この世界を手に入れたなら、君は振り向いてくれるだろうか
その為なら、もう一人の破壊と殺戮の自分を生み出すことなど、私は微塵も厭いはしなかったのだ










    raison d’être









ギリシャ、ロドリオ村。
聖域のお膝元に位置するこの小さな村は、「最も女神と教皇の加護を受ける村」として近隣から頭一つ抜きん出た存在に置かれている
代々、聖域の神官や女官を務める家も実在し、聖域からの人間の往来も多い
敬虔な村人の思いに応えるため、教皇自らが足を運ぶ事も稀にあるくらいだ
…が、所詮は「村」である。暮らしは他の村とさして変わりなく、素朴そのものと言っても良い
…もしかすると、「幸福な暮らしには多くの物は必要ない」と言う事をこの村の人間はもう随分昔から知っているのかもしれない
村人の多くの者はこの村で生まれ、育ち、そして老いて死んで行く
それがどれだけ幸福な事であるのかは、この村の土だけが知っている

…牧歌を絵に描いたような、そんな平和で静かな村に続くたった一本の道を、話しながら歩く二人の男の姿があった
…いや、「男」と言うには少し年かさが足りないだろうか
身体は充分に「男」のものに近くはあれども、二人ともその顔つきにはまだ幾許かのあどけなさが残っていた
彼らが身に付けている粗末な衣服は、否応も無く彼らが「聖域」の人間である事を示しているが、そもそも今彼らが歩いているこの道自体が聖域に続く物であるので、今更彼らを詮索する必要は無い
「聖域の聖闘士候補生」、年齢も考慮に入れてきっと村人は彼らをそう認識するだろうか
事実、時折ふざけあうその姿は身軽な修行生そのものだった
…ただ、彼らが「聖闘士」の身分を信じられないほど随分昔に手にしているだけのこと
しかも、ただの「聖闘士」ではないと言うおまけ付きで



「…で、お前は初めてなのか、ロドリオ村(ここ)は。」

「ああ、まあな。『灯台下暗し』とやらで、意外に来る機会には恵まれなくてな。」


どうやら村に初めて来たと思しき男が、肩を竦めて笑ってみせた
男の身体の動きに合わせて、彼の長い髪の毛が揺れた
それは年不相応なジェスチャーだったが、この男が示すととても自然に思えるのが不思議だ


「俺は教皇に付いて何度か来た事があるぞ。それ以外にもちょくちょく用事があって来る。
 なかなか良い所だ。聖域と違って普通の村だからな。」


ハハハ、ともう一人の男が屈託無く笑った
ブラウンの短い巻き毛を持つこの少年から覗く、真っ白な歯がとても眩しい
くすり、ともう一人の少年も釣られて笑った


「…成る程な。真摯に練習に打ち込んでいるように見えて、お前も結構抜け出していたってことかな、アイオロス。」

「おっ、酷いな、その言い草は。真面目も良いが、度を越すとロクな事は無いぞ。
 少なくとも、15歳とは思えんほど苦労が顔に出てるお前に言われても説得力は無いぞ、サガ。」

「…言ってくれるものだな。まあ確かにお前は14歳そのものだけれど、な。」

サガと呼ばれた少年は皮肉に笑って見せると、ふとアイオロスを振り返った


「…そうか。お前、弟がいたんだったな。連れてきてやってるのか、村へ。」

「ああ、あいつも遊びたい盛りだからな。いくら天命により聖闘士に任じられたとは言え、7歳の子供。
 やっぱり、たまには普通の村に連れて行って普通の人たちに触れさせた方が、教育上良いんじゃないかと思ってな。」

