日曜が来る度、その人はやって来た
  その人の前をゆっくりと歩く、大きな法衣と仮面の後姿が今も鮮らかに記憶に留まっている
  多くの人々の視線が「それ」に注がれる中、気が付くと私はいつもその人を見ていた
  ・・・穏やかなその人の微笑を見ていると、まだ行った事の無い海を思い浮かべるから
  深い青をしているというその大きな懐は、きっとその人のような優しい手を持っているのだろうか
  『いつかきっと、海を見てみたい』
  まだ幼い私がそう言うと、その人は笑って頷いた
  『海は穏やかで、そして時に恐ろしい
   …だが、だからこそ美しいのだよ』と
  私にはその言葉の意味がわからなかった
  ただ、首から下げた十字架をそっと私の手に握らせてくれたその優しい指と笑顔も、時にそんな恐ろしいものになるのだろうかと思うと酷く怖かった
  怯えた様子の私を、その人は少し悲しげな目で見詰めた
  『いつかきっと、夢が叶えばいいね』
  そしてすぐにいつもの優しい顔に戻って、その人は笑った
  …他人(ひと)を傷付ける苦さを、その時私は初めて味わった
  私の手の中では、十字架がくすんだ光を放っていた






       天上無窮、滄溟万尋







  「…いらっしゃいませー、どうぞ、あちらの席が空いておりますよ。」


  五月の清々しい風の中にの高い声が響き渡った
  二人連れの若い女性客は案内された席に腰を下ろすや否や、おしゃべりの続きに勤しみ始める


  「どうぞ。」


  茶色の革表紙のメニューをそっとテーブルの真ん中に置き、は歓談を妨げぬよう音も無くその踵を反した

  …どこか遠い異国の言葉の響きが、の鼓膜を軽快に揺るがす
  それ自体は、此処では決して珍しい事ではない
  ただ、女達のおしゃべりが尽きぬのは何処の国でも同じであることが何とはなくに微笑ましかった


  「…おっと。そろそろタルトが固まる時間だわ。」


  腕時計をちらりと見遣り、は客席の様子を確認するとテラスから店内へとゆっくり足を進めた
  店の軒を潜り際、念のために再度振り返る
  …の頭上遥かに拡がる青が眩しい


  「今日も忙しくなりそうね。」


  は、目を細めると大きく深呼吸をした



  ギリシャ・スニオン岬。
  都アテネを擁するアッティカ地方の南端にその岬は聳える
  神代、海神ポセイドンに奉ずる神殿が建てられて以降、其処を訪れる人々の姿は後を絶たない
  …尤も、『神代』と呼ばれてはいるものの、神殿が建立されたのは紀元前5世紀の頃であるようだが
  何れにせよ、二千五百年近くもの長きに渡り、数多の人々の信仰と知的好奇心を引き付け続ける健造物はそう多くはないだろう
  現在では16本の柱を残すのみの神殿には、かの詩人バイロンのサインも刻まれている

  …その神殿の入口の北東側に、一つの小さなカフェが建っている
  カフェ、と表現するのが正しいかと言われると、多少の補足を要するだろうか
  コーヒーやデザート以外にも幾許かの食事――ギリシャの伝統的料理――を供するが故に、カフェよりは寧ろタベルナと称するのが妥当かもしれない
  昼食が長く、夕飯の開始時間も遅いこの国の食事情故、タベルナの営業時間は他の西欧諸国に比して信じられない程に長く、そしてラストオーダーは遅い
  アテネの街中でなくとも、大概のタベルナは深夜2時、3時まで大いに賑わっている
  ましてや、観光客の多い遺跡付近ならば尚の事
  夕日の名所でもある此処スニオン岬もその例外ではない
  落日を見送った観光客たちの多くは、そのまま岬唯一のこのタベルナへと吸い込まれて行く
  店主に取っては年中大繁盛なのは大歓迎であるが、働く店員たちは夜更けまでそれこそ骨の折り通しであろう
  この店の若きパティシエール・もその例外ではなく、今日もウェイトレスに駆り出されて店内を奔走していた

  昼下がりのこの時間、夕焼け目的の客を満載した観光バスの姿が増え始め、遅い昼食兼休息を取る人々で俄かに混雑が生じる
  ウェイトレスとして駆け回りながら、自分が朝早くから作り上げたスイーツを楽しげに口に運ぶ客の横顔を見るのはの密かな喜びでもあった

