スニオン岬
       アテネを擁するアッティカ地方の最南端に位置する、赤土の大地

       シオンから命を受けた黄金聖闘士・水瓶座のカミュに伴われ、は岬の上に建つポセイドン神殿に辿り着いた
       まず、全てに先んじては厳かに神殿に祈りを捧げる
       それは彼女の主に対する、無意識下の忠誠の証だった
       今はサガの事で頭が一杯の状態だが、それでも主への礼は失しない
       それはプロフェッショナルとしてのの矜持でもあった
       側に佇むカミュが、腕を組んだままその様を無言で眺めている
       …いや、その仕草は決して今始まった事ではなく、岬への道すがらも彼はずっと沈黙を保ったままだった
       多くを語ろうとはしないのはこの男の習性なのかもしれない


       「…サガは、サガはどこ…?」


       跪礼を終えると、はそのままフラフラと神殿を離れ、辺りを歩き始めた
       慌ててカミュがを追う
       神殿の周りをほぼ一周したところで、はもう一つ張り出した断崖を東側に見つけた
       上から見ただけでは対岸の下に何があるのかは解らなかったが、岩牢があるとすればそこ以外には考えられない
       は岬の東端まで小走りに急ぐと、そのまま切り立った断崖を一気に下り始めようとして途端に足を滑らせた


       「…死ぬつもりか。」


       危うく転落をする手前で、カミュがの身体を後ろから受け止めた
       ガラガラと音を立てて、足下の脆い岩盤が一部、下へと転がり落ちる
       カミュの腕の中から断崖の下を覗き込んだの額にはうっすらと冷や汗が浮かんでいた


       「…あ…ありがとう。」

       「私が下まで連れて行こう。」


       カミュは小さく溜息を落とすと、を抱えて断崖の下へと飛んだ
       崖の一番下まで降りたの足下に、柔らかなエーゲの波が幾つも打ち寄せては砕ける
       柔らか、とは言え、そのすぐ下は海界の領域。地上に立つ者に取っては地獄の釜の蓋に等しい
       海皇の庇護を受けるでさえ一瞬たじろいでしまう

       …だけど、私に取って今はサガが総て


       「………サガ!」


       対岸にせり出した断崖の下に、は小さな空洞を見出して蒼白になった
       岩肌を直に抉り取ったかの如き空洞には何本もの鉄格子が施され、其処が人を近寄せぬ重暗い禁域であることが窺われる
       …今、その禁域の中に佇んでいるのは、紛れもなくの捜し求めるたった一人の男だった
       がくり。
       の視界の真ん中で、青白い影が力無くうずくまる


       「サガ!!」


       足を折るサガの姿に堪えかねて、は悲鳴を上げた
       僅かに顔を上げたサガはの出現に驚き何か言っているようだが、波音と二人の間の距離に掻き消されての元までは届かない


       「…何!?サガ、よく聞こえないわ!……待って!」


       は突然、崖下の僅かな岩場を伝い始めた…サガのいる岩牢に向けて
       サガがに向かって何か叫んでいる。…おそらく危険だと止めているのだろうか
       それでもは足を止める気配すら見せず、岩場を一歩づつ伝う