「良い兄貴を持ってアイオリアは幸せ者だ。…そうやって、お前の願う様に真っ直ぐ育ってくれたら良いな。」

「…まぁね。」


なにやら面映くなってアイオロスは頬を掻いた

目の前に立っている一つ年上の少年は、彼の一歩前を歩く存在でもあり、同時に競う合う相手でもある
何時も冷静に物事を考え、実行し、内省する。自分には無い物を持っているこの少年に、アイオロスは素直に敬意を払っていた
だから、ふとした瞬間にこうして褒められると、なんだか嬉しくなってしまう
…サガから見れば、彼のそうした素直さこそが自分の持ち合わせていない素質であり、うらやましくもあるのであるが

「外から見た自分」と「自分から見た自分」と言う二つの自己像を絶えず重ね合わせ続けるこの年頃は、兎角隣の芝生が青く見えて仕方が無いのかもしれない


さて、斯くの如く他愛無い様でいてあながちそうでもない会話を続ける二人の視界の先に、目的の村が見えてきた
村の周辺はオリーブが植わっている
オリーブの木は低木の部類に入り、せいぜい3m強くらいにしかならない
…女神と教皇の加護のある村には、城壁も高い木々も必要無いのである
建物の一つ一つまで具に見える珍しい光景に、サガは軽く目を見張った


「どうだ、珍しい眺めだろう?エーゲやイオニアの島なら兎も角、この国の内陸でこんなところがあるなんて。」

「ああ。いくら村にしても、もっと周囲との境界線は設けられて然るべきだからな。…尤も…」

「尤も?」

「…私は聖域を出る事は殆ど無いから、それは歴史書の中の知識だがな。」


…やはり、外の世界は違う。私もたまには外に出ないといけないと言う事だろうな。…見識を広くするためにも。

サガが自嘲気味に笑いを浮かべると、アイオロスが眉を顰めた
時折サガがこの様な表情を見せるのを、彼は少々寂しく思った
…何故だろうか、はっきりとは説明できないが、ただあまり良い事では無い様に思えてならなかったのだ


「…さあ、行こう、ロドリオ村へ。」


アイオロスは、サガの肩をポン、と叩いて先を促した





++++++++++++++





ロドリオ村は人口千人足らずの、言わば小さな「集落」だ
遠くからでも能く見えた集落は、こうして近付いて見てもやはりこぢんまりとした家々の集まりだった
村の外側だけでなく、家と家の境にも無造作にオリーブの木が植えられており、この季節、枝枝は青々と茂っている
もうじき、実の収穫が始まるのだろうか。どの木にも小さな青い実が膨らみ始めていた

集落の家々はどれも質素極まりないが、サガに取っては新鮮そのものだった
…何故なら、どの家も「家族」が暮らす事を前提に造られているからだ



サガは、「家族」を知らない



…一人、弟が居る事は居るが、彼の存在は聖域では伏せられているため、二人でおおっぴらに子供らしく遊ぶ事も無かった
父母の顔は知らない。物心付いた頃にはもうこの聖域に暮らしていた
だから、「家」と言うものは「寝て、食事を取る所」くらにしか考えた事は無かった
だが、今目の前に広がる家々はどうだ
玄関と思しき扉には洒落たプレートが飾られ、開け放された家の内側からは様々な刺繍の施されたタペストリーが顔を覗かせている
家の前では小さな子供たちが高らかに笑いながら遊びまわり、女性たちは井戸端で話をしながら洗い物をしている
丁度昼時なので、一家の男たちも仕事場から帰って一息入れているのだろうか、路地に椅子と机を引っ張り出してゲームに興じていた

…聖域の暮らしとは、全てが違う
それは此処に来る前から至極当然の事と頭では分かりきっていたが、実際目の当たりにした衝撃は大きかった
「家」や「家族」は書物の中に在るのではない。目の前に存在し、動き、時を刻んでいるのだ
サガは、村の真ん中でただ黙って立ち尽くした


