…そこは、神話の世界だった

  遥か頭上を見上げるの口元は、文字通りあんぐりと開いたままだ
  それも無理からぬ事だろう。目の前に建つこの巨大な家を支える柱は、ゆうに10mはある
  一般人に取って最早それは遺跡か博物館の様相であり、こんな建物に現代人が暮らしているなど俄かには信じがたかった
  …むろん、この建築物が遺跡並に古い訳ではない。外装が神殿のようだと言うだけで、中は立派な居住空間だ−玄関に立つには家の中までは窺い知れないが−
  イオニア式の壮麗な柱の白さが目にも眩い


  「…此処、本当に『家』なのかしら…?実は政府の建物とか、まさかそう言うオチじゃないわよね…。」


  どう見てもこの国の国立博物館や大学、はたまた国立図書館としか思えない白亜の宮殿の階段を、はぶつぶつと一人ごちて一歩、また一歩とゆっくり上がった
  のその肩には、大きな鞄が一つ携えられている
  それはの身の回りの品々を詰め込んだものだが、この宮殿の大きさ・広さから比べると豆粒に等しい程ごくごくささやかなものだろう
  …何故がこんな大荷物を抱えているかと言えば、それは先日の話に遡る

  例の青年、ジュリアン・ソロから「私の家で専属パティシエールを務めて欲しい」と要請されたは、一人その頭を抱え込んでいた
  菓子職人に取って――それは調理師に取っても同じ事だが――、『お抱えの職人になる』事はまさに夢のような話であり、またこれから長くなるであろう職歴の中でも重要な意味あいを持つのは明白だ
  ましてや、相手はあの稀代の富豪・ソロ家である
  此処で専属のパティシエールを経験したとなれば、一流ホテルのチーフを務めた経歴と同等の重きを与えられた事を示唆する
  この国の菓子職人たるもの、誰しもこの誘惑に勝てるものではないし、また迷う事など有る筈も無いのだが……には一つだけ気掛かりがあった
  それは、を温かく迎え入れてくれたこのカフェを後にする事だった

  …は、元々からこの店のパティシエールだった訳ではない
  山々に囲まれた田舎の村を厭い、高校を出ると同時に家を飛び出したを拾ってくれたのがこの店の店長だった
  その日客として一人ぽつんとテラス席に座っていたは、どこから見ても家出娘以外の何者でもなかった
  偶然客席を通り掛った店長は一瞬眉を顰めたが、にこやかにに近付くと「スニオン岬は初めてですか?」とさりげなく訊ねた
  「海が………とても青くて。こんなに穏やか海なのに、それでも恐ろしい時もあるのですか?」と水平線を遠い目で見詰めながら答えたのその言葉を、店長はまだ憶えている
  ああ、この子はやっぱり家出娘だろうな、と思いつつも、その不思議な言葉に妙なインパクトがあったのも確かだ
  大きな荷物を脇に置いたまま閉店までずっと椅子から動かずそのまま眠り込んでしまったを、店長は何も聞かずにウェイトレスとして雇い、
  そしてそれから数年を経て本人の希望を容れ、アテネのパティスリースクールに進学させたのだった

  …言わば、にとってこの店と店長は『家』であり『親』同然なのだ
  幾ら輝かしいキャリアの予感を目の前にちらつかせられたとしても、ましてやその相手が大富豪だからと言っても、に取って再度『故郷』を捨てるにはしのびなかった
  営業時間を終えた店内の片隅で、は椅子に腰掛けたままうなだれていた
  にとんでもないオファーが来た事は、今や店内の誰もが知っている
  羨望と嫉妬と、そして確かな同情の入り混じった店員達の複雑な視線を、はこの数日背中に感じていたが、そんな事は気にも留めなかった
  『店を離れる』、それだけが気掛かりで。
  そんなの背を、店長がポン、と手で叩いた


  「、行きなさい。私達と店の事は気にしなくて良いから。」

  「…店長。………でも・・・。」


  が顔を上げて何か言おうとすると、店長は片手でそれを制した


  「大丈夫。…何も永の別れになるわけじゃない。ソロさんは、たまにはこの店に帰って手伝っても良いと言っていたんだろう?
   …それに、ソロ家で働く事はに取って必ずこの先、大きな足しになる。」

