自らの誕生日を間近に控えたある一日を、アイオリアは一人悶々と過ごしていた
…何もそれは今日だけに限った事ではなく、ロドリオ村を辞したその日から毎日の話であったのだが

は、やはり結婚してしまうのだろうか
もしそうだとして、今のこの俺には留める権利は微塵も無い。…に取って俺は今や『前の許婚の弟』に過ぎないのだから
それに……があの重苦しい黒衣を脱ぎ捨てる事は、もう長い間俺の願う所だったのではないか
それが叶う今、他の誰よりも俺がまず第一にを祝うべきだろうに……なのに何故こうも己の心の中にわだかまりが残るのか

守護する獅子宮から闘技場へ向かう道すがら、アイオリアはその逞しい腕を固く組んだまま最早日課の如く堂々巡りの思いを馳せた
…途中ですれ違う各宮の住人達と交わす挨拶も、文字通り空虚な無意味綴りの様に空回りするだけだ
アイオリアの様子がどこかおかしいとは皆思いつつも、金色の鎧を纏う男たちは敢えて彼に問おうとはしなかった。…何故なら、彼の顔には恋煩いの色がはっきりと滲んでいたからである
アイオリアが浮かない顔で通り過ぎた後、ある者は無言で肩を竦め、またある者はくすりと溜息に似た苦笑いを洩らすのだった
同僚たちのささやかな配慮など露知らぬアイオリア本人は、闘技場へと下る階段を一歩一歩踏み締めながらフッと短い呼気を吐いた

…俺は判っているのだ。自分の心の中を占めるこのわだかまりの正体を
俺に取っては幼い頃からもう長いこと姉のような存在であり、そして憧れを抱く唯一の女性であったのだから。…兄さんが死んで以降は尚の事
………だが。

――道徳。己の忸怩たる態度をアイオリアは総てその単語のせいにしてしまいたかった
その一言で片付ける事が出来たなら、どんなに彼は楽だっただろう





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「よしっ、次!」


聖闘士候補生や雑兵達の群の中、アイオリアの低い声が一層重く響き渡った
聖闘士は、基本的に武具を用いない。
が、しかし、戦う相手は常に聖闘士とは限らない以上、敵の使い得る武器の扱いに慣れておく必要があるのは言わずもがな、だろう
木で出来た棒切れを手にしたアイオリアは、同じく槍に見立てた棒を持った候補生達にぐるりと囲まれ、その一人づつと順に打ち合いを行っていた
…無論、ものの数合も互いの武器を交えぬうちに勝負は着いてしまうのであったが


「良いか、槍の矛先を使う事だけ考えていては負けるぞ。
確かに、実戦の際には矛先に刃が付いている分、それを使って勝負をさっさと着けてしまいたい気持ちは良く判る。
…だが、それでは武器を使わぬと誓った聖闘士の名に恥じる。」


周りの者達に説明を施しながら、アイオリアは空いた左手で一人の候補生をひらひらと手招いた
…遠慮は要らないから掛かって来い、と合図を送っているのである
一瞬躊躇した候補生は、一呼吸入れて槍を握り直すと掛け声と共にアイオリアに躍り掛かった
自分の胸目掛けて掲げられた槍を己の棒切れの柄で弾き、アイオリアは解説を続けた


「このような場合には、矛先よりも柄を使え。そして防御に徹しろ。…すると必ずや敵に………油断が生じる!」


候補生の繰り出す数合を柄で受け止め、言葉を切った次の瞬間、アイオリアは柄を握ったそのままの状態で相手の槍を払いのけた
カラン。
木製の槍は、軽い音を立てて聖域の荒涼とした地面を転がった
おお…と低い歓声が周囲を包む
カン。
手にした棒切れを地に垂直に立て、アイオリアは額の汗を軽く拭った


「…判ったか、聖闘士候補生としての誇りを忘れるな。」

「はい!!」


目の前の男へのごく素直な羨望と敬意を交え、少年たちの声が闘技場に響き渡った
アイオリアは一つ頷いて応えると、候補生同士の打ち合いを再開するよう指示し、自分は一旦監督者の位置に下がった

俺も随分偉そうに物を言う立場になったものだな。………今彼らに教えた事も、総ては嘗て兄さんから教わったに過ぎないのに
年齢だけはとっくの昔に兄さんを越えたが、いつまで経っても俺は何一つ兄さんを越える事が出来ないでいる
………の事だってそうだ。

