「海皇の勅使・、これへ。」

  謁見の間に通されたは、頭上から重々しく響く声に顔を上げた
  …白銀の絲、紅玉の眸
  荘厳な声の持ち主は、稀有な髪と瞳を目深な冠から覗かせている

  …それにしても、豪奢な方だこと。我が海皇が神々しくあらせられるのは当然の事としても、この方も不思議な魅力を持っているのは否めないわ

  顔を上げたは、目の前に座す男に悟られぬよう表情を保ちながらも、しみじみと感心した
  シオン。それが目の前の男の名
  一度は内乱で命を落としたものの、現在でもこの聖域を女神より任されている天下の教皇猊下である
  もう二百年以上も生きていると聞いたが、にはとてもそのような年齢には思えなかった…衆人の目には二十歳そこそこ位にしか見えないだろう
  無論、教皇として発する威厳の深さは二十歳のものとは程遠く、一種老獪な空気をも漂わせているようにも映る



  「地上を遍く知ろしめす聖域の教皇猊下にはご機嫌麗しゅう、真にめでたく存じ上げます。」

  「良い。挨拶は抜きで構わん。必要以上の礼儀は些か修辞に過ぎる。」

  「…は。」


  ぴしゃりと言い切るシオンの口調は取り付く島も無い
  が、もこの道のエキスパートなのだ。この程度のあしらいは先刻経験・予測済みである
  別段顔の色を変えるでも無く、は頭を少し下げてみせた



  「とやら。貴殿の携えた書状、しかと読ませてもらった。」


  教皇用の豪奢な椅子の上に、シオンはゆっくりと弧を描くように片肘を凭れた
  鷹揚な仕草とはこの事だろうか
  200年以上も教皇の座にある者は、やはり身のこなしが根底から異なる


  「海界(そちら)の言い分はよく分かった。我々も今は復興が急務である事に変わりは無い。
   お互い、痛くも無い腹を探り合うのは極力避けたいものだ。」

  「…では」

  「年限を限っての和平協定、こちらとしても肯ずるに足る。年限は…そうだな、そちらの提案通り10年更新程度で妥当と思うが。
   …それは私よりも女神と取り決められると良い。明日、謁見の機会を設けよう。」

  「は。寛大な取り計らい、真に有難く存じます。」


  どうにか無事に任務を果たせそうだ、良かった。
  は表情には出さずに内心一息吐いた


  「……良かったな。」


  俯いたままのの頭上から、シオンの声が降ってきた
  ぎょっとしたが慌てて顔を上げる




  「…顔に書いてあるぞ。」




  …やられた!流石は教皇

  の頬がみるみる上気して薄紅に染まる
  その表情を見遣ると満足そうにニヤリと口元を片方だけ上げ、シオンは徐に座を立った


  「役目大儀。居室を取らす故、今宵は身体を休めるが良い。」

  「…あ、有難き幸せ。」

  「女神に拝謁するのだ、明朝は禊を済ませて置くように。神官が案内(あない)する。」

  「畏まりまして。」


  …何とも老獪な方。侮れないわ…

  シオンの後姿を見送りながら、は内心舌を巻いた

  「居室」と聞いて、例の部屋とあの薄気味悪い光景がちらりとの脳裏を掠める
  そこで見たものについてシオンに尋ねてみようかと咄嗟に口を開きかけて、は躊躇いと共に頭を深く垂れた







            ×××××××××××××××××××××







  聖域の朝は早い

  青々とした木々を潜り、はしっとりとした空気を胸一杯に吸い込んだ
  湿度の低い今の季節だが、緑の多い一帯はオゾンと適度な湿気を含み心地よい
  サクサクと足元の新緑を踏み分けながら、は更に森の奥へと足を延ばしていた


  「ええ、っと。確かこのあたりの筈なんだけど。」


  朝方、神官に尋ねた「禊の泉」の場所を脳内でマッピングする
  霧がうっすらと立ち込める森はあまり視界が利かない


  「それにしても、結構距離があるわね。…これじゃ禊を済ませて戻る頃にはまた汗まみれ、かもよ…。」


  その場合は一体どうするのだろうか
  何せ、教皇宮から双児宮まで降りて来たのだ、上がって行ったらまた一汗かくのは目に見えている
  その時は教皇宮のバスルームでも貸してもらおうかしら…そんな物があるのかどうか分からないけど

