「、此度の任務、大儀であった。」

       「…はっ。」


       玉座から響く主の声に、はゆっくりと顔を上げた
       の横には、同じく神妙に片膝をつくカノンの姿もあった
       …彼らの主である海皇は目の前の二人を交互に一瞥して、玉座の上でその長い足を組み直した

       海皇・ポセイドン。
       嘗て女神と地上の覇権を争ったこの神は、全ての聖戦後、女神によってその封印を解かれ、再び海界に君臨した
       …無論、ジュリアン・ソロをその依代としている点は以前と何ら変わりない
       前回はカノンにより不完全な覚醒を果たした海皇であったが、今回は神々同士の取り決めの下、自らの世界を掌握するために完全体として蘇った
       天・海・冥・地。各界が何れか一つでも正常に機能しないからこそ力の均衡が崩れ、争いが生じると言うのが神々の出した結論であった
       …その海皇が今、に向け、玉座の上から典雅な仕草でその身体を乗り出す


       「…、近う。」

       「かしこまりまして。」


       主の要求に応え、は僅かばかり前に身体を進めた
       やはり腹に懸念があるとそれが身体に出るのであろうか、の動きにややじれったい空気を感じ、海皇がフッと声に出して笑う


       「…、気に掛かる事があるのだろう?申してみよ。」

       「…は……。あの……。」


       …何から言えば良いのだろう?さっきのカノンの口調からすると、海皇は全て御存知のご様子だけれど…

       考えあぐねた様子のを、海皇はさも面白そうに眺めた


       「そなたの困惑した顔を見るのもたまには良いものだな。珍しい事だ。」


       の隣に座すカノンが、主のその言葉に笑いを漏らした
       …ほんのりと、の頬に紅が差す


       「もう良い、。そなたの聞きたい事は判っている。
        …双子座の黄金聖闘士・サガの事であろう。」

       「…はい。サガ殿は…。」

       「サガと申すその男は多重人格であったそうだな。…そうだな、海龍。」

       「御意。」


       先程と打って変わって、カノンが僅かに苦々しい表情を浮かべる
       ちらり、とは横目でカノンを見遣り、話を続けた


       「…しかしながら、女神によってその悪の人格を浄化されたとの事ですが…。」

       「そう、其処だ。聖域の教皇・シオンから既に報告を得てある。
        …正午方、再びその人格が蘇り乱心に及んだ、とな。どう言う事か、興味深い話だと思わんか、なぁ海龍よ。」

       「……私如きには判り兼ねますれば。」


       知ったことか。
       カノンの顔には、はっきりと不快の二文字が書かれていた


       「それで、、そなたはどう思う?」

       「それなのですが、…そのきっかけは兎も角として、一つ気に掛かる点がございます。」


       海皇から水を向けられ、はずいっと身体を一歩また乗り出した


       「…ほう?」

       「仮に、浄化された筈の人格が再びサガの中に舞い戻ったとして、その状態に悪影響を及ぼす要因があるのではないでしょうか。」

       「…それは?」

       「『神による封印』とその開放です。」

       「…どう言う事かな。もう少し詳しく聞きたい。」


       鷹揚に頬杖をついていた手を胸の前で組み直し、海皇もその玉体を僅かに前に乗り出す


       「先程、私はサガ殿が幽閉されているスニオン岬に参りました。そこで私が見たのは……一層苦渋に苛まれるサガ殿の姿でした。
        サガ殿の話では、スニオン岬の岩牢の中に居ると、地上に居るよりも自らを失いそうだ、と。
        …あの岩牢に何が有るかは御存知でございましょう。」

       「忘れる筈も無い。…女神による海皇『封印』と、それを解いた跡だ。
        …つまり、神々による封印と開放のエネルギー痕跡がサガの別人格覚醒に力を貸している、と言いたいのだな。」

       「御意。元はと申せば、サガ殿の別人格も『神』により『浄化』…つまり分離・隔離されたもの。
        スニオン岬に残る神の封印・開放の余波が良からぬ影響を与えているのは火を見るより明らかです。」


       力強く断言するに同意する形で頷き、海皇は更に話を促した


       「では、どうすれば良いと思うかな、。」

       「…僭越ながら、『封印』以外には…。」

       「ほほう。」

       「先程も申し上げましたが、畏れ多くも女神による『浄化』とは人格の分離・隔離に過ぎません。
        従って、悪しき影響によって再びその身体・精神がもう一つの人格に侵される可能性は今後、何度でもあり得るのです。」

