人間の「表情」は、「喜び」「悲しみ」「怒り」「驚き」「恐怖」「嫌悪」の6つに分類できると一般に言われている
       そのうちでも、「喜び」と「悲しみ」の2つの表情は、それを見た他の人間に対して与える影響がより強い
       時の古今、洋の東西を問わず、人間はこの2つの表情から他人の心を推し量り、自分の行動を決定付けて来た
       テナンの2つの顔も然り、また褒<女以>の笑みも然り
       誰かの表情というものは、他者に対し常に多大なる影響を持っている















                   Long way from home




















       「なんと悲しい表情(かお)をする女(ひと)なのだろう」


       シュラは、その女性の横顔に一瞬釘付けになった
       何かを祈るひたむきな顔には、悲痛な曇りが重く影を落としていた

       何が悲しい、何故悲しい…?

       もしも許されるのであれば、シュラは彼女の許にすぐにでも歩み寄って静かにそう尋ねただろう
       …今が、ミサの最中でなければ、だが


       古いが大きな聖堂(カテドラル)の中には、厳かな空気が満ち満ちていた
       誰もが自らの心にだけ向かい合い、己の総てを曝け出す
       そんな危うげな場所だからこそ、シュラは心を捕われてしまったのかもしれない
       名も知らぬ一人の女性…


       俯くの横顔を見詰め続ける不謹慎な男は、シュラ一人だけであろう
       他の人間は皆、自分と向き合う事に集中しきっている
       当のも、まさか見も知らぬ男の視線に自分が曝されているとは露ほどにも気付いてはいまい
       …彼女もまた、内に秘めた自らの想いと静かに語らっている筈なのだから



       長い祈りの後、が俄に顔を上げた
       その表情を目撃したシュラは、更なる驚きを受けた

       …満面の、微笑み

       そう表現するのが妥当だろうか
       先ほどまでの悲痛な面持ちからは想像もできないほどにこやかな表情を、は浮かべていた
       その変貌があまりにも突然の事であったので、シュラは何時もの彼らしくなく僅かな動揺を禁じ得なかった

       一体、何が彼女の中で起きているのだろうか

       自他共に認めるほど普段表情を表に出さない黒髪の男は、これまで感じた事の無い不可解な気持ちに捕われた









       スペイン第二の都市、バルセロナ

       嘗てオリンピックも開催されたこの街は青い空と海で知られ、各国からの観光客で賑う国内有数のリゾート地の一つである
       また、商業都市としての別の顔も併せ持つ
       彼のガウディの手掛けた建築物達に紛れ、高層ビルが軒を連ねている

       故国での任務を命ぜられたシュラは、仕事を終えた後、与えられた半月ほどの休暇をここで過していた
       …とは言え、別段することも無い
       無聊を託つが侭にこの街をぶらりと散策する事、すでに数時間が経過しようとしていた
       迷路のように伸びる白い坂の小道を当ても無く進むうちに、シュラの視界に大きな聖堂が映った
       休日の午前中はこの国中の人々がミサに参加し、祈りを捧げている
       …彼もまた、幼い頃は両親に手を引かれてこうした聖堂に連れられて来たものだった


       「…ミサ…か。暫く行っていない、な。」


       遠い昔を思い出し、シュラはその唇の端に微かに笑みを浮かべた後、静かに聖堂の中へと足を踏み入れた





       ミサを終えた聖堂からは、次々と人が外へ流れ出し始めていた
       皆、一様に笑みを浮かべ、清清しい面持ちをしている
       それは、信徒として礼拝を終えたと言う軽い達成感からなのか、それともこれからの一日をどう過ごそうかと俄に沸き立つ心境の表出だろうか
       または、忙(せわ)しい日々の中で、自分と向かい合うこの一時によって得られた充足感の現われかもしれない
       …だが、楽しそうな笑顔の群の中で、の笑顔は一際シュラの注意を惹いた
       何故かは判らないが、シュラはそれが他の人々の笑顔とは質の異なるものに思えてならなかった
       の笑顔の中に、何かが隠されている
       シュラは、その何かを無性に知りたいと言う衝動に駆られた


