まだ少女と言っても良い頃、私は海で溺れた事がある
       それは、両親と3人で行った旅行先での事だった

       考古学者であった父の提案で訪れたエーゲ海で、私たちの乗った船は事故で沈没した
       クルーズ用の大型船は、岩場に座礁し、それこそ本当にあっと言う間に沈んでいった
       …船内にいた両親を探す間も無い程、僅かな間に

       …そして、私はその事故で父と母を喪った

       私は、この事故における唯一の生存者だったと、後になって聞かされた
       だけど、そんな情報は私にとって何の意味も持たなかった
       奇跡だと、周りの人間は皆口を揃えて言った
       …でも、私はそんな奇跡なら起きて欲しくなど無かった










        Paingiver













       事故が起きてから、海岸に打ち寄せられた私が発見されるまでの間の事を私は殆ど覚えていない

       夜のしじま、俄にクルーズ船内がざわついたかと思った次の瞬間、甲板のあちこちで悲鳴が沸き起こった
       何語なのか分からない…多分いろんな国の言葉が飛び交い、それぞれが誰かを呼び合う声が私の耳に木霊した
       その声にはっとした私が自分も両親を探さねばと慌てて歩き出したそのタイミングに合わせるかの様に、船体が後方に大きく傾(かし)いだ
       バランスを崩し甲板に仰向けに倒れこんだ私の目に、暗い大空が映った
       どこかに身体をぶつけたのか、背中がとても痛かった
       だけど、夜空に浮かぶ星の瞬きがやけにはっきりと見えて、そのあまりの美しさに息を呑んだ
       …そこから先の事が思い出せない


       …唯、海底(おぞこ)から急に上昇した事と、何か冷たいものに身体がずっと掴まれていた様な感触が今でも残っている










       アテネ市内の病院の一室で目覚めたとき、私は医師に自分が一人になってしまった事を告げられた
       肉体以上に精神的なショックが大きすぎて、一滴の涙すら出てこなかった
       唯顔を覆う為に両の手を上に持ちあげた時に、私は自分の右手に何かが握られている事に気がついた
       ゆっくりと右手を開くと…そこにはシルバーの十字架があった
       「海岸で貴女が見付かった時からずっとそれを握っていたらしいわよ」と看護婦に言われ、私はそれをしげしげと眺めた
       一体誰の物なのか、そしてどうして私がこれを持っているのか、私にはさっぱり分からなかった
       ペンダントとして使うために通された鎖は、少し長くて太い
       もしかすると、これを持っていた人は男性だったのかもしれない
       十字の交差したところに埋められた青い石が、あの日の暗い夜空の色を思い出させた

       ポタリ

       生暖かい十字架の上で、涙が弾けた
       その時になって、私は自分が本当に一人になってしまった事を思い知った
       …もう一度、あの夜に戻ってくれたなら
       そうしたら、私は父母とずっと一緒にいて、共に死を迎える事を選んだだろう
       どうして、私だけが助かってしまったのか
       奇跡と言うものの存在を、私はその時心底憎いと思った
       奇跡が本当に存在するのなら、私をもう一度あの夜の船の上に戻してくれと目を閉じて願った
       …でも、「奇跡」は二度と起きなかった
       私は、手の中の十字架を潰れそうな程強く、握り締めた












       日本に帰った私は、叔父夫婦の元に引き取られた
       叔父夫婦には子供が無く、まるで本当の子供のように暖かく接してくれた
       …でも、乳児や幼児ほど記憶が曖昧な年齢とは程遠かった私には、やはり時折たまらなく辛い事があった
       思い出すのが辛いから、父や母の存在を思い出させるような形見の品は全て処分していた
       勿論、引き取ってくれた叔父たちに遠慮したのもある