       「………。」


       その様に暫く黙していたカミュは、やがて小さくかぶりを振るとのすぐ前まで飛んだ


       「…やめて。邪魔をしないで!」


       進路を遮られた形になったは、身を捩って必死にカミュに抗議した


       「…待て、。あの場所まで行くのは君には無理だ。」

       「無理でも何でも、今は行くまでよ。邪魔をしないで。」


       は静かに言うと、カミュを睨め付けた
       の訴えかける視線と同時に、カミュの背後からサガがに何か叫んでいるのを感じる

       …この二人…。

       今にも自分を押し退けようとするを見下ろし、カミュは須臾躊躇った後に再びをその胸に抱きしめた


       「…何をするの!?」


       の視界が、カミュの胸に埋もれて金色に染まる


       「………。」


       押し黙ったまま、カミュはを抱き岩牢から一番近い足場まで一足に飛んだ
       ふわり。
       の目の前でカミュのマントが風を織る


       「…さあ、これでサガと話くらいはできるだろう。」


       カミュはの後ろに回ると、に背を向けた


       「…カミュ。」

       「私は何も聞かなかった、二人の会話は。…そう言う事だ。」


       カミュの背に頷き、は岩牢を向き直った
       波は凪いでいる。まだ若干の距離はあるが、どうにか話をすることはできそうだ


       「サガ!今そこから助けるわ!」

       「、どうして此処に来た?…私を助けるだと?」


       …今のサガの表情には、暗い影は浮かんでいない

       はサガの面持ちをちらりと窺うと、サガに届く様、声を一段大きくした


       「事情は猊下に伺ったわ。…貴方は悪くない!
        …だから、私が貴方をそこから助け出す!」


       膝を折ったまま、サガが牢の鉄柵に手を伸ばした
       満ち潮を数時間後に控え、徐々に海水が牢を浸食し始めている


       「私に……構うな。早く此処から逃げるんだ、。」

       「どうして!?」


       岩場から身を乗り出したは、呻く様に声を絞り出したサガの手の、そのあまりの青白さに声を失った
       いや、手だけではない。柵に縋りながらようやくの事で上げられたその顔はすっかり血の気が失せていた


       「サガ!」


       懸命に呼び掛けながら、が片手を伸ばす


       「私に…近付くな。…君を……うっ…!」


       はぁっ、と苦しげに息を漏らし、サガは両の手で頭を押さえ蹲った
       サガの頭の奥で、何かが暗い螺旋を描きながら蹂躙する
       心の底でチカチカと点滅する『それ』の正体を十分すぎるほど知っているだけに、サガの表情は時を追って険しさを増す

       …を、を危険に曝す事だけは避けなければ…!

       情けないほどに力が失われて行く中で、サガは自らの腕にそっと触れた
       潮風と海水で冷え切ったサガの身体に、今朝、が触れたその暖かさだけが残っている
       …自分を労わる、の確かな温もりが

       脳裏で暴れ回るもう一つの自分にの身を委ねる訳にはいかない…


       「。良いから早く此処から立ち去るんだ。…此処にいると私は君に危害を加えてしまう!…だから。」

       「…いやよ。今朝…いいえ、昨晩貴方に会った時から、私は貴方のために何かをしたいと、そう思ったの。だから…!」

       「…昨晩…。私を、もう一人の私を見て恐ろしくは無かったのか?」

       「最初は恐ろしくなかったと言えば嘘になるかもしれない。…でも、貴方は確かに苦しんでいた。
        …そんな貴方の事を、怖くなんか無い。」


       柵に縋った状態のまま、サガはを見上げ、僅かに目を細めた
       …サガの視界の中で、こちらに向かって必死に手を伸ばすの姿に太陽の光が重なる

       この私を照らす、一筋の光が……


       「…。」


       笑みを浮かべると共に、がくり、とサガは再びその身体を崩した


       「サガ!しっかりして!」

       「駄目だ、…。此処に居ると、何か身体から力が失われて行くようだ。…今に悪いものが私の身体を満たす。
        だから早く離れるんだ。」

       「『此処』って………。」


       サガの言葉に、ははっとして暫く考え込んだ

       …確かに、この岩牢には何か良くない物を感じる。『牢』と言うだけに明るい要素は元々無さそうではあるけれど…


       「サガ、その岩牢の中に居ると良くないのね!?外と比べて。」

       「…ああ。海水のせいかもしれないが…。」


       はそれだけを確認すると、徐に後ろを向き直った


       「カミュ、教えて。…この『牢』には何があるの?」


       矛先を向けられたカミュは何時もの調子で暫く押し黙っていたが、重い口を開いた


       「私の聞いた話では、嘗てその牢の奥に海界への入り口があったと。」

       「海界への入り口!?」

       「ああ。13年前、サガによって其処に封じられたカノンがそれを見つけた。
        本来は、ポセイドンを封じる女神の印が施された三叉の矛が刺してあったと言う事だが。
        それを抜いた所に海界への入り口が現れ、カノンは海界に辿り着いた。…それ以降の事は君たちの方が詳しいだろう。」