       「…自分らしくないな。」


       常であれば、最高峰に立つ聖闘士として他人の笑いや涙など歯牙にも掛けないのだが
       …久々に踏んだ故国の土の匂いのせいだろう

       シュラは一人で納得し、歩き出したの後をそっと追った




       白く細い路地を緩やかに下り、は街の中心部へと徐々に足を踏み入れていた
       路地沿いには商店が軒を連ね、人々で賑わいを見せている…筈である
       だが、休日の今日は店々のシャッターは固く閉ざされ、人の影もまばらにしか見当たらない
       …人々は皆、神に与えられた聖なるこの一日を、家族と共に思い思いに過すのが常である


       「まぁ…尤も、俺のような独り者には関係の無い事だがな。」


       の後をゆっくりと歩きながら、顎に手を当ててシュラは一人で苦笑した
       幼くして修行に入った彼にとっては、「家族」とは有って無きが如きものだった
       また、人を殺めることも実際に多い己の身に取って、そのような暖かな世界自体がどだい許されるものではないのだと言い含め続けて来た
       …それは、彼なりの罪の意識の現われだったのかもしれない
       ともあれ、シュラはこの休日を当ても無く浪費するしか為す術が無かったのである



       街の中心部の広場まで来て、は立ち止まった
       シュラも、見付からないように慌てて壁の影に身を潜めた

       休日とは言え、やはり観光地とあってか、広場には小さな露店がぱらぱらとまばらに店を広げていた
       その中の一つでアイスクリームを買い、は広場に設えられたベンチに腰を下ろした


       恋人でも待っているのだろうか

       シュラは一瞬そう思ったが、の背中を見詰めるうちにどうやらそうでもなさそうだと確信し、何故かほっとした

       …何で俺が安堵せねばならないのだ

       胸を撫で下ろす自分自身に、シュラは妙な違和感を覚え自らに問うた

       どうにも調子が狂っている
       …これも「故国の休日」などと言うお誂え向きの言葉がもたらす一種の感傷に違いない

       シュラは、強く頷いた



       アイスを食べ終えたあと、は暫くベンチに腰掛けたままだった
       スペインの日差しは焼き付けるように暑く、そして同時に人々を包み込む暖かさを持つ
       太陽に顔を上げて目を細めるの横顔は、どこか遠い所を見詰めているように感じられてならなかった


       十分ほどそうしていただろうか
       は徐に立ち上がると、そのまま広場に面した小さなホテルの軒をくぐってシュラの視界から消えた

       観光客なのか…あの女(ひと)は
       それにしても…女のきままな一人旅にしては、何処か寂しげだ

       の後姿を見送ると、シュラは踵を返してもと来た方向へと向き直った

       人は、出会った総ての人、視界に入った総ての人を覚えておくことはできない
       また、そうして多くを忘れて行くからこそ、正常な記憶のシステムを維持できるのだ
       …だから、これもほんの一時の出来事で、別段気に留める必要もない筈だ

       シュラも、今夜の宿へとゆっくり歩き出した













       翌週の日曜日、聖堂のミサに集う人々の中にシュラの姿があった

       唯の一観光客だ、一所に留まっている筈もないだろう

       常識や理屈で重々承知してはいたものの、シュラは再びこの聖堂へと足を運んでいた
       …そして、そこにのあの横顔を見た

       先週と同じく、シュラは神に祈ることすらせず、ただじっとの横顔を見詰め続けていた
       俯くと、それを見詰めるシュラ
       そこだけ、一週間という時の流れがまるでそっくり止められていたかのようだった
       ……だが

       …彼女の悲しみの理由を、知りたい

       先週と今週、一週間の時間が確かに流れている何よりの証拠に、シュラのその思いは一層募っていた
       この一週間、バルセロナの街をぶらぶらと歩きながら、シュラの心の中を占めるのはの苦しそうな横顔のことばかりだった