  「でも、店長には色々良くしていただいたのに…。」

  「だからこそ、だよ。もしが私に恩を感じているのであれば、ソロ家に行ってその腕を更に上げなさい。此処にいるのとは違った技能がきっと身に付く筈だから。
   …そして、たまには此処に帰っておいで。」


  店長の言葉に、はじわり、とその涙腺を緩めた
  の白いシャツの胸がみるみる数滴の雫に染まる
  仕方ないな、と店長は少し笑い、頑是無い子供をあやす様にの頭の上にポンと掌を置いた


  「泣くほどの事じゃないだろう?…ホラ、がこれから働くソロ邸は………あんなにすぐ近くなんだから。
   もし寂しくなったらあの家からこっちを見れば良い。私達はいつも此処にいる。」


  店長が指差した方角には、白い建物の姿があった。…無論、名だたるソロ邸である
  涙に濡れたその顔を僅かに上げ、は一つ頷いた


  「そうですね。…どこか遠い所じゃなくて、あんなに近くですもの。きっと窓から此処が見える筈。
   私……きっと多くのものを吸収して、またお店のために帰って来ます。」

  「よしよし、その意気だ。向こうでもしっかり頑張るんだぞ。大丈夫、ならやれる。」


  店長はの頭を軽く撫でると、腕を組んでニコリと笑った
  も涙を拭い、いつもの笑顔でもう一度頷く


  「よし。じゃあ、君のフラットを引き払う手続きは私が引き受けるから、荷物を纏めてなるべく早くソロ邸に伺いなさい。失礼にならないようにな。」

  「……え?」

  「…実は、ソロさんからあの夜私に連絡があってね。是非にも、君を手許にと。元々あの家で働く者は皆住み込みが原則らしいが、余程君が気に入った様子だったよ。
  だから私も安心してを送り出すことが出来る。」


  店長のこの告白は、に取って少なからず衝撃を与えた
  あまり予測してはいなかったが、今後はソロ家に住み込みになると言う事。そしてジュリアンが店長に対して随分周到に根回しをしていた事
  何より一番の驚きは、ジュリアンがどうやら自分を余程気に入っているらしい、と言う事だった
  あの日の様子から、てっきり『お坊ちゃまの気まぐれ』程度にしかは受け取っていなかった
  ヘタをするとその日の夜にはもう忘れられているのではないかと考えていただけに、何か重責のような、それでいて心沸き立つような不可思議な心地が俄にを取り巻いた

  …そしてその心境を引き摺ったまま、は今ソロ邸の玄関の前に立っていた、と言う訳である
  果たして玄関…と表して良いのか非常に微妙なそれは、数十段の階段を昇り終えた空間にあった
  階段同様、豪奢な白大理石で出来たポーチだけでも、の住んでいたフラットがまるまる何個分か入るほどに空恐ろしく広い
  雨の日にはつるつる滑ってしまいそうなそのポーチをまっすぐ進み、正面に設えられた巨大なオーク材の扉の前にはぽつんと佇んだ。…肩に荷物を抱えたまま
  おそらく観音開き式に開閉すると思しき二枚のドアには、どちらにも意外なことにノック用の金具は見当たらない


  「ええと…これは手でノックした方がいいのかしら。呼び鈴らしき物もないし…。」


  きょろきょろと辺りを見回して、は小首を傾げた
  …しかし、力一杯ドアを叩いたとしても、果たして中に聞こえるのだろうか?
  見上げたの、その顎が外れそうな程に屋敷は広いのだ
  扉近くに誰か常駐していない限り、中の人間にノックが聞こえるとは思えなかった
  ひょっとすると、これは玄関の様でいて実はそうではないのかもしれない
  は一旦肩から荷物を下ろすと、もう一度長い階段を駆け下りた
  ちょっと恥ずかしいが、建物の外周を一周すればよりそれらしい入り口が見つかるかもしれない