眉尻を僅かに下げて苦笑すると、アイオリアは天を仰いだ

何も兄さんがの許婚で、俺がそうではなかったからではない
兄さんに有って俺に無かったもの。……それは、自分の正直な気持ちを言葉や態度で相手に伝えようとするその意思の強さだ
今、口ではこうして候補生達に偉そうに諭しておきながら、本当は何一つ彼らに指導をしてやれる立場ですらないのかもしれん

天上からこの情け無い弟を見詰めていてくれるであろう兄と、その兄を心に住まわせたの事を思い浮かべて視線を地に下した矢先、アイオリアの視界の端に一人の雑兵の姿が掠めた
…こちらに向かって歩いて来るその足取りから何か急務と悟ったアイオリアは、組んでいた腕を解いた
棒術の訓練に励む候補生達からいま少し距離を置き、アイオリアは雑兵を近付けると何用かと問い質した


「…急を要する様子だが、どうした?」

「はっ、………その、今しがた聖域の内部に侵入した者を捕らえました。」

「敵か?」

「…いえ。おそらくは敵ではございますまい。かの者はうら若き女人でございますれば。」


雑兵のその一言に、アイオリアの眉間がピクリと動いた


「その者は、アイオリア様に用が有ると申しております。
…通常でしたら部外者は聖域外に放り出すところですが、アイオリア様を存じている以上、打ち捨てるよりはと思いまして。」

「…その女性は今、何処に居る?」

「この闘技場とは逆側、白羊宮の手前にて留め置いておりますが。」

「判った。すぐにそちらに向かう。…すまないが教皇宮に遣いをしてはもらえないだろうか。
 …私に客人があるが、女神の加護を受けたるロドリオ村の一住人故、猊下の御心を煩わせるには遠く及びますまい、とな。」

「はっ、畏まりました。」


背を向けた雑兵を一旦留め、アイオリアは厳しい表情を緩めた


「ああ、それと。…重ねてすまないが、ついでに金牛宮の前を通ったら、アルデバランに候補生達の稽古を代わりにつけてやって欲しいと伝えてくれ。」

「はっ!」


アイオリアが笑ったその表情を察して、雑兵は緊張を解いて走り出した
走り去った雑兵とは裏腹に、アイオリアの顔には再び暗い影が差し始めていた





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「…アイオリア。」


長年慣れ親しんだその声を耳にして、アイオリアはその場で俄かに立ち止まった
此処に来るまでの短い道すがら、に会ったら掛けようとあれこれ考えていた言葉はその瞬間に総て千里の彼方へと散逸してしまっていた
…目の前に立つ黒衣の女性は、先日よりもますます小さく萎んでいるのではないか
自分を呼ぶその声には、最早張りと呼べる程の若さが微塵も含まれていなかった

…どうして俺はをあのままにしておいたのだ。はこれほどに危険な信号を発していたと言うのに

アイオリアが無言のうちに激しい自責の念に駆られた矢先、の乾き切った青白い唇がうっすらと上下した


「ごめんなさいね、アイオリア。…聖域(ここ)に来てはいけないと、そう判っていたのに………どうしても自分を抑えられなかったの。」

「……。」


アイオリアが次の言葉を紡がんとしたその刹那、の身体がぐらりと前に傾(かし)いだ
咄嗟に腕を差し伸べたアイオリアの厚い胸の中に、黒衣に包まれたが倒れ込む
大地の神から厭われでもしているかの如く、その足取りはふらふらと酷く覚束無い

…あの日よりも衰弱している…!

の身体を抱き締めたアイオリアは驚愕に己の目を見開いた
力無く崩れるの全身を抱え上げ、そっと大地の呪縛から解き放つ
を支えるアイオリアの腕に一層の力が篭るのは、抱き上げたのそのあまりの軽さに自分自身を許せないからだ


…もう良い。もう良いんだ。」


微かに開いたの双眸から無色の水滴が滴り落ちる
アイオリアは静かに呟き、を強く抱き締めた
傍らにぼうっと立ったままの雑兵達が言葉も無く二人を見詰めている事に気付いたアイオリアは、僅かに首を捻って男達を顧た