       「…『神』の封印と開放の余波が『悪しき影響』扱いとはな。我々『神』も救われぬ事だ。」


       海皇がクックと意地の悪い笑い声を上げたのを受けて、は俄かに怯んだ


       「…申し訳ございません。決してその様な文脈で申し上げたのでは…。」

       「承知の上。気にするな。
        …そなたの申す事、能く判った。」


       パチン。
       平伏するを尻目に、海皇はその長い指を鳴らすと近侍の者に合図を送った
       近侍が天幕を捲ると、文官の衣装を纏ったテティスが脇から姿を現す


       「テティス、例の物を、此処へ。」

       「御意。既にお持ちいたしております。」


       恭しく応えると、テティスは手に何かの箱を携えて海皇の脇まで近付き、箱を海皇に手渡した


       「、これへ参れ。」


       海皇は箱を一瞥して笑うと、を招き寄せた
       主の側近くまで上がるのだ、粗相の無い様、はゆっくり立ち上がって玉座まで一歩づつ近付く
       静まり返った神殿に、シュシュ、とリズミカルな衣ずれの音だけが響いた


       「…これを持て。」

       「…?」


       海皇に手渡された箱を前に、はその眉を顰めた


       「開けて見るが良い。」

       「御意。」


       そっと箱の蓋を持ち上げたは、隙間から中を覗くとあっと驚いて箱を取り落としそうになった


       「…これは!」


       …中に入っていたのは、嘗て女神が海皇を封じ込めた『女神の壷』であった


       「そうだ。それはつい最近まで私が再び封じられていた『女神の壷』だ。
        …今まで、私が何度となく其処に封じられた経験があるのは皆の知る所。
        が、此度の神々の取り決めにより、私が其処に封じられる恐れは最早無くなった。
        …しかし、幾度も神を封じた『壷』だ。その効力は今以て衰えてはおらんだろう。」

       「…しかし、この様な…。」

       「この壷なら、サガのもう一つの人格を恒久的に封じる事が適う。…私を開放した女神への良き返礼にもなるだろう。
        …使うが良い。」


       困惑と驚愕の表情を浮かべて自分を見上げるに向かい、海皇は力強く頷いた


       「そして、サガの悪の人格を封じた暁には…、そなたをその壷の番人として人界に留まる事を命ずる。」

       「………海皇!」

       「…サガと幸せに過ごせ。…それで良いな、海龍?」

       「…元より異存はございません。」


       突然話題を振られたカノンの表情には微かに驚きが滲んだが、さっとそれをかき消すと涼しげに答えた
       その様子をちらりと見遣り、海皇は座を立ち上がると平伏するの肩にポンと手を置いた


       「…さぁ、早くサガの元に行ってやるが良い。急げ。」

       「あ……ありがとうございます。」


       視界が涙でじわじわと歪むのを感じながら、は海皇に手を取られてようやくの事で立ち上がると、急ぎ足で地上への道を辿った








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       「待っておりましたよ、。さぁ…こちらへ。」


       聖域に辿り着いたを待ち構えていたのは、誰であろう女神本人であった
       菫色の長い髪が、風で後ろに弧を描いて流れる
       その脇には、教皇・シオンの姿もあった


       「あ…あの……。」


       困惑するに、女神は口元を綻ばせた


       「このシオンと、海皇から話は聞いております。サガのために奔走してくれたそうですね。
        まずはに、一言お礼を言わなければなりません。」

       「…い、いえ。そのようなお言葉、私めには勿体無く存じます。」

       「サガは、心正しき聖闘士の鑑。その心が蝕まれて行くのを見捨てるような事は私も望んではおりません。
        …ですが、その心正しさ故、彼は蝕まれた自分を許す事ができないのでしょう。例え、『神』が許したとしても。」


       女神は俯くとその表情を俄かに暗くした
       その表情とサガの苦しげな面持ちが重なり、ズキン、との胸の裏(うち)も言い様の無い痛みに見舞われる

       …そうだ。嘗てサガは、自分の犯した罪の重さに耐え切れず、自らを殺めた
       苦しんでいたのは誰でもないサガ本人なのに。
       神の慈愛もサガを救う事は出来なかった。…じゃあだれが一体サガに許しを与えられると言うの…



