キリスト教においては、古来より自殺した者の魂は樹木に生まれ変わると信じられて来た
       それは、"大地に繋がれたまま動く事も能わず、また、言の葉を紡ぐ事も罷りならない"という一種の"罰"の意味から生じた思想であろうと考えられる

       しかし、それは本当に悲しく、且つ辛い事であろうか

       樹木は何百年もの間、ひっそりと座したまま遷り行く人々の営みを見つめ、あるものは優しく花を咲かせ、
       そしてまたあるものは秋に実りをもたらし続けて来たのだ
       朝には全身に深い霧の雫を浴び、昼には天を仰ぐ
       そして夜にはその懐に多くの生き物達を抱き、静謐なる眠りに就く
       彼らはそうして何百年、何千年と緩やかな時を刻み続けて行く

       それは、時に何と羨ましいことであろう











                            花盗人










       「ありがとうございました――――っ!」


       街の一角で、今日も威勢の良い女性の声が響いた

       彼女の名は、とある花屋の店員を勤めること既に3年が経過している


       「…んん?もうこんな時間?そろそろ閉店の支度をしなくてはね。」


       は店の壁掛け時計を覗くと、大きく伸びをした後、肩をぐるぐると回した
       コキコキ、と大きな音が客のいない静かな店内に木霊する


       「、相変らず凝ってるわねぇ。ちょっとは休んだらどう?」


       店の奥で店長・マリアが笑った


       「いいえ、ちっとも。この仕事、大好きですから。休むなんて勿体無いですよ。」


       目立つ様、店頭に置いた花の筒をよいしょ、と抱えて、はマリアに笑い返した


       「そう。それならいいんだけど。…あなたが来てから、この店の売上も増えたのは確かに店としても嬉しいけどね。
        …は接客が上手いから私も大助かりよ。でも、無理だけはしないでよ、。」

       「勿論ですよ。"花と人を繋ぐ"のが私の仕事ですから。」


       は次々と花の入ったスチール製の筒を店の中に運び入れた
       筒を置いていた石畳の上に落ちた葉や花びらを箒できれいに掃き、塵取りに集める

       ポーン、ポーン

       塵取りの中身を店の裏のポリバケツに入れたところで、軽やかなアラームの音が8回、の耳に届いた


       「今日もお疲れ様、。」


       箒と塵取りを手に店に入って来たに、マリアはレジから声を掛けた


       「…今日も無事、終りましたね。じゃ、閉めますよ。」


       はマリアに言葉を返して、シャッターを下ろすためにもう一度店の表へ出た

       ドン!

       刹那、は軽く弾き飛ばされた


       「あたた……。」


       バランスを失った身体を建て直しが顔を上げると、すぐ目の前に若い男が一人、立っていた


       「…す、すみません。わざとじゃなかったんですけど、急いでいたもので…。」


       会社帰りのサラリーマンと思しき男は、に謝りながらも何やらあたふたと落ち着きが無い様子だった

       ふ―ん

       弾き飛ばされた時は反射的に何か言ってやろうかと思っただったが、男の様子にすぐピーンと来た


       「いらっしゃいませ。何になさいますか?」


       にこやかに浮かべる営業用スマイルも堂に入ったものだ


       「…え…あ…っと。あ、薔薇を下さい。」

       「何色になさいますか?」

       「あ…紅で。そこの紅いのを一輪下さい。」


       男のすっかり上気した表情と仕種に、は笑いたい気持ちをぐっと抑えて冷ケースの中に陳列されている上等の紅い薔薇を一本選び、
       丁寧にラッピングを施した
       横目でチラリと見遣ると、若い男は口をあんぐり開けたまま店の中をぼんやりと見回したかと思えば、腕時計を見て溜息を吐いたり、
       勘定を払うのを思い出してスラックスのポケットをゴソゴソ探ったりと忙(せわ)しいことこの上ない
       店の奥でマリアが忍び笑っている気配を察し、もつられて笑い出しそうになったが、そこはプロ
       ごくりと込み上げる笑いを飲み込んで男に薔薇を渡し、レジを打った