       …自分は、一人なのだ

       辛くて仕方が無い時、私はあの十字架を手に取ってそう言い聞かせた
       青い石の中にあの日の夜空を見出す事は殆ど無くなり、かわりに時折海の底とあの冷たいものの感触を思い起こさせた
       あれが何だったのかは分からない
       唯、私はそれに陸(くが)の世界に引き戻されたのだろう
       普通、こんな場面だったら何かの声が聞こえたりするのだろう
       人はそれを神の声だと言ったり、現世からの呼び声だと言ったりする
       でも、私の耳には何も聞こえなかった…ただ水の渦巻く音と波の音以外には
       そしてその事が余計に、この身体にくっきりと残るあの何かの感触の記憶を際立たせていた
       十字架を胸にそっと当ててその冷たい感触を思い出す度に、私は心の裏(うち)で誓った

       …いつかきっと、もっと大人になったなら、再びその「何か」を探しに行く、と
















       「。気を付けて行って来るのよ。くれぐれも事故に巻き込まれないようにね。」

       「分かってるわ、叔母さま。…大丈夫よ。」

       「…テロになど巻き込まれなければ良いが。、気を付けてな。」

       「…それは宝くじよりも確率低いから大丈夫よ。叔父さまもお体に気を付けて。
        私のいない間くらいはお酒は控えてくださいね。過ぎたお酒はお体に良くありませんから。」


       今や両親と言っても過言ではない二人が、不安そうに私を見た
       …無論、両親に近くはあるけれど、彼らが両親ではない事は本人達も分かっている

       事故当時思春期だった私は、それから10年強の時を経て、今や立派な結婚適齢期の女性になっていた
       親のように私を慈しんで育ててくれた叔父夫妻を、私はずっと「叔父さま」「叔母さま」と呼んで来た
       …とても冷たい呼び名の様に思えるかもしれない
       しかし、事故当時多感な少女期であった私に取って、それは至極当然の事であり、寧ろそれこそが彼らへの精一杯の親愛の表現であったのだ
       …叔父・叔母を突然「おとうさん」「おかあさん」などと呼ぶ方がよっぽど不自然なのだ
       無論、二人も私にその呼び名を強要するような事は無かった
       …父母を亡くした身ではあるけれども、本当に良い人達と共に暮らすことが出来た事を、私は今心底、神に感謝している


       「…、貴女をあの地に一人で遣るのは本当に不安だけど、…行って、しっかり見ていらっしゃい。気の済むまで。」


       私を見上げる叔母の瞳に、暗い悲しみの記憶が映る
       …私だけではない、この人たちにとってもあの事故で失ったものは決して小さくはなかったのだ
       改めてその事を思い、私は言葉を飲み込んだ


       「…お父さんとお母さんに、しっかり伝えていらっしゃい。…今の貴女を。
        二人とも、きっと喜んでくれるわ。たった一人の娘なんですもの。」

       「…叔母さま…。」

       「そうだな。兄さんも、義姉さんも、きっとお前が来たと知ったら喜ぶだろうな。
        …行って、報告してきなさい。聖二君との事もな。」

       「そうね、きっと二人とも喜ぶわ。一人娘の貴女が大きくなって、お嫁に行くんですもの。
        二人そろって新婚旅行で報告に行くのも良いと思うけど、、貴女の心の問題ですものね。」


       二人の言葉に、私は胸が塞がる思いだった
       肉親の情、などと言うととてもベタベタしたものに感じるかもしれないけど、心の奥がぽうっと温かくなる、
       そんな思いに包まれるのは人間だれしも嬉しいものだ
       そして、それと同時に一人の男性の面影が私の脳裏を過(よ)ぎる
       聖二。それは私が来月入籍する相手の名前
       きさくで暖かく、誠実な………「良い人」
       私は彼と結婚して、幸せになる………多分、きっとそう

       私が聖二と結婚したいと言った時、叔父は心底喜んだ
       学者だった父とまったく異なり、叔父は祖父が興した大企業の後継者として立派にその任を果たし、
       この経済状況の中で会社を更に大きく育て上げつつあった
       聖二はその叔父に辣腕振りを認められた言わば生え抜きのエリートで、叔父が彼をいたく気に入っているのは私から見ても明らかだった
       …そして、子供の居ない叔父夫妻の手元には、私が居た…私だけが
       叔父も、叔母も、誰もそれを強要などしない
       だけど………いや、だからこそ、私は選んだ…その道を
       恩返しだとか、世間で言われる様なそんな寂しいことを考えたくないから、全ての事を深くは考えない様にしていた

