『死者よりも、生者こそが恐ろしい』
この言葉に頷く人も多いだろう
それは、多くの点でこの言葉が正鵠を射ているに他ならない事を示唆する
一度死した人間は、直接、或いは間接的に彼を知る人間の記憶の住人となり、美化されつつも徐々に薄らいで行く
つまり、生者に対し新たな言葉を紡ぐ事能わず、また指一本触れる事も出来ぬ死者には『思い出』以上の『新たな記憶の痕跡』を生み出すことが出来ないからである
絶えず新しい刺激に曝される人間――無論、生者に限るが――の記憶・情報処理メカニズムとは、斯くの如く実に合理的・現実的に出来ているものだ
『百度脳裏で描いた思い出』と、『近くで目にし、そして実際に触れ得る現実』。
二者のうちより鮮烈な情動を引き起こすのは、果たして一体どちらであろうか








      Paramnesia








ギリシャ・ロドリオ村。
聖域のお膝元に位置するこの小さな村落は、遥か古に女神の加護を直に受けたその僥倖により、近隣に於いて唯一聖域との交流を許された土地でもある
その昔、女神より賜った伝承を残すオリーブの並木に囲まれたその村の入り口に今、小さな包みを抱えた男が一人立っていた
…いや、包みは決して小さくはない。それを持つ男が非常に長身且つ頑健であるため、相対的に小さく見えてしまうだけだ
村の言わば玄関口に当たる一本の大きなオリーブの幹の側に立ち止まり、男は天に伸びる枝々を見上げた
白銀に茂る葉の間から、ギリシャの夏特有の苛烈な日差しが濃い影を落す
碧とも翠ともつかぬ深く澄んだ瞳を細め、男は周囲より僅かに太い一本の枝をじっと見詰めた


「…昔はこの枝が随分太く感じたものだが、今では俺の腕の方が随分太くなってしまったものだな。」


荷物を左腕に持ち替え、男が自分の右拳に軽く力を籠める
隆々と盛り上がった二の腕の大きな瘤と視線の先の枝の根元とを何度か見比べ、やがて男は眉尻を下げて破顔した


「今の俺が枝に上がったら、きっと折れてしまうだろうな。」


…昔は俺を抱き上げてくれた事もある、その女(ひと)の腕の様に。
いつも見上げていたその女(ひと)の腕は、何時の間にか触れたら折れてしまいそうな程に細く感じられるようになってしまった
…それが喜ばしい事なのか、或いはそうではないのか。俺にはまだその答えは見つかりそうにもないよ…


「…兄さん…。」


胸の裏(うち)の思いの、その最後の一言だけを声に発し、男は僅かに目を伏せた
嘗て兄と共に登って遊んだオリーブの幹に凭れて村に目を向けると、十数年前と変わらぬ家並みが拡がっている
子供たちが遊ぶ光景も、女たちが世間話に勤しむその眺めも昔から何一つ変わらない
…いや、移ろっているのはおそらく「人間」の姿の方だろうか
斯く言う自分ですらもその例外ではないのだろうから

木陰で軽く腕を組んで感慨に耽る男の許へ、広場にいた子供たちが駆け寄って来た
本人は至って目立たぬように立っていたつもりでも、目敏い子供たちの注意を逸らすのは至難の業だ
ニコニコと一様に笑顔を浮かべた村の子供たちが、男の周りを緩く囲んだ


「いらっしゃい、アイオリア兄ちゃん!久しぶりだね!」
「じいちゃん達は今みんな昼寝してるよ。でも僕達は外が眩しくてあんまり眠くないから、一緒に遊ぼうよ!」


男――どうやらアイオリアと言う名であるらしい――は矢継ぎ早に話し掛けて来る子供達に合わせて少し背を屈め、そのうちの一人の頭を大きな手でぐしゃぐしゃと撫でた


「…お前たちも元気にしていたか?また悪さでもして爺さんたちに怒られたりはしなかったか?」

「悪さなんてしないよ!…酷いな、アイオリア兄ちゃん。」


口先を尖らせて抗議の声を上げる男の子の真っ直ぐな瞳をじっと見詰め、アイオリアはフッと柔らかな笑みを浮かべた
…あの日の俺と同じ目をした子供達が、この村には沢山居る。