  …私の作ったお菓子で、少しでも寛いでもらえたら嬉しい

  聞いた事のない国々の、その言の葉までは解らないけれど、デザートを食べた瞬間に生まれる笑顔は総ての文化を越えて見る者に伝う
  『食べる事』に秘められた、それ以上の意味。
  は今、そのために生きていると言っても決して過言ではない

  それはさておき、は今、目に見えて増え始めた客の頭数に合わせてスイーツをどんどん仕上げて行かねばならなかった
  店の奥の厨房の端に立ち、レモンエッセンスを加えたゼラチンで固めたタルトの表面にクリームを絞り、フルーツを添える
  日差しの恵みを深く享受するこの国には、年中色とりどりの果実が実を結ぶ
  スライスしたオレンジや、ブリオレットのマスカットをバランス良く盛り付けるのは、簡単そうに見えて実は意外に難しい
  見た目のバランスだけでなく、下のタルトに注がれたフィリングとの味の相性も考えなければならないからだ
  バラバラに置かれたフルーツを前に最初はしかめっ面をしていたも、手を動かし始めるとその顔には忽ち笑みが戻り、気付けば鼻歌など歌っている
  まだまだ若いとは言え、センスの良さでは店の誰もが認めるパティシエールの面目躍如と言ったところだろうか


  「今日も調子が良いみたいだね、。」


  厨房の入り口に立っていた店長が笑う
  は破顔すると、軽く肩を竦めてみせた


  「ありがとうございます。……きっと、今日は良い果物が入っているからですよ。」

  「うん?仕入れは私が全部やってるからね。目利きはまかせてくれよ。」

  「ふふ、本当にこんな良いものを一体どこから集めてくるのか、みんな不思議に思ってますよ。果物だけじゃなく、野菜も、肉も魚も。」


  戸口に立つ店長を見遣ったは、その更に向こう側の客席を一瞥した


  「…またお客さんが増えて来ましたね。タルトの仕上げはもう終わりますから、ホールに回りますね。」

  「ああ、いつもすまないね。大事なパティシエールの手を煩わせてしまって。」

  「いいえ、こうやって奥に篭っているだけよりも、表を回ってみるとお客さんの反応がよくわかりますから。
   お客さんの表情や外の気温をチェックするだけでも、結構お菓子作りの参考になるんですよ。」


  の一言に店長は満足げに深く頷き、踵を返して更に奥の部屋へと姿を消した
  プロフェッショナルたるものは、斯くあるべし。
  例え言葉には出さずとも、店長の背中がを賞賛している事に、厨房に立つ他の者は皆ひしひしと感じ入った


  「では、ちょっとホールに行って来ますね!」


  最後のタルトの飾り付けを手早く済ませ再度冷蔵庫に戻すと、は何冊かのメニュー表を小脇に携えて厨房の敷居を跨いだ
  日暮れの時間が迫るほどに、店に足を運び入れる客の数は多くなる
  テラス席はおろか、普段は満席にならない店内の座席までもが客の姿で一杯だ
  待合用の椅子をテラスの脇に急いで並べながら、客席の様子を横目でチラリと見遣ったの視線が、軽く掲げられたひとつの右手にぶつかった
  …無論これはオーダーの意思表示であるが、この国で他人への侮辱を表す『掌を他人に向ける』仕草を避け、敢えて人差し指を一本だけ軽く突き出していると言う事は、
  この客がギリシャ人であるか、ないしは余程のギリシャ通であるかの二者択一だ
  思わずくすり、と小さな笑顔を浮かべ、は腰に挿したオーダー用の伝票とペンを片手に客の席にゆっくりと、しかしやや大股に近付いた

  席についていたのは男性二人。片方はかなり若く、もう一人は老境に入り掛けているだろうか
  右手の指を突き出していたのは若い方の男だった
  ・・・それでも客が外国人である場合を考え、こちらからは敢えて言葉を発さずに伝票にメモを取る用意のある仕草だけを示す