  階段を一番下まで降り終えると、は館の全貌を今一度を仰ぎ見た
  そしてややあって、その周囲を時計周りに歩き出す
  巨大な屋敷の周りには、それを取り巻く様に更に広大な森が鬱蒼とその腕を伸ばしており、うっかり迷い込んだら大変な事になり兼ねなさそうだ
  むろん、森と屋敷の間には広々とした庭園が設えてあり、この季節はブーゲンビリアが赤い花を枝垂れ咲かせてギリシャらしい雰囲気を醸し出している
  はそのブーゲンビリアを鼻先に掠めつつ、先程荷物を置いて来た入口から丁度側面に当たる東側の壁の近くを進んだ


  「…。君はじゃないか。………失礼だが、そこで一体何をしているんだい?」


  …と、二階から迫り出すバルコニーの、そのテラスに凭れ掛かった白い服の男がを見咎めて声を掛けた


  「…あっ、ソロ様!」


  は、聞き覚えのあるその男の声にびくりとしてその場に立ち止まった
  頭上から突然声を掛けられたのだから驚くのは道理だろう
  えっ、…あっ、と妙に言葉を詰まらせながら、はテラスに佇む貴公子に言葉を返した


  「あの…、こちらの玄関が判らなくて探していたところです。どちらが玄関か御存知ですか?」

  「…私はこの家の住人だからね。無論知っているとも。」


  ジュリアンがぷっと吹き出し、バルコニーから身体を乗り出した
  …住人がその入り口を知らぬ訳もない。余程可笑しかったと見えてジュリアンはその細めの肩を暫し揺らした
  家宅侵入を疑われても仕方ない状況の上に奇妙な質問をしてしまったは言葉を失ってしまったが、ジュリアンの笑う優美なその仕草に改めて息を呑んだ


  「この家のエントランスはあちらだが……、君は一体どちらから入ってきたのかな?」


  ようやく笑いの収まったジュリアンが長い指で一つの方向を示した。その指には、あの日と同じ黄金の指輪が豪奢な光を反射する
  金色の光に気を取られたは、ジュリアンのその指が差す方向が自分が来たのとはまったく逆方向である事に気付いてああ、と短く声を上げた


  「申し訳ありません。てっきり逆側が玄関かと思っていました。…道理でベルが無い筈ですね…。」

  「気にしなくて良いよ。パーティなどの際には裏も開け放して、立派に玄関の役割を果たすように作られているのだから。」

  「あっ、私、自分の荷物を裏に置いて来たのでちょっと取って参ります。」


  いたたまれぬ風情でその場から一刻も早く立ち去ろうとするを、ジュリアンはバルコニーの上から手で制した


  「それは誰かにさせるから構わない。…それより、よく来てくれたね。」


  ザッ。
  次の瞬間、は自分の目を疑った
  …テラスの縁に手を置いたジュリアンが、突如としてそこから飛び降りたのだ
  軽々とテラスの柵を越え、の目の前に着地したジュリアンがニコリ、と笑い掛けた


  「…意外かな?こう見えても私は身軽でね。」

  「いえ…元から随分身軽に見えました。私が驚いたのはそう言う意味ではなくて…危険な真似をなさる、と。」


  …面白い事を言う、とジュリアンは声に出して笑い、右手をに差し出した
  握手をするのかと思いが差し伸べたその右手をすいっと掬い上げ、ジュリアンはいとも自然にその甲に口付けた

  ……どうしてこの男(ひと)の所作はこんなにも優雅なのかしら……

  前回に引き続き、再び不意打ちの口付けを受けた自分の手の甲をじっと見て、は感慨深く溜息を落とした
  ジュリアンは、目を細めてのその様を少し楽しげに見遣るとの背に腕を回した