「疑って悪かったな。…よし、じゃあ後で村の外れのピスタチオの実を取ってやろう。」

「ほんと!?アイオリア兄ちゃんは背が高いから枝の上にもすぐ手が届くんだよね。…いいなぁ、僕も早くアイオリア兄ちゃんくらいにならないかなぁ。」

「好き嫌いせずに沢山食べて、しっかり遊んで昼寝もしたらきっとすぐに大きくなる。…そのうちにな。」


キラキラと目を輝かせたこの子供達には、どんな未来が待ち構えているのだろうか
子供達一人一人の内包する多くの可能性を思うと、アイオリアは彼らが眩くすら思えて仕方なかった
…とは言え、彼自身まだ二十歳を目前に控えている若さであるのだが、彼にはもう随分昔から市井の人間とは異なる大きな使命が与えられていた
それ故か、実年齢よりも多少上に間違われる事も少なくない
だが、アイオリアの背負うその「大きな使命」については、実はこの村の人間でさえも詳らかに知らない。…たった一人を除いては
子供達、男達、女達、そして老人達。この村の人間はみな、アイオリアの眼前の子供と同じくいつも生き生きと瞳を輝かせている
自然に身を任せつつも活力を漲らせたこの村人達と触れ合っている時、アイオリアは殺伐とした聖域の暮らしを忘れて心底温かな心地に浸るのだった
……そんな朗らかな村人達の中でただ一人、殉教者の様な眼差しをした女性がいた
彼女は他の村人同様にこの村で生まれ、そして育った
まだ少女の頃に父母を亡くした後、村の片隅で今も一人でひっそりと暮らしている
…アイオリアの「大きな使命」を唯一知るその女(ひと)に、この聖域の男は今日こうして遥々会いに来たのだった





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小さな家の敷居を跨いだ刹那、アイオリアの鼻腔を甘く香ばしい匂いがくすぐった


「…アイオリア、いらっしゃい。子供達の様子が何時もより賑やかだと思ったら、貴方が村に来ていたのね。」

「ああ。…、元気だったか?」


家の玄関を入ったすぐ脇にある竈に立っていた女性が、アイオリアの姿に手を休めて振り返った
と呼ばれたその女性は、アイオリアよりも幾許か年かさだろうか
裾の長い黒衣の袖から伸びる腕は少し青白く、その衣服と見事なコントラストを描いている――尤も、どことなく不健康そうな雰囲気を醸し出しているのだから、見事、と表現するのが妥当かは甚だ疑問点が残るだろう
此処を訪れる度に青白く、そして細くなって行く一方のその腕を一瞥して、アイオリアは俄かに眉を顰めた

…こんな様子で元気な筈があるものか。

アイオリアはその外見と同じく非常に実直な男ゆえ、表情を欺く事が出来ない
少し厳しい面持ちのアイオリアに、は少し困った様子で笑った


「そんな顔をしないで、アイオリア。」


アイオリアとは違った意味で実年齢より年上に見える少々落ち窪んだ目を細めてが笑うと、やはり少々こけた青白い頬にほんのりと赤味が差した


「…すまない。」

「構わないわ。…さあ、折角村に来たのだし、ゆっくりして行って頂戴。そこに掛けて。」


ガタン。
居間の真ん中に設えられた木造の素朴なテーブルの脇に同じく木造の椅子を引き寄せ、アイオリアはゆっくりと腰を下した
アイオリアに背を向けたが、オリーブの箆(へら)を手に竈に掛けられた大きな鍋を緩やかにかき混ぜる


