サガと別れたが数多の宮殿を抜けて教皇宮まで再び戻って来たのは、そろそろ日が高くなり始めた時分だった
       例の無愛想な神官に案内され、昨日と似ているようでまた少し異なる回廊を辿る
       カツーン、カツーン
       ひたひたと音も無く歩く神官の後ろで、のサンダルの底が醸し出す高い音響が闇に消えて行く

       …やっぱり記憶に留めるのは不可能みたいね。似たような通路、似たような曲がり角………まるで迷宮だわ

       『迷宮とは、侵入者を防ぐ為ではなく、何かを外に出さない為に存在する。』と言う格言にふと思い当たり、昨日の暗闇の記憶が蘇ったは薄気味悪げに小さく身震いした

       …泉では考えないようにしていたけれど、アレはやはりサガだったのかしら
       それにしては恐ろしい小宇宙だった。まるであれは………そう、『悪魔』としか言えない程に
       …さっき泉で話していた時の、彼の瞳の奥底で微かにちらついた暗い影が気に掛かる
       私の思い過ごしなら良いのだけれど、サガの精神状態は何か……不安定な気がする
       彼はいつも何かに怯えている。…でも一体何に?

       は薄暗い回廊に連綿と続く古めかしい扉をいくつもやりすごしながら、眉を顰めた

       とにかく、サガはその『何か』を怖れ、そして他者に自分の内面を触れられる事を避けようとしている
       …つまり、彼が怖れているものは、彼自身の中に存在すると言うことかしら
       それは一体何?……一種のトラウマのようなもの?それとも………

       一人思案に暮れるを、前を行く神官が徐に待ち部屋に招き入れた
       今度の部屋は明るくてこざっぱりしている。周りにも不審な部屋は見当たらない
       はホッと胸をなで下ろした
       その内心をめざとく見抜いたのだろうか、神官がギロリ、とを一瞥する


       「女神がお会いになられます時には、また呼びに参ります。…それまでは」

       「部屋の外に出ないように、ですね。」


       皆まで言わせず、が遮った。…せめて昨日の意趣返しだ
       は言うだけ言って知らん振りを決め込んだが、神官は無言で睨め付けると踵を返した

       良い気味。…この位は良いわよね


       「どうせまた待たされるんでしょうし、ね。」


       はあてがわれた居室のドアを閉めると、勢い良くドサリと椅子に腰を下ろした







                ×××××××××××××××××××××








       「な……、それは一体どう言う事ですか?!」





       さして広くはないが静かな部屋に、の声が木霊した
       夕刻まで待たされたが、居室に突如シオンの来訪を受けたのはほんの数分前の事


       「勅使殿、猊下の御前にてそのお言葉は、些か過ぎましょうぞ。」

       「良い。こちらの事情故の事、が驚くのは理(ことわり)。」


       無礼を窘めんとする神官を制し、シオンがを顧みた


       「取り乱してしまいました。申し訳ございません。」

       「だから、良いと申している。」


       シオンは短く応えると、の側に立った姿勢のまま一筋、己の鬢の毛をかきあげた
       それは彼が苛ついている時の癖の様だったが、銀色の束を掬うその仕草はその内心と裏腹に恐ろしく典雅なもので、
       は状況を忘れてはっと息を飲んだ