       …私は、一人なのだ

       「一人である」と言う事は、時に恐ろしいほど物分りが良くなる事を自ずと可能にする
       それが、「身内の事情」であったりすると、尚更のことだ
       …犠牲になるのではない、これが当然のことなのだ
       断じて自分を騙すのではない、これが自然の摂理に似た「流れ」なのだ
       しかし、そのような事を自分に言い聞かせねばならない今の自分自身に大きな矛盾を感じてしまうのはどうしてだろうか
       白や黒と言ったはっきりした答えが出る問題ではないし、答えを出してどうにかなる問いではない事は分かりきっていたけれど、
       私はどうしてもその問いと向かい合う時間が欲しかった…唯何も考えずに流され続ける人間にならないために
       俯いた私の視線の先で、胸に下げた十字架が鈍い光を放った
       …そうだ、あそこに行けば、きっと何かが分かる
       行かなくては…行くのなら今しかない
       長い鎖を手繰り寄せて、私は十字架を握り締めた

       「聖二さんと結婚する前に、もう一度あの海を見たい。…父さんと母さんにも伝えたいから。」

       滅多に我侭など言わない私の、一見すると嫁入り前の娘がいかにも抱きそうなしおらしいその願いを、叔父と叔母はそのまま受け止めて送り出してくれた
       何だか少し後ろめたい気もしなくも無かったけれど、
       今はただ自分の中に潜む全ての疑問の答えがあの海にある気がしてどうしても身体が動かずにはいられなかった
















       ギリシャの首都・アテネに降り立った私の視界一杯に、眩しい光が拡がった

       降り注ぐ陽光、微かな湿り気を含んだ爽やかな風、天に伸び始めるアーモンドの葉
       絵に描いた様な楽園の出で立ちは、あの事故の存在の気配を微塵も感じさせはしなかった
       ……だが、私にとってあの晩のことは、決して嘘では無い
       嘘であったなら、今の私はこの国の明るい空気をそのままの姿で満喫できたに違いない
       少し目を伏せた私の耳に、沢山の国の言葉のラッシュが続いた
       観光国である上に夏にオリンピックの開催を控えて、おそらく例年以上の観光客や観光業者がこの国に押し寄せているのだろう
       ただ黙ってその会話群に耳だけ澄ましていると、途端に目の前にあの闇が広がり、今にも私を飲み込むかの様な不安に襲われた
       …やはり、此処なのだ。此処こそが私にとって最先(いやさき)にして最後(いやはて)の地
       ゴポゴポと言う暗い水の音と冷たい何かの感触が、痺れるほど強く身体中に反射した
       小刻みに震える足を必死に耐えるために、私はギリギリと胸の十字架を握った









       アテネ市内のホテルにかりそめの居を構えた私の枕元で、電子音が響いた

       「…はい。」

       フロントから外線が入っている旨を伝えられて、私は枕元に置いている時計を見た
       …8時。そろそろ起きた方が良い時間だろう
       此処に来て5日も経つのに時差ぼけで少々だるい身体を起こし、私は外線が繋がるのを待った


       『…。』


       受話器の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえた


       「聖二…さん。」


       てっきり叔母だろうと思った私は、少々戸惑った
       今が朝8時…と言うことは、サマータイムを換算すると向こうは昼2時だろうか
       会社勤務の生え抜きエリートが電話を掛けてくるにしてはちょっと無理のある時間に思えた


       「…こんな時間に、どうしたのですか?」


       意外そうに尋ねる私の声に、受話器の向こうから笑い声が返ってきた


       『外回りだよ、僕は。携帯から掛けてるんだ。…そっちは朝だろう?』

       「ええ。」

       『10日間の日程って言ってたから、そろそろこっちが恋しくなってはいないかと思ってね。
        …どうだい、そっちは。』

       「………ええ。毎日お天気も良くて、素晴らしいです。」


       咄嗟に答えたものの、聖二が言った言葉に私はショックを受けた
       ……私この5日、日本のことも、…そして聖二のことも、欠片も思い出しもしなかった
       脳裏にいつもあるのは、あの夜の事…逆巻く水と何かの感触
       ホテルの窓から外を見る時も、シャワーを浴びる時も、街を歩いている時も、片時もそれは離れない
       ふとした瞬間にまで、そのビジョンは平気で私を捕らえて蹂躙する
       視覚、聴覚、触覚…この地に来てからというもの、全ての感覚器が伝えていた
       …「それを探せ」と