  「さあ、では我が家の玄関まで君を案内しよう。」

  「は……はい、恐縮です。」


  自分の肩の上に置かれたジュリアンの掌が、意外にも温かい
  は少し赤面しつつ、ジュリアンのリードに自らの歩みを任せた




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  ソロ邸でのの仕事は、至極順調に滑り出した
  …とは言え、それはソロ邸で働く人間から見た平均的印象であって、に取っては常時忙中に置かれていた今までと比べ少々時間を持て余す事もあった
  ソロ邸に住み込んでまだ一月足らず。ジュリアンが言っていた『の腕の見せ所』となるであろう何がしかのパーティがその間に一度も開催されていないため、
  の毎日の仕事と言えば主・ジュリアンが食べる分のデザートを昼と夜の二回分用意するくらいのものだ
  しかも、それはジュリアンがこのアッティカの家に居る時の話である
  無論、彼のデザートを作るだけではなく、ジュリアンがそれを食べる時にはが飲み物も含めてサーブを行う
  親しくなった厨房の人たちや給仕係から聞いていたほど、ジュリアンの注文や審美眼は厳しくなさそうであったが、それは自分がまだ此処で働き始めだからであって、
  おそらくは割り引いてくれているのだろうとは肝に銘じていた
  …いつまでもそれに甘んじていては、自分は駄目になってしまうだけだ
  幸い、同じ厨房で働く多くの専属シェフの手ほどきを受けたり、その仕事振りを横で見ているだけでもに取って得る物は非常に多かった
  また、給仕係から聞くジュリアンの人柄についての数々の逸話も菓子作りのヒントになる
  …総ては、ジュリアンの為に。
  岬のカフェとは違い、『たった一人』の為だけに此処の人たちの世界は動いているのだ
  に取ってはそれは何とも不思議な感覚であるが、主たるジュリアンの笑顔を思い浮かべればそれにも得心が行く


  「、今日のデザートは何かな?」
  「このジェラートはなかなか美味だね。」
  「ニルギリのこの水色。実に素晴らしい。」


  食後や昼下がりの一時にジュリアンのその笑顔を見る事は、に取って喜びであると同時に心ときめく媚薬めいた習慣になり始めていた
  『たった一人』の為に。…主に対して他の皆が抱くのとは少々趣の異なる思いを抱き始めている事に、は自分でまだ殆ど気が付いていなかった




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  ある日の夜、は何時も通りの片付けを終え、自分に与えられた部屋で寛ぎの一時を送っていた
  …本来、家の使用人はソロ邸の側にある使用人用の宿舎に部屋を与えられる
  だが、各部署のチーフだけは特別に――いつでも主の求めに応じて駆け付けられるように――邸内に部屋を持つ事が許されている
  パティシエは以外には居ない。故に、は自動的にこの部門のチーフ扱いになる
  こうして、は邸内に部屋を与えられた最年少の使用人になってしまっていた
  小奇麗に飾り付けられた小振りの部屋は、がカフェで働いていた時に借りていたフラットの約2倍の広さが割かれている
  持ち物がさして多くないとしてはその3分の1程度の広さでも充分なのであるが、与えられた物は与えられた物であるので、ベッドと鏡台とデスク、
  本棚以外には何も無い空間を歩き回る位のものであった

  窓から外を見ると、スニオン岬の先端に聳える白亜の列柱がの視界に映る
  に取っては何よりも大切な、育ての親であるカフェの屋根も見える
  …この粋な計らいは、実はジュリアンによるものだった
  でなければ、こんな見晴らしの良い部屋が使用人に与えられる筈はないのである
  事実、他のチーフ達の居室は海とは逆側に位置している
  『が寂しい思いをしないように。』にはジュリアンのこの優しい配慮が痛いほどその身に染みていた