       「それが人の『愛』なのですよ。」

       「…え…?」


       が驚いて顔を上げると、先程まで沈んだ表情をしていた筈の女神がにっこりと微笑んでいた


       「神の『愛』とは、本来その人の内面にあるべきものなのです。
        でも、サガの様に深く傷付いて弱ってしまった心の中では、そのような無上の慈愛は片隅に押しやられ、感じ取る事が出来なくなってしまう。
        …日陰に入ってしまっては、太陽の光が届かなくなってしまうように。」


       徐に女神はに近付くと、その手を取った


       「でも、人の『愛』は違います。形を持たぬ神の『愛』とは異なり、人の『愛』は一つ一つ、異なった形を持っているのですよ。
        …それは決して万能ではありません。でも、必ず誰かの心には届くように出来ているのです。」

       「私の『愛』が……?」

       「そうです。そして人はお互いに自分の『愛』が重なり合う人間を探しているのですよ。
        …太陽の光は公平ですが、その人の望む温もりをいつも与えられる訳ではないのです。
        時には冷たすぎて凍えさせてしまうかもしれませんし、時には熱すぎて渇いてしまうかもしれません。
        残念な事ですが、『公平』では決してその人の望む事を満たしてあげることはできないのです。
        ですが、貴女の『愛』ではサガの心を満たしてあげることができるのです。
        …貴女の、彼を思うその『特別』の愛で。」


       女神は、の手を引いてその場に立たせ、スニオン岬の方角を指差した


       「サガが、貴女を呼んでいます。さあ、参りましょう。」


       …サガ、待ってて………!

       は、女神に向けて大きく頷いた
       二人のやりとりを側で無言のうちに見守っていたシオンが、それを合図に二人に近付くと法衣の袖をバサリと被せ、意識をスニオン岬へと集中させた









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       と女神、シオンの三人が岬に辿り着き初めに目にしたのは、岩牢の中で意識を失ったサガの姿だった
       蒼白に染まった顔には生気が失せ、最早最期を迎えるばかりであった


       「サガ!!」


       が慌てて例の岩場まで駆け寄った
       精一杯手を伸ばしても、サガの元までは届かない

       …このまま終わるなんて、絶対にいやよ!

       は必死にサガの名を呼び続けた
       ピクリ。
       暫くして、サガの背が僅かに震えた
       ゆっくりとその顔が上がり、青い瞳がこちらをおぼろげに捉える


      「………。」

      「サガ!…良かった。」

      「良くやりましたね、。後は私にまかせなさい。」


      の横から女神が身体を乗り出す
      その両の手には例の『壷』がしっかりと握られていた


      「サガ、こちらをお向きなさい。」


      女神の声音に乗せて、『神』の力が加わる
      グググ…とサガの身体が柵に向けて吸い寄せられるのを間近にし、はゴクリと喉を鳴らした


      「遠慮は要りません。さぁ、私の前にその姿を現しなさい。もう一人のサガ。」


      凪いで居た筈の海が、サガの周りだけ俄かに波打ち始めた


      「う……う、ぐ……。」


      ………!か、髪が…、サガの髪が…!

      嗚咽と共に色を変じ始めたサガの髪にあの光景を思い出し、ひっとは声を出しそうになって必死で抑えた


      「フフフ、私が怖いか、よ…。」


      ヨロヨロと鉄柵に縋りながら、目の前のに向けてサガが不遜な笑いを漏らした


      「怖いだろう、この私が。どうだサガ、大切な女に怖れられる気持ちは…!」


      黒髪の間から、もう一人のサガの黒い瞳が狂気を帯びて光を発する
      どうやら、女神によって内部に押し込められた善なる自分を嘲って悦に浸っているようだった
      を一旦後ろに遠ざけると、女神はサガの前に立ち塞がった


      「言う事はそれだけですか、サガ。」

      「…女神、またお前か。余計な口を挟んで水を注すな!私は今、サガをいたぶって遊ぶのが愉しくてたまらんのだ。
       まったく愚かな男よ。自分のせいでもない過去の罪と、もう一人の自分の影に怯え、愛する女に自らの想い一つ伝えられんとはな。」


       …アイスル、オンナ……?

       悪しきサガの言葉に、はピクリと反応した

       …サガが私を…?


