「さて、これから何処へ行ったものかな。」

       シオンは、地下鉄の出口の側に設えられた大きな時計を見上げた
       まだ昼下がりの時分、時間はたっぷり残されている
       普段から外部へ出ない生活を送っているだけに、突然都市に放り出されても別段すべき事が思い付かない
       その辺りでも散策しようかと歩き始めた瞬間、シオンの視界に一軒の店が映った
       やたらと人の出入りが多い店は、路地に面した側が一面ガラス張りになっており、店内が能く見渡せる構造をしている
       ガラスのすぐ内側には、何人もの人間が並行に並んで立ったまま何かの書物を読み耽っている様だ


       「…あれは一体何だ?書店には見えんが…。」


       首を傾げたシオンは、店の方へ真っ直ぐ歩いて行き、「24時間営業」と書かれた看板を素通りして中へ入った

       店の中は、シオンに取って未知の世界だった
       一見、グローサリーの店の様でもあるが、店内は異様に明るい
       売られている物も、食品、文具、書籍、生活雑貨と種種雑多である
       自分の身長よりも遥かに低い陳列棚の向こうには白く広いカウンターが横一杯に広がり、客が会計を済ませていた
       カウンターの上に置かれた透明なボックスが気に掛かったシオンは、徐にボックスに近付き、ガラスに触れた

       …温かい

       中に並べられている白い物体は一体何だろうかと背を屈めて覗き込んだ瞬間、カウンターから声が掛かった


       「お客様、お伺いいたします。」


       シオンが顔を上げると、眼鏡を掛けた小柄な若い女性が立っていた

       …"お客様"と自分の事を呼ぶからには、おそらく店員であるのだろう

       僅かに首を捻ったシオンは、暫し後、白い物体を指差して彼女に尋ねた


       「娘、これは何だ?」

       「は…?何と申されましても、こちらは肉まんですが。」


       女性店員は、ポカンとしている


       「肉まん……。」

       「あ、いえ。勿論肉まんだけではございません。こちらはあんまんです。そしてこちらはカレーまん。こちらがピザまんと色々種類がございますよ。」


       我に返っててきぱきと説明する女性店員、どうやらシオンが肉まんを知らないことに気が付いた様子だった


       「そうか。良く判った。」


       シオンは大きく頷くと、「礼を言う」と店員に一言残し、店を出て行った


       「…何だったんだろう…。」


       店内では女性店員がカウンターから身を乗り出したまま、シオンの後ろ姿をぼんやりとただ見詰めていた







       「成る程。国民性や文化の違いとは、直に触れるとなかなか興味深いものだな。
        …久方振りに外を歩いてみるのもたまには良い。」

       公園のベンチに一人腰を下ろして、シオンは缶ジュースの栓を開けた
       プシ、と小さな音が静かな園内に響く


       「それにしても、都市部の緑とは何とも弱弱しいものだな。」


       すぐ隣に枝垂れた木の枝に手を伸ばし、シオンはその葉を長い指で弄んだ
       公園の道に沿う様にして植えられているその木は、皆同じ種類であるようだ
       緑薄い葉の付け根から、小さな蕾が幾つもぶら下がっている
       まだ若干の硬さを感じさせるその蕾も、もうじき開く頃であるのがシオンには見て取れた


       「人間の嗜好によってこの木は植えられたのか。…古今東西、人の為すことには変化は見られないのであろうな。…それでも…。」


       それでも、花開く木々には罪は無い
       そして、その花を美しいと思う人の心にも、本来罪は無い筈だ

       手の中の小さな蕾が開いた瞬間を思い浮かべ、シオンは目を閉じて束の間、心を遊里に飛ばした

       花々の咲き乱れる園をゆるゆると歩く自分の姿
       それは、何とそぞろに心浮かれるものであろうか
       美しいものとは、其処に存在するだけで心を楽しませてくれる