「何を作ってるんだ、?」

「今ね、セージを煮詰めているの。村のお年寄りの方から最近はよくこれを頼まれるのよ。
 飲み易い様に、もう少ししたらネトルの葉を入れて更に煮ようと思って。」


先程から鼻腔をくすぐる香りの正体を知り、アイオリアはそうか、と黒衣に身を包んだの背に短く返事をした

は村の片隅でこうして薬草を煎じる事をもう長いこと生業にしている
それはの母がまだ生きている時分に一人娘に教えたのであるが、本人はまさか母からその技術を教えられて幾許もしないうちに一人身になるとは思いもしなかった
だが、その母のおかげでこの小さな村の中でも慎ましい生活を送る事が出来る
昔、母と二人で立ったこの竈を今はただ静かに守っていたい。それだけがの願いだ
………本当は、もう一つの願いをその胸に抱いていた
それは、『許婚の少年といつか結ばれ、小さな家庭を育んで行く』と言う実に素朴で慎ましい、にまことに似つかわしい夢だった
だが、そのささやかな願いは13年前のある日、突如何者かによって終止符を打たれた

聖域で変事が起きたらしいと言う不穏な噂がこの長閑な村にまで届き、村は一時騒然とした
もとより聖域と関りの深い村であるが故、それは至極当然の事であった
聖域の神官・巫女(ふじょ)などを歴代勤める家も多く、聖域に在る家族の安否を気遣いはするのもの、聖域自体には踏み込めないため新たな情報がもたらされるのを今か今かと皆息を呑んで待っていた
もその例外ではない。…何故なら彼女の『許婚』とは、その聖域で黄金聖闘士と呼ばれる最高位の戦士の称号を持っているのだ
無論、彼のその称号を知っているのは許婚であるだけであったが
時間の経過に比例して断片的に伝わって来る聖域の変事の情報の中に「高位の戦士の叛逆」と言う単語が含まれているのを耳にした時、は咄嗟に許婚の事を思い、そしてすぐに頭を横に振った

…彼の誠実で実直な性格を一番よく知っているのは自分ではないか。おおよそ彼ほど『叛逆』などと言う単語に似つかわしくない人間も居ない
……だが、どうしてこんなに嫌な予感がするのだろう

「アイオロス、どうか無事で………。」

は許婚の名を声に出して神に祈った
…それから幾日が過ぎ、村を正式に訪れた聖域の人間から許婚の非業の死の報せ――そして同時に汚辱に塗れた――を受けたその日、は無言のまま初めて黒い服に袖を通した。……そして今も身に付け続けている


「今年はオリーブの出来が悪いみたいなのよ、みんな困っているみたいだわ。」


の黒衣の背をじっと見詰めていたアイオリアは、その言葉にふと現実に引っ張り戻された


「あ…ああ、そうなのか。それは知らなかった。」

「この近隣の村だけじゃなくて、この国…いいえ欧州全体で不作と言う噂よ。
 幸い、この村の人たちが一年に使う分の収穫はあったみたいだけど、売り物にする程の余りはないでしょうね。」


の優しい語り口調とは相反してその表情は厳しく、アイオリアも再び眉を顰めた
オリーブは大抵、痩せた土地に植えられている
故に、オリーブが唯一の作物である村は他に収穫できる物が皆無に等しい
これらの村では採れたオリーブを他の村へ持って行き、小麦など他の作物と交換する事になる
ロドリオ村もその類に漏れず、オリーブが不作である今年は交換してもらえる小麦は殆ど期待できない
の表情から今年の村の窮状を察したアイオリアは、その腕を逞しい胸の前で組んだ


「…近隣の村々の窮状、女神に奏上しよう。きっと無碍にはなされますまい。心配するな、。」

「ありがとう、アイオリア。黄金聖闘士としてのお勤めも大変でしょうに…。」

「なに、市井の人々の安全あってこその聖域だからな。これも仕事の一つさ。…そうだ。」


箆を手にしたまま振り返ったに優しく笑って見せ、アイオリアはテーブルの上に置いた包みを開いた
それはこの大男が聖域から携えて来た物で、中には更に小さな包みが沢山入っていた


「こっちは女神神殿の裏手で採れたオリーブ、そしてこっちは神官に頼んで分けてもらった薬草だ。滋養に富むと言っていた。」

「まあ、そんな貴重な物を…。」

「両方とも、女神の加護を受けている。…いいか、これは、貴女のために譲り受けて来たのだから必ず貴女自身に使うんだ。…もっと自分の身体を労わるために。」

「判ったわ。…ありがとう、アイオリア。」


ニコリ、とは笑い、また鍋に向き直った
いいや、貴女はちっとも判ってなどいない。
その一言をぐっと飲み下し、アイオリアはの背に頷いた
…きっと明日になったら、は薬草もオリーブも困っている村人に分け与えてしまうのだろう
それがわかっているからこそ、アイオリアは己の無力さを心底呪うのだ。――遭うたびにやせ細って衰えて行くを、側で支えてやれない自分自身の不甲斐無さを