       「…頑張ってくださいね!」


       お釣りとレシートを渡す時、は男の顔を見上げて付け加えた
       男は、はっとしてネクタイを締め直すとスー、ハーと深く呼吸した


       「はい!ありがとうございます!」


       そしてに一礼すると、踵を返して足早に去って行った







       「あっはっはっは。何度見ても良いねぇ、こう言うの!」


       がシャッターを降ろした途端、マリアが盛大に噴出した


       「て、店長、それは失礼ですよ。…何と言っても男の正念場なんですから。」


       マリアを諌めるつもり半ばであろうが、も釣られて笑いを零した


       「20代後半ってとこかしらね。いいわね―、若いって。」

       「何言ってるんですか、もう。」


       はティーポットにオレンジペコーを三杯入れて、ゆっくりと湯を注いだ


       「…ま、一本程度じゃ店の売上には大して貢献しないんだけど、
        あの買い方は人生でそう何度も出来るものじゃないだけに見物よね。こっちからすると。」

       「…上手く行くと良いですね。」

       「…本当にね。」


       二人の女は、店の出口を見詰めた
       最早シャッターの降りた出口は黒々とした闇の世界の領域だった
       その遥か彼方の一つの人間模様を思い浮かべ、二人はそっと小さな幸運を祈った

       …一輪の花が開くにも、一杯の紅茶の葉が開くにも、然るべき時が必要であると言うことを二人は知っていたのだから








       「ただいま――。」


       マンションのドアを開け、は部屋の明かりを入れた
       …誰もいない空間から、返事は勿論無い
       これは、にとって一種の魔法であり、儀式でもあるのだ
       『今日も一日、無事に過ごせました。ありがとう。』
       ただそれだけの意を表現するだけの、毎日の日課
       …もう何年も、繰り返し繰り返し唱え続けるささやかな魔法の言葉
       呪文に載せた願いは一体何だったのか、自身殆ど忘れ掛けてしまっていたのだが



       朝食の時のままのリビングに差し掛かった時、ベッドサイドの小さな明かりがの注意を引いた
       黄緑色のランプが、チカチカと促すように点滅している


       「…誰かしら。携帯に掛けてくれれば良いのに。」


       誰もいない空間では、独り言も自然、大きくなる
       ベッドに腰を下ろして、は留守電の再生スイッチを押した


       「…母さんよ。あんたこんな時間なのにまだ帰ってないの?
        仕事も良いけど、女の一人暮らしは物騒なんだから早く帰るようにしなさいよ。
        …あんただっていつまでも若くないんだから、早く身の振り方を決めて…」

       ピッ。

       其処まで聞いて、は停止ボタンを押した

       …どうせ最後まで聞かなくても、内容は判っている
       「早く結婚しろ」「売れ残ったらどうするの!」「恋人はいないのか」の一点張りだ


       「もう…放っといて欲しいわよね。私の人生なんだから。」


       は溜息を零して立ち上がった
       ケトルに水を入れ、火に掛ける



       「…私の人生なんだから。」





       地方から東京の大学に進学したは、卒業後、小さな食品卸の会社で働いていた
       文学部を出た身では、そんなに贅沢を言える状況ではなかっただろうが、はそれでもやりたい仕事があった
       フラワーアレンジメント、である
       少しでも近い職に就ける様、在学中からカラーコーディネートなどのデザイン関係の資格を取ってはみたものの、今ひとつ就職には活きなかった
       …結局、希望をあきらめ、食品卸会社の事務職に就いた
       だが、2,3年も経つ頃になると、やはり元来の希望がムクムクと再び鎌首を擡げ始めた

       …もう一度、挑戦するなら今しかない

       20代半ばに差し掛かった己の身を振り返って、は遂に決断した
       幸い、事務職で稼いだ貯えが丸々有った
       会社を辞め、フラワーコーディネーターの許に入門し、文字通り一心不乱に修行に打ち込んだ
       の熱心な仕事振りに感心した師は、「センスの良い、能く働く娘がいるから」とを知り合いの花屋に紹介することにした
       …それがマリアの花屋である


