「最近村に行ってないみたいだが、どうしたんだ、サガ?」

「…ああ、いや、少し他の聖闘士達や候補生との特訓が忙しくてな。」

「そうか。週末も精が出るな。や村の子供たちが寂しがってるぞ。」

「…一段落したらまた行く。皆にはお前から宜しく伝えておいてくれ。」

「…ああ、判った。」

「私はまだ稽古が残っているので、ではまたな。」


気分が優れないから、とヤニスに言い置きを残して先に村を後にしたきりもう一ヶ月、週末になってもサガはロドリオ村を訪れようとはしなかった
…そして、それ以上にアイオロスとの接触を出来る限り避けるようになった
無論、公の場ではそのような態度は毫も示さなかったし、それ以外の場でも全く会話が無い訳ではない
だが、以前の様に溌剌とした会話を交わそうとするサガの姿勢が、アイオロスには感じ取られなかった

…サガのやつ、一体どうしたんだろう…

他ならぬ長年の親友の様子がどこかおかしい事が、アイオロスは気掛かりだった
しかし、その後サガが他の聖闘士達や候補生たちと談笑している姿を何度か見かけるうちに、自分の気のせいか、と結論付けてやり過ごす様になった
………無二の友が発する危険信号を、遂に彼は受け止めてやる事適わず……そして、運命のその日が訪れた








「教皇、射手座のアイオロス、双子座のサガ、参りました。なにか御用でしょうか。」


教皇、アイオロス、サガ。三人だけの空間に、アイオロスの聖衣の踵が醸す甲高い音が響いた
外は季節外れの悪天候に見舞われ、未明から鳴り止まぬ雷が幾度も暗い空を裂く
…吉兆か、凶兆か。それは神すらも知り得ない
だが、何時もとは何かが違う
サガもアイオロスも、時折揺るぐ大気の中でその只ならぬ予感をひしひしと受け止めていた


「うむ、よく来た、二人とも。」


バサリ。
教皇がその袖を翻し、二人はその場で無言裡に片膝を折る

…教皇の言葉自体は何時もと変わりないが、とてつもない重さを感じる…

アイオロスはチラリと隣のサガを一瞥したが、澄ましたままのサガの表情は微動だにしない
その青眸は閉じられているため、アイオロスには彼の胸中を窺い知る事が出来なかった

遂にこの時が来たのか…

静かに視線を元に戻したアイオロスに、教皇が頷いた


「実は、二人に折り入って話がある。…未明、この聖域に女神が数百年ぶりに降臨なさったのは知っているだろうか。」

「…は。今朝方に何か大きな小宇宙を感じたと、聖闘士達は皆申しておりましたが…。」

「そうだ。…サガ、お前も気付いていただろう。」

「はい。」


サガは、瞳を閉ざしたまま軽く平伏した
教皇はその様を暫し無言で見詰めていたが、再び口を開いた


「…女神が今、降臨なされたは、即ち聖戦の前触れ。先代の女神の施し給うた封印は、250年を経た今、その効力を失おうとしている。」

「聖戦が…。」

「然り。そこで、私は自らの教皇の座を、二人のうち何れかに譲ろうと考えた。
 全員への触れは後日いたすが……。」


教皇がそこで言葉を切ると同時に、ぴんと張り詰めた空気が教皇宮に充満した
事態を知っていたとは言え、アイオロスの喉がゴクリと音を立てる
教皇、アイオロス、そしてサガ。姿を持たぬ各々の緊張が、強大なトライアングルを描き出す
…重苦しい均衡を破ったのは、法衣の男だった



    「…仁・智・勇を兼ね備えた射手座のアイオロス。
     これよりは、お前に教皇の座をまかせる事にする。」



その刹那、目を閉じたままのサガの脳裏に、『許婚が教皇に選ばれた』と無邪気に喜ぶの顔が横切る
…そして、『最愛の女性』と『教皇の座』の二つを手にした『英雄アイオロス』の姿が…
サガの内側で、一つの箍(たが)が音も無く弾けた