暫し無言で窓を見ていたアイオリアは、残る一つの包みをにおずおずと差し出した


…、その……これも。市の立っていた日に偶然買ったんだが……。」

「まあ、何かしら?こんなに沢山貰うとなんだか悪いわ、アイオリア。」


カサカサと紙の包みをが開くと、中から姿を現したのは鮮やかな緋色に染められた女物の上衣と香油の入った小瓶だった
驚いたが、落ち窪んだ眼を見開く


「アイオリア、これは…?」

「香油は聖域の友人が作っているものを分けて貰った。服は市で…きっとに似合いそうだと思って買った。」


が見事な細工の施された小瓶の蓋を開けると、何とも深みのある薔薇の甘い香りが部屋中に拡散する

…ああ、やはりこの女(ひと)には薔薇の香りが似合う

声には出さずに、アイオリアは目の前の女性と切ないその香りの取り合わせに思いがけず胸を熱くした
だが、はさっと何時もの暗い面持ちに戻り、瓶に再び封を施すと緋色の服と共に包みをアイオリアに手渡した


…?」

「ごめんなさい、これは私には受け取れないわ。……今の私には意味の無い物だから。でもアイオリア、貴方のその気持ちはとても嬉しい。」

「香油も服もきっとに似合う。……だってはまだ若いじゃないか。」


いつまでもその黒い喪服を身に着けるつもりかのか?兄さんが死んで、もう13年もの歳月が経つのに

言ってはならないその一言だけは堪え、アイオリアはぐっと拳を握り締めた
…しかし、にはアイオリアの声に出さないその気持ちと苛立ちが判っていた
暫く沈黙した後、ふっとは冷たく静かな笑みを浮かべた

…ああ、その目だ。その殉教者の様な目を見ると俺は何も言えなくなってしまう
どうかその目をしないでくれ、


「いいのよ。…私にはこの黒い服が一番落ち着くの。この服を着ていると、いつもアイオロスが近くにいてれるような気がするの。」


が横髪を掻き上げる
少し離れてはいても、その中にはうっすら白く変色したものが混じっているのがはっきりと判り、アイオリアは再び言葉を失った

…兄さんが生きていたら、きっとのこんな現状を悲しむに違いない

この国では、夫を亡くした妻はその老若に拘らず、3年の間黒い衣服を身に着ける事が暗黙の了解となっている
そうする事で夫の死に哀悼を表し、同時に操を立てる意を含むのである
もしこの期間の間に彩りも鮮やかな衣服を身に着けていたとしたら、忽ち遊び女の噂を立てられるだろう
許婚であったアイオロス――まだ夫となってはいない――を喪ったが黒い衣服に袖を通したのは、ギリシャの世俗的には奨励されるべき事である

だが、誰が13年もの間それを身に着け続ける事を要求するだろうか
兄とは言え、死して跡形も無くなった人間を恋い続ける事がアイオリアにはどうしても良い事とは思えなかった
だから折りを見てはこうしての許を訪れ、人との交流を半分断った様なを太陽の下に引っ張り出そうと苦心しているのである
…昔の明るく朗らかなに戻ってほしい。天上の人となった兄だってきっとそれを願っている筈だ

…やはり、俺では駄目なのか。

アイオリアは、の黒い服から伸びる青白い手の上に置かれた衣服と香油の包みを受け取り、肩を落とした

この手を力強く掴んで、この暗い家から外に攫ってしまえたなら…!

