それを境に、サガはロドリオ村をしばしば訪なう様になった
…無論、一人で親友の婚約者の許を訪れるが如き所業は、他の誰が許してもサガ自身が許すはずが無い
従って、大概はアイオロスと同行か、そうでなければ一人で村に赴く場合はアゴラで子供たちと遊んでやるに留めるのが関の山だった
時には、弟・アイオリアを連れたアイオロスと三人で村路を辿る事もある
ともあれ、サガの偽らざる本心は、今やこの村の一軒の家に暮らす一人の少女にあるのは言うまでもない
そして、訪ねる回を追う毎に…の笑顔を網膜に焼き付ける度に、自分の内面に萌芽しつつある淡い情動の存在を痛感し、同時にその思いをひた隠しにせねばならぬ自分自身に一種の歯がゆさを抱き始めていた

…親友の婚約者を慕うなど、断じて許される事ではない。………私は、一体何をしようとしているのか…

村への道を辿る途中で、子供たちと戯れている途中で、…そして夜、一人で広い寝台にその身を横たえた瞬間に、サガの脳裏にそんな考えが去来した
無意識に欲する己の望みに対して軽蔑すべき程の嫌悪感を抱くと同時に、その誘惑じみた甘い香りに痺れる快感にもっと浸りたいとも思ってしまうのであった

寝台で輾転反側するもまったく眠れず、徒に時を数えるだけ
居もやれず、広い双児宮をうろうろと歩き回った挙げ句、鏡の前に立つ
そして、サガは呆然とした
…そこに立っていたのは、紛れもなく「一人の女に恋した男」の姿だったからだ

…やはり、私はに恋をしているのか。

瞳を閉じると、サガの心の中の鏡に、泉で佇むあの日のの姿が映る

腕が、この腕がまだ覚えている…

サガの長い腕に、の身体の感触が具に蘇る

この腕に、私はを抱いていたのだ…紛れもなく

目の前に広げた両の手を交互に見遣り、サガはフッと短く溜息を落とした
…眠れぬ夜は、サガの上にまだ暫く続くことであろう





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「教皇!?…『聖域』の教皇が替わるって、それは本当なの?」

「ああ。もうじき女神の生まれ変わりが聖域にご降臨なさると、猊下がご託宣を授かりたもうた。
 歴代、新たなる女神がご降臨の際には、教皇も禅位なさるのが古よりの慣わしなんだ。
 …勿論、不測の事態で教皇が薨じた場合もそうなるんだけどね。」

「そう…だったの。いくら『聖域お膝元』の村とは言え、それは知らなかったわ。」

「ああ、まぁこれは聖域内部の話だからね。極秘事項…とまでは行かないかもしれないけど、外に出すほどの情報じゃないってことだろうね。
 …でも、教皇の代替わりの時は、この村を始め、近隣一帯に猊下が行幸なさる。
とは言っても、今の猊下が即位なさったのは250年くらい前だから、村人は誰も知らないだろうけど。」

「250年!?凄い…どうやってそんなに長生きなさるのかしら。」

「はは、こう言う時だけは現金だな、。…教皇は、神との契約により命を永らえるんだ。
 何かの秘儀を受けるんじゃないかと思うけど、それは無論俺も知らないよ。」


目を丸くして自分を覗き込むの背に手を回して、アイオロスは小さく笑った
二人が腰を下ろした木陰のすぐ側…二人の話声の聞こえる所まで彼の親友が来ている事には気付いていなかった









………それは、心地よい風の吹くある週末の事だった
ヤニスに届け物があって村を訪れた二人は、昼食後の一時を終え、緩やかな時間を楽しんでいた
食後のコーヒーがすっかり冷め切ってしまうまで、アイオロス・サガ・ヤニスの「男たちの話題」は続き、時刻は昼下がりも良い所まで経過している


