あの男の事が気に掛かって仕方の無かった私は、結局その日は海には行かず、そのままホテルへと帰った

       …どうしてあの男(ひと)はあんな事を言ったんだろう
       まるで私の事を知っているかのようだった
       …私があの夜、一度「生」を手放そうとしたことも

       一気に噴出した記憶と、男の言葉にすっかり混乱した思考回路をどうにか立て直そうと、私はバスルームでシャワーを浴びてみることにした
       コックを強く捻ると、程よく熱いスコールが私の身体を打ち付ける
       痛いほどのその勢いに驚いた私は、僅かにコックを締めて赤くなった胸を押さえた

       …胸が、痛い

       排水溝に吸い込まれる湯が、渦を巻きながらゴボゴボと音を立てる
       その音に、私はビクリと身体を竦ませた

       …私の腕を引っ張る、その力が
       身体を締め付ける、その冷たい胸の感触が
       そして私の手を包む、その温かい掌が…
       「生きろ」
       その一言と共に、私の体中を突き抜ける
       何時の間にか、その声と身体の持ち主が昼間の男とぴったりシンクロしている
       だが、それは私に全く違和感を抱かせなかった

       …あの胸の冷たさを、私は知っているから

       昼間の記憶の中で、男が冷たく笑う
       「二度と死にたいなどとは思わんことだ。」
       男の低い声が、私の耳の奥に木霊する

       あの時私を包んでいたのは、神なんかじゃない
       …きっとあの男(ひと)
       ならば…もう一度、会いたい
       会って、あの日の事を聞きたい
       …私がこうして生きている、その理由を!

       シャワーを止めた私は、鏡を覗き込んだ
       胸元に下がる十字架の石が、キラリと鋭く光を帯びる
       鎖を新しいものと交換したため、白く光る真新しい鎖と対照に十字架は黒ずんで重厚観を醸し出していた

       …そうだ、私の取ってこの十数年の日々は、決して夢じゃない
       この十数年を与えてくれたのがその男(ひと)なら、きっと会えるはず

       鏡に向って一つ頷き、私はバスルームの扉を開けた


















       滞在もあと2日になってしまった翌日の黄昏、私はようやくあの海に辿り着いた

       朝から叔母の電話で知人への土産の手配を頼まれた私は、その日一日をアテネ市内のデパート巡りで浪費してしまった
       全ての荷物の手配を済ませた頃には、既に日が傾き始めていた
       一度ホテルへ戻り叔母に土産を発送した旨を伝えた私は、日中の屋外の熱さとデパートの出入りとの繰り返しですっかりクタクタになった体を暫し休めた
       ルームサービスでアイスティーを頼み、ベッドに腰掛けて窓の外を見た
       ホテルから遥か彼方に、エーゲ海が見える
       夕日の色に染まった海は、日中とは異なる表情を私に垣間見せていた

       …明日の夕刻には、もう此処を離れるのだ
       でも、まだ私には探さねばならないものがある
       会わなければいけない男(ひと)が

       オレンジから徐々に青みが差し始めた海を、私は見下ろした

       行こう、夜の領域に全てが包まれる前に

       白いワンピースに着替え、私はホテルを再び後にした









       夜を迎え始めた海は、湿り気を含んだ重い風が吹いていた
       黄昏時…「誰そ彼(たれそかれ)」時とは良く言ったものだ
       あたりは薄暗く、人の顔も判別できない
       海岸の向こう側に居る影が、例え神であっても何ら不思議は無い

       神々の国と呼ばれるこの国に、私の両親は今も眠っている
       …二人は海(わたつみ)の神に招かれたのだろうか
       海の底にも楽園があるとよく言うけれど、二人は其処で暮らしているのだろうか
       …そして、あの時其処に辿り着きたいと願った私は、今こうしてこの浜辺に立っている…生きて

       私は、遥か海の底を思った
       海の遥か上に輝く満月が、今夜が大潮であることを私に告げている
       ザ――ン、ザザ――ン
       次第に大きくなる波音が、私の耳元を掠める

       …そうだ、あの晩も確か、こんな月の夜だった
       船の上から見た波はとても穏やかだと思ったけど、放り出された海のあまりの激しさに、私はあの時恐れおののいたのだ

       見下ろすと、私の足元まで波が近付き始めていた
       大きくなる波の音に混じって、遠くから渦の巻く音が聞こえる
       大潮のこの夜、海は激しい程に残忍な姿を垣間見せる
       どんな穏やかな表情(かお)をした人間にも、時に心の底に激しい想いが潜んでいる様に
       …いけない。此処に居ては
       この海には、何か良くないものが居る
       でも…判ってはいてもこの海から目が離せないのは何故?