  ちょっと連想してみて、はこみ上げる笑いを堪えるのに苦労した


  「きっと、『禊をすること』自体に意味があるのね。だからその後ちょっと汗をかいたところでお構いなしなのかも。」



  ぷっ、と笑いを零したの視界が急に開けた
  鬱蒼とした緑がくりぬかれた形に途切れ、同様にほぼ円形に近い泉が前方に見える
  あれほど深く立ち込めていた霧がそこだけ嘘のように晴れ渡り、まさに神々しさを感じさせた


  「わぁ、これは綺麗。これが『禊の泉』ね。」


  は小走りに駆け寄ると、縁に屈み込んで手を浸けてみた
  …思った程は冷たくない
  これなら大丈夫そうだと胸を撫で下ろして、は身に着けている服をするりと脱ぎ始めた
  そうっと、左足から泉にその身を進める


  「水の温む季節で良かった…。これが真冬だったらちょっと辛いわよ。」


  一人ごちながら、一歩づつ泉の中心に進む
  『泉の真央にて、祈るべし』
  神官に教わった流儀に従って、女神を始めとする神々に祈りを捧げねばならない
  …要は、真に心を込めて祈る事
  は、泉の中央で跪くと胸の前に両の手を組んだ

  儀式とは、それ自体には意味は無く、それを経験することを通して『己を鏡に映し見ること』に真の意味がある
  己の持つ自己像<理想像>と、他者から見た自己像<客観像>の一致
  そこに、日常の狭い限界を超えた自分を発見する事で、世界観は拡張する
  それが、「神のなせる業」の一つの正体なのだろう





  …小半時もそうしていただろうか、はゆっくりと顔を上げた

  泉の中央で、砂を舞い上げながら滾々と涌き続ける水の波紋がの身体を掠める
  何か世界が変わったかと言えば……はっきりとした実感は無い


  「…まぁ、この手のシュチュエーションで突然神掛かるのは巫女(ふじょ)の領域だし、こんなもので良いのかも、ね。」


  さらさらと銀色の砂を踏みしだいて、は泉の縁までゆるやかに歩みを進めた
  の頭上に丸くくりぬかれた空が、泉にその色を反射する
  そろそろ教皇宮に戻った方が良さそうな時間帯ではなかろうか
  雲一つ無いヘブンブルーの空を見上げ、は泉から上がると身体に纏わり付く無数の雫を拭った








             ×××××××××××××××××××××








  女神拝謁用の伝統装束をその身に纏ったは、少々急ぎ足に来た道と逆に森を辿っていた
  なんと言っても女神に拝謁するのだ、まだ時間があるとは言え粗相があってはならない
  …しかし、禊の間に日が少々昇ったためか、行きと違って森の中の霧はすっかり晴れ、周囲の木々や草のつぶさな造りまでもが顕になっていた
  色とりどり、形も様々な花々がの視覚を刺激する
  ここのところずっと海底に留め置かれていていたのだ、地上の花とご無沙汰していたの興味を引かない筈が無い


  「…ほんの少しだけなら、ね…。」


  ピスタチオ、西洋梨、月桂樹。そして足元にはアカンサスやクロッカス
  赤や黄色に紛れ、ギリシャではこの時期、白っぽい色彩の花が多い
  もう少し早ければ、一面に咲きしだれるアーモンドの白い花の群れに迎え入れられたかもしれない
  …ともあれ、それらの花々は一つ一つはあまり大きくなくごく控えめに咲き誇っているが、集まると葉の緑とコントラストを描いて非常に印象深い
  白と緑
  それは神話の時代から、この国を彩り続ける色ではないだろうか
  今の纏う儀式用装束も、それは見事に白光りする絹布で仕立てられている


  「…ん?あれは……。」


  二色の洪水をゆっくり歩いていたの双眸が、視界の端に一本の樹を捉えた
  雑草を踏みしだいて小走りに近寄ると、はその枝を手に取った


  「オリーブだわ。…やはり此処は女神の神域なのね。」


  低木の部類に入るオリーブは、高くともせいぜい3mくらいだろうか
  広がるように伸びる枝は細く、が少し力を入れたらポキリと折れてしまいそうだ

  嘗て神話の時代、女神がオリーブの樹を与えた事で、この土地の人間たちは女神をこの土地の守護神として祀った逸話は衆人の知るところである
  そのエピソードを思い起こしながら、はその葉にそっと触れた
  他の植物に比べ意外にカサカサした葉は、乾燥に強いこの樹の性質をよく現しているのかもしれない。
  …が先程この樹を見て驚いたのは、オリーブの樹の存在自体が珍しかったからではない
  この時期オリーブは花を付けるが、実はその期間は4,5日間と悲しくなる程、儚い
  そして今目の前で、その小さな花をは初めて目の当たりにしていた