「此処が村の中心で、所謂『アゴラ』(市場)ってヤツかな。ただ商いをするだけじゃなくて、会議や集会所としての機能もある。
…ってサガならそのくらい知ってるか。」


アイオロスが隣で案内を兼ねて何やら色々言っている
…が、サガの耳には何も届かない


「…サガ?」

「…あ、ああ。随分賑やかだな、村の真ん中だけに。」


はっと気付いて、サガが慌てて返答をする
それを聞いて安心したのか、アイオロスは話を続けた


「そうだ、ちょっと休んで行かないか?…実は、俺の知り合いの家がこのすぐ近くなんだ。」

「知り合いが?珍しいな、外部の人間と関わりがあるとは。」


サガの側を小さな男の子が二人、追いかけあいながら通り過ぎた
きゃあきゃあと言う高い音域の声が、サガの鼓膜を軽やかに刺激する


「ああ、そうか。アイオリアも遊びに来ているのだから決まった遊び相手くらいはいるだろうな。」

「…ま、まあそんな所かな。」


頬を掻いたアイオロスの姿を目敏く発見したのだろうか、小さな男の子達がわらわらと群がった


「あっ、アイオロス兄ちゃんだ!いつ来たの?」
「ねぇねぇ、今日はアイオリアはいないの?」
「アイオロス兄ちゃん、一緒に遊ぼうよ!」
「あれ、そのお兄ちゃんは誰?」


次々と子供たちが質問を投げかける。余程彼はこの村では人気者なのだろう
まるで全員の兄のようだな、と隣に立つサガはアイオロスのその人望を素朴に羨ましく思った


「よしよし、みんな元気で良い子にしていたか?今日はアイオリアはいないんだ。
 その代わり、別のお兄ちゃんを連れてきたぞ。このお兄ちゃんはサガって言って、俺の大事な友達なんだ。」

「ふーん、そうなんだ。」

「…サガだ。宜しくな。」


サガはにこやかに笑みを浮かべると、アイオロスに倣って子供たちの頭を優しく撫でた

「サガは凄く頭が良いんだぞ。何でも知ってるんだ。」

「アイオロス兄ちゃんよりも?」

「ああ。勿論だとも。そうだよな、サガ?」

「…だと良いけどな。」

「アイオロス兄ちゃん、今日は何して遊ぶ?」

「おっと、ごめんな。遊ぶのはちょっと後だ。先にヤニスの家に寄って行くから。」


アイオロスがすまなそうに謝ると、年かさの子供たちは一様に妙な笑いを浮かべた


「ヤニスおじさんに用事があるんじゃないんでしょ〜、アイオロスお兄ちゃん。」
「本当は違う人に会いに来たくせに。アイオロス兄ちゃんも照れ屋さんだなぁ〜。ね?」


子供たちが囃し立てると、アイオロスは顔を朱に染めた


「こらっ!そんな事ばかり言っているともう遊んでやらないぞ!」


アイオロスが怒号を飛ばすと、子供たちは歓声を上げながら周りに散った
無論、アイオロスは本気で怒っている訳では無く、子供たちもそれは分かっているのでオリーブの木の下でにこにこしている


「さて、と。サガ、じゃあヤニスの家でちょっと休んで行こうか。アイオリアと良く行く知り合いの家なんだ。」

「ああ、分かった。」


アイオロスが村の一角を指し、サガはそれに従ってアゴラを後にした




++++++++++++++





「ヤニス、居るかい?」


コンコン。
アイオロスが木のドアを軽くノックした
返事は無い


「おかしいなぁ。確か今日来る事は言っておいたんだけど。」


キョロキョロとアイオロスは家の周りを顧た
…が、家の人間と思しき影は見当たらない

…それにしても、小さな家だな。他の家も大きくはないし質素な造りだが、これは更に上を行く

ヤニスと言うアイオロスの知り合いの家を眺めて、サガは正直な感想を抱いた
アイオロスは少々困った表情のまま、家の裏側に行ってしまった
「おーい、ヤニス、居るかい?」と言うアイオロスの声が表まで聞こえる