  「店長…、私頑張ります…。」


  闇に浮かぶカフェの灯りに、はそっと呟いた

  …そう、この窓から見えるあのカフェ。あの場所で私はジュリアン様に出会った…

  暗闇を見詰めるの脳裏に、ほんの一月前の情景が再生された
  あの時ジュリアンに口付けされたこの手で、今はジュリアンのためだけのデザートを作っているのだ


  「ジュリアン様………。」


  ジュリアンの祝福を受けた自分の手の甲を唇に軽く触れ、が主の名を囁いた矢先、の部屋のドアを誰かがノックした
  ビクリとしたは、慌てて手を引っ込めドアに近付く


  「…どなたですか?」

  「私です。」


  返って来た言葉は、ソロ家の執事の物だった
  …そう、あの日スニオン岬のカフェでジュリアンに同行していた初老の男こそ、実はこの家の執事であった


  「あっ、少々お待ちくださいね。」


  はつかつかと扉のノブに手を掛け、ドアを少し開いた
  ドアの向こうには執事が一人、ぽつんと立っている


  「どうなさいました?」

  「…ジュリアン様が、お休み前にさんのお茶をご所望です。お部屋まで直接お持ちくださるように、との事です。」

  「…えっ、お茶ですか?はい、判りました。すぐお持ちいたします。」


  では、と一言残して、執事は踵を返した
  後に残されたは、返事をしておいて今更ながら少々困惑した

  …どうしよう、ジュリアン様のお部屋にお邪魔するなんて初めてだわ…
  はっ、いけない。此処でのんびりしている訳には行かないわ。早くお茶をお持ちしなければ…!

  は急いで身支度をすると、部屋に鍵を掛ける暇も惜しんで厨房に向かった




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  十分後、は手を震わせながらジュリアンの部屋の前に立っていた
  手が震えているのは、何もティーセットが重いからでは無い

  …はぁっ…どうしよう…、とうとうお部屋の前まで来てしまった…!

  高鳴る自分の心臓を一刻も早く落ち着かせるために、スーハー、スーハーとは鼻と口でゆっくり呼吸を繰り返した
  つい、と空いた手を豪奢なドアのすぐ側まで伸ばし、躊躇ってはまた手を上げる
  …何やら、ドアをノックしてジュリアンの気を煩わせるのも犯罪のように思えて、は思案に暮れ掛かっていた
  ここまで来ると最早立派な恋患いであろう
  緊張のあまり暫し自らの動きを封じただったが、手に持つティーポットを見遣ってはっとした

  …ええい、このまま此処に立っていたらお茶が冷めてしまう…!

  意を決して、はドアをあくまでも軽くノックした


  「…かい?構わないよ、入りなさい。」


  中から聞こえたジュリアンの優しいその声に、の胸はどぎまぎした
  もう一度呼吸を整えて、はノックした手を今度はノブに掛ける


  「…はい。………失礼いたします。」


  ガチャ。
  半分ほどドアを開き、は素早く身体を部屋に滑り込ませて後ろ手でドアを閉めた

  …これが、ジュリアン様のお部屋…

  同じ家に住みながら、こんな部屋があるのかと溜息が漏れそうになるのを、は必死で抑えた
  …兎に角、広い。そして豪奢だ
  入り口の正面には革張りの大きなソファとテーブルが置かれ、その背後には巨大な一枚ガラスの窓が嵌め込まれている
  サイドには執務用のデスク、チェストは無論北欧の物だ
  天井からはこれまた大きなシャンデリアが吊るしてあり、舞踏会のホールと見紛うばかりだ
  入り口からはよく見えないが、おそらく部屋の最奥には寝台が設えられているのであろう

  ドアを入った所で固まったままのに、ソファに掛けたジュリアンは笑いながら手招きをした


  「化石になるまで其処に立っているのかな?…さあ、私の隣に。」

  「…あ、はい。申し訳ありません。」


  まだ震える手を宥めながら、は正面に座すジュリアンの側まで近付いて先にお茶をサーブした
  ハーブティー用の丸いティーポットから、淡い黄色の液体がカップに注がれる


  「…どうにも眠れなくて、ね。」


  ジュリアンは、両の指を前で組んで呟いた
  はようやく本調子を取り戻してジュリアンに笑い掛けた


  「今日は、こちらへは三日ぶりのお戻りでございましょう。…きっと外出の緊張がほぐれていないのかもしれませんね。」

  「…そうかもしれないな。今回は取引先の国王との謁見が多かったから。」

  「左様でございましたか。それはさぞお疲れでしょう。カモミールにリンデンをブレンドしたお茶をお持ちいたしました。」


  カタ、と小さな音と共に、カップの乗ったソーサーをはジュリアンの前に置いた
  ジュリアンの鼻腔をカモミール特有の柔らかな香りがくすぐる
  纏ったローブの前の合わせを少し緩め、ジュリアンは長い指をカップに伸ばして一口含んだ
  ああ、と小さな声がジュリアンの唇から漏れる


