもしれませんね。
一度離れてみると、お店の良さがよく身に染みました。」
「そうか。…もしも何か辛い事でもあれば、ソロ家の内情に関らない程度の事ならいつでも私に相談しなさい。」
…辛いのは、そのソロ家の一番核心の部分――ジュリアン様――にあるのだけど。そんな事は言えない…
店長の温かい言葉に、は出掛かったその本心を飲み下して笑顔で返した
「大丈夫ですよ、店長。…心配なさらないで下さい。
はい、これでこのジュレの飾り付けは終了!じゃあちょっと客席に行ってきますね。」
ぱぱっと手を洗い、は緩みかけた涙腺を抑えながら厨房の敷居を跨いだ
のその背中を暫く見詰め、店長は腕を組んだ
…無理はするなよ、。
メニューを携え、テラス席に踊り出たの網膜にヘブンブルーの空が眩しく焼き付いた
ハイシーズンを迎えたこの国の空は、観光客ならずともチカチカとした強い刺激をその視覚に及ぼす
故に多くの人たちがサングラスを持ち歩いているのだが、カフェの店員が仕事中にそれを装着する事は無論ありえない
明順応するまで暫しの時間を置き、はようやくその目を少し大きく開いた
「やっぱり、お屋敷の中にいるのとは視界が違う…。」
二、三度目を瞬かせ、は間近に聳える神殿の柱を見上げた
今日も夕日目当ての観光客が遺跡の随所に群れを成している
…ジュリアン様に此処で出会ったあの日よりも人が多い。それだけ夏になったって事よね。
は、嘗てはジュリアンが座っていた席を見た
当然の事ではあるが、今日は違う人間――どうやら家族連れと思しい――が座席を占めている
にはそれが何となく寂しく思えた
此処でジュリアンに出会ったが故にが得た喜び、そして苦しみ
これからそれらがどうなるのかは、自身にも判らない。…恋とは概してその様な物だ
恋に恋するお年頃はとっくの昔に終え、恋愛の酸いも甘いも充分に知っている筈のですら、今回ばかりは自分に出来る事はさほど多くないだけにモヤモヤした心境に振り回されっぱなしだった
何より相手が相手だけに、まるで実体の無い幽霊を愛しているかのような錯覚に陥る時もある
今や思い出となってしまった客席に向かってははあ、と溜息を落とし踵を返した矢先、その場に足を止めた
振り返ったの視界の…一番端の席に、見覚えのある男が座っていた
…カノン、どうして此処に…!
テラスの片隅の席でこちらを睨むその男の視線が、に容赦なく突き刺さった
衆目を引かぬ様、黒いシャツにデニムのボトムと言う姿に身を窶(やつ)してはいるが、間違いなくカノンだ
組んだ両の手の上に容の良い顎を乗せ、少し伏せた視線でを睨め付けている
どうやら何かに用事があるのだろう
他の店員達も含め周囲に悟られぬ様細心の注意を払い、メニューを手にはカノンに近付いた
テーブルの上には既にコーヒーが載っていたが、はなるべく自然な形でメニューを開きカノンに手渡した
「追加注文を賜ります!」
できるだけ大きな声でカノンに話し掛けた後、すぐさまは小声で囁いた
「……何故貴方が此処に居るの?」
それに対して、渡されたメニューのページをゆっくりと長い指でなぞり迷うふりをしながら、カノンも小声で答えた
「…今朝、お前が屋敷を出るのを見掛けたので尾けて来た。スパイに嫌気が差したか?」
「貴方が考えてるのとは違う。私は前に此処で働いてたのよ。」
「ああ、店員達の話を立ち聞いた限り、どうやらその様だな。」
「私の事を探るのは止めて。…今日はジュリアン様がお留守なので、お許しをいただいて此処に帰ってきているだけよ。」
「…ほう?」
カノンはメニューのページを捲り、視線を上げてをギロリと睨んだ
上目遣いに睨み付けられると数段その凄みが増す
「それは良い事を聞いた。そうか、今日はお坊ちゃんは留守か。それは丁度良い。」
「…何よ。」
手にした伝票ごとがビクリ、と震える
カノンはを睨み付けたまま口の端を上げて笑うと、メニューの革表紙をパタンと閉じた
「今夜、お前の部屋に行く。」
ガタン。
小声で吐き捨て、カノンは立ち上がるとの手にメニューを渡した
「…良いか、俺から逃げられると思うな。」
すれ違い様、の耳元にぞっとする程低く囁き、カノンは振り向きもせず店を立ち去った
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