「やっぱりの手料理は旨いなぁ。聖域の飯とは一味違う。」


アイオロスは、スプーンを置くと椅子の背に凭れて伸びをした


「…俺の自慢の娘だからな、そりゃ飯も旨かろう。」


食事時に合わせて一旦帰宅したの父・ヤニスが自慢げに笑った

…意外な事だが、ギリシャの食事は、実は昼食が一番手が込んでいる
それは、早朝にはもう起きて働き始めるこの国の人々の生活スタイルに合ったものだ
朝食はコーヒーやクルーリで済ませる分、昼には長い休み時間を取ってゆっくりと食事をする
無論、家族や仲間と会話を楽しむのも忘れはしない
昼食後に取るシエスタの習慣とも密に関連しているのかもしれない
そして仕事を再開し、9時や10時になってようやく夕食を取るが、これは昼食の残りに手を加えたものが通例だ
だから、この国に於いて昼食は我々が思った以上に重要な時間のようである
無論、ギリシャ人であるアイオロスやサガに取ってもそれは同じ事だが、「聖闘士」である彼らには市井の人間ほどゆったりとした昼食は許されない

…前に、こんなにゆっくりと昼食を取ったのは何時の事だったろうか。

サガは、フォークを横に置きながら記憶の糸を手繰った


「…どうだ、サガ。たまにはこんな食事も良いだろう?」

「…ああ、本当にな。」


…見透かされたかな。
笑いながら顔を覗きこむアイオロスにサガは一瞬怯んだが、大したことではない
気を取り直してすぐ返答をした
横でヤニスもサガの方を向いてニコニコと笑みを浮かべている


「サガ…だったな。こんな飯で良ければ何時でも食いに来てくれよ。俺もも大歓迎だ。」

「…それはかたじけない。」

「遠慮するなよ、サガ。また俺と一緒に来ようぜ、ちょくちょくな。」


パン。
音が出る程サガの背中を叩き、アイオロスは豪快な笑い声を上げた
…どうも、食事と一緒に饗されたワインに酔っ払っているようだ
よく見れば、主たるヤニスも顔を真っ赤にしてほろ酔い加減
二人共、時間が経つに連れて話し声が大きくなる一方だった

…やれやれ。ワインは最初の一杯だけで辞退しておいて良かった
酔ったアイオロスを連れて帰るのは大変だからな

困った、と口元に半ば呆れ気味な笑みを浮かべて頭を振ったサガの視界の端に、台所に立つの姿が映った
アイオロスとヤニスの二人掛りで空にしたデキャンタに、慣れた手つきで壷からワインを汲み入れていた
その横顔は、不思議と魅力的に見えた
…幼い頃にサガが失ってしまった「何か」を彼女が持っている様に思えて仕方なかった
暖かな空間と時間。と同じ場所にいるだけなのに、サガは徐々に己の心が緩やかに満たされて行く気がした


「どうした?の方ばかり見て。」


アイオロスに指摘されて、サガはどきりとした
その声にこちらを向いたと目が合い、顔に出さぬ様、必死に自分を取り繕う


「…い、いや。何でも。」

「おお?が可愛いから気になるか?聖域の御仁は女性には弱いと見える。」


ヤニスががっはっは、と大声で笑った
図星を突かれて表情だけは冷静なまま、サガはもごもごと口ごもった

…アイオロスは気に掛けていないだろうか

チラリ、と横目で一瞥するとアイオロスは顔を赤くしてニコニコしている
…どうやら、酔いに助けられた様だ


「はい、おかわりをどうぞ。…でも、お酒は控えめにね。」


胸を撫で下ろしたサガの横に、がデキャンタを持ってやって来た
「おー、もっと寄越せ」、「飲みましょう!」などとヤニスとアイオロスが楽しげな声を上げる中、サガは側に立つを見上げて微笑んだ


「私は一杯だけでもう大丈夫。あまり飲むとアイオロスを連れて帰るのが大変だからね。…ありがとう、。」

「本当に?アイオロスと違って貴方は悪酔いしそうには見えないから、もう少し飲んでも良さそうなのに。」


トン。
大きな音を立てぬよう、ゆっくりとデキャンタをテーブルに置き、は不思議そうにサガを見た
…余程この家に来る人間は酒飲みが多いのだろう


「それより、君はあまり食べていないようだったが良いのか?殆ど台所に立ってばかりに思えたが…。」

「良いのよ。お客様の居るときはそれをもてなすのが礼儀でしょ。
 …それに、今日はサガ、貴方と言う初めてのお客さんが来たのだから。」


冗談交じりに片目を瞑って、が笑う
先程、一度だけドキリと大きな鼓動を立てたサガの胸が、今度は時を置かずにリズムを刻み始めた

…何だろうか、この気持ちは…。

ドキドキと早鐘を打つ己の胸に、サガは覚えの無い感情が湧き上がるのを感じた
左手を胸に当て、サガは己を占領する不思議な気持ちをゆっくりと反芻した
…目の前にはがにこやかな笑みを浮かべて立っている