「おっと、そろそろシエスタの時間だな。俺は一休みするが、お前たちはどうする、アイオロス、サガ。
なんなら、客用のベッドで一休みして行けよ。」


ヤニスの唐突な申し出に、アイオロスは笑ってかぶりを振った


「いや、俺たちはあんまりシエスタを取る習慣が無いからいいよ。ありがとう、ヤニス。」

「そうか。聖域の男たちはよっぽどの働き者なんだな。でもまだ帰るには早いだろう。
じゃあ、俺が昼寝をしている間、村の子供たちの相手でもしてやってくれよ。」

「そうさせてもらうよ。子供たちは寝る間も惜しんで遊ぶもんだよ、太陽が出ている間はね。」


食卓を立ったヤニスが後ろ手をひらひらさせながら自室に消えるのを見届けて、アイオロスも徐に席を立った


「サガ……、その、村の子供たちの相手を頼んで良いか?」


首の後ろを掻きながらしどろもどろに申し出る親友を目にして、サガは少し首を傾げて短く苦笑した


「ああ、承知した。『鬼の居ぬ間に何とやら』を楽しむのも悪くはないだろう。」

「お…俺は別にそんな不届きな事は考えていないぞ、サガ!…ただ、そのゆっくり話をする時間があっても良いんじゃないかと、そう思っただけで…。」


ムキになって反駁したアイオロスは、首まで朱に染まっている
ぷっと笑いを漏らし、サガは手を振ってアイオロスを追い遣る仕草を示した


「私は別に、お前がヤニスの目を盗んでに不埒な真似をするとは思っていない。
 ほら、分かったら行った行った。」

「あ…ああ。すまんな。じゃあ後は頼む。」


口をへの字に曲げたまま、アイオロスはすまなそうに頭を掻いて裏口の向こうにいるを誘いに消えた
…ドクン
アイオロスの嬉しそうな後姿を見詰めていると、胸に何か嫌な感情がじわじわと染みを広げるのがサガには判る

二人は…はどんな愛の言葉をその唇から紡ぎ出すのだろう
アイオロスは、の身体をその胸の内に納めて思いを交わすのだろうか

そこまでぼんやりと考えて、サガは自分が情けなくなって俯いた

…あの二人は許婚同士なのだ。祝ってやるのが道理ではないか…

昼食の食器を下げながら、サガは一人、自嘲の笑みを浮かべた





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「あっ、サガ兄ちゃんだ!来てたんだね。いらっしゃい」
「今日はアイオロス兄ちゃんはいないの?」
「遊ぼうよ、サガ兄ちゃん!」


一人で村のアゴラに向かったサガを、道すがら忽ち沢山の子供たちが取り囲んだ
初めてこの村に来た日はアイオロスが質問攻めに遭ったが、今は自分も同様だ
それだけ、自分がこの村に溶け込んで来たのだろう

子供は可愛いものだ…本当に

サガは本心からそう感じ、子供たちの中でも歳端の行かない子の頭を撫でた


「今日は、アイオロス兄ちゃんは昼寝中だ。だから私と遊ぼう。私では不足かな?」

「ううん、サガ兄ちゃんはアイオロス兄ちゃんと違う遊びを教えてくれるから大好き。」

「そうか。じゃあ今日は何をしようかな。」


人に必要とされるのは、良い事だが同時になかなか大変でもある
…だが、『聖域』ではこのような形で他人から必要とされる事は無いから、新鮮だ

子供たちと戯れるサガの横顔は、まさに神の如き慈愛に満ちていた






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2時間ほど子供たちと遊んだサガは、子供の親からお礼にと手渡された果物や菓子を携えてヤニスの家に戻った
もうじきヤニスが起きる時間だ、あの二人ももう家に帰っているだろう
…開け放しの玄関のドアを潜ったサガを、無人の居間が出迎えた

…まだ戻っていないのか

ゴトリ。
テーブルの上に菓子や果物を置いた音に気付いたのか、ヤニスの部屋から何かの物音がした
徐にドアが開くと、まだ少々眠そうに目をこする主が姿を現した


「申し訳ない。起こしてしまいましたか。」

「いや、もうじき起きる時間だったから気にしないでくれ。」


ヤニスは、ポットに残っていたコーヒーをカップに注ぎ、一口あおった
…ギリシャの夏は、日が長い
最早夕刻に近付きつつあるこの時刻も、まだまだ日は翳る気配を見せない
だからこそ、人々は強い日差しを避けるためにシエスタの習慣を身に付けたのだ
コーヒーを口にして少しは目が覚めたのだろう、ヤニスは玄関を見遣ってサガに訊ねた


「アイオロスとはどこへ行ったんだ?」

「ああ、あの二人でしたら、まだ子供たちと遊んでいるようですよ。
私はこのお菓子を持って帰るように言付かったので、一足先に帰ってきたのです。
だから、もうじきあの二人も帰ってくるでしょう。」


不審に思われぬよう、サガは間髪を入れずに応えた


「そうか。アイオロスはこの村の『英雄』だからなぁ、子供にも大人気だろう。
 あいつが家の娘の婿になるとは、本当に俺も驚いたもんだったが。」


『英雄』と言う単語に、サガの胸がまた僅かに軋みを上げた
虚ろになりそうな自分を必死に抑えながら、サガが重い口を開く


「貴方にとっても、彼はやはり『英雄』ですか?」

「んん?そうだなぁ、付き合いが長いから、俺に取っちゃ息子みたいなもんだ。…実際、そのうち息子になるんだしな。
 でも、歳の差や世代を取っ払っても、あいつには何か大きなものを感じるよ。器の大きさってやつかな。
 別にそうなって欲しいわけじゃないが、あいつはきっと偉い男になる、そんな気がする。」