       『私たちの仕事は、ただ単に花を綺麗に飾るだけじゃないわ。
        …花と人を繋ぐ。それが私たちに与えられた使命よ。』


       ささやかな送別の席で、師はにその言葉を贈った

       "花と人を繋ぐ"
       以降、落ち込んだ時や辛い時、は師のその言葉を心の中で唱えた
       …すると少しだけ、元気になれるような気がしたから

       そしてそれから3年が過ぎ、もすっかり一人前の店員になっていた
       都心のオフィス街の一角に位置するマリアの店は、いつも多くの人々で賑わい、様々な人間模様を垣間見せてくれる
       小さな花に載せた、人の想い
       それはどれ一つとして同じものは無く、美しくもあり、儚くもある

       彼らの想いを伝える、そのほんの少しの力になっている

       そう思うとは内心少し嬉しかった
       勿論、その結果は様々であろう
       相手の心を得られたかもしれないし、逆に失ってしまったことを思い知らされたかもしれない
       しかし、"伝える"というその行動の引き金になれれば、それで充分だ
       花を以って人と人を繋ぐ
       それが師から贈られた"花と人を繋ぐ"という言葉の一つの姿だと、は時折思うようになった

       …しかし、自分自身はどうだろうか

       気が付くと、人と人を繋ぐばかりで自分と誰かが繋がるという事とはすっかり無縁に近くなっている
       結婚式のブーケやブートニアのアレンジの仕事を引き受ける時など、新婦の歳が自分より若いという事も多く、思わず唸ってしまう

       …一度は諦めたものの、ようやく叶えた望みである今の仕事
       遣り甲斐も手ごたえもあり、職場も心地よいだけに、この頃のの心中はますます以って複雑だった











       翌日
       東京のオフィス街に、一人の颯爽とした男の姿があった
       彼が歩くと、道行くサラリーマンやOL達が一様に振り返る
       モデルだろうか、それとも俳優かもしれない
       彼の背は高く、顔立ちも日本人とはかけ離れた様相を呈している
       …ついでに言えば、見事な銀髪を腰まで伸ばした姿は、この国は滅多に拝める代物ではないであろう


       「…フフ。余程珍しいと見える。法衣は避けておいて無難であったな。」


       周囲の熱い視線を感じ、男は可笑しくてたまらなくなったのか立ち止まって軽く笑い声を零した


       「それにしても」


       男は、つい、と上を見上げた
       彼の紅の瞳に、東京の薄曇りの空の色が淡く反射する


       「この地も、変わり果ててしまったものだ。
        …今やどの国も都市は一様に煩い建物に埋め尽くされている。…243年前はもっと緑多き土地であったが。」


       彼の呟きを耳にする者が居なかったのは大変幸いなことであった
       普通の人間が聞けば、まずこの男がどこか狂っているとしか思えないであろう
       二世紀半も生きる人間が存在するなど有り得ない
       ましてや、今目の前に立つこの背の高い男がそんな人間離れした年齢に見える筈もない



       男の名は、シオン
       ギリシャ・聖域にて教皇を勤めるれっきとした聖職者である
       普段であれば「猊下」と呼ばれ、多くの人々に傅(かしず)かれるこの男が何故このような場所にいるかと言えば
       彼の仕える神の化身たる女神・城戸沙織に呼び出されたからであった

       城戸沙織は聖域に坐します女神としての立場と共に、もう一つの顔を持ち合わせていた
       「グラード財団・総帥」としての地位である
       全ての聖戦を終えた今、彼女が聖域に領ろし召す事もめっきり少なくなった

       「何処に居ようとも、この世界に異変のある時は自分で感じ取ることができます。
        …この聖域の事はシオンにお任せして差し支えないでしょう。」

       沙織は、シオンにそう説くとそのまま日本へ帰ってしまった
       …確かに、至って平和な現状を慮れば、沙織の言には一理有る

       …それに、彼女自身が欲しているのだ。故国での生業を

       沙織の気持ちを察したシオンは、彼女を止めることをしなかった
       他の黄金聖闘士の中には、シオンの判断を批判する者もあった
       だが、250年以上もの長き時を刻んだ彼には、他の誰よりも女神の心の裏が手に取る様に理解できたのである
       そこで、彼自ら半期に一度、女神の許に参上し聖域の現状を報告する役を引き受けた

       …以上の如き経緯を経て、シオンはこの地に足を踏み入れたのだった
       前日に女神への拝謁も済ませ、その足でそのまま帰国の途に付こうとしていたシオンは沙織に呼び止められた