「おい、そろそろデザートが食べたいな、。」


ヤニスの言葉に、サガは急に現実に引き戻された


「…ええ、分かったわ。じゃあ用意するから、サガ、付いて来て貰える?」

「わ……私が?」

「ええ。裏に流れている小川に、葡萄と西瓜を冷やしてあるの。
 …あの酔っ払い連中じゃ危なっかしいでしょ?…手伝って貰える?」


「酔っ払い連中」の方向を目で示して、は悪戯な笑みを浮かべた
サガの胸が再びきゅうっと音を立てて締め付けられたが、サガは自分の気持ちをしまい込んで頷いた


「…私で良ければ。」

「ありがとう!葡萄はそうでもないけど、西瓜って結構重たいのよ。じゃ、行きましょ。こっちよ。」


は笑うと、勝手口のある台所の奥にサガを手招いた





++++++++++++++





「…村の裏にこんな清流があるとは知らなかったな。」


とサガ、二人の歩く道沿いにサラサラと流れ行く小川を遡りながら、サガは感心した様に呟いた
…無論、それは独り言ではなく、隣を歩くに向けて発した言葉である
サガの青眸が小川を覆う緑色のベールを眩しそうに見上げるのを横目に、が笑いを零した


「ふふ。そりゃ、サガは今日此処に着たばかりだもの。私たちに取ってはこの川の水はとても貴重なものなのよ。
 今は井戸の水を使う家が多いみたいだけど、昔はこの川の水だけが村人の頼りだったんですって。
 この川はねぇ・・・ほら。」


は進行方向遥か彼方に聳える山脈を、その指で差した
サガも釣られて山々を仰ぎ見る


「あの山々から流れて来るのよ。」


ギリシャでは、晩春からの湿度の低下・降水量の激減に伴い枯れる草木も多いこの季節、珍しい事にその山脈だけやけに青々と茂っている
…おそらく、の言う『水の沸く所』だからだろう
山だけでなく、川の流域が描く縁の部分もそこだけは草や木が生い茂り、流れを清く冷たいまま保っていた
山から足元へと、水の恩恵を受けた緑の帯を辿り、サガは素直に一つ頷いた


「…で、私たちは一体何処まで果物を取りに行くのかな、
 このまま歩くと、おそらくこの川の水源にまで辿り着いてしまうが。」

「まさか。もう少し先よ。もうちょっと行くと一本だけ大きな木が川沿いに茂っていて、そこの麓を私は目印にしているの。
 丁度日陰になっているからよく冷えるし、水に足を浸けて休むと気持ち良いのよ。
 サガもやってみたらどう?」

「…私が、か?」

「あら、意外?」


サガの困惑した表情に、が意地の悪い笑みを浮かべた


「貴方だってまだ15歳なんだもの。そのくらいしてもちっともおかしくはないわよ。」

「そう…かな。」

「そうよ。一つ年下とは言え、アイオロスはいっつもそんな子供じみたことばかりしているわ。ふふ。」


話題がアイオロスの事に及んだ途端、嬉しそうに笑うから視線を逸らし、サガはぽつりと呟いた


は…その、自分がアイオロスの許婚と知った時…嬉しかったのか?」

「ええ、勿論。」


瞳をまさにきらきらさせながら応えたの言葉に、ズキリ、とサガの胸が重苦しい痛みを覚えた
サガの胸の痛みには全くお構いなしに、は上気して続けた


「…だって、彼はこの村の人じゃないけど、この村の皆にとっては英雄みたいな人ですもの。
 物心付いて、『お前がアイオロスの許婚なんだよ』って村長に教えられた時はそれはびっくりしたわ。」


『英雄』。
その響きに、サガは屈託の無い笑みを浮かべる親友の姿を思い浮かべた

…そうだ、まさにアイオロスは『英雄』に相応しい。誰もが彼の明るさを信頼し、無条件に好意を抱く。…もそうだ
………だが、私はどうだろうか?私は何時も彼のそんな眩しさを見上げて羨むばかりではないのか