       …激しいものは時に人間を魅了して止まない
       ましてや、噴き出した記憶と整理しきれない感情が心の中で渦を巻いている今のこの状況にあっては尚更に


       満月の夜。
       大潮の海。
       両親の眠るこの海。
       渦を巻く水音。
       そして、私が打ち上げられたこの浜辺。


       揃い過ぎた符牒が私を再び追い詰め始める
       重苦しい頭の奥で暗い光がチカチカと点滅する
       危ないと、判っているのに
       私の足は、一歩、また一歩と眼前の海に向って歩き始める
       黒いミルクが、足首にねっとりと絡み付いて更に私の身体を深く引き込む
       「海の底へ行きたい」と願ったあの時の様に、身体がどんどん重く、引き込まれて行くのを感じた
       足首から、膝へ
       膝から腿へ
       腿から、腰へ
       徐々に、私の身体は意識と分離したまま闇の領域に染まり始める
       「最後(いやはて)の地」とは、こう言うことなのか
       十数年前、本来此処で迎える筈だった運命を、今私は受け入れるのか

       胸の上まで海に浸かって、あと一歩踏み出せば私の身体は完全に水面から姿を消すだろうという所まで来ていた
       左足は、最後の一歩を踏み出そうと水中で空を踏む
       右足が緩やかに撓(たわ)んだ瞬間、身体の動きに合わせるかの様に波表にあの十字架が舞い上がった

       「生きろ」
       声と共に、温かい掌の温もりが私の脳裏に光を放つ
       …そうだ、この十数年は嘘じゃ無い
       私は…生きてきたのだから!

       心の中で叫ぶのと同時に、左足が前に一歩踏み出した
       私の身体は…沈む
       目を開いた私の視界で、暗い海底が手を広げていた
       さあ来いと、見えない何かが私を手招きする

       …いやだ、私は行きたくない!

       私の叫びは、海中で白い泡となって波表に消えて行った
       身体が、どんどん重くなる

       …助けて……!

       私は、冷たい胸の主を呼んだ
       暗い水音が、私の耳元で轟々と渦を巻いた




















       気が付くと、私は波打ち際にいた
       肺がビリビリとしてとても痛い
       おそらく、水を飲んだのだろう
       ゴホっと咳き込むと同時にかなりの量の水を吐き出した
       咳があらかた収まり、ようやく自分が生きている事を感じ取った私の背中に、冷たい衝撃が走った
       私は、恐る恐る後ろを振り返った
       私を後ろから抱きしめていたのは、病院で出会ったあの男だった


       「…貴方は…。」


       ゴフゴフと咳き込みながら続きを言おうとした私の口に掌を当て、男は私を黙らせた
       冷え切った私の唇に掌の温もりが広がる
       それは、やはり十数年前に感じたあの温もりに他ならなかった


       「…喋るな。まだ肺に水が入っている虞がある。」


       男の低い声が、私の鼓膜を心地よく刺激した
       喋るなと言われたものの、私は彼に訊きたい事で一杯だった
       私は、男の瞳を覗き込んだ
       昼間の海の色を持つその瞳も、この闇の中では淡く沈んでいた
       私と目が合った瞬間、男は視線を横に逸らした


       「少し、目を閉じていろ。」


       一言だけ言い放つと、男は私を抱き直した
       砂浜に横たわった私を半分だけ抱き起こして、私の背に両手を回した
       男に言われるままに私が目を閉じると、男の掌から何かじんわりと温かな感触が身体に入り始めた
       冷え切った私の身体が、徐々に温かくなって行くのが分かった
       …ああ、きっとあの時もこうやって私を助けてくれたに違いないわ
       交錯する記憶と今のこの感触に、私はそっと涙を流した




       「もう、目を開けても良い。」


       多分数分が経った頃だろうか、男に言われて私は目を開いた
       先程と異なり、視界がはっきりとして夜空の星が飛び込んで来た
       視界だけではない、聴覚も意識も先程までとは比べ物にならないほどしっかりとしていた
       掌で唇に触れると、何時も通りの体温を取り戻しているのが分かる


       「…私、生きているのね。」


       少し身体を起こし、私は彼を振り返った
       男の、その懐かしい冷たい胸の感触が私の背を伝う


       「私…また貴方に助けられた。」

       「…病院の事か。」

       「いいえ。病院の事では無くて。」


       私は、ずぶ濡れの胸元からあの十字架を取り出して男の手に渡した
       男は、やはりそれに見覚えが有ったのか僅かに表情を動かした


       「これは…貴方の物でしょう?」

       「…ああ。まだ持っていたのか。」

       「ええ。」


       男の掌の中で、鎖がチリ、と音を立てる


       「その十字架が、今まで私に生きる力をくれたの。貴方に命をもらった私の名は、。私に命をくれた貴方の名を教えて。」

       「…俺は、カノンだ。」

       「カノン…。ありがとう、カノン。」


       カノンは、掌の中の十字架を強く握りしめた
       きっと、この十字架に何か思い出があるのだろう…私と同様に
       しばらく無言のままカノンの手を見ていた私は、カノンの目を見た
       カノンの青い瞳が、今ははっきりと判る