  「………少々休憩をしようと思っているのだが、この店のお勧めは何かな?」


  てっきり品物の名が出てくるとばかり思っていたは、若い男のその言葉に一瞬動きを止めた
  …聞こえて来たのはギリシャ語だ。しかもかなり優雅な言葉遣いの部類に入るだろう
  お互い母国語同士なのだから楽に会話をこなせそうなものだが、この場合は言葉が通じるが故に、外国人相手のオーダーよりも内心かなり躊躇した
  何と返事をしたものか?
  …ちらと見れば、男はかなり品の良いスーツに身を包んでいる
  いや、着ているものだけではない。靴やリングなど、頭の天辺から足の先まで身に着けているもの総てが明らかに高級品だった
  しかも、それらをあくまでも自然体に着こなしている事までもが窺がわれる、この一連の優雅な仕草と物腰
  が遠巻きに席を見た時はてっきり親子連れか「孫と祖父」かと思ったが、こうして近くまで来てみると、もう片方の初老の男はどうやら所謂「お付の人」のようだ

  …この男(ひと)、ただの国内観光客じゃないわ。一体何………?

  身に着けている物から徐々に視線を上げ、は無礼とは思いながらも若い男の顔を見た
  …流石は先程の優雅な台詞が出てくるだけの事はある。すっきりとした輪郭に、それに相応しい端整な面立ち
  少々長いかな、と思うその髪は、所々でくるくると少し巻いている
  …そして顔つきだけではなく、『良家の令息』と言う単語がまさに似合いな、ノーブルな笑み


  「…そんなに凝視されたら、私の顔に穴が開いてしまいそうだね。」


  くすくすと言う可笑しげな笑い声に、ははっと我に返った
  うっかり取り落しそうになったメニュー表の束とオーダー伝票を慌てて持ち直す


  「…も、申し訳ありません。え…ええと、お勧めについてお訊ねでございましたね!?」


  は、恥ずかしい・・・!

  羞恥のあまりドキドキと高鳴る胸を軽く押さえ、はメニューを開いた


  「ご休憩との事ですが、お食事はお済みでしょうか?」

  「…ああ、そうだね。昼食はもう済ませてある。」


  畏まりました、と男の言葉に短く返事をして、はもう一度男の身形を見遣った
  …今度は男の身分を誰何するためではない

  …ふーむ…

  心の裏(うち)で腕を組み、少々考える
  …良くも悪くも「普通」の客であれば、その衣服の様子を注意深く観察すれば言葉で問わずともその客の腹具合や疲労度が推察できる
  例えば、ボトムの皺の入り具合からはその客がどれくらい長く座っていたか――此処に来るまでのバス・車や、或いは飛行機など――が慮られるだろうし、
  また朝起きて着替えてからの経過時間も推測可能だろう
  無論、そこまで行かないラフな衣装の場合でも、例えば汗染みがあれば暑いのだなと言う事は判る
  …しかしこの男の場合、不幸にもその衣服がの推測の妨げになった
  超一流の生地を使い、更に極上の技術で誂えられたそのスーツには、それ故に些少な皺一つ見られないからだ
  本人の身体に、それこそ一分の隙も無くピタリとフィットする最上のスーツには「時間の経過」などと言うパラメータ自体がはなから無縁なのだった

  しかし、もそれなりのプロである
  衣服が何のヒントにもならないのであれば、他のポイントに注視する
  つい、と視線をもっと先端に移し、男の右手の中指に嵌っている黄金の指輪を見た
  まるで古代ギリシャの遺跡から発掘されたような、古色蒼然たる細工の入った豪奢な指輪には見覚えがあった
  わざと発掘物めいたデザインを施すのは、この国では有名なとある宝飾デザイナーの作品の特徴だ
  イリアス・ララウニス。ちなみにそれがそのデザイナーの名である
  300年以上続く宝石商の家に生まれた彼は、自国の古代アクセサリーデザインの素晴らしさを広めるために種々の金属加工手法を研究し、今も数多くの作品を生み出している
  アテネには彼の作品やコレクションを収めた博物館まであり、作品を購入することもできる
  …無論、この男が身に着けているリングは特別注文品だろう

  が注視したのはその指輪自体ではなく、それを嵌めた指だった
  よくよく観察すれば、リングが少々中指に食い込んでいるようにも見える
  それは、この男の今朝起きた時刻がかなりの早暁であり、また昼食の後随分長いこと水分を取っていない事を示している
  …間違ってもこの状態の客にアルコールや強い刺激物などは勧めてはならない
  微かに目を細め、はメニュー表を示しながら笑顔で提案した