  「…やはり、君の煎れるお茶が一番心休まるよ。」


  ジュリアンはそのままソファに凭れ、ゆっくりとその目を閉じた
  はその様子を見遣り、ほっと胸を撫で下ろした

  …良かった。ジュリアン様が寛いでくだされば、それに越した喜びは無いわ

  ふぅ、と一息ついて、ジュリアンは再び身体を起こすとその場に立ち上がった
  が釣られて立ち上がろうとするのを片手で軽く制し、ふふ、とあの優雅な笑みを浮かべる


  「いや、君は其処に座っていなさい。」


  に背を向け、ジュリアンは数歩先にあるキャビネットから一組のカップとソーサーを取り出すと再びソファに戻って来た
  カタリ。
  随分上物のこのカップは、ジュリアンが自室でのみ使用するお気に入りだった
  ジュリアンはそれを、隣に座るの前に置いた


  「、君も飲むと良い。……此処での暮らしは辛くはないかい?」

  「いいえ。…そんな、・・・辛いなんて…。」


  頭を軽く横に振り、は自分の前に置かれたカップにハーブティーを注いだ
  …ジュリアンが飲んでいるそれより、時間が経過している分色味が濃い
  主のすぐ隣に自分が座っているなどと考えると落ち着かなくなるので、はカップに手を伸ばしてただお茶を飲むことに意識を集中した
  リンデンは仄かに甘い香りがするものの、味はほとんどしない。故に、よくブレンドに用いられる
  カモミールの醸すリンゴのような香りの湯気が、の顔を僅かに湿らせる


  「…そうか。それだったら良いのだが。私の我儘で、君を私の手元まで連れて来てしまったからね。
   君にはできるだけ不自由な思いはさせたくないんだ。…これも私の我儘かな?」


  くすり、と笑ったジュリアンの顔をすぐ間近に覗いてしまったは、どぎまぎして自分の顔をさっと伏せた


  「いえ…不自由だなどととんでもございません。…とても素敵なお部屋まで頂いてしまって…。」


  控えめにが謝辞を述べると、ジュリアンはの手をそっと握った


  「、君に寂しい思いをさせたくなかった。…あの部屋からなら、君の働いていたカフェも見える。
   …だから、これからもずっと君には私の安らぎを紡ぎ出してもらいたい。」

  「…は……はい、喜んで…。」


  主たるジュリアンに目をじっと見詰められて、には返事をするのが精一杯だった
  …なにやら、まるで御伽噺のプロポーズのようでもある
  早鐘を打つの胸の音が、すぐ側のジュリアンにまで聞こえそうだ
  事態が飲み込めずに半ば飛びかけたの意識を、ジュリアンの笑顔と言葉が引戻した


  「ありがとう、。」


  貴公子然とした笑顔が、恐ろしく眩しい。

  …いけない、この人は私に取っては雲の上の人だもの…

  現実を思い起こし、は夢見心地から完全に醒めた
  恋をしても、実る筈もない
  急に落胆したの表情に、ジュリアンは少し悲しげな顔をした


  「どうした?何か悪い事でもあったのか。…誰かに意地悪をされたのか?」

  「…いいえ、違います。少し昔を思い出しただけです。…ジュリアン様の御気に触ったら申し訳ありません。」

  「の事が気になど触るものか。……そうだ。」


  ジュリアンは再び立ち上がると、デスクの引き出しから小さな箱を携えて戻って来た
  ベルベットの貼られたモーブの箱を、の手にそっと握らせた


  「…これは…?」

  「開けてごらん。さあ。」


  がおずおずと小箱の蓋を開くと、中には金色に輝く腕輪が入っていた
  ブレスレットではなく『腕輪』である。二の腕に嵌める為の輪はかなりの厚みと幅を持ち、が見たことも無いほど見事な装飾が施されている


  「…あの…、これは……。」

  「、君の為に誂えさせた。君が私に与えてくれる安らぎに比すれば、何程の事もないかもしれないが。」


  この古めかしい装飾は、間違いなく例の宝飾作家の品である
  これだけの重量の金を用い、比類なきデザイナーに作らせたとなると、その値はの年給どころの話ではないだろう
  こんな高価な物を唯々諾々と貰ってしまって良い筈が無い