       『…どうしたんだ?急に黙り込んで。』


       私が何も言わないので、不安げな返事が返ってきた


       「いいえ。ごめんなさい、心配をお掛けして。…お仕事、頑張ってくださいね。」

       『ああ、そろそろ時間だな。ありがとう。そっちも気を付けて。』

       「私こそ、ありがとうございます。それでは。」


       受話器を元に戻して、私はベッドに腰を下ろした
       …私は、酷く冷たい人間かもしれない
       物分りの良い笑顔の下で、平気で他人を傷付けることを考えている

       …どこかで捻じ曲げられた、私の人生
       でも、今更戻ろうと思っても、辿り着きはしないのだ…父母と三人でずっと暮らしたかもしれない、別の未来には

       …私は、一人なのだ

       今まで歩んできたこの人生を、私は後悔はしない
       例え捻じ曲げられた人生でも、それが今の私を構成する以上、否定することには何の意味も無い
       これも、きっと一つの運命なのだから
       …だが、その運命の指し示す「私の未来」とは、一体どんな形をしているのだろう
       この数日、私を捕らえて離さないあの感覚が、私の未来と強く結びついている予感がして仕方が無かった
















       帰国を3日後に控えた日の午後、私はある施設を訪れた
       十数年ぶりに訪れたそこは、嘗て私が海から運び込まれたあの病院だった


       「10年以上経っても、あまりこう言う施設って変わらないものなのね。」


       少女だった私が嘗て一人で歩いた廊下を、私は再び歩いていた
       カツン、カツン
       ほんのりクリーム色がかった廊下は、あの日と変わらず綺麗に磨き上げられて靴の摩擦を減少させた
       …あの日と違うのは、私の靴かもしれない
       スニーカーを履いた少女は、今やヒールの固いパンプスを身に付けている

       …私が、変わった?

       ふと立ち止まり、私は廊下の大きな窓から外を見た
       少し高台に位置する病院から遥か下に、エーゲ海が見える
       明るく反射する淡く青い海は、此処の患者にとっては多分心休まる風景なのだろう
       ……ごく一部の、ほんの僅かな人間を除いては






       階段を昇り、嘗て私が入院していたフロアまで辿り着いた
       私は、ナースセンターに立ち寄って事情を説明した
       驚いたことに、当時から勤務している看護婦が数名、まだ私の事を覚えてくれていた


       「あのときの娘(こ)が、こんなに大きくなっちゃって!私も歳を取る筈だわね。」

       「綺麗になったわねぇ!まあまあ、良く来てくれたこと!」


       仕事の手を休め、皆一様に驚いたり笑ったりしていて私を歓迎してくれた
       …そして、誰一人としてあの事故の事を引き合いにださないでくれた事が、私にとっては何より嬉しかった


       「あらあら、もうこの娘ったら、泣かなくてもいいじゃない。」


       年配の看護婦の手が、私の背中を優しくさすった
       その手があまりにも温かくて、私は彼女の手を取って声を上げて泣き始めた



       暫く経って落ち着いた私は、婦長に案内されてフロアの一角へと足を踏み入れた
       ナースセンターから20m程離れて奥まった所にあるその部屋は、当時私が入院していた部屋だった
       二ヶ月と言う日々を過ごしたその部屋は、今は偶然入院患者が居ない為こうして患者でも無い私が入室することが許可された


       「すきなだけ、ゆっくりしていらっしゃい。…時間を戻す事は出来ないけれど、時間を辿る事はできるのだから。」


       ドアの手前で、婦長が私の背中に声を掛けた
       何も言えないでいる私の方にそっと手を当てて、婦長がそのまま踵を返してゆっくりナースセンターの方に歩いていくのが背中で分かった
       私はドアの取っ手に手を掛けると、一呼吸入れてドアを開けた