       シオンはゆっくりと瞼を開いた
       久々に肌に触れた春の空気に、心がさんざめくのも今は悪い気はしない
       二百数十年ぶりの、せっかくの休みなのだ、ゆっくり愉しむに越したことはない
       目の前の大きな池を眺めた後、シオンは立ち上がった







       高層ビルばかりが建ち並ぶ何とも無機質な街並みの中を歩きながら、シオンはふと歩みを留めた
       …ビルの一角に、あるれる緑
       色とりどりの花が、砂漠の中のオアシスの如く其処に咲き誇っている

       …花売りの店か

       故国にも、その生業は無論存在する
       …彼が生を享けた時には、既に


       「どんな時代、どのような国に於いても花は人と共に在るのであろうな。」


       シオンは一人ごちると、花の群に向いゆるゆるとその長い足を踏み出した




       「ありがとうございました――!」


       店の正面近くまで辿り着いたシオンの耳に、溌剌とした女性の声が届いた
       …無論、の声である
       今しがた黄色い花を購ったと思しき女性客の後姿に深々と頭を下げるその姿は、それを見る万人にとって瑞々しくもあった

       地下鉄の青年の如き若者ばかりかと思ったが、まだこの国にも救いがあるようだ
       それにしても、何と清清しい女性であることか

       てきぱきと店内を動き回り、客に熱心に何やら説明しているその姿に、シオンは見た目に釣り合わぬ溜息をほぅ、と吐いた
       賑やかな女性かと思えば、客の居ない時に花の開き具合や色の調子(トーン)を丹念に確認する優しげな表情に引き込まれる

       花の一本一本に、魂を吹き込むかのようだ
       余程、花を愛しているのであろうな、この娘は

       気が付くとシオンは店の正面に棒のように立ち尽くし、半刻近くもの姿を見詰めていた
       地下鉄を降りた時の眉間の皺は、すっかり消え失せていた
       その間も、はくるくると店の中を移動しながら客の注文に応じアレンジメントを完成させてはにこにこと笑っている

       華やか、とは斯くの如き事を言うのであろうか
       まるで彼女自身が花の様に、快活に光り輝いて見える

       半ば陶然と心の中で唸ったシオンは、ふとその表情を硬くした
       …客の途切れたそのほんの一時、が肩を落として溜息を一つ落とした事に
       ものの数秒の出来事であったが、シオンはその微妙な変化を見逃さなかった
       離れた所に立っているとは言え、聖闘士であるシオンにはその小さな溜息の音までしっかり耳に捉える事は決して不可能では無い
       …否、聖闘士である・無いなどと言う以前に、それはシオンがに意識を集中していたからであるかもしれないが

       …どうしたのであろうか

       花の点検に再び取り掛かったに、先程の落胆の表情は微塵も浮かんではいない
       たかが、一人の女性の事
       普段であれば特に気に留めるべくもない些細な事であるのだが、何故かシオンは気に掛かって仕方が無かった

       彼女の為に、何か自分が出来得る事は無いものか

       須臾有って、シオンは店に足を踏み入れた




       「いらっしゃいませ。」

       花園の中に佇むは、シオンにとって間近で見ると更に印象深かった
       シンプルな濃緑のエプロンが彼女のセンスの良さをより引き立てている
       手狭な店内では、客と店員の距離も自然、近くなる
       聖域の距離感とは全く違った相手との間隔に、シオンはここまで来て少々戸惑いを禁じ得なかった


       「…一つ、尋ねたい。」

       「はい、何でしょうか?」


       シオンの鼓膜をの軽やかな声が震わせる


       「今の時季、最も美しい花は何だ?そなたの意見を聞きたい。」

       「…私の意見、ですか?」


       シオンは、無言で頷いた
       は、店内をくるりと見渡し、少し首を傾げた


       「そうですね。芍薬などは如何でしょう?ほら、あそこにある花がそうです。」


       は、腕をついと伸ばして一つの花の入った筒を指した
       そこには白やピンクといった淡い色合いの小ぶりな花があった
       幾重にも重なる花びらが、繊細且つ華やかな印象をシオンに与えた