  「このような高そうな物、頂くわけには…。」

  「いいんだ。これは私が君に作らせた物なのだから。は仕事柄、指輪やブレスレットはしないだろう。
   ネックレスも考えたが、君の首は既にその銀色の鎖が占領しているようだ。これなら服の下に完全に隠れるから、調理をする際も邪魔にはならないだろう。
   …さあ、私が嵌めてあげよう。」


  言われるがまま、は給仕用の衣服の腕を捲った
  カチ…と小さな音がして、金色の腕輪はの左の二の腕にぴったりと納まった
  困惑した表情のと引き換えに、ジュリアンは至極満悦の顔で一つ頷いた


  「…美しい。やはりの腕にぴったりだ。」

  「あ…ありがとうございます。…でも、本当に私が頂いてしまっても宜しいのでしょうか…?」

  「勿論だとも。おいしいデザートや気の利いたお茶の、ささやかなお礼だよ。
   今もほら、君が私の緊張をほどいてくれている。のおかげで、今夜はよく眠れそうだ。」

  「…そう仰っていただけましたら、何よりの幸いです。」


  はジュリアンの満足げな表情から疲れが払拭したのを確認すると、ニコリと笑った


  「ありがとう、。…やはり君にはいつも笑っていて欲しい。」

  「私こそ、ありがとうございます。…今宵は良くお休みくださいませ。」


  恋とも誠意ともつかぬ――或いは両者を交えた――笑みで返し、は自分が混乱しないうちに主の部屋を後にした




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  ティーセットを厨房に戻し、は自室へと続く階段を一歩づつ昇っていた
  階段に敷かれたボルドーのベルベットがその微かな足音までも吸い尽くす
  服の上から己の左腕に右手をそっと当て、は小さく溜息を落とした

  …「お茶とデザートのお礼だ」とジュリアン様は仰っていたけど…。
  この屋敷の他の人たちからこんなものを貰った話は聞いて無いし、ただのお礼として受け取って良いのかしら
  いくら私をカフェから引き抜いたからとは言え、他にも同じ様な境遇の人はいるんじゃないかしら…厨房の人達だって殆どはそうだろうし
  私を大切に思ってくださるのはとても嬉しい。…だって私、ジュリアン様の事………

  は階段の踊り場まで来ると、大きな振り子時計の古めかしい文字盤を見詰めた
  時計の針は既に二時近くまで回っている
  こんな遅い時間に、自分がジュリアンと二人きりで過ごしていたのだと考えるだけでの頬は俄に上気した
  …しかも、恐ろしいほどに密接した距離で。
  一つ一つの場面を思い出すだけで、の胸は再び高鳴る
  …だが、敢えてはその胸の高鳴りに歯止めを掛けた

  ………私はジュリアン様の使用人の一人に過ぎない。ジュリアン様とは所詮は違う世界の住人だもの
  淡い恋心は恋心のまま、そのままで私の胸にしまっておいた方が良い…

  袖に置いた右手を下し、は最後の段を昇って自室のドアのノブを握った

  あれ…?

  鍵が開いている
  は扉の前で立ち止まったまま、部屋を出たときの状況を逐一頭の中で思い返した

  …執事さんに呼ばれて、急いで部屋を後にした…筈。そうか、だから鍵を閉め忘れただけだわ。
  まあ、この家の警備体制は万全だし、私の部屋から盗む物もないとは思うけど

  小声でくすり、と笑いを洩らし、はノブを回して部屋に入った
  パタン。
  廊下に灯りが漏れぬよう、照明はドアを閉じて後にスイッチを入れる
  がドア脇のスイッチに手を伸ばした矢先、その手を後ろから誰かが強く引いた


  「…ひっ……」


  反射的に悲鳴を上げ掛けたの口を、更にもう一本の手が塞いだ
  の背中に、明らかに男の物と思しき硬い筋肉の感触が拡がる

  …泥棒……!?

  振り返りたいが、自分を捕える男の力は恐ろしく強い
  この分では、が暴れてみたとしてもまったく意味を成さないだろう


  「…静かにしろ。騒がなければ何もしない。」


  の耳元にゾクリとする低い声が響いた
  …男の言うがまま、は抵抗の意志を捨てて身体の力を抜いた










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