「『器の大きさ』ですか…。」

「ああ、出会ったときからずっとな。それこそあいつはまだまだチビだった頃からだ。
天の啓示を受けた…大きな天佑を背負った男なんだろう、生まれつきに。
だから、何れ『義父』になると判っていても、俺はあいつに名を呼び捨てで呼ばせてる。
娘もだが、俺自身があいつと浅からぬ縁で結ばれていると思うと、ちょっとした誇りに感じるよ。
…何より、はあいつを心底慕っている。」

「そうだったんですか…。」


照れくさそうに笑うヤニスに、サガは得心したかのような仕草を返した
…『英雄』、その一言がサガの見えない傷を深く抉る
どうしても己には手が届かぬもの。その前では、人はただ卑屈にひれ伏さざるを得ない
抗って平生を装うほどに、己の中に生じた亀裂が大きくなる…が、判っていても自分にはどうする術も無い
悟られぬようにその秀でた眉を寄せたサガに、ヤニスが思い出したかの如く呟いた


「遅いな、あの二人。もうじき日暮れが始まるぞ。そろそろ子供たちを家に帰さないと、村のかみさん連中に文句を言われるぞ。」

「…ああ、そうですね。では、私が行って来ましょう。」

「お?そりゃすまない。よろしく頼むよ。」


…兎に角、此処でヤニスと二人、話し込むのは何かが良くない

渡りに船とばかりに、サガは席を立って裏口を出た






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「教皇!?…『聖域』の教皇が替わるって、それは本当なの?」


…立ち聞きなどするつもりは無かった
ただ、二人を呼びに来て偶然会話が耳に入ってしまっただけだ

村の外れの木陰で睦まじく言葉を交わす二人を見かけた瞬間、サガはやはり踵を返そうと思った
だが、二人の会話が思いがけない話題に及んでいるのを耳にして、サガの足はその場で固まってしまった

…教皇が替わるだと……!?

サガとて黄金聖闘士だ、女神が降臨する度、教皇が代替わりする事くらいは無論知っている
しかし、肝心の「女神降臨の託宣」は星を見る教皇だけの秘密事項となっており、つまるところ教皇の交代時期については誰も知らない筈であった

…だが、そうだとすると今自分の前で語られている話は一体何なのか
アイオロスがとの話題づくりのためにこんな嘘を吐くとは思えない
…と言う事は、アイオロスが教皇から直にその話を伺ったと、そう言う事なのか…

その後の二人の他愛ない会話が左から右へ抜けそうな程、サガが受けたショックは大きかった
サガに取って、それはつまり『教皇の最も信頼する男は誰か』と言う事をはっきりと示していたからである
そして、同時にかなりの確率でその『次期教皇』が誰であるかと言う事も
まさか思っても見なかった方向から全身に落雷を受けたかのような衝撃に見舞われ、サガは己の気配を消すのをうっかり怠りそうになった
はやる心を抑え、慌てて木立の影に己を溶け込ませる
サガの存在には露も気付かぬアイオロスは、笑いながらの背に手を回した


「ふーん、じゃあ教皇猊下は長生きする事になってるのね。…で、どうなっちゃうのかしら、次の教皇は。」


アイオロスにぴったりと身を寄せたは、彼の腰に片腕を絡ませた
恥ずかしそうに顔を掻いたアイオロスが、を正面から見据える


「その…、そうだな。俺の予想では多分…。」

「多分…?」

「年齢から言って、サガか俺になりそうなんだ。」

「えっ、アイオロスが?どうしてそんな事が判るの!?」

は俺の婚約者だから秘密を打ち明けるけど、俺やサガはその資格のある立場なんだ。
 で、このあいだ猊下からそう伺ったんだ。決まるのはそんなに先じゃないみたいだけどね。」

「凄いわ!『英雄』のアイオロスが教皇になるなんて。」


キラキラした眼差しでアイオロスを見上げ、はすっかり興奮した様子で顔を朱に染めた
のその一言に、木陰に身を潜めたサガの心に更なる動揺が広がる


「おいおい、まだ俺に決まったわけじゃないよ。早とちりしちゃだめだ。
 サガの方が俺より一つ年上なんだし、俺は彼を尊敬しているんだ。だからどっちに決まっても俺は構わないよ。」

「でも、貴方は私や村の人にとって『英雄』ですもの。選ばれたら素敵ね!」

「そうだな。にそう言ってもらえたら俺も嬉しいな。おっと、でもこの話は誰にも言わないでくれよ。」

「勿論よ!…でも、私もドキドキしてしまうわ。貴方が教皇になったらって考えるだけで。」

「教皇になろうがなるまいが、俺は俺だよ。」


アイオロスは、子供っぽく興奮するの頭を優しく撫でた
そのごつごつとした大きな手を取って、は甲に一つキスを落した


「判ってる。…でも、祈ってるわ。」

「ああ、ありがとう。その時は俺、頑張るよ。…のために。」


感極まった二人は、どちらからともなく抱き合うと、ゆっくりと唇を重ねた
二人の心が重なり合うのと反比例して、木陰に立ち尽くす男の中では不可解な二つの存在が相克し始めるのだった













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