       …もし、来週の日曜にあの聖堂で会えたなら、今度こそ彼女に尋ねよう…その表情(かお)の理由を

       聖域の同僚たちが今の彼を見たなら、笑い出すかもしれない
       "あのシュラが、お熱を上げているぜ"と



       ミサの終了後、例の如く清清しい人々に紛れ、シュラはまたの後を追った
       …こう書くと何だかシュラが一種のストーカーのように思えるかもしれないが、
       唯単にに声を掛けるタイミングがシュラには見計ることができなかっただけのことだ

       相変らずの貼り付いたような笑顔を浮かべたは、広場まで出ると今度は小さな路地へと入って行った
       その通りは、狭いが古くからの商店街として知られている有名な場所だ
       …勿論、休日の今日は殆どの店がシャッターを閉じたままなのであるが
       それすら全く意に介さないのだろうか、は時々立ち止まって手にした地図を見ながらも、路地を更に奥へ奥へと進んでいった

       …あまり、良い事はなさそうだが

       シュラは、の後姿をそっと追いながら心の中で呟いた




       「ええと…ここのお店が有名なパン屋さんね。よくチェックしておいて、また明日来る事にしましょう。」


       ペンを取り出して地図に何やらガサゴソと書き込んでいるの後姿は、無防備そのものだった
       この瞬間を見計らったかのように、路地の影から一人の男が現れた
       足音もなくに歩み寄ると、男は手した石を振り翳し、一思いに腕を振り下ろした



       ……ガッ!!



       「キャアアァァ!」

       次の瞬間、は悲鳴を上げて地面にへたり込んでいた

       男の右腕はシュラの右腕にがっしりと掴まれ、手から石を取り落とした
       石が地面に転がり落ちる様をその目で見て、ようやくは自分の身に迫っていた危険を察知したのだった

       ここ数年、人通りの少ない路地裏を歩いていた観光客が突然後ろから殴りつけられ、
       気を失っている隙に金品を強奪されるという事件がスペインでは多発している
       この手の犯罪は、中部のマドリッドでの被害が専ら多く報告されているが、ここ東部のバルセロナでも全く被害が無いわけではない
       一人で歩いている女性観光客ともなれば、この手の手合いから狙われる確率は必然的に高くなるだろう
       …だからこそシュラは、"良い事はなさそうだ"との後姿に呟いてみせたのであるが

       …今や、恐怖に目を見張っているのは当の被害者のではなく、害を加えようとしていた男の方だった
       メリメリと男の右腕が、痛みに悲鳴を上げる


       「…おい。今のは何の真似だ。言ってみろ。」

       「ひ…ああ…。」


       シュラの低い声が更に男の恐怖を煽った

       …シュラが常に寡黙なのは、自分の声音に怯える者が少なくないという事実を彼自身が知っているから、というのも理由の一つである
       だが、今はその声の響きを持つことに対して、シュラは神に感謝の念すら禁じ得なかった


       「何か言ってみたらどうだ……おい。」

       「す…す…すみません。も、もうしませんから。」


       腕をねじ上げられた男は、今にも泣き出しそうな情け無い声を上げた


       「失せろ。」

       「…は?」

       「このままその腕をねじ切られたくなかったら、さっさと俺の前から失せろと言っているんだ。
        …俺の言っている事が判らんなら、自分の身体で確かめてみるか?」


       シュラは、右手を軽く捻った
       本人はあくまでも軽く捻ったつもりであるのだが、男の右腕は本当にねじ切れそうな鈍い音を立て始めた
       男の腕が肩口から別れを告げる寸前のところで、シュラは手を放した
       男は、恐怖に閉じた目を開き自分の腕がまだ肩からぶらさがっているのを確かめると、
       お決まりの捨て台詞を吐く余裕も無く一目散に路地を反れて闇に消えた