       「…下がれ。」


       シオンが神官に下した命に、はようやく我に返った


       「…どこから話を始めたものか………。」


       珍しい。教皇たるお方が何やら躊躇っていらっしゃるような…

       はシオンの端整な横顔に内心驚きの声を上げた
       暫くして、シオンは何やら考えあぐねた後、ようやく語り始めた


       「…私は今日まで200年以上の長きに渡り、女神よりこの聖域を託されて来た。
        初めて教皇の座に就いた時、まだ女神は先代であらせられた。」

       「はい、私も左様に伺っております。」


       真顔で頷くを一瞥し、シオンは僅かに顔を背けた


       「そうだろうな。その程度の事位は知っておろう。
        …だが、その在位に13年の空白があった事は海界の者は知るまい。」

       「…13年…?」


       は知らされた内容に驚いた
       事実か否か真偽の程は不明だが、今シオンが語るそれがこの聖域の第一級の機密事項に該当する事は瞬時にして理解できたからだ


       「…この聖域も、残念ながら一枚岩とはいかない時もあると言うことだ。
        そして13年前、私は内乱で命を落とした。…ある男に寝首を掻かれてな」


       シオンが内乱と言うからには味方に叛逆を受けた事を示唆するには違いないが、は何やら悪い胸騒ぎがしてうそ寒くなった


       「無論、教皇たる私ほどの人間を葬るのだ、相手はそれなりの実力の持ち主だ。
        …黄金聖闘士の一人、双子座のサガ。それが乱の首謀者だった。」

       「な………!…サガが?!」


       の背中に昨晩に似た衝撃が走った
       じわり、と額に滲む汗を見遣り、シオンが眉を顰める


       「…知っているのだな、あの男を。」

       「は………。今朝程、偶然に。海龍の兄にございますれば。」

       「そうだったな。忘れておったわ。」


       シオンの糾弾を寸手の所でかわし、は僅かに安堵したが、目の前の事態はそれどころでは無い程深刻なのは明瞭だった


       「…しかし僭越ながら、叛逆と申しましても、サガ殿はそのような方には…。」


       慎重に、慎重に。
       言葉を選んで問う形を取りながらも、の脳裏には昨晩の戦慄すべき光景と、今朝方見たサガの瞳の奥にちらついた暗い影が交錯する

       何故今、シオンがこんな話をするのだろう。
       13年前の一件と現在のこの状況が示す関係は……


       「そもそもの発端は、次期教皇の人選にあったのだ。サガは当時、有力な候補であった。
        …が、私は彼を選ばなかった。
        それが一連の反逆劇を招き、サガは私を殺害すると教皇になりすまし、13年の間地上の実権を握った。
        サガの反逆を見抜けなかったのは私の落ち度だが、その前の段階で私はある事に気付いていた。
        …故に、私はサガを次期教皇候補から外したのだ。」


       シオンが音も無くその白い拳を握る
       とシオン、二人だけの静かな空間に重苦しい時間が流れた


       「あの男の中には、もうひとつの人格が潜んでいた。…残忍な破壊の衝動がな。」

       「た………多重人格…。」

       「そうだ。普段は神の如き威厳と慈愛を満面に湛えているが、その影には善からぬものが隠れていた。
        時折ちらつくその影に気付いたのは私くらいのものだったろう。そして私はサガにその事を仄めかした。
        何故自分が教皇候補から漏れたのか、あの男が食い下がって来たからであったが。
        …そして教皇候補から外されただけでなく、体内に潜むもう一人の人格の存在を気取られたサガの刃は私に向けられた。
        それが事の顛末だ。」


       何と答えても角が立つ気がして、はそのまま押し黙った
       困惑の表情を察し、シオンが僅かに口元を緩める


       「沈黙は金、か。聡い事だ。
        …私は死んだ。その後の事は自らが見聞きした事ではないが、13年の間に起きた事実とその裏の真実は全て把握している。
        私を殺したサガは教皇に成りすまし、降臨した女神を殺害しようとした。
        が、それは失敗に終わった。次期教皇候補の黄金聖闘士・アイオロスに阻止されたからだ。
        アイオロスは女神を連れ逃亡、その途中で死亡した。
        サガは自らが女神を保護したかの如き形を取りながら、13年間他の聖闘士を統率した。
        …が、生き延び、長じた女神は一部の青銅聖闘士に奉ぜられ、この聖域に乗り込んで来た。
        そして、全ての事実が白日の下に明らかになり、追い詰められたサガは女神に悪の人格を浄化された後、自ら命を絶った。
        …これがこの聖域の真実だ。」

       「………。」

       「後は海界(そちら)の知る通りだ。…驚いたか?」

       「…はい。」


       …何て事……。

       目の前の男の語る、その全てがこの聖域の秘事だけに、は黙って頷くより他に成す術が無かった
       …だが、今の話を信じたならば、現状には一つの致命的なパラドックスが存在する
       はその事を確認せずにはいられない……いや、シオンも「それ」を暗に示すためにこの長い話を自分に仄めかしているのではないか
       一呼吸置いて、は再び言葉を慎重に選びながら口を開いた