静脈が青く透けるの手が、ネトルの葉を摘んで鍋にパラパラと放り込んだ
ここで一旦鍋に蓋を施し、薬草の成分を抽出するために火勢を至極弱く落す
どうやら作業が一息ついたと思しく、は振り返るとアイオリアの立つ木机の上にカップを2つ置いた
ポットに入れておいた深い琥珀色の液体をゆっくりと注ぐの手つきを、アイオリアはただ黙って見ていた


「どうぞ、手が離せなかったからお茶を出すのがすっかり遅くなってごめんなさい。」

「いや、構わないよ。突然押しかけて来たのは俺の方だから。」


…この話題はこれで終わり、と言う事か。

アイオリアはカップを受け取り、椅子に腰掛けると中のコーヒーを一口啜った
もアイオリアの対面に腰を下ろし、同じくカップのコーヒーを口に含む
数秒の沈黙が二人の間を流れ、がそれを断ち切った


「お菓子を用意しておけば良かったわね。アイオリアは見た目によらず甘いものが好きだから。」

「見た目によらず…か。随分だな、。」


ふふふ、とはアイオリアのへの字に曲がった口を見て笑った
それは13年前と同じ、屈託の無い少女の笑いだった


「一昨日ローズマリーの入ったクッキーを焼いておいたのだけど、子供達がみんな食べてしまったのよ、ごめんなさいね。」

「あいつらは甘い物と見たら蟻の様にたかるからな。山の様に焼いてもそれこそひとたまりも無いだろう。砂漠に水をやるようなものだ。」


…ずっとこうして時間が続けば良い。そうすればもきっと元通りの明るさを取り戻す筈だ。

に合わせてアイオリアもハハハ、と笑い、カップを更に傾けた





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当たり障りの無い村人達の愉快な話題でひとしきり歓談した後、アイオリアはふと戸棚に置かれた籐の篭に気付いた
中が見えぬように布で覆いが施されてはいるが、その端から茶色い革と思しき細い物体が顔を覗かせていた


、あれは一体何かな?」


椅子に腰掛けたままアイオリアが訊ねると、はさっと立ち上がって戸棚に近付いた


「秘密にしておいたのだけど、見付かってしまったわね。…昔からそう。アイオリアは目敏くて困っちゃうわ。」


辛辣な言葉とは裏腹に、は少々頬を綻ばせて篭をテーブルの上に置いた
覆い布を少しだけずらすと、中から皮革のベルトをすっと引き抜きアイオリアの前に示した
…それは、細い革紐を幾重にも組み合わせて編み込んだ物で、手芸になど毫も詳しくないアイオリアが見てもとても手の込んだ物なのが判る
所々、赤や白の色に染めた革紐が織り込まれ、複雑な紋様が刻まれている
思わずほぉ…と感嘆の吐息がアイオリアの口から漏れた


「…アイオリア、もうじき誕生日でしょう?だから、と思って。」

「…え?俺の為に作ってくれているのか、このベルト。」


感嘆を刻んだその口が、一瞬ポカンと開いたままになった
何とも間の抜けたその様子に、がクスクスと笑い声を上げる


「そうよ。誕生日には間に合うように作っているんだけど。…もう少しで出来ると思うわ。」

「でも…いいのか、こんなに手の込んだ物を貰っても。」

「…アイオリア、貴方も二十歳なのよ、もう立派な大人じゃないの。ささやかだけど、大人になった貴方のお祝いに…と思って。」


アイオリアを正面から見詰めるの目が、眩しげに細められる
目の前に立つ二十歳のアイオリアを通してが一体何を見ているのか、アイオリアには良く判っていたので敢えて何も言わなかった。――言えなかった、と表現した方が良いかもしれない
は暫くそのままアイオリアを見ていたが、やがて思い出した様に彼を手招いた
ベルトの両の端をそれぞれの手の指で軽く押さえ、大きく広げて見せた


「そうだ…私、アイオリアのベルトを作るのは良いけど、肝心のアイオリアの胴回りのサイズが判らなくて。
 今日アイオリアが此処に来てくれて助かったわ。…ちょっと悪いけど、此処に立ってくれる?」

「あ…ああ。そんな事なら喜んで。」


ガタン。
アイオリアは木の椅子から立ち上がり、のすぐ側まで近付いた
…すぐ傍らに立ってアイオリアは愕然とする。のその身体のあまりの小ささに

俺の憶えているはこんなに小さかっただろうか。兄さんが死んでから、はまるで生を終えた花のように萎んで行くばかりではないか
いや、やはり俺が大きくなったから小さく思えるだけだ。………そうあって欲しい。