       石畳に呆然と座り込むに、シュラはその手を差し伸べた

       「…大丈夫か?」


       シュラの右腕をしばし見詰め、はゆっくりとその手を取って立ち上がった


       「ありがとう。」


       の顔には、満面の笑みが浮かんでいた
       相変らずどこか凍て付いた笑みのようにシュラには感じられたが、このときシュラが驚いたのは、
       恐ろしい目に遭ったばかりの人間がここまで見事に笑顔を見せる事が出来るという事実だった

       何故、微笑む?
       どうして笑顔を絶やさないのだ、この女(ひと)は

       僅かに心を揺さぶられながらも、次の瞬間にシュラははっとした


       「君…ギリシャ人なのか?」


       の口にした謝辞が、ギリシャ語であることに今更ながらシュラは気付いたのであった


       「ええ。そうです。」


       突然の状況にも関わらず、滑り出した流暢なシュラのギリシャ語に、は明らかに安心した様子を見せた


       「そうか。」


       シュラは、短く応えた

       良かった

       それは、にほんの少しでも安心して貰えたようだと言う現状に対してシュラが感じた、正直な気持ちの現われ以外の何物でも無かった


       「…貴方は、ギリシャの人なの?」

       に尋ねられて、シュラは急に渋い表情を浮かべた

       「いや、俺はスペイン人だ。仕事の関係でギリシャ語は話すことができる。
        …一スペイン人として、さっきの男の存在を君に詫びたい。」

       シュラが軽く俯いて謝罪の意を示すと、は途端に小さく笑い声を漏らした

       「ふふ。あの人と貴方とでは知り合いでも無いでしょうに。
        貴方って、とても変わった人ね。」

       本気でにすまないと思っていただけに、シュラは笑い声に驚き、少しバツの悪そうな表情を示した
       …そして、今が自分の目の前で見せている屈託の無い笑顔を、何よりも嬉しいと思った

       これが、彼女の本当の笑顔なのだ
       俺は、この笑顔を、彼女にはずっと浮かべていて欲しい


       「…さっきは、ありがとう。助けてくれて。えっと…」

       「…シュラ、だ。俺の名はシュラ。」

       「ありがとう、シュラさん。私は
        …私、地図を見るのに必死で、後ろから人が近付いているなんて全然気が付いていなかった。
        …駄目ね、こんなのじゃ。狙われても当然だわ。」


       は肩を落として、はぁ、と溜息を短く吐(つ)いた


       「…いや。君は悪くない。」

       そこまで言って、シュラは言葉に詰まった

       …何と言えば良いのか
       彼女をこれ以上悲しませないように、何か気の利いた言葉を

       普段女性に話し掛ける事が皆無に等しいシュラは、見えない手で頭を抱え込んだ
       …こんな時、イタリア人の同僚のことが非常に羨ましく思えて、それが腹立たしかった




       「その…観光客が地図を見るのは、決して悪い事では無いと俺は思うのだが。」




       暫しの空白の後、ようやくのことでシュラは台詞を搾り出した
       恐る恐る顔を上げると、は時間が止まったような表情を浮かべている

       …しまった、外したか!?

       内心のシュラの焦りに比例して、彼の脳裏にイタリア人の同僚の嘲笑う顔がちらついた
       『何やってんだよ、お前は。』
       脳裏の男が、シュラに向って白い歯を剥いて笑った

       …ええい、聖域に帰ったらあいつ、一発ぶちのめしてやる

       当の本人が聞いたら、そいつは言い掛かりも甚だしいと口を尖らせて不平を述べたに違いない
       彼らしく無く責任を他の誰かに転嫁したくなる程、シュラは情けない気持ちで一杯だった

       がっくりと肩を落としたシュラの耳に、再びの忍び笑う声が響いた


       「…本当に貴方ってとても面白いのね、シュラさん。」

       翳りの無い笑いを浮かべるを見て、シュラはどうやら自分の発言が外れないで済んだようだ、と安心した
       …尤も、この場合あくまでも所謂「怪我の功名」レベルでの結果なのであるが

       ともかく、この女(ひと)の顔に本当の笑みが戻ってくれて良かった

       シュラは唯それだけを救いに感じていた






       シュラは、を広場近くのカフェに誘った









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