  「…では、デカフェのミルクティーなどは如何でしょうか?それに…そうですね、オレンジとマスカットのタルトもお勧めいたしますよ。
   タルトは丁度良く冷えております。温かいミルクティーにぴったりですよ。」

  「デカフェを勧めるとは面白い人だ。…よろしい、ではそのメニューで頂こうか。」


  それを二人分、と注文して、若い男は店内へと戻るの背中を興味深く見送った
  デカフェ、とは所謂カフェインフリードリンクの事で、大概はカフェインを抜いたコーヒーか紅茶を指す
  健康志向の高まるアメリカを中心に近年店でもよく見かけるようになったデカフェ商品だが、しかし此処は煙草とコーヒーの国・ギリシャだ
  西欧諸国と異なり、まだまだデカフェなどと言う単語と無縁な方が当然であろう
  如何に味の良い紅茶やコーヒーが増えて来たと言っても、普通のカフェイン入りの物の方が遥かに需要が高い
  ましてや、相手が妊婦ならいざ知らず、客にいきなりデカフェを勧めて来る店員ともなれば論外だろう
  取り敢えず生物学的に妊婦になるのは不可能であるその男としては、自分にデカフェを勧めて来たにちょっとした興味を抱いても不思議からぬ事かもしれない
  の背中が完全に見えなくなってから、男はその肩を竦ませて見せた


  「…なかなか面白い従業員だね。」

  「は……、まことに。しかしジュリアン様がよもやこのような場所におみ足をお運びになりますとは、私も少々驚きました。」


  初老の男――おそらくはお付の男だろうが――がゆっくり居住まいを正す
  ジュリアンと呼ばれたその若い男は、再度その肩を軽く上げて笑った


  「そうかい?幾らすぐ近くに家があるとは言っても、たまにはこうして間近に神殿の柱を見てみたい時もある。
   それに、何時も家にいる訳じゃないだろう?寧ろあの家に帰って来る方が余程珍しいくらいだ。…まあ、それを言っても詮無い事かもしれないが。」


  腰を下ろした椅子から少し首を傾け、ジュリアンは前方僅かの距離に聳える白亜の列柱を眩しげに見上げた
  日が傾き始めた今時分では逆光になって少々見え難いものの、「家」から見るそれよりは余程仔細に目の当たりに出来るのであろう、その表情はどこか満足げだ
  対面の初老の男も、ジュリアンの様子に頬を緩める
  店の入り口をその太陽の方角に少し延長した所に設えられた小さな建物の前には、数人の人だかりが出来ていた
  …これは、神殿を含む遺跡への入場口である


  「そろそろこの国の観光もミドルシーズンに入ります故、日暮れにはまだ遠いこの時間でも数多の客がおりますな。」

  「そうだな。私が思っていたよりも人が多いようだ。観光客が多いのは良い事だな。
   このアポロコーストの多くの海岸にも最近は汚染が拡がっているとは聞くが、神殿の柱とこのエーゲの景色はやはり魅力的なのだろう。
   …昔、父と母が此処に連れてきてくれた時の事を憶えているよ。」


  ふと、ジュリアンは視線を落として両の手を前に組むと、その青い目を細めた
  その動きに合わせてパサリと下りてきたジュリアンの癖のある横髪を視線で追いながら、初老の男が沈黙のうちに一つ頷く


  「もう随分と昔の事になるんだな。…そう、確かあの時は父と母がこの遺跡を一日借り切ってくれたんだった。
   『海を制する者は世界を制する』と言う父の言葉が、とてつもなく現実味を帯びて感じられたものだ……このアイゲウスの海原を目の前にしてはね。」

  「そうでございましたなぁ。かれこれもう十年ほど前の事ですが…。」

  「事業を継いだ今の私には、この遺跡を再び貸り切るなど造作も無い事になってしまった。……私一人が借りた所で何ほどの事もない…だろうね。」


  整った眉目を顰め、ジュリアンは小さな溜息を落とした
  …と、二人のメランコリーはにより突如として終止符を打たれる


  「お待たせいたしました。デカフェのミルクティーをお持ちいたしました!」


  丸みを帯びた白磁のティーポットを銀盆から手に取り、はゆっくりとテーブルに置いた
  続いてティーカップをジュリアン、初老の男の順にそれぞれの目の前に並べ、ポットをもう一度持ち上げて傾けた
  コポポ…と濃い褐色の液体が白いカップを満たす
  ジュリアン、初老の男、そして再びジュリアンと茶の濃さが均等になるよう、三度に分けてポットの中身を注ぐその手順は非常に手馴れたものだ
  ほう、と初老の男が感嘆の声を洩らす
  はそれに対してちょっと笑ってみせると、盆に残った小さなミルクジャグを二人の真ん中に置いた