       「フフフ、そうだ。…こいつはな、、お前を愛しているのだとよ。
        だが、何も出来ないで居る。フハハハハ、無様な事だ!」

       「…それは本当ですか、サガ。」


       高笑いを続けるサガに、女神が静かに確認した


       「ハッ、私が嘘を吐くとでも言うのか、女神よ!
        それとも私と同じく、この臆病者が一人前に他人を愛するのが愉快でたまらんか?」

       「…いいえ。」


       ゆっくりと返答をすると、女神は傍らから壷を持ち出し、その蓋を開けた


       「さぁ、『善き』サガ!貴方のその想いが本当なら、貴方に巣食うもう一人の貴方を外に押し出すのです!」

       「なっ、何をする…!」

       「サガ!もう一人の悪しき貴方を封じるためには、貴方自身がその悪しきものを追い出す必要があるのです!
        後ろ暗い人生を忘れるために。…そして愛する者に、心のままその愛を伝えるために……!」


       ゴオオオオォォォォ……ッ
       女神の言葉が終わると同時にサガの内部から金色のオーラが立ち上り、サガの身体全てを包んだ
       黒髪の男が、突然自らを襲った苦悶に顔を歪める


       「ぐっ…!臆病者の分際で私を排除するつもりか、サガよ!」

       「さあ、もう少しです、サガ!自分をしっかり持って!」


       壷を高く掲げ、女神が善きサガに声を掛ける
       …と、女神の後ろでその様子を見ていたが、徐にサガの前に駆け寄った


       「、私にまかせてお下がりなさい!危険です!」

       「…いいえ!」


       女神の制止を振り解き、はサガのすぐ側まで来て柵越しにその顔を覗き込んだ


       「…サガ、私の声が聞こえる!?」

       「…この女……いっそ一思いに捻り潰してくれる!臆病者のサガよ、お前はそこで見ているが良い!」


       黒髪の男が、不快を露に柵から片手を伸ばし、の襟首を掴んだ
       …と、逆の手がその手を上から制止する


       「…………!」

       「サガ!聞こえているのね!」


       苦しげにこちらを見るサガの瞳に、蒼い光が反射した


       「、私は…私は………」


       ゴフッ、と音を立てて、サガの口から血が逆流する
       朦朧とした表情のまま、サガが地に足を折り掛けるのをが引き止める


       「…もう少しで貴方は自由になれるわ、諦めないで!」

       「……」


       サガの腕に、の熱に乗せて何かが伝った
       …『愛している』と言う、その想いが…
       自らを失いそうになりながら、サガはその場に立ち留まった
       一旦弱まった金色のオーラが、再び強い光を放ち始める



       「私も…、君を愛している…!」



       ドオオオオォォォォォッ!
       言葉と共にサガのオーラは大きく弾け、豪風がの身体を包んだ

       女神は、風と共に外に弾き出された『それ』を壷に納め、きっちりと蓋と封印を施した








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       「よくやりましたね、。これでサガが『悪しき者』に苛まれる事は二度とないでしょう。」

       「…ありがとうございます、女神のおかげです。」


       風で乱れた髪を左手で掻き上げ、が口元を綻ばせた
       壷を抱えたまま、女神がにっこりと慈愛の笑みを浮かべる


       「私は何もしていませんよ。何かしたとすれば、あなた方の想いの成せる業です。」


       ピクリ、と傍らのサガが動いた
       …先刻シオンの手により岩牢から運び出されたサガは、断崖下の岩場にその身を横たえていた
       はサガの元に駆け寄ると、憔悴しきったその顔を覗き込んだ


       「…う……、……?」

       「サガ、動いては駄目。…限界まで体力を使い果たしているのよ。…覚えている?」

       「ああ。…、君に何と言ったかも、な。」


       サガは痛そうに身体を捩ると、微かに笑った
       その様子を見ていた女神とシオンは頷き合うと、聖域へ帰るべく用意を始めた


       「。サガを頼みますよ。…この壷は一旦私が聖域まで持ち帰りましょう。」

       「ありがとうございます。」

       「海皇より伺っておりますよ。今後はこの壷の番、よろしくお願いします。…双児宮にて。
        それでは、また後で。」


       ………!!

       言い終えると同時に、女神とシオンはその場から姿を消した


       「…女神も侮れないお方ね。」


       やや恥ずかしそうに、は笑った
       上半身を起こしたサガが、その目を細める


       「…ありがとう、。」

       「…ええ。私も…。」

       「もう一度、言っても良いだろうか。」

       「…?」


       の背中越しに腕を回し、サガはの頬にそっと大きな掌を置いた
       くい、と微かに捻ると、の顔がサガの方を向く


       「愛しているよ、。」

       「…私も、サガ。」

       「…想いを素直に口に出来ると言うのは存外嬉しいものだな…。」


       フッ、と息を漏らして笑うと、サガはゆっくりと唇を重ねた








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