シュラは、を広場近くのカフェに誘った

       それは、今回の事件の現場から物理的に少しでも離れる事で、のショックを和らげたいと言うシュラの気持ちの表れだった
       その気持ちを酌んだのか、もシュラの提案に従った

       休日にも関わらず営業しているそのカフェは、行く宛ての無い恋人たちで繁盛していた
       オープンテラスの席に座りギャルソンにコーヒーを注文すると、シュラの方からぽつりぽつりと会話を交わし始めた
       自分は、このバルセロナからさほど遠くないピレネー山脈の麓の小さな町の生まれであること
       休暇中とは言っても、殆ど無趣味なので街中をただぶらぶらしているだけだと言うこと
       終いには、イタリア人やフランス人の同僚の笑い話に至るまで
       自分でも驚く程饒舌に、シュラは沢山の話題を醸し続けた
       シュラの話のひとつひとつに頷いたり、時折笑いを零すを向かいで見詰めながら、
       シュラは何よりも自分自身が今取っている行動の積極性に感嘆を禁じ得なかった

       …俺が、俺ではないようだ、まるで
       嘗て、聖域の同僚に『スペイン男は情熱的というのは本当なのか?』と尋ねられた時には首を傾げたものだったが、今の俺はそれに他ならないだろう


       「…どうしたの?さっきから妙な笑いを浮かべて。」


       に言われて、シュラははっとした

       一人でアイロニックに笑っている場合ではないだろう、今は


       「いや、君を見ているうちにギリシャの同僚の事を思い出して、な。」


       シュラは取り繕うように首筋に掌を当てると、自分ばかりが喋っての事を何一つ知らない事に気付き、に尋ねた


       「…君は、スペイン(ここ)に観光に来たのか?」


       途端に、の顔が曇った
       それは、ミサの時に見掛けたものと全く同じであった
       シュラはしまったと思ったが、時既に遅かった


       「…ええ。…一人で旅行なんて、変かしら、やっぱり。」

       「いや。人それぞれだからな。一人旅が好きな人もいれば、そうでない人もいる。」


       シュラは咄嗟にの言葉を否定したものの、二人の間には何か重いムードが落ちた


       「……女の一人旅なんて、大抵暗い話が付き物よね。失恋とか。」


       くすり、と笑って見せたの顔には、自虐の表情が色濃く映っていた
       その顔を見たシュラは、俄に胸を締め付けられた
       脳裏で、何かに祈るの横顔が何度もフラッシュバックする

       …深く、俺などが入り込んではならない程深く、彼女は傷付いている

       少し俯いたまま、シュラは眉根を寄せた



       「旅に出る事でもう一人の自分と正面から向かい合い、語り合う事が叶うのなら、それは決して悪い事では無いと思う。
        …人間は、自分で思っているよりも強く出来ているものだと、俺はそう信じている。」



       言い終えてシュラが顔を上げると、驚く程目を見開いたの顔が飛び込んで来た
       また何かまずい事でも言ったか、とシュラが咄嗟に鋭いその目を細めた瞬間、ふっとの表情が和らぎ、眉尻を下げて微かに笑みを浮かべた
       それは何かを懐かしんでいるような、そして何か困惑しているような笑顔だった



       「……ありがとう。」


       一言だけぽつりと漏らすと、はそのまま席を立った


       「…明日、ギリシャに戻ります。」


       後ろを向いたの背が、微かに震えていた
       腰を浮かせ掛けていたシュラは、のその後姿を目にしてもう一度椅子に腰を落とした

       …は、泣いている
       今彼女に必要なのは、彼女自身が本心から自分と向き合う事なのだ。…あのミサの参加者達の如くに。
       いつか、きっと彼女の清清しい表情(かお)を見る事の出来る日が来る
       そして今俺に出来るのは、をこの腕に抱きしめる事でも口付けを交わす事でもなく、一日でも早くその日が彼女に訪れることを祈るだけだ


       「本当にありがとう、シュラさん。
        私…、きっと貴方の事を忘れません。」


       背を向けたまま、はゆっくりと歩き出した
       その背中がバルセロナの細い路地を曲がって消えるまで、シュラはテラスに腰掛けたまま無言で見送った
       端から見れば、苦い失恋のシチュエーションに映るかもしれない
       だが、当の本人は至って穏やかな心境だった
       それは、彼がの幸福を心の底から願っているからに他ならない
       心に負った傷を癒すには時間が必要であると言う事を、彼は他の誰よりも身を以って知っていたのだから
       …例え、それが恋以外の傷であったとしても



       腕を組んだまま空港の白い柱に凭れて、に気付かれる事のないように彼女の後姿を見送ったその一週間後、
       シュラも休暇に別れを告げてギリシャへ帰還した















       再会は、シュラが思ったよりも早く訪れた






       この国にしては珍しい程に冷え込んだ冬のある朝、シュラは忘れる筈もないの背中を見付けた
       そしてその瞬間、シュラは身動き一つ取る事が出来なくなった

       アテネ郊外のひっそりとした一角
       街中の喧騒と程遠いのは、此処に息づく人々が既に何をも語らないからだ
       まばらに設えられた白い石の群の中に、は膝間づいていた
       静かに祈りを捧げるの目の前の墓石に刻まれたその文字は……アイオロス
       シュラは、瞬時のうちに目の前が暗くなった