「すまない。…この女(ひと)は俺の古い知己なんだ。猊下にはお許しをいただいているので心配は無い。
 ………獅子宮に連れて行く。」


雑兵達は一様に無言で頷き、一歩後ろへ下がった――この場合、そうする以外に反応の返し様が無かったであろうが
アイオリアは彼等に軽く会釈を返すと、を抱え直して白羊宮へと続く階段をゆっくりと踏み始めた





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獅子宮への帰途、アイオリアの前に姿を現す男は誰一人として居なかった
…皆、程度の差こそあれ薄々事情を察知しているのだ
闘技場への往き道とは打って変わった各宮の空気を、アイオリアはその肌で感じていた
さしものアイオリアも、その程度の事は判る
を抱え無言で通り過ぎ様、アイオリアは宮々の住人に深い感謝の意を示した

自宮の居室に辿り着いたアイオリアは、自らの腕の中で死んだ様に眠るを寝台に横たえた
…傍らから椅子をそっと手繰り寄せ、音も無くの脇に腰を下す
黒衣から伸びる首は悲しいほどに細く、水の色を映したかの如く青い
アイオリアは眉間に皺を寄せて暫くそれを眺めた後、そっと指で触れた
首筋を走る脈が微かに触れるのを自らの身体で確認し、アイオリアは小さな溜息を落とした


「………アイオリア…?」


途端、が薄っすらと目を見開いた
…どうやら、注意深く触れたつもりでもアイオリアの指がを覚醒に導いてしまったらしい
アイオリアは、あっ…と短く声を洩らし、二三秒躊躇った後にの髪に手を触れた


「…すまない、起こしてしまったようだ。」

「此処は…?」

「俺の守護する獅子宮だ。心配はいらない。」


髪を上に伝い、アイオリアはの頭をその大きな手でゆっくりと撫でた
細められたその眼差しは限りなく優しい
はふぅ、と小さく安堵の呼気を落としてゆっくりと口を開いた


「ごめんなさい、突然聖域まで押し掛けて来て…。」

「構わない。…それよりもう少し眠った方が良い。」

「…いいえ。」


はアイオリアの提案を静かに拒絶すると、黒衣に包まれた片肘を寝台に埋め身体を起こす仕草を示した
…無論、それすら覚束無いのは誰の目にも明らかで、傍らのアイオリアがその身体を支え、ようやく脇の壁に凭れる形で半身を起こした
が青白い顔を上げると、細い首筋の喉がゆっくりと上下する


「アイオリア、…私を連れて行って欲しいの。」

「連れて行くって…何処に?」

「人馬宮…あの男(ひと)の守った場所に。此処よりは上にあるのでしょう?」

「人馬宮!?確かに兄さんの宮だけど、其処に一体…?」


あまりに唐突なその申し出にアイオリアは見開いた目を瞬かせ、そして表情を曇らせた
困った表情を露にするアイオリアを前に、は落ち窪んだ目をほんの少し細める
それはもしかすると今のなりに笑っているのかもしれないが、アイオリアには伝わってはいないようだった
そうしてたっぷり10秒程も黙っていただろうか、は意を決しアイオリアに訊ねた


「アイオリア、貴方知っているのでしょう?………私が結婚する事を。」


アイオリアはドキリとした
言うなれば、予測もしなかった最後通牒を突如突き付けられたようなものだろう
…重ねて記すが、アイオリアは表情を装うなどと言った器用な真似など出来ない。
従って、が口を開いてこの一言を発したその段階でアイオリアの負けで、彼にはリアクションの選択肢は残されていなかった
二人の間に暫しの沈黙が流れ、やがて観念したアイオリアは一つ頷いた
は何ともばつの悪そうなアイオリアを見ると、眉尻を下げて溜息を落とした


「やっぱり…。」

「だが、何故それを?」

「貴方の誕生日の頃にまた来てと確かに私は言ったけど、それにしても家にやって来る気配がないからおかしいとは思っていたの。」

が来るなと言えば俺は行かないよ。」

「それまで来ないで、とは言ってないわ。…でも、そう考えるなんて貴方らしいわね。」


がくすり、と笑うと黒衣の背から一筋髪が零れた
やつれ切った身体と裏腹にその髪は艶を帯び、薄暗い獅子宮の闇を反射する
まるでその艶がの生気を吸い上げているのではないかと考えてアイオリアは一瞬固唾を呑み、そして己の発想の女々しさを呪った