       「…どうして、此処に戻ってきた。」


       視線を合わさぬまま、カノンが呟いた


       「……貴方に訊きたいことが有るからよ、カノン。」

       「…何だ。」

       「……どうしてあの時、私を助けたの?あの事故で助かったのは私一人だった。
        本当なら私も死んでた筈なのに、どうして……。」


       両親の事を思い出して、感極まった私の語尾が震えた


       「あの事故で、私は両親を亡くした。どうせ誰も助からない事故なら、私だけ生き残っても辛いだけなのに、どうして……!」


       身体を打ち振るわせる私からその身体を離して、カノンは砂浜に立ち上がった
       私に背を向けて、カノンは海を見た


       「それは、お前が「死」を望んだからだ。
        …お前はあの時、自分の両親が既に死んでいることに気が付いていた。実際、確かにお前の親は死んでいた。
        あの事故で生存の可能性が有ったのは、誰一人として居なかった。皆、死にたくないのに死んでゆく。
        その中で自分から「死」を望んだのは、お前一人だった。…だから、俺はお前を助けた。」

       「……どうして……!」

       「…自ら「死」を望んだお前には、生きなければならない義務があるからだ、。」

       「…生きる、義務…?」

       「そうだ。「生」を放棄した人間には、「望まざる死」を迎えるまで生きなければならない義務がある。…それがどんなに辛くとも、だ。」

       「…「死」を望んだ罰として、生きる…。」


       呟いた私の前で、カノンがフッ、と冷たく息を零した
       私の胸に、チクリと痛みが走る
       それは私がカノンに嘲られたと思ったからだけど…
       私に背を向けたまま、カノンが俄に一歩前へ踏み出した


       「…だがな。偉そうな事を言ったが、本当の所は少し違う。
        本当は、、唯お前に生きて欲しかった。…たとえ天涯孤独になろうとも、死ぬより生きて欲しかっただけだ。
        …だから、この十字架をお前に託した。」


       カノンの手の中で、十字架が月光を反射してキラリと光った
       随分変色して濁った色合いになった筈なのに、どうしてか非常に美しく思えた


       「十字架を、私に…?」

       「ああ、そうだ。両親を亡くしたお前は、この先一人で生きなければならない。
        それは、ありとあらゆる困難にお前自身が立ち向かわなければならない事に他ならない。
        …誰も、それを助けてやれはしない。勿論俺もだ。
        あの時死んだ方が良かったと思う事もあるだろう。両親さえ生きていたら、と思う事もあるだろう。
        だが、時は戻らない。死んだ人間も生き返りはしない。
        それと同様に、「生きている」という事をお前に忘れないで欲しかったからだ。
        、お前がお前自身の人生をその足で立ち上がって生きる為に。…その証に、俺はお前にこの十字架を託した。」


       カノンの言葉と共に、私の脳裏にこの十数年の月日が去来した
       叔父夫妻に引き捕られた事
       辛い事も楽しい事もあった
       …そして、いつも自分自身を押し殺していた事も
       私は、自分自身を騙し続けて来たのではないか
       物分りの良い仮面の下で、最初から全てを諦めていたのではないか
       …自ら、心無き「人形」として生きてきたのではないか
       それは、最早「生きている」とは言えない

       カノンが、私を振り返った
       私の目から音も無く涙が零れ落ちているのを目にして、その目を細めた


       「……辛かったか?」

       「…ええ。でも本当に辛いのは、私が貴方に与えてもらったこの十数年を死んだ様に過ごして来た事だわ。
        …ずっと自分を偽り続けて、全てを最初から諦めていた。何一つ、自分で決める事をしなかった。これでは、「生きている」なんて言えないわ。」


       カノンは肩を落として俯いた私に歩み寄って来ると、そっと私の肩を抱いた
       カノンの胸の冷たい感触が、私の胸に伝う


       「…悔やむな。それでもお前が生きてきた事に違いは無い。
        これから、お前の本当の人生が始まる。」


       カノンの冷たい胸の奥から、強い鼓動の音が耳に響いた
       それは、この人がこれまで強く生きてきて、そしてこれからも強く生きてゆく確かな証だった
       そして、私はこの人に二度与えられた命で、自分自身の人生を歩いて行くのだ…自分のこの二本の足で、今度こそ
       私は、カノンのその広い胸に掌を当てた


       「カノン…。貴方のこの冷たい胸を私に温めさせて…私の人生、ずっと。」


       カノンの胸に顔を埋めたまま、私は小さく呟いた
       私の言葉に、カノンは顔を側面に向けてクッと微かに笑った


       「俺の胸はいつも冷たいからな。ずっと温め続けるとなると一生俺から離れられなくなるぞ。」


       私が顔を上げると、カノンがその海の色の目を細めた
       カノンのその合図を受け取った私は、静かに目を閉じた

       湿った夜の潮風が私とカノンの髪を靡かせる
       大潮の生み出す波音が、私の耳を掠めた

















       日本には帰らない…もう二度と
       この国が私の「最先(いやさき)」にして「最後(いやはて)」の地だから











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