       ………私の視界一杯に、海が拡がった

       まるでドアから直接海に繋がっているかの様に、私の瞳は部屋を通り越してただ、海だけを映し出していた
       先程廊下の窓から見下ろしたそれよりも、はっきりと青い光を湛えて私を圧倒した
       ………とうとう帰って来てしまった…この海へ


       「………父さん、母さん……!」


       涙で霞む青い海底から二人の声が耳元を掠めた気がして、私は窓枠に駆け寄った


       「父さん、母さん……。どうして私だけ置いていったの…。
        私は、私は……ずっとずっと一人で辛かった……!」


       堰を切って、涙が零れ落ちた
       ずっと心の底に封じ込められていた本当の気持ちが唇から溢れると同時に、何かの封印が解けたかの如く涙は次から次へと留まる事無く流れ始めた
       …いくら泣いても、二人は返ってこない
       時が戻るわけでもない
       奇跡など易々と起こるものではなく、それを選ぶ権利を持つのは姿無き神くらいのものだろう
       …でも、それを願う気持ちを持つことだけは、人間誰しも許される筈
       私は、その気持ちすら封じ込めていた
       …私は、「一人」だから
       生きるために、私はそんなささやかな祈りさえもあきらめ、捨て去ってしまっていた…恐ろしいほどの「現実」と向かい合うために

       がっくりと膝を付いた私の脳裏で、ゴボゴボと記憶の中の水が再び渦を巻いた
       あの時、暗い水の向こうに父母の姿が見える気がして……そう、私は海底に手を伸ばした!
       自分の身体は海面に向って…「生」に向って浮上しようとしていたのに、私はそれを振り切ろうとした
       浮力と言うのは意外にいい加減なもので、私が海底の世界を望んで手を差し出した途端、私の身体はどんどん重く、底に向って落ち始めた
       驚く程自然に、そして当然に
       ああ、底に落ちるのが当然なんだと思ったら、不思議と息の苦しさが和らいだ
       そして、私の意識が少しずつ薄くなって眠りに落ちるような心地よさに包まれかけた時に………突然、腕を強い力で上のほうに引っ張られた
       海底に行けないのが残念だとうっすら思ったら、強い力で身体を締め付けられた
       それはまるで、子供が誰かに悪戯を咎められているようで、私はその時……心底安心したのだ
       …そして、気が付いたらこの病室に居た





       一時(いちどき)に噴き出した記憶に、私は驚いた
       封印が解かれるとは、まさにこんな事を指すのだろうか
       這いつくばるようにして床に手を着いた私の胸元から、長い鎖に繋がれた十字架が覗いた
       真ん中の石が、あの海底の色を映して鈍く光る
       今まで何度も何度も繰り返してきた様にその十字架を握ろうと右手を伸ばした瞬間、何かがピシリと私の中でスパークした
       …私の右手に十字架を握らせた、その手の温もりの記憶が
       「生きろ」
       その手の持ち主の、心の声が耳の奥で息を吹き返した

       ……私は、生きている
       そう、こうして生きている

       キン。
       愕然とした私の目の前に、音を立てて十字架が落ちた
       役目を終えたかの様に切れたその鎖ごと、私は右手に十字架を取った

       ……私は、生きる
       私の…誰のものでもない私だけの人生を、自分のこの足で

       ゆっくりと立ち上がった私の視界の海の上で、父母の優しい笑顔が束の間揺らめいた













       部屋を出た私は、ナースセンターに立ち寄って看護婦達に礼を述べた


       「またいらっしゃいね。……ああ、そうもいかないわね。ここは病院ですもの。」


       片目を閉じて笑う婦長に釣られて、私もくすりと笑い声を漏らした


       「皆さんも、お体にお気を付けて頑張ってくださいね。」


       看護婦たちの優しい表情(かお)に送られて、私は病棟の階段をゆっくりと降り始めた
       …踊り場から見えるこの海も、もう恐ろしくはない
       遥かに見える水面の淡い表情が、私の瞳にありのままの姿で映る
       …そうだ、これからあの海に行ってみよう
       今なら、きっと大丈夫な気がする