「私が結婚するって事、誰に聞いたの?差し支えるなら無理に言わなくても構わないけど…。」

「あ…ああ、ディミトリオスだ。この間を訪ねた帰りに呼び止められたよ、もうじき嫁入りする女性の元には軽々しく出入りするな、とね。」

「ディミトリオスと貴方は昔から仲が良かったわね。…そう、でもそう言われたのでは家には来られないでしょうね、貴方の性格なら。」


はアイオリアの説明に得心が行ったのだろう、軽く頷くと黒衣の袷目から亜麻色の布袋をそっと取り出した


「…私を人馬宮に連れていってと言ったのは、これを……。」


布袋の中から現れたのは、あの日アイオリアも目にした二本の革ベルトだった
一本は自分の誕生日の祝いに、とが見せてくれた物だ
…そして他方は、籠の底に隠すようにして視界から遠ざけていたそれと思しかった

あれは、結婚相手の男に贈る物ではなかったのか…。

自分の早とちりを恥じたアイオリアだったが、やがてはっとしてを見た
そうね、貴方の考えている通りよ、と声にこそせずにが頭を縦に振る


「人馬宮のアイオロスに………今もきっとそこで私達を見守ってくれているアイオロスに、最後の贈り物をしたいの…私が嫁いでしまう前に。
聖域の人間ならぬ身には過ぎた我が儘だと、それは分かってる。…でも…。」

「解った。…もう何も言わなくても良い。」


アイオリアは片手を上げてを軽く制し、口元に笑みを湛えての背にもう片方の手を添えた
…だがそれはあくまでも作り笑いであり、口元のその笑顔とは正反対の表情がくっきりと目元に刻まれている事に、本人の目の前のは気付いていた





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再びの身体を抱え上げたアイオリアが人馬宮の入り口に到着したのは、もう日も暮れかかった時分だった
ギリシャの大地の色を映した斜陽が、主無き人馬宮の柱の影を長く作り出す
さあ、此処が人馬宮だと告げる代わりに、アイオリアは無言でをその腕から下した


「…此処が…人馬宮なのね…。」


落ち窪んだ目に殉教者の暗い光を宿し、はアイオリアに訊ねた
眉を顰めたアイオリアがゆっくりと頷くと、は一歩、また一歩と宮殿の内部へ黒衣に包まれた両足を交叉させた
ふらふらと覚束無いその足を動かしているのは、最早この世の者ならぬ存在の為せる業なのではないだろうか
数歩離れてのその背を見守っていたアイオリアは、暫し躊躇した後、に手を貸すため前に足を踏み出そうとした


「…来ないで、アイオリア。少しの間…少しの間で構わないから私を一人にして欲しいの。」


こちらを顧る事すらせずに発されたその一言に、アイオリアはビクリとその場に釘付けになった
目の前のは、重い足を引き摺るようにして歩いていると言うのに
愛する女性と自分との間を遠く隔てる「何か」が、今のを動かしているのだ

…俺は一生、その「何か」になる事が出来ないのか。………だが。

その場に立ち尽くしたまま、人馬宮の薄暗い内部に吸い込まれたの背を見送り、アイオリアは憂悶のうちに夕空を見上げた

…何故だろうか、俺にはその「何か」が決して善きものとは思えないのだ…もう長い事。


「だとしたら、今の俺は一体どうすれば良い…?」


生者の問いに、死者は応えない。
それは判ってはいたけれども、黄昏に瞬き始めた星々に兄の姿を重ね、アイオリアはぽつりと独りごちた
空は徐々にニュクスの支配する世界となり、やがて辺りは暗闇に包まれた
…聖域には街灯などと言う気の効いた物は存在しない。強いて挙げるなら教皇宮や一部の宮の内部には燭台が設えられている、その程度だ
よって夜陰に包まれた聖域のその暗がりは、常人には耐え難い程の恐怖に思えるだろう
…無論、聖域で育ったも同然のアイオリアには、それは微塵の恐怖すら与え得るものではなかったが
ぽつぽつと散開した星光を湛える暗い空をじっと見上げているうちに、アイオリアはやがてそれがの身に纏うあの衣のように思えてフッ、と自嘲気味に声を洩らした


「兄さんが生きていたら、きっと今の俺を笑うだろうな。
…いやそれ以前に、兄さんが生きていたとしたらもうと結婚している筈だから、こんな情け無い状態にはならない、か…。」


アイオリアの頭上で一番強く光る星が、俄かに瞬いた
お前も俺の弟ならもっとしっかりしろ、と兄が叱咤しているかの様だ
軽く肩を竦めて身体を翻したアイオリアは、人馬宮の入り口を一瞥して組んでいた両の腕を解いた

…それにしても、長すぎる。は中で何をしているのだろうか?