…あいつの声なら、最初に此処から声を掛けただけで何処に居ても気付くだろうに

留守だろう、とサガは両の腕を前で組んだ




「…あの、どなたでしょうか?」



背後から突然声を掛けられて、サガはビクリと驚いた
泥棒ではないのだから別に驚く必要は無いのかもしれないが、あまり心臓に良いとは言えないタイミングだった
慌ててくるりと振り向いたサガの前には、一人の少女が立っていた
…年の頃は自分と同じくらいだろうか、こちらを見上げている
村人と同じく、質素ではあるが清潔な身形をしており、サンダルから覗く小さな足の爪が皆綺麗に整えられているのがやけにサガの目を引いた


「…いや、その………。私はサガと申します。今日はアイオロスと共にこちらの村にお邪魔した次第ですが…。」


この男にしては珍しく、しどろもどろに返答をすると、途端に少女の顔が明るく変わった


「まぁ、貴方がサガね!アイオロスからよく話は聞いているわ。自慢の友達だって。」

「…ああ、そうでしたか。」


怪しい者では無いと分かって貰えて、サガはほっと胸を撫で下ろした
屈託の無い笑みを浮かべる少女を見下ろし、サガは次に何を言えばいいのか戸惑って沈黙した

…聖域育ちのサガは、あまり女性と話す機会は無い。
聖域で見かける女性と言えば、ごく少数の女聖闘士と女官くらいのものだ
…それも、言葉を交わすにしても事務的な事ばかり
しかし、今目の前に立つのは自分と同じ位の歳の、しかも自分の知らない村に暮らす普通の少女だ
一体何を話せばいいのだろうか?そんな事は書物は教えてはくれない
サガがすっかり困惑していると、家の裏側から足音が聞こえて来た


「あっ、、いたのか?良かった!裏に行っても誰も居ないんで、てっきり留守だと思っていたよ。」

「アイオロス、わざわざ裏に回っていたの?ごめんなさい。
 村の外の井戸に水を汲みに行っていたの。お父さんが井戸の水の方が好きだから。」

「ヤニスは?」

「お父さんは外。もうじき昼食に帰ってくるわ。」


アイオロスはその場に突っ立っているサガに気付くと、自分の方に引っ張り寄せた


、これは俺の友達で、サガだ。ほら、いつも話していただろう?」

「ええ。さっきお名前は聞いたわ。…あっ、私、自分の名前を名乗るのを忘れていたわ。
 …私は。よろしくね。」


の差し出した手を、サガは握り返して驚いた

…なんと小さく柔らかな手だろう。

女性の手を取る事など皆無だったのだから仕方ないとは言え、それは15歳のサガに取ってとても新鮮な驚きだった
…が、その驚きも次の瞬間には大きなショックに変わった
アイオロスが、頬を染めてしどろもどろに付け加えた





「その……、は俺の…許婚、でな。」



「やだ、アイオロスったら、紹介されたばかりの人にいきなりそんな事を…。」


軽くアイオロスの腕を叩くも、本心では決して嫌ではないようだ。アイオロス同様、頬を赤くしている
『許婚』。サガは、その単語に一瞬目の前が真っ白になった


「…あ、ああ、そうなのか。これは失礼した。」

「村長が昔取り決めた事らしい。実は、俺の出身の村が此処から近くて、村長同士が知り合いだったようだ。」

「それは…おめでとうと言うべきなんだろうな。」

「…ありがとう。でも、結婚するにしても俺が18になってからの事だからな。だからずっと黙ってたんだ。」

「…そうか。」

「さあ、その話はもう良いでしょう?中に入って、アイオロスもサガも!」


に促され、二人は小さな家の中へとその敷居を跨いだ
上気して頬を染めるアイオロスと、僅かに表情を沈めるサガの二人の顔色はコントラストを描いていたが、互いも含めて誰もそれには気付いていなかった








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