「こんなものかな、。」

「うーん、そのままだと測り難いから、ちょっと両腕を上にあげてくれるかしら?」

「ああ。」


アイオリアがその逞しい両の腕を上にあげると、は作りかけのベルトを手にアイオリアのこれまた見事に鍛え上げられた腹筋の正面から後ろへと腕を回した
シュッ…シュとアイオリアの身に付けた薄いシャツとの持つ革紐とが擦れて軽快な音を奏でる


「ふふ、やっぱり思っていたより胴回りが大きいわ。見て、…ほら。」


見て、と言われて下を向いたアイオリアは俄かにどきりとした
一杯に拡げた腕がアイオリアの胴回りに届かないわ、と笑うと自分のこの体勢の危うさは。
傍目から見る限り、これではが自分に抱き付いているようにしか見えない
すぐ目の下の高さにある、重苦しい黒衣に包まれたの細い肩に手を回し掛けて、アイオリアは暫し戸惑った

…幾ら気に掛かるとは言え、は兄さんの許婚ではないか。…それを………

の肩の高さまで下した両の手をぐっと握り、アイオリアは元通り腕を上にあげた
アイオリアの感情の機微など何も気付かぬは、アイオリアの背に回した腕を前面に戻し、ベルトの合わせ目の位置を臍の前で測った


「うん、あとこのくらいは編まないと足りないって事ね。御協力ありがとう、アイオリア。」


はアイオリアからすっと脇に身を反らすと、編み掛けの革紐にチョークのような塊で白い印を付けた
おそらく、革紐を其処まで編めば自分の胴囲に足りるのだろうと推測し、アイオリアは感心した様に頷いた


「ありがとう、。…その、誕生日を誰かに祝って貰った事など、よく考えたら今まで無くてな。」

「そうだったの。良かった、喜んで貰えそうで。完成までもう少し待っていてね。」

「ああ、構わないよ。俺は急がないから、ゆっくりやってくれ。」


アイオリアがポン、との背に手を置くと、は少しビクリと身体を強張らせたがすぐに笑顔を作った
ベルトの両端をそれぞれの手に持って、ゆっくりともう一度大きく腕を開いて見せる


「私ったら、きっとアイオリアはずっと子供のままと思っていたのね……本当はこんなに胴も大きくなっていたのに。」

「……。」

「………二十歳の男はこんなに大きかったなんて、知らなかった。」


兄の事を思い出しているのだ…14のまま時間の止まった兄を
俯きがちに細められたの目が、何時もの殉教者の色に染まる
のその眼差しを前にすると、アイオリアには為す術は何一つ無い
に悟られぬよう、ただ黙って奥歯を噛み締めるのだった


「…ああ、そろそろ聖域に帰らないといけない時間だ。」


重苦しい沈黙の空気を打ち破り、アイオリアがくるりと身体を翻してカップに残ったコーヒーを一息に飲み干した
に拒まれた緋色の衣服と香油の包みを元通り布袋に包み、テーブルの端に置いた
元より身軽な服装なので、アイオリアの帰り支度と言えばこの程度のものだ


「まだ早いんじゃないの?もう少しゆっくりして行けば良いのに。」

「いや、この後村の子供達に裏でピスタチオを採ってやる約束なんだ。もうじき待ち切れずに此処に押し寄せ兼ねないよ。」

「そうだったの。きっと楽しみに待っているでしょうね。」

「沢山採れたら子供達に持たせるから、それでクッキーかバクラヴァでも焼いてやってくれ。…じゃあ、また来るよ。」

「ええ、…そうね、次は貴方の誕生日が良いわ。ベルトだけじゃなくてお祝いの用意もしておくわ。」


は、手にした編み掛けのベルトを机の上にある籐の篭の中に戻した
…その拍子、覆い布の下にもう一本のベルトらしき物がちらりとアイオリアの視界を掠めた
何か見てはいけない物を見てしまった気がして、アイオリアはに悟られぬ様にわざとらしく自分の荷物を手に取った