一人にしてくれと言われた手前、アイオリアは入り口の向こうには足を踏み出せずにいた

…だが、本当にそれで良いのだろうか
夕日を背に人馬宮に消えるの後ろ姿は、何か危うげな力を宿しているとしか思えなかったのに

俄かに不安に駆られたアイオリアは、その場で静かに意識を集中して人馬宮の内部の様子を探った
元来が弱弱しいの発する小宇宙が今にも消え入りそうな程に揺らめいているのを察知するや否や、アイオリアはじっとりと張り付く嫌な予感に駆られ、との約束を振り解いて宮殿の内部に駆け出した





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!!」


暗く静まり返った人馬宮にアイオリアの低い声が木霊した
愛する人を呼ぶその悲痛に満ち満ちた叫びは人馬宮の重苦しい空気を揺るがし、やがて奥深くに吸い込まれて消えた
兄の遺した石の碑文の前に伏せる形で横たわるの身体は、夜目にも鮮らかな紅の淵に包まれ微動だにしない
人馬宮の冷たい石畳は、流れ出るの血液から絶えること無く温度を奪い去り続けていた――今日までの、彼女の人生の大部分と同じく――


!……、俺の声が聞こえるなら返事をしてくれ…!」


の作った血溜まりに躊躇う事なく己の膝を屈し、アイオリアはの身体に触れた
その背はまだ温かく、さほど長い時間が経過した訳ではないと思しかった
…だが、それが何の救いになるだろうか
刻一刻との体温を奪う人馬宮の石畳を、アイオリアは今日ほど憎く感じた事は無かった
べっとりと血を滲ませた黒衣ごとを抱き上げ、アイオリアがその顔を覆う髪の毛を掻き分けると、やはり血糊を所々に粧ったの蒼白な頬が露になった
ぞっとする程に冷たいその頬に触れ、アイオリアは石畳の上に無造作に転がる小さな銀の短剣を弾き飛ばした

…こうなる事は判っていたのに…予測できたにも拘わらず、俺は…!

アイオリアは怒りに任せて石畳を拳で強く叩いた
ミシミシ…と、鈍い音が拡散したその跡には放射状の亀裂が刻み込まれる
その時、短剣の落ちていたその傍らに見覚えのある革ベルトが置かれている事にふと気付いた
逞しく長いその腕を伸ばし、アイオリアはそれを手に取った


は、最初から死ぬつもりだったんだ。…俺が村を訪れたその時には、もう……
この世との訣別の証としては二本のベルトを編んでいたのに、俺はただ喜ぶばかりで何も気付かなかった。」


動かぬを抱いたまま、アイオリアは目の前の石碑を振り仰いだ


「…兄さん。これは貴方の望んだ事ですか?貴方がを置いて逝ったその時から、いつかこうなる事を貴方は知っていたのではないですか…。
 ………それが判っていたのなら、俺は…俺は最初から……!」


アイオリアは力任せにの身体を抱きしめた


「すまない、……!」


の背に食い込んだアイオリアの十本の指が軋み、ギシ…と鈍い慙愧の音を上げる
の身体は今にも潰れて壊れてしまいそうだった


「…ア…イ…オロス…」


刹那、の冷え切った唇から小さな声が零れた
驚いたアイオリアがの身体に食い込ませていた指の力を抜きそっと揺さ振ると、は落ち窪んだ瞼を静かに開いた


「…ああ、アイオロス、貴方なのね。
私……ずっと貴方を待ってた。これでようやく………。」


蒼白い瞼の奥に埋め込まれた鉛玉の様なの瞳が、アイオリアの碧深き眼差しをぼんやりと映した
…だが、其処に浮かぶ網膜像が最早還らぬ者と取って代わられているのは火を見るより明らかだ
アイオリアは一瞬眉を顰め、その後は長い事沈黙を保ったままの髪を撫で続けた
最初は蚊の鳴く程に弱かったの呼吸がその時間の経過と共に少しづつ強さを増し始めたのは、目の前に膝を突く獅子の男の小宇宙に身を委ねているからだろう
明瞭になったが故に些か苦し気に聞こえる息の中、は焦点のぼやける目で自分を包む男を追った