隣で頬を染めたままのの横顔を一瞥し、サガは内心でかぶりを振った

…いや、私とアイオロスは違う人間なのだ。だから彼の性質を羨んでも仕方無い事
百歩譲って彼に対する羨望の感情は認めるとしても、決してそれ以上の負の感情は持ち合わせよう筈がないのだ



「ほら、あの木よ。見て!」


眉を顰めるサガの袖を、が引っ張った
俯いていた顔を上げると、先程が言っていた通り、目の前に大きな木が一本聳え立っていた
麓まで来ると、もサガもすっぽりと木陰に収まり、まだまだ余りある。まさに広葉樹の恩恵に与る気分だ
日差しの強いこの時節、こうした木陰は貴重な憩い場となる
サガはその幹に凭れ掛かった
葉の間から僅かに洩れる日差しが、足元に小さな形を成す
…そして自分の横では、がやはり同じ様に幹に背を付け、足元の光を辿っている
二人の姿は、まるで恋人同士の様にも見えた

…他の村人は来ないのだろうか?こうしてと私が木の下で憩っている様など見られては………いや、私の考えすぎだな
しかし、村人にそう思われるのも今は心地良い。…不思議な事だが

サガは、フッと息を漏らす様に笑った


「気持ち良いでしょ?…でも、こっちの方がもっと気持ち良いわよ。」


は幹から離れると、徐にサンダルを脱いで素足になり、川の岸に腰を下ろした
そのまま小川の流れに足を浸けると、バシャバシャと両の足を交互に上下する


「…子供っぽいかしら、やっぱり。」

「いや、そんな事は無い。」


の白い足首が水の玉を生み出すその様に目を細め、サガは笑った
大人のような、それでいて子供のようなの横にいると、とても満ち足りた気分になる

不思議なものだ。聖域を少し出てみただけなのに、沢山の事に気付き、多くの感情を味わう
…ずっと、こうしているのも悪くない




5分もそうしていただろうか、サガがぼんやりと思いを馳せているとが腰を上げた


「さぁ、二人が待ってるわ。果物を引き上げて帰りましょう。」

「ああ。」


今度は服の裾を絡げ、は川の真ん中に向かって足を踏み出した
川の流れが、の身体の形に隙間を作る


「そこよ。…サガも来て。」


が指す場所は、多少深くなっていた。おそらく窪みになっているのだろう
サガもサンダルを脱ぎ捨て、川に入った


「この窪みに、いつも冷やしたい物を浸すの。流れて行かないし、結構大きなものでも入るのよ。」

「…成る程。」


妙に感心するサガの前で、は窪みに片手を入れ、引っ張り上げた
の手に翡翠の如く透き通った、たわわな葡萄の房の姿があった


「ほらね。」


自慢げに笑うに、サガも笑みを浮かべた
ずい、と一歩窪みに近寄り、小さな窪みを挟んでの向かいに立つ


「…では、私は重い方を取るとするかな。」

「じゃあ、お願い。…ちょっと待ってね。確か西瓜はこのあたりに…」

、危ない!」


窪みの縁に足を取られ、の身体ががくん、と前に傾いだ
咄嗟にサガはその腕を伸ばし、窪みを跳び越すようにを勢い良く自分の方に引き寄せ、数歩後ずさった





「…………。」

「……ありがとう、サガ。」





サガの胸の中で、が小さく呟いた
フッ、と安堵の息がサガの口元から零れる


「良かった。君が無事で。」

「………サガ。」

「……何だ?」


サガは、己の腕の中にあるを見おろした


「…もう、大丈夫だから。」


はっとして、サガは慌てて腕を緩めた


「…すまない。」

「いいえ。ありがとう、おかげで怪我をしないで済んだわ。」

「…あ、ああ。」


サガの胸から開放されたは、くるりと背を向けた
その背中を今の今まで抱きしめていた感触が、サガの指一本一本に甘い余韻を残す
脳の奥に霞が掛かった様に感じられ、サガは暫し呆然と立っていた


「さあ、帰りましょ、果物が冷たいうちに。お父さんもアイオロスも待ってるわ。」


くるり、と一度だけサガを振り返り、はまた背を向けてゆっくりと歩き出した
の口から零れた親友の名に、サガの胸がギリギリと疼く痛みを感じた。…ある筈のない、その感情が





…『英雄』に、そう私が『英雄』になったなら…





川の流れは早く、サガの表情を映し出す事は無かった








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