去り際、家の中を振り向いたアイオリアの視界の中には何時もと同じ暗い顔の殉教者が立っていた





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子供達との約束を果たし終えたアイオリアは、村の出入口を跨ぎ我が家・聖域への帰途を歩き始めた
日差しの厳しさは、夕刻に差し掛かり若干弱く感じられる
この分では、聖域に辿り着く頃には丁度日が落ちる刻限になっているだろう
アイオリアはふと立ち止まって村を振り返った
そろそろシエスタから大人達が目覚め、村はまた何時も通りの賑わいを取り戻す
…だがは、だけはそんな賑わいとは無縁の時間を生きているのだ……おそらく、このまま一生
アイオリアの胴回りにの細い腕の感触が蘇り、アイオリアは俄かに胸を潰されるような思いに駆られて自らの脇腹に片手を置いた


「…、俺は一体どうすれば良い……。」


溜息を交えてアイオリアがぽつりと本音を呟いたその時、背後に人の気配を感じ、アイオリアはざっと身構えた


「誰だ!隠れていないで姿を現したらどうだ。」


…何らかの敵意を感じるが、おそらくは素人

聖闘士にしか見えぬ素早い動きで周囲を見渡し、アイオリアは近くの木に向けて短く言い放った
相手はその洞察に一瞬怯んだ様子だったが、やがて木の陰からゆっくりと姿を現した
…それはロドリオ村の青年で、昔はアイオリアとよく遊んだ男だった


「…ディミトリオスじゃないか。」

「久しぶりだな、アイオリア。やっぱり聖域の男は鋭いな、この程度じゃすぐ見つかっちまう。」


ディミトリオスと呼ばれた男は参ったと言わんばかりに両の手を上げ、笑いながらアイオリアに近付いた
危険は無いと察したアイオリアも構えを解く


「元気にしていたか、ディミトリオス。」

「…まあね。お前も暫く見ないうちに大きくなった…と久闊を叙したい所だが、今日はお前に一つばかり忠告をしておく。
 アイオリア、お前今日はの所に用事があって来たんだろう。」


旧友の持ってつけた物言いに、アイオリアは少々苛立ちながらも一つ頷いた
ディミトリオスはその仕草をじっと見詰めると、真っ直ぐ視線を外さずに訊ねた


「アイオリア、お前の事をどう思っているんだ?」

「……どう思うか、とはどう言う事だ?」

「…さっきの名を口にしていたように聞こえたが。」

「それは………お前も知っての通り、は俺の兄の許婚だった女(ひと)だ。
 その兄が死んで以降、喪に服すを気遣うのは弟の勤めだろう。」


…これは、嘘だ。俺は自分の立場を盾に本当の気持ちを偽っている。

旧友に弁明しながら、アイオリアは逃げようとしている自分を内心で呪った
目の前のディミトリオスは、まだじっとアイオリアを見据えている


「…その喪が明けるとしたら、お前はどうする、アイオリア?」


やがて、旧友は意味深長な一言を投げつけた
アイオリアはその言葉の意味が判らず、眉を顰める


の喪が明ける…とは一体何の事だ、ディミトリオス。」

「そのまんまだよ、文字通りな。」


ディミトリオスはすい、と一歩近付き、アイオリアを厳しい目付きで見上げた


「…は結婚する。他の村の男とな。」

「な………っ!」

「13年も婚約者の喪に服したんだ、ももうそろそろ幸せになってもいいじゃないか、ってな。…言っておくが俺が決めたんじゃないぞ。村長が決めたんだからな。
 だから、村人から妙な目で見られたくなかったら今後はの家に近付かない方が良い。」


旧友の言葉の後半は、アイオリアの耳に届いてはいなかった

が結婚…するだと……?

その刹那、アイオリアの脳裏に籐篭の底にあったあのもう一本の革ベルトが掠めた

では、あれはその男に作ったものだったのか……。
その男と結婚して村を離れるから、その前に許婚の弟の俺に最後の贈り物を作っていた、と…


「それにしても…アイオリアお前、からその事を聞かなかったのか。…今日こうして訊ねて行って。」


がっくりとうなだれたアイオリアの背中に、旧友の言葉が更なる追い討ちを掛けた







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