       「………な!!」





       その場に膝を折り、シュラは低い呻き声を漏らした
       そしてその声に振り返ったは、思わぬ人物の出現に驚愕の表情を顕にした


       「…シュラ…さん!?どうして此処に…!?」


       慌てて駆け付けたを片手で制し、シュラは片膝を立てて体勢を立て直した


       「…いや、偶然だ。」

       「シュラさん、顔色が悪いわ。…どうしたの、一体?」

       「何でも無い、気にしないでくれ。」


       ゆっくり立ち上がると、シュラは墓石の前まで近付いた


       「…一つ、君に尋ねても良いだろうか。無理に応える必要は無い。」

       「…ええ。」


       も、シュラの側まで歩いて横に立った




       「…この人物は…?」

       「恋人です。…許婚でした。」




       決定的な一撃を受け、シュラは心の中でよろめいた


       「もう、13年も前の事です。」


       一言ぽつりと付け加えて、は顔を上げた


       「彼、戦士だったんです。とっても強かったんですよ。村の皆の自慢で、…私も、私もとっても誇りに思って……」


       できるだけ明るく説明しよう試みたものの、最後には笑顔を崩し、シュラに凭れ掛かった


       「…でも、よく判らないうちに亡くなったと。何も説明されなくて…訊いても誰も知らないし、教えてくれないんです。
        ただ死亡したことだけは事実みたいで、…だったら、だったら一層行方不明の方がどれだけ救いがあったことか……」


       堰を切っては泣き出した

       の背に腕を回して支えたまま、シュラは13年間臍を噛み続けて来た思いがまるで一時(いちどき)に襲い掛かってきたかのような、
       そんな激しい衝撃に堪えていた
       彼自身、13年前に自らが犯した過ちをずっと忘れられずに苦しみ続けて来た

       忘れる事も出来ず、それ以前に忘れたくは無い
       …覚えている、それだけが自分が生き続ける理由だと言い聞かせて来た
       勿論、いくら悔いたところで死者が蘇る筈も無いことは重々承知している
       …人は生き返らない、死んだら総ては終わりなのだ
       だからこそ、自分の上に死の訪れるその日まで、罪を背負って生きるのだ…死した人のためにも

       …だが、生きている人間のためには、自分は一体何ができるだろう


       の背中から震えが伝わる度、シュラは思った

       の身体から、温もりが伝わって来る
       彼女のその熱は、この白い石に注がれ続けて来た
       その冷たい石に、ずっとずっと一方的に
       自分が今までアイオロスに対する罪の意識だけを糧として生きてきたことと、それは全く同じなのではないだろうか
       自分の温もりと、の温もり
       2つの温もりののどちらもが今、行き場を無くし掛けている…

       の背に腕を回したまま、シュラは俯いた
       二人の上に、灰色の雪がちらつき始めていた








       「…私ね、驚いたの、…あの時。」


       暫しの時が静かに流れた後、シュラの胸に凭れたまま、が呟いた


       「カフェで話をしてた時、貴方が言った言葉…『人間は、自分で思ったよりも強く出来ている』って。
        アイオロスが、よく私に言ってたの。そう思えば強く生きて行けるんだって。
        …あの時、アイオロスが本当に帰ってきてくれたのかと、そう思った。
        …あの人の事を忘れるために旅に出た筈なのに。」


       シュラは、黙ったままの背中をそっと撫でた


       「だから、あの時泣いてしまったのだと思ってた。…でもギリシャに帰ってきて私、初めて気が付いた。
        …違うんだ、私、貴方に惹かれ始めてたんだって。そして、そんな自分をどこか許せなくて泣いてしまったんだ、って。
        この13年間の私と、今の私が違う人間になってしまうのが怖くて、
       それから毎日此処に来てアイオロスにお祈りしていた…『私、どうすれば良いのでしょうか』って。
        …でも、心の中のアイオロスはただ笑うだけで、何も言ってはくれない。何も語り掛けてくれない…!」


       は、シュラの胸に拳をトン、と落とした
       シュラは、その上に自分の掌をそっと乗せた
       13年間、白い石の上に温もりを注ぎ続けて来たの白い手は、とても冷たく固くなっていた

       …アイオロス、私が13年前に貴方から奪ったのは、決して貴方の命だけではなかったのですね
       貴方から、かけがえの無い女(ひと)との幸福までも奪い去ってしまった
       …そして、そのかけがえの無い女(ひと)の13年分の温もりまでも
       私の罪は、自分で思っていたよりも更に大きなものだということを今、思い知りました
       …でも、私は今、この女(ひと)を愛します……貴方への罪の意識からでも、償いでもなく
       私と、二つの温もりが消えないように



       「、13年間の君を忘れないで欲しい。13年間の君がなければ、今の君は存在しないのだから。
        …そして13年の上に築かれた、そんな君を、俺は愛している。」

       「……シュラ……。」



       自分を見上げるの瞳を見て、シュラは胸の片隅がズキン、と痛みを覚えた
       それは彼の心の底にある呪縛の、薄れない名残かもかもしれない

       …13年前の事実は、今の、そしてこれからの彼女には必要の無い事だ
       そして、これからの俺にとっても
       のこの真っ直ぐな瞳が再び閉ざされないよう愛することだけが、今は必要なのだ

       シュラはの頬に左手を添えて、上向かせた




       「、君のその温もりをこれからは全部、俺にくれ。」

       「シュラ…。」

       「俺の温もりを、全部にやる。…ずっとだ。」





       シュラとの唇が重なった瞬間、二人の脳裏でアイオロスが祝福を贈るように笑った後、ゆっくりと消えた









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