       「もう少したつと、今度は牡丹が見頃なんですよ。
        尤も、あの花は育てるのが難しいので鉢のままでしか手に入らないのですが。」

       「…牡丹?」

       「牡丹は、その芍薬をもっと大きくしたような花なんです。
        昔、お隣の中国では『花の富貴なるもの』と詩に詠まれて『百花の王』と呼ばれていたそうです。
        私も牡丹の花が一番好きなんですが、今はまだ季節じゃないですから。だから、今はその牡丹に似たこの芍薬が私のお勧めです。
        …重なった花びらが綺麗でしょう?」

       「…成る程、芍薬か。」


       シオンはの話を黙って聞いていたが、一つ頷いた


       「では、その芍薬を貰おう。色は…そうだな、そこの薄紅色のものにしてもらおう。」

       「かしこまりました。おいくつにしますか?」

       「うむ。…30本くらいの束にしてくれ。」


       顎に白い手を当てたシオンの目の前を、がするりと通り過ぎた
       軽々とした身のこなしがまた花の精に思え、シオンは少々自分に苦笑いした
       シオンに背を向けて、が筒の中から良い花を選りすぐっている
       愛する花と共に在って幸福そうな彼女の背に、先程過ぎった翳り
       その正体が何であるのか、シオンには具には判らない

       …唯、彼女を勇気付けることが叶えば

       自分より遥かに小さなその背中に、シオンは祈りを捧げた




       「はい、できました。こんな感じでいかがですか?」

       大ぶりなブーケにアレンジされた薄紅の芍薬は、みっしりと敷き詰められた羽毛の褥をシオンに思わせた


       「…美しい。」


       シオンが発した賛辞に、の顔がぱっと明るくなった
       どんな技巧を凝らした表現よりも、その一言がに取っては最大の褒め言葉であった


       「ありがとうございます!」


       嬉しそうに笑うの横顔を、シオンは目を細めて見遣った

       そうだ、この娘にはこの様な表情が一番、似つかわしい
       …そのためなら、私は何物をも厭いはしないであろう

       「妙なものだ。」

       レジを打つためにが少し離れた時、フフ、とシオンは小さく呟いて笑った


       「はい。お釣りとレシートです。ありがとうございます。」


       ややあって、がつり銭を手に戻ってきた
       シオンはから芍薬の花束を受け取った
       薄紅の丸い毛氈から、ほのかに甘い香りが花を擽る
       僅かにその口元を緩め、シオンはに近付いた


       「そなた、名は何と申す?」

       「え…私ですか?です。」

       「そうか。ではよ、受け取れ。」


       シオンは弧を描いての胸元に芍薬の花束を差し出した
       シオンの突然の行動に、は目を見開いたままぼんやりしている


       「。これをそなたに。」


       重ねて、シオンが花を差し出す


       「私に…ですか?」

       「そうだ。受け取るが良い。」

       「あ…ありがとうございます。」


       一瞬の間を置いて、は芍薬を受け取った
       の働き者な白い手と、シオンの美しく大きな手が微かに触れる
       自分が作った花束を自分が受け取ると言うのも何か妙な気分である
       目の前の花束を暫し見ていたは、はっとして顔を上げた
       …そこに居た筈のシオンは、何時の間にか店の出入り口まで離れていた


       「あ…あの…!」


       が声を掛けるより早く、シオンがその広い肩越しに振り返った





       「…元気を出せ。」





       ふ、と目を細めて笑うと、シオンはそのまま店を出た

       「あっ。」

       後ろを追って店の外に出たは、敷居を越えた拍子にスチールの筒に躓いた
       慌てて筒を立て、零れた花をやさしく元に戻したの視界に既にシオンの姿は無かった






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