       「猊下。今のお話に付きまして一つお尋ねしたき議がございますが…。」


       言の葉に乗せられたの真意を察し、シオンが紅玉の瞳を細めて頷く


       「先程のお話にて一つ、心残りの有る点がございます。…無論、サガ殿の事につきまして。
        …『女神により悪の人格を浄化された』との由ですが…その、すると、彼は今…」

       「やはり気付いておったか。」


       シオンは立ったままのを促し、近くにあった椅子に腰掛ける様に示した
       が座ったのを見届けると、シオンもその側に腰を下ろす




       「サガは今、スニオン岬に幽閉されている。………先刻、女神の御前にて乱心した。」




       「な………なんと!?」

       「そう、今そなたが申した通り、あの男の残虐な人格は確かに女神によって浄化された。……その筈であった。」


       立ち上がり掛けたの手を取り、シオンは再び椅子に掛けさせた

       …やはり、昨晩私が見たあの男はサガだった。そして、今朝方サガの瞳の奥底に垣間見えたあの影の正体も…!

       の脳裏に、何かに怯えた様なサガの表情が過ぎる…そして、最期に見せた朗らかな笑顔も

       …判らない。どうして浄化されたもう一人の人格が再び彼を悩ませているのか
       でも、サガは苦しんでいる。過去の自分の所業と、現在のこの状況に


       「猊下、差し出口をお許しください。その……スニオン岬に幽閉されたサガ殿を、如何に…?」


       シオンはの手を放し、徐に法衣の前で手を組んだ


       「一度は女神に許されたとは言え、再びの乱心は許されざるものだ。
        …幸い、女神には傷一つ付いてはいない。女神も大層心を痛めておいでだ。
        しかし、仮に女神を始めとした聖域の人間がサガを許したとて、あの男が自らそれを受け入れるとは思えまい。」


       シオンが深い溜息を吐く
       彼とて、過去の経緯を全て反古にした上でも今のサガを罰したくはないであろうし、サガを失うのは惜しいと考えている
       まこと、『教皇』と言う立場が厭わしい
       シオンの胸中を察しつつも、は残された時間が多くない事に思いを馳せた


       「兎も角、この一件により、女神との謁見は先延ばしになってしまった。その事は真摯に詫びたい。」

       「いえ、それはこちらといたしましても至極当然の事と存じます。幸い、急ぎの用件とは趣が異なります故。
        …ただ、一つお願いがございますが、お聞き入れくださいますでしょうか?」

       「…何だ。」

       「スニオン岬に案内していただきたく。」


       の一言に、シオンの眉間がピクリと動く
       この男にしては珍しく、どうやらの提案に驚きを隠せない様子だった


       「…サガに、会うと言うのか。」

       「はい。彼が今、罪人として扱われている事も、私が海界の人間であると言う事も百も承知の上でございます。唯…。」

       「唯?」


       訝しむシオンの声音がにも十分理解できる

       …だが、今私が出来ることは…

       の脳裏で、サガが寂しげに微笑む





       「サガを救いたいのです。」




       「そなたにそれが出来ると…?」

       「判りません。…唯、今彼に会わないともう二度と生きた彼に会えない、そんな気がするのです。」

       「サガを慕っているのか。…一度、言の葉を交わしただけのあの男を。」


       …私が、サガを……?

       シオンがぽつりと落とした呟きに、ははっとした
       が顔を上げると、シオンが困惑した表情でを見ていた 


       「…それも判りません。唯、そうしないといけないと、そんな気がするだけです…。」


       シオンが困惑するのも当然の事。サガと私、身内の罪人と異界の者が接触するなど、教皇として認める訳には行かないもの…

       は内心で溜息を吐くと、がっくりと力なく項垂れた
       …と、向かいに腰掛けたシオンがずい、と近付き、の両の手を取った


       「げ…猊下?」

       「やってみるが良い。、そなたの想いを信じよう。
        …サガと出会う。それが、そなたの天命かも知れん。…私に取っては残念な事だが。」

       「…!?」


       最後の一言の意を解しきれぬの背を、シオンがぽん、と掌で軽く押した



       「さあ、早く行け。聖域(こちら)の者に案内させよう。行って…サガを助けてやって欲しい。」

       「…はい!ありがとうございます、猊下。」



       は徐に立ち上がると、シオンの手を取ってその両の手で握り締めた






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