       「折角ですから、暫くこの国を視察なさったら如何です?
        聖域<向こう>ではサガが代わりを務めてくれているでしょうから心配は要りませんし、
        何よりご自身の目でこの国のありのままの姿を見詰めるのも決して無駄では無いと思いますよ。」

       女神直々にそう勧められて、無下に断る理由も無い
       仕方なくシオンは「諾」と返答し、ちょっとした…しかし久々の休暇にその身を置いたのであった

       都内の一等地に位置する城戸邸に滞在することとなったシオンであるが、翌日から早速外へ出ざるを得なくなった
       …理由は、同じ邸内に青銅聖闘士の"小僧供"が暮らしていることが判明したからである

       …彼らに見付かったら、それこそ煩くてかなわない

       普段は教皇宮の執務室で静寂に身を浸している彼にとって、"小僧供"の相手をするのは少々骨が折れる
       …それならば、まだ外に出る方が幾らかはましと言うものだ
       身の回りの世話を担当する辰巳に手配してもらいスーツを着こなしたシオンは、朝早く城戸邸を後にしたのであった





       「それにしても…この地下鉄と言うのは意外に不案内だな。
        …出口が多すぎて出た所が何処であるのか非常に判り難い。普通の人間であれば方角が判らなくなる可能性が高いな。」


       ビル群から地下鉄の出入り口の階段に視線を移し、シオンはその容良く尖った顎に手を軽く当てた
       …天下の教皇猊下が地下鉄に揺られるのも想像に難いが、彼はつい先程この出口を昇って来たばかりであった


       平日の昼間とは言え、地下鉄の車両の中に立つ彼の姿は衆人の目を惹いた
       隣に立つサラリーマンがさりげなく彼を見上げている
       何時もとは違った意味で注目されていることに、シオンとしても少々くすぐったいような不思議な心境であった

       ふと気付くと、シオンから10mほど離れた優先席の前に、一人の老女が立っていた
       年の頃は70くらいであろうか、多少足取りが覚束無い
       車両が停発車を繰り返す度、手摺に掴まったままよろよろと左右に揺れた
       一方、彼女の前には若い男がどっかりと席に座り込んでいる
       こちらは20歳前後と見えるが、一向に彼女に席を譲る気配は無い
       暫し黙って二人を見比べていたシオンは、揺れる車両をつかつかと移動した


       「…そこの青年。席を譲らぬか。」


       静かな車両にシオンの低い声が良く響いた
       回りの客が、一斉にシオン達の方を向く
       見れば、シオンに声を掛けられた男は口をポカンと開いたまま、事態を把握しきれていない様子だった
       …確かに、この状況では誰しも同様の混乱に陥るであろう
       だが、不幸な事に彼の相手はシオンだった


       「早くどかぬか。それとも、お前は耳が聞こえないのか。」


       シオンの声が益々低く、重みのあるものに変化する
       流石は長年教皇職にある者だけのことはある
       言の葉に載せ相手に与える威圧感もまた絶大であった


       「は…は、はい。すみません。」


       男は顔面を蒼白にして慌てて荷物を手に持つと席をガタガタと立った


       「耳は聞こえているようだが、目は見えないとみえる。お前にはそこの表示が見えてはおらんようだ。
        …以後、気を付けることだ。」


       シオンは顎で「優先席」のシールを指した
       男は既に小刻みに震え、足取りにも力が無い
       そのまま逃げる様に隣の車両へ去って行った


       「…さて。」


       男の後姿を見届けたシオンはくるりと向き直った
       長い右手が、弧を描いて老女の皺だらけの手を取る


       「どうぞ。」


       老女を席へ誘うその流れる様な仕種に、周囲の人間はまたもや唖然とした
       …誰より老女自身が一番、驚いている


       「…い、いえ、結構ですよ。」


       しどろもどろと老女が応えるのを片手で制し、シオンは再び老女に席を勧めた
       シオンのルビー色の瞳に正面からぶつかった老女は、皺だんだ目を見開き、すとん、と腰を席に落とした


       「ありがとうございます。」

       「…何の、礼を言われるには及ぶべくもない。当然のことだ。」


       眩しそうに自分を見上げる老女に、シオンは軽く笑った







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