       「ちょっと―――。ちょっと待って、さ――ん!」


       顔を上げた私の背に、婦長の声が近付いて来た
       声と共に、バタバタという足音がだんだん近付いて来る
       私は階段を降りる歩みを止めて、背中を振り返った


       「さん。…ああ良かった、まだ間に合ったわ――。」

       「…どうしたんですか、婦長さん?」


       少し息を切らしながら、婦長はゆっくりと階段を降りて私のすぐ側までやってきた


       「…いえね、折角だからこれをと思って。みんなで。」


       婦長の手には、小さな紙袋が握られていた
       婦長が、それを私に差し出す


       「ありがとうございます。…何ですか?」

       「ふふ、お菓子よ、お菓子。折角なんだし、この国のお菓子をと思ってね。
        …甘いものは、心が落ち着くって言うでしょう?」


       ピンク色の小さな包みには、急いで施した赤いリボンが付いていた
       子供が喜びそうなそれは、10年以上前の私も何度か貰ったことのあるものだった


       「…ありがとうございます、婦長さん。どうかいつまでもお元気で。」

       「元気でね。…どうか幸せに。」


       婦長の背を見送った私は、再び涙腺が緩くなるのを堪えていた
       パタパタと足音が遠のいて聞こえなくなってから、私は再び階段を降りようと身体の向きを変えた
       がくん
       その拍子に、高いヒールが階段を掠めて空を踏んだ
       背中に、恐ろしい予感の衝撃が走る


       「きゃあっ!」


       短く叫んだ私の身体は……次の瞬間、数段下の踊り場の冷たい壁に受け止められていた
       ………いや、それは踊り場の壁ではなかった


       「………あ…。」

       「………。」


       振り返った私は、無言の胸板に顔をぶつけた
       背中から私を受け止めていたのは、背の高い男だった
       ほっとしたのも束の間、私の身体中にショックが走った

       …この男(ひと)の胸を、私は知っている……!

       私を包むこの冷たい胸の感触に、私は確かな覚えがあった
       記憶の片隅で、再びあの夜の水が渦を巻く


       「……おい、いつまでこうしているつもりだ。」


       頭上から届いたその低い声に、私ははっと我に返った


       「…あ。あ、すみません。」


       咄嗟に謝り、私は男の顔を見上げた
       …まるで彫刻のように、整った顔
       此処はギリシャなのだから当然と言えば当然なのだが、彫りの深い目元、高い鼻梁
       淡く透き通った青い瞳は、少し冷酷に思えなくもない
       そして見事なまでに長く伸びた、青銀の髪
       彼の全てが、私にこの国の海を思わせた

       …そうか、この国の海を思わせるから、きっとこの人を「知っている」と思ったのね

       明らかに時系列の狂った発想に、その時私は妙に納得してしまった
       男から身体を離し三歩ほど下がって距離を取った私は、彼に礼を述べた


       「ありがとうございました。咄嗟のことで大変失礼しました。」

       「……東アジアの人間か。」


       礼を述べると同時に頭を下げた私のその仕種に気が付いたのか、男は一言ポツリと呟くとくるりと背を向けた


       「…こんな所で死にたくなかったら、履き慣れん靴にはせいぜい気を付けることだ。いつでもそこに誰かがいる訳では無い。」


       侮蔑しているわけではないが、冷たい声だと思った
       …それでも、私を助けてくれた事には違いない


       「…こらからは気を付けます。……本当にありがとうございました。」


       もう一度頭を下げて礼を述べた私に背を向けたまま、男は短く呟いた


       「死ぬ時になれば、人は死にたくなくとも死ぬ。…二度と死にたいなどとは思わんことだ。」

       「……え?」


       男の言葉に、私はその場に立ち尽くした
       …この男(ひと)、何故そんなことを…?


       「…ではな。」

       「あ…あのっ!」


       須臾の後、男を追いかけて階段を駆け降りた私の視界には、海の淡い青色だけが反射した






<BACK>     <NEXT>