       「女神の封印と、海界への入り口……。」


       の脳裏で、いくつかのキーワードが交錯する

       …神の封印、異界への入り口。そして神により浄化されたはずの、サガのもう一つの人格。


       「海界へ、戻ります……!」


       突然海面を見つめて放言したに、カミュが珍しくその驚きを露にした


       「…一体何をするつもりだ。」

       「海底に、きっとサガを救う手立てがある。…そんな気がするの。だからそれまではサガに手を下すのは待って欲しい。」

       「それは私に言う事では無いだろう。…もとより、私はサガを害するつもりなど毫も無い。」

       「…ありがとう。」


       は、もう一度サガの方を向き直った


       「サガ!もう少しだけ待ってて。きっと貴方を助ける方法があるはずだから!」

       「何をするつもりだ、…!」


       言うや否や、海に勢い良く飛び込んだを止めるかの様にサガが声を振り絞る
       海面から顔だけを覗かせて、は岩牢まで近付いて来ると鉄柵のサガの手に己の手を添えた


       「…大丈夫。もう苦しまなくて良いわ、サガ。」

       「…。」


       の小さな手から、朝と変わらぬ温もりがサガに流れ込む

       …温かい。


       「だから、私を信じて!」


       サガの手をきゅっと握ると、は向き直って海原……海皇に祈りを捧げた


       「偉大なるオリュンポスの神にして我が神、ポセイドンよ。願わくは、我が身を御前に導きたまえ。」


       …ザン
       勢い良く、の身体は浮力に逆らって海底(おぞこ)へと沈んで行った





×××××××××××××××××××



       バシャァァァッ

       天上の海を突き破り、の身体は突如速度を増して落下し始めた
       海皇の領域に戻ってきたのだ
       海中に居る時とは異なり、浮力の支配を受けぬ大気中では物体の落下速度は考えるだけで薄ら恐ろしい程に至る
       …海底世界の「上空」が如何に高いものであったとしても

       水に濡れそぼったのキトンが、空気と触れ合って肌をビシビシと叩く
       地面…いや海底が、徐々にの視界の大部分を占め始め、その倍率を拡大する

       ………落ちる!

       怖い。海底に叩き付けられた己の姿を想像し、一瞬だけはその双眸を閉じた

       ドサリ
       叩き付けられた筈のの身体は、存外優しい音を立てて宙に浮いていた


       「…海龍…殿。」


       猛烈な速度で落下してきたを受け止めていたのは、つい先程まで話をしていた男と同じ容貌を持つ男だった
       男の長い髪が、海底の風にサラサラと揺れる


       「…随分と任務に時間を割くんだな。悠長な事だ。」


       を腕の中に抱えたまま、男が口の端を上げて冷笑する
       クッ、と乾いた笑い声が漏れるのを耳にして、は眉を顰めた

       …兄<サガ>と違うのは判り切っていることだけど…


       「…兄上に、お会いしました。…地上で。」


       カノンの腕からするりと降り、が濡れたキトンの乱れを正す


       「…知っているさ。俺が此処から地上(うえ)を見上げて欠伸でもしていると思われては困る。」

       「じゃあ、私が此処に如何なる用事で戻ってきたか…」

       「だから、知っていると言ってるだろうが。」


       に皆まで言わせず、カノンは面倒くさそうな仕草で海底神殿をその親指と顎で指した


       「海皇も御存知だ。…だから此処まで俺を迎えに寄越された。ご丁寧にも、あいつの弟である俺をな。
        …、お前をすぐ連れて来いとの事だ。」

       「海皇が……?」

       「…行くぞ。」


       言い捨てると、カノンはを置いて主の住まう神殿へと一直線に歩き出した








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