………許せない。


親友に対する『確かな憎しみ』を初めてその心の裏(うち)に呟くと同時に、恐ろしい速度でサガの頭の中に黒いものがザアッっと広がった

『……せ、…コ、ロ、セ。』

それまでは本人もその存在を認識していなかった『黒いもの』の声無き声が、今やはっきりと形を成し、サガの体中を隈なく蹂躙する

…なんだ、この不快な声は…。…私の身体の力が、まるで総て抜けて行くようだ…

その場に居合わせる教皇やアイオロスには絶対に悟られぬ様、サガは瞳を閉じたまま崩れ落ちそうな体を必死で支えた

…殺せ、だと?誰の事を指しているのか。私はその様な事など…望みはしないものを…

『アノ女を奪った男を…コロセ。そしてアノ男を選んだ男を、コロセ…。』

黒いものの発する不快な声が、徐々に大きく、明瞭に耳道を内側から叩く
『コ・ロ・セ』
必死に抗うほどにその単語がサガの脳波の曲率にシンクロし、細胞の隅々まで再拡充して行く

…やめろ、やめて…くれ。私は誰をも憎みたくはない…




「…サガよ。」


パシッ。
突如、重圧に潰れ掛かったサガの身体を不思議な衝撃が貫いた
己の名を呼ぶ教皇の声に、サガははっとして自分を取り戻した
…ともすると、教皇の声には邪悪なるものを打ち払う『力』が秘められているのかもしれない


「はっ。」


『黒いもの』の声から解き放たれてほっとしたサガは、眼だけはそのままに整ったその面相を上げた
ふぅ、と隣のアイオロスにはその声が届かぬよう、安堵の呼気がサガの口を突く


「聞いた通りだ、アイオロスに力を貸してこれからも聖域のために尽くせ。…良いな?」

「はい。アイオロスこそ次期教皇に相応しい立派な聖闘士だと……私も思っていました。
 アイオロスに協力を惜しまず、女神のため、正義のために…このサガ、これからも一命をかけて尽くします。」


…何も考えるな、今はただ……

一息に誓文を述べ、サガはその縹深き瞳を開いた
サガの網膜に映る教皇の表情はマスクの奥に閉ざされ、窺い知る由は無い…が、そのマスクの奥深くから何故か晴眼ぴたりと自分を見据えられている気がしてならなかった


「…それを聞いて安心した。ご苦労だったな二人とも。もう下がれ。…但し、アイオロスは残れ。今後についての話が有る。」

「は……はいっ!」


上ずった声で頬を紅潮させたアイオロスがサガの視界の端に入った
アイオロスは『教皇にただ一人呼び止められた』程度の事で浮つく男ではない
それが彼の『英雄』たる所以なのだから
…だとすれば、何が彼を上気させているのか。その答えをサガは知っていた
の横顔を思い浮かべたサガの心の奥底で、散じた筈の大きな闇が再び鎌首をもたげ始めた


退室際、チラリと玉座を一瞥し、サガは恭しく『教皇』と『新教皇』に恭順の礼を示した
サガに背を向けているアイオロスにはその仕草が見えないからだろうか、彼は教皇との話に没頭して親友を一顧だにしない