「アイオロス…、どうして私を置いて逝ったの?
 私は……ただ貴方を悼むだけの長い長い間に、もう自分が生きる意味さえも失ってしまった。
 …でも、それはもう良いの。今こうして貴方が私を迎えに来てくれたから…全部、全部忘れてあげる。」


だから、もう苦しくなんかないわね…と呟き掛けたの言葉を遮り、アイオリアはの身体を抱き起こしてその瞳を間近から真っ直ぐに見据えた


、俺はアイオロスじゃない、アイオリアだ。……兄さんじゃないんだ。」

「アイオ…リア……なの?」


そうだ。
アイオリアはの虚ろな視線に己の姿を焼き付けるため、一つ頷いて見せた


「アイオロスは死んだ。…そして、貴女とこの俺は生きている。辛くとも、それが目の前の残酷な現実なんだ。
 兄さんは貴女を迎えには来ない……未来永劫に。幾ら貴女が兄さんを想ってみても、それだけは決して起こり得ないんだ。」

「嘘…よ、それは嘘だわ。」

「嘘なものか。…、貴女だって本当はその事を知っていたんだろう?兄さんはもう13年も前に死んで、いくら祈っても還っては来ないと。」


ポタリ。
アイオリアの腕に包まれたの首筋に色の無い雫が数滴、滴った
…獅子の男が、泣いている


「アイオリア…?」

「兄さんに還って来て欲しいと、この俺が一度も願わなかったと思うのか?…、貴女の笑顔を取り戻す、ただそれだけのためにだ。
 この13年間、俺が貴女をどんな想いで遠巻きに見ていたか…。」

「判っていたわ、アイオリア。…貴方の気持ちを。でも…私には…もう…。」

、貴女は長いこと黄泉路に似た人生を歩んできた。が兄さんの事を大切に想ってくれるのは弟の俺としては嬉しい。…だがそれだけでは駄目なんだ。
 兄さんは還って来ない。そして貴女の人生はまだ続いて行くんだ。…だから、俺は今何の躊躇いも無く言おう。
 、…俺は貴女を愛している。貴女の許婚・アイオロスの弟としてではなく、一人の男アイオリアとして。」


アイオリアは13年分の思いのたけを一息に形にすると、涙に濡れそぼった己の目を拭いもせずの身体を再度強くかき抱いた
背に回した腕に力を籠めると、ミシミシとの身体が軋む


「…痛いわ、アイオリア。」


二三度咳いたが小さな声で抗議したが、アイオリアは微塵も腕の力を緩めはしない


「痛いだろう、。…これが生きていると言う事だ。貴女が13年の間に忘れ去っていた総ての感覚を、これからは俺と共にして欲しい。喜びも、そして苦しみも。
 兄さんを忘れる必要は無い。だけど一歩づつで良い、俺と前に歩いて行こう。…貴女の失ったものを取り戻すために。」

「そんな事が許されるのかしら…この私に。」

「ああ、許されるとも。貴女が捧げた13年の犠牲に、俺が報いる番だ。……想いを告げるまでに13年も掛かってしまったが、兄さんもきっと喜んでくれる筈だ。」


は無言でアイオリアの背中に両の掌を当てた
自分に流れ込んで来る獅子の男の体温がじんわりと心地良い事に、僅かな当惑を抱いて指を離す
その青白い両の手を取って、アイオリアは自分の胸に導いた


「それで良い。戸惑う事も一つの感情なのだから。そうやってゆっくりと生身のを取り戻して行こう、俺と共に。」


アイオリアの強い鼓動が、の指先から身体全体に拡散する
ああ…とは小さく呼気を洩らし、ゆっくりと顔を下に向けた
…溢れ出したその涙は、一体何の為なのか。歓喜なのか、悲哀なのか、良く判らないけれども強い情動がの身体の中で今大きく膨らみ、次々と弾けてはまた産声を上げる

…こんな気持ちを前に感じたのは、一体何時の事だっただろう…

ようやく時を刻み始めたの心の裏(うち)で、14のまま時間を止めた少年が一つ笑ってゆっくりと背を向けた

さようなら、アイオロス。……私の愛した男(ひと)。

声には出さずに呟き、は目を閉じると獅子の男の厚い胸にそっと身を傾けた











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