  「ミルクはお好みで、お好きな量をお使いください。ポットにまだ二杯分程度のお茶が残っておりますので、もしミルクが足りない場合はお申し付けくださいませ。」


  カタ。
  まだ熱いポットの蓋を外し、は中から素早く茶葉のテトラサシェを取り出した
  …これ以上中にサシェを置いておくと、デカフェとは言え中の紅茶が限りなく濃くなるからである


  「タルトは今からお持ちいたしますので、もう少々お待ちください。」


  紅茶だけになったポットの上からコゼーを被せ、は一礼して再び背を向けた
  黙ったままの二人の間に、薫り高い湯気が柔らかく立ち上る
  それは、言われなければデカフェとは到底思えない程の至極芳醇な香りだった


  「…どれ。では飲んでみるとしよう。実を言うと、私はデカフェは初めてなのだが。」


  つい、と右手の人差し指をカップに掛けて、ジュリアンが先に口を付ける
  …何を飲食するにしても、外出先では毒見も兼ねて同行人が先に味を確かめるのが常識である
  故に何でも無い様でありながら、これは実に大変な事であった
  初老の男はあっと小さな声を出したが、時既に遅し
  コクリ、とジュリアンの細めの喉元が上下した


  「カフェインが入っていなくとも、なかなか美味なものだ。通常の紅茶と然程大きな違いは感じられない。」


  フ、と呼気を洩らしてジュリアンは軽く目を見開いた
  …元来、ギリシャはコーヒーの国であるが故、紅茶を嗜む人間はそう多くは無い
  無論、ジュリアン程の社会階層の人間には、そのようなお国事情はほぼ無縁であろう
  そのジュリアンをして斯くの如き台詞を言わしめるのは、この紅茶が並々ならぬ味である何よりの証拠だ
  先程の行動と併せ、二重の意味で初老の男は驚きを露にすると、自分もカップに口を付けた


  「…まことに。実は私めもカフェインの入っていない紅茶は初めてですが…存外味の良いものですな。」


  ジュリアンに合わせてそう述べたものの、この紅茶が何故美味なのかこの男には判っていたため、それ以上は敢えて口にしなかった
  …そしておそらく、ジュリアンもそれには気付いているであろう事も


  「この紅茶、あの女性が最初から煎れたのかな?…だとしたら素晴らしい事だ。味で劣ると言われたデカフェをここまで上手に煎れるとはね。」

  「…本当に。」


  ジュリアンはくすり、と優雅に笑うとミルクジャグに指を掛け、少しだけミルクを注いだ
  …紅茶を飲む際、如何に注文したものがミルクティーであっても最初はミルクを入れない。そうする事で、茶本来の味を直に確認するのだ
  従って二口目以降にミルクを注ぐのが本来の飲み方だ
  ここでもまたジュリアンは先に紅茶――ようやくミルクティーになったが――に口を付けた
  初老の男はもう驚くのは止め、口の中で唸り声を発している

  …あれほど警戒心の強いジュリアン様が私より先に召し上がるとは…。余程あの女性の行動に興味を持たれているのだな……

  対面の男の胸中にはお構い無しに、ジュリアンは一口飲むと再び呼気を洩らした


  「成る程。カフェインにはある種のリラックス作用があるとは聞くが、それは刺激に源を発する以上、場合によっては良い効果を生まない事もある訳だ。
   …その点、カフェインを抜いたこの紅茶には刺激性は無い。しかし味を損なわず…いや本来以上に味を引き出しているおかげで、リラックス効果が生じているのだな。
   夏が近付き、疲労し始めた私の胃袋と身体にはまさに最適な飲み物だ。会食で飲酒が重なる生活には温かい飲み物と言うのもあり難い。」