………許せない。
と教皇の座を奪ったアイオロスを。…そしてこの私の矜持を傷付けた教皇を…。

黙したまま謁見室の扉を閉ざすサガの手が僅かに震えている事に、教皇だけが気付いていた













聖域・スターヒル
夕方、ようやく雨が上がったばかりの祭壇に、教皇は一人空を仰いだ
暗い夜空を割いて、雷鳴が今だに響き渡る


「…なんとした事だ。稲妻が轟きつつも、斯様に星が天に満ちているとは。」


カッ。
鋭い閃光が空を染める度、星々の瞬きを遮る
マスクの下に愁眉を寄せ、教皇は黄道を目で順に追った

…星光を稲妻が覆う。それはまさに……


「稲妻に星の光が遮られるは、この聖域に取って古よりの凶兆。…違いますか、教皇。」


背後すぐ近くから届いた声に振り向き、教皇はその場にジリ…と後ずさりした


「…サガ。お前、どうして此処に…。」


名を呼ばれたその男は長い指で北極星を指し、微かに笑みを浮かべた
それは、「神の慈愛」とは程遠い冷ややかな表情だった


「天の北極星が地上の北極に近付くのは聖戦の予兆。」

「お前…何故その事を知っている。」

「知らぬ事など、この私には無いのです。」


サガがフ…と冷たい笑いを洩らすと同時に、その後ろに一筋、稲妻が走った
閃光が、サガの輪郭を不気味に描き出す


「…そして、稲妻が満天の星を遮るのは…」

「…言うな。言わずとも私には判っている。」


…即ち、『神への叛逆』。
教皇は己の心の裏にその言葉を呟いた
禁じられた言葉は、決して口にしてはならない。空に放たれた瞬間、それは力を持ち始めて人を導いてしまうからだ

…サガ程の智者が、それを知らぬ訳は無い。だとしたら……

先程の雷の余韻も去り、閃光の刺激から順応したその目で、教皇がサガを一瞥する
謁見室での一時と同じく、サガの双眸は堅く閉じられたままその表情を読む事は出来ない
自らの中の悪しき予感を払拭するために、教皇は心の中で一つ一つ丁寧に言葉を選んだ


「サガよ。お前、黄金聖闘士と言えども立ち入る事は困難な、このスターヒルの祭壇までどのようにして…。」


…話題を変えねばならぬ。

教皇が出した結論は、正鵠を射ていると同時に、その必要性自体をサガに悟らせてしまう脆さを持っていた
ザッ。
世にも優雅な冷笑を浮かべ、サガがその場に跪礼する
『話題を変えるとは、教皇も苦しい事よ。』
サガの笑みに含まれた嘲りを正面から受け、教皇は仮面の下で歯噛みをした

…このままではサガがこの場を支配してしまう…


「フッ、別に私には困難な事ではありません。老いた教皇の貴方でさえ登ってこられる場所ですからね…。…ましてや。」


途中で言葉を切って、サガが一呼吸置く
その澄まし切った顔に、ごくごく微かだが苦悶の表情が見て取られた

…どうした事だ?サガの表情が一定しない。先程の悪しき予感は取り越し苦労であったか…

サガの言の葉の歯切れが微妙に乱れつつある事に気付いた教皇は、そのままサガの発言を待った


「…ましてや、神の化身とも言われている私に取っては造作も無い事です…。」


肩で息をし始めたサガの額に一筋、汗が流れた

…まだ助かるやもしれぬ。此処は賭けに出るか…。


「サガ…。ここは教皇以外立ち入ることは許されぬ禁区だ。そこにわざわざ何を言いに来たのだ。」


己の言葉に乗せて、教皇がサガの内部に潜む『それ』を厳しく威圧する
教皇のその業が功を奏したのだろう、サガの口元が歪み、苦しげな呼吸すら洩れ始めた


「だから言っているでしょう。私は総ての人々に神の様に慕われている…そんな私が、何故次期教皇ではないのですか…。」


…『それ』の尻尾を引き摺り出す事には成功した。あとは一息だ
上手くいけば、サガの中からそれを昇華させる事が出来るかもしれない

サガの苦しげな言上を吟味しながら、教皇は最後の一押しに出る決意をした


「言ったはずだ、仁・智・勇を兼ね備えたアイオロスこそ、教皇にふさわしい男だと。」


『アイオロス』。その単語がサガの心の頚城(くびき)を教皇の予想外に大きく揺さぶった
彼の心の底にひっそりと息づくただ一人の女性の面影が、あの日の緑の光景と共にサガの脳裏に眩しく点滅する

…私の…私の何がいけないと言うのだ?どうしてアイオロスを選ぶ…?
私の何がアイオロスに劣っていると言うのか、


「仁・智・勇ならば、決してアイオロスに勝りこそすれ、劣るとは思っておりません。
…いや、総てに於いて私の方がアイオロスよりも勝っていると思います。それなのに何故ですか…。」


苦しげに自問するサガの心の奥底に、立ち聞きしてしまったの言葉が影を落す
『アイオロス、貴方は私や村の人にとって『英雄』ですもの。』

…そう、アイオロスが『英雄』だからなのか…
だったら、私が『英雄』になれば…


「教皇!!」


サガは、キッと伏せた顔を上げた
今や、彼が話している相手は『教皇』ではない

…そうだ、私が『英雄』になれば良い。そうすれば、君は振り向いてくれる
そのためなら、私は………私は、例え悪魔に魂を売り渡しても構いはしない…

『ソノ願イ、聞イタゾ…』
刹那、先程の不気味な声が、サガの身体を突き抜けた
『英雄ニ、ナルガイイ…サガ。』

…そうだ、私が『英雄』になれば、はきっと振り向いてくれる筈だ…

『英雄ニ、ナレ。…オマエヲ『英雄』ト認メナイ…目ノ前ノ男ヲ……殺セ!』

私は、…私は…、君ノために…『英雄』ニ……


「そこまで言うのなら教えてやろう。
 私は、お前の心の奥底に何か得体の知れない不気味な物を感じるのだ。
 確かにお前は神の様に慕われている。そして事実、そのように清く生きておる。
 だが、お前の魂には、とてつもない悪魔が住んでいるような気がしてならんのだ。
 これが私の取り越し苦労であれば良いのだが…」

「クッ、ククク………」


突如不気味な笑い声を上げ始めたサガに、教皇は間合いを取るため一歩後ずさった

…来たか。サガの『影』が


「ミ…見抜いていたのか、私の事ヲ…。流石教皇…老いたりと言えども前の聖戦の生き残りだけの事はあるようだな…。」


シュウウゥゥゥ…
空を裂く音と共に、サガの髪の色が変じ始めた
自らの予想を遥かに超えて、事の重大さに気付いた教皇が身構える

…まさか、サガに潜む『影』が此処まで強大であったとは…。
何故だ、私が先に見た時よりも明らかに力が増大している。サガの内面の何かと影がシンクロしたとしか…一体何が…


「死ね、教皇!!」


教皇の答えが出るより早く、サガがその生命線を断った
ザシャァッ
鈍い音を立てて、サガの足元に法衣の男が蹲った


「ぐ…うう…。やはり私の目に狂いは無かった…。
 お…お前は神などでは無い…邪悪の…化身…。」


ガクリ。
力尽きて動かなくなった法衣の男を冷ややかに見下ろし、サガは口の端を上げた


「老いぼれめ。なまじ私の正体を見抜くからこんな事になるのだ。そもそも、この私を『英雄』として認めなかったのがお前の運の尽き。」


ククク…と小さな笑い声を洩らし、サガは教皇の法衣とマスクを乱雑に剥ぎ取った
二つを身に纏うと、手にした双子座のマスクの端に映し出された己の姿を凝視する
金色の鏡の中に在ったのは、まさに『聖域の英雄』そのものだった


「フフフ…『英雄』だ。…よ、私こそが今や君の望む『英雄』!
 …さあ、この私を選んでくれ…。」


…だが、目を閉じて思い浮かべた「心の住人」のは、ただ悲しげに笑うだけだった


「何故だ!…、私は君が望むから邪魔な教皇を殺めたのだ。…なのに、どうして笑ってくれない?
 さあ、、笑ってくれ。あの日のように笑って、私を胸に抱いてくれ…。」


ガクリと膝を地に屈し、サガは空を仰いだ
『コノ大地ニ、『英雄』ハ2人モ必要ナイ。…ソウデハナイカ、サガ?』
掻き消えたの姿と入れ違いに、今や心地よい程に彼を誘う『黒いもの』の声がサガの心に重く響いた


「…倶(とも)に天を戴かず、か。そうだな。…フフ、私とした事が、まだやらねばならぬ事があった。
…私だけが唯一無二、真の『英雄』になるために!」


、待っていていくれ…

立ち上がったサガの頭上に、一段と鮮やかな雷光が煌いた







<BACK>        <NEXT>