  片手を付いたその甲の上に顎を乗せ、ジュリアンは大きく頷いた


  「そうですな。添えられたこのミルクも、胃を保護する役割があると申します。」

  「お待たせいたしましたー!タルトをお持ちいたしました。」


  初老の男の語尾を遮り、が再びテーブルの前に歩み寄って来た
  今度は、トレイの上に置かれているのはタルトの皿だけであるので、先程よりそのフットワークは少々軽い
  トン、トン、と若干リズミカルに、だが決して品を損なわずにタルトの皿を二人の前に置く


  「オレンジとマスカットのタルトでございます。下のフィリングはカスタードクリームです。…では、ごゆっくりお寛ぎくださいませ。」


  足取りの軽さを保ったままデザートの説明を終え二人に一礼すると、別席の客の注文の合図に応え、は踵を返した
  初老の男が若干の揶揄を交えて笑みを浮かべる


  「いやはや、なかなか面白い女性ですな。」

  「…ではこちらも頂くとしようか。」


  溌剌としたオレンジと萌える黄緑。絶妙なコントラストを描く小さなタルトを眺めつつゆっくりと放射状に切り分け、ジュリアンはその一切れを口に入れた
  控えめに散らしたバニラビーンズの香りとフルーツの酸味が心地よく拡がり、タルト生地のほんのりとした甘さと調和する


  「甘すぎなくて良いな。タルトレットが厚過ぎないから、フルーツとクリームの味が能く活きている。」

  「まことに。」


  一言評し、ジュリアンはミルクティーを一口含んだ


  「タルトの控えめな甘さと瑞々しさがミルクティーにぴったりだ。
   普段の会食で食べるデザートと言えば良くも悪くも結構しっかりした甘さのものが多いから、この位の味は非常に好ましい。この季節にも相応しい。」


  立て続けにぱく、ぱくと二切れタルトを口にしたジュリアンを目の当たりにして、男は小さな子供を見るように優しく微笑んだ
  それに気付いたジュリアンが俄に居住まいを正し、ゴホン、と一つ咳払いをする


  「……良い季節になったものだ。」

  「まことに。」


  遂に耐えられなくなって、対面の男はクックと低い笑い声を洩らした







××××××××××××××××××







  白い皿の上のタルトの、その最後の一切れを食べ終えて凡そ30分も経過した頃、ジュリアンは通り掛ったを呼び止めた
  忙しく店内とテラス席を往復するは短くはい、とだけ返事をして、他の席にドリンクをサーブし終えるとつかつかとジュリアン達の席に近付いた
  …カフェやタベルナの清算は席上で行うのが通常である
  『ああ、あのお客さん、清算なさるのね』とだけ思い、は腰のギャルソンウォレットを意識した。…あくまでも意識しただけ、ではあるが


  「はい、お伺いします。」


  ニコリ、と笑うの白い歯が眩しい
  つられてジュリアンも笑み――あくまでもノーブルに――を浮かべた
  ジュリアンと初老の男、二人の前の紅茶のカップとタルトの皿が綺麗に空になっているのを横目で確認して、は心の裏でも歓喜した
  飲み物のセレクトだけでなく、やはり自分が一から作ったデザートを残さず食べて貰えるのは職人としては一番の喜びだ
  殊更嬉しそうなの横顔を眺め、ジュリアンは笑顔のまま少しだけ首を傾けた


  「…紅茶もタルトも本当においしかった。ありがとう。」

  「ありがとうございます。…本当は、少々心配だったんです。その…お客様にデカフェをお勧めして御気を害されたりはしないだろうか、と…。」

  「じゃあ、君は何故私達に敢えてデカフェを勧めたのかな?」


  詰問とは程遠い柔らかな空気を醸しながら、ジュリアンがに尋ねる
  は少し困惑したように眉尻を下げ、おずおずとジュリアンの右手を見た


  「お客様の……その右手の指輪です。」

  「…指輪?この指輪が……?」

  「ご無礼とは思ったのですが、そちらの指輪が少々きつそうに思えましたので。おそらくは少しお疲れなのでは、と…。」

  「成る程。」


  ジュリアンは対面の男と目を見合わせて大きく頷いた
  二人の推測は正鵠を射ていた事が証明された訳だ
  続けざまにジュリアンが質問を発する


  「…では、このデザートのタルトにはどんな意味があるのかな?」

  「甘いものには気分を和らげる作用がございます。…とは申せ、胃腸が疲れ気味の場合、あまり重厚なお菓子を召し上がると却って負担となります。
   その点、旬のフルーツを主体にすれば水分も豊富に含まれますし、お体には優しいのではないかと考えました。
   …それと…。」

  「…それと?」


  ジュリアンが珍しく身を乗り出して鸚鵡返しに尋ねると、は銀盆を胸に抱いて顔を上げた


  「そちらのタルトは、実を申しますと私が作ったものです。」

  「…君はウェイトレスではないのか?」

  「私は、こちらの店のパティシエールなのです。…お客様の様子がよく判りますのでホール係も兼務させていただいております。」


  少々誇らしげに顔を赤らめたを驚きの表情で暫し見詰め、ジュリアンは妙に得心した様に頷いた
  そして対面の男にあれを、と指示し、ジュリアンは徐に席を立った
  椅子に掛けている時には気付かなかったが、ジュリアンの背はが思ったより高い
  少し見上げ加減に顔を向け、はジュリアンの身のこなしの品良さに改めて感心した


  「…気の利いたパティシエール、君の名は?」

  「は………、…です。」

  「そうか。…、君に是非、私の家で働いて欲しい。」

  「…え…?」


  目を丸くし、は絶句する
  ジュリアンは可笑しげに笑うと、片手での手を取った
  もう片方の手で、一つの方向を指差す


  「私はジュリアン・ソロ。そこの白い家に住んでいる。…、君に是非とも私のデザートを作ってもらいたい。…無論、私の専属で。」

  「ジュリアン・ソロ。………ソロって、あのソロ家ですか…!?」


  丸くした目を更に大きく見張り、は少し後ろにのけぞった
  ジュリアンはその整った眉根を上げておやおやと言う表情を示すと、冗談めいて口を開いた


  「どのソロ家の事かよく判らないが、多分そのソロ家だ。」

  「え…いや、しかし…。私が貴方のデザートを…ですか?」

  「勿論、デザートだけではなく飲み物もお願いしたいものだ。『客』の様子が判って良いのだろう?
   今すぐにとは言わない。…が、是非にお願いする。
   私には、君の作ったデザートと、君の煎れた紅茶が必要だ。…毎日ね。」


  ジュリアンは間髪入れず、唖然とするの手の甲に一つ口付けを落とした
  流石に手を振り払いはしないものの、ジュリアンの唐突なオファーの内容とこの行動は、既にの中では非日常世界もいいところだ
  後頭部にガーンと大きな衝撃を受けたかの如きショックが、の思考をぷつりと止める


  「私一人の為だけにその腕を揮うのが退屈になったら、時折この店の手伝いに来ても構わないよ。
   店長も急に君に辞められたのでは困るかもしれないしね。
   …それに、私の家ではパーティーを開く事もある。その時は、君も思う存分腕を発揮できるだろう。私が今言った事、判っていただけたかな?」

  「…あ、は、はい。」

  「宜しい。」


  ニコリ、と笑い、ジュリアンはの手を握った
  相手の虚を突き思考を止めておいて、一気に畳み掛ける。その外見と物腰からは想像も付かないが、なかなか一筋縄では行かない実に見事な手腕だ
  ジュリアンのその華麗な社交術が見事に功を奏し、はいまだ現実離れした表情で店の石畳に突っ立ったままだった
  少し可笑しげに首を傾げ、ジュリアンはすれ違い様にポン、との肩を軽く叩いた


  「では、私は君を家で待っている。…今日は素晴らしいもてなしをありがとう、。」


  そしてそのまま、ジュリアンはテラス席から店の外に出た
  ゆっくりと歩くその優雅な足取りを、は振り返ってただぼんやりと見送る

  …まるで嵐が過ぎ去ったようだわ…


  「様と仰いましたか。…どうぞ、こちらをお持ちください。」


  の背中越しにあの初老の男が声を掛け、手にした小さなカードを渡した
  …それは、ジュリアン自身のサインの入った名刺のようなものだった

  「家の者達へは前以ってよく申し付けておきますが、ソロ邸へお越しの際にはそちらのカードをお持ちください。
   …では、私めも様のお越しをお待ち申し上げておりますぞ。」


  男は軽く会釈し、ジュリアンの後を小走りに追って消えた
  手にしたカードとテーブルの上に置かれた飲食代と思しき500ユーロ札を交互に見比べて、は腹の底からうーんと深い唸り声を上げた

  …どうやら、嵐はこれからが本番であるようだった









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