  「………初めて見た。こんなに小さな花が咲くのね。」


  が人差し指と親指でそっと摘んだ花は白く、の小指の先くらいの大きさくらいだろうか、とても小さい
  晩夏にたわわに生る果実とは程遠いその大きさに、は溜息を落とし表情を曇らせた

  この国では神代よりその実や葉ばかりが重宝され、顧みられる事の無い微かな花
  たった数日で散ってしまう、儚い命
  それでも…いやそれだからだろうか、この花に与えられた「白」は他の何よりも私を惹き付ける、そんな気がする
  …ああ、そこの枝はもう花が落ちかけている

  手にした枝を離し、暗い面持ちのままは花が散り始めた部分に一歩、足を進めた
  プツッ。



  「…あっ!」



  その拍子、近くの細い枝がの纏った装束の肩の部分を掠り、片方のピンが地面に弾け飛んだ

  …儀式用装束<キトン>は一枚の幅広布を合わせ、両肩の部分をピンでそれぞれ留めただけの単純構造をしている
  だからこそサイズの調整やアレンジもし易いのだが、逆にピンが無いと大変な事になってしまう
  …下には何も身に着けないのが作法なので、特に女性の場合は想像に難くないだろう


  はらり。
  衣擦れの音も軽やかに、のキトンが肩から滑り落ちる


  「!!」


  露になった胸を隠そうとが咄嗟に伸ばしたその手の上に、突如別の力が加わった
  肩から滑り落ちた筈のキトンが…落ちていない?
  胸を被ったの腕の上から、別の手が白い布越しに庇っている
  背中に何かの感触を感じたがゆっくりと振り返ると、金色に輝く鏡面にぶつかった

  …裸になったが人目に付かぬ様、を後ろから抱きすくめる形で、その身体を白い布で被っている。……金色の鎧を纏った誰かが


  「金色……、黄金聖衣……!」


  一瞬の空白の後、ははっと思い出した様に呟き、聖衣を目の前の胸部から辿ってゆっくり上を見上げた…そして目を見張った



  「………カノン!?」

  「………。君が海界からの勅使、殿か。」


  の咄嗟の声に毫の間だけ表情を堅くした男は、瞬時に事情を把握すると短く確認した

  …成る程、だからこの儀礼用装束を身に着けているのか


  「………?」


  男の返答に、が訝しげに目を細める
  フッ…と男はその表情に短く笑いを零した
  揶揄を含みそうでそうとも言い難い、なんとも複雑な笑いにはどきりとして酷く困惑した


  「…残念だが、私はその兄、だ。勅使殿。」

  「…兄……。海龍殿の兄君、貴方が…。」

  「ああ。…聖闘士の素性や名前については他界には極秘の部分も多い。聖域<ここ>が初めてなら君は知らなくて当然だろう。
   …私はサガ。カノンとは双子だ。」

  「双子……。」


  その単語に、の脳裏で符牒がピタリと一致する

  ……!では、昨晩私が見たあれは…………!!

  パクパクと口を開きかけて、は目の前のサガの穏やかな表情に絶句した
  端整に整ったその顔には影ひとつ差してはいない

  本当に昨晩見た人物とこの男が同一人物?いや、でもあれは……


  「どうした?私の顔が気に掛かるか。…弟と同じ造りをしているのだから、無理も無い。」


  を後ろから抱いた姿勢のまま、サガが僅かに笑みを浮かべた

  …海底で見かける海龍<弟>とはまた違った笑みを浮かべるのね
  カノンは怒りも笑いも、そして苛立ちも表情がはっきりしているから、気分がすぐ理解できたものだけど
  この男(ひと)の笑みは穏やかな様でいて、どこか虚ろな………そう、まるで他人にも自分にさえも何ひとつ期待していないような、そんな寂しい笑顔


  「………。」


  サガの笑み一つでそんな事を思って、は胸を痛めて表情を重くした
  …他人の表情で意向を窺う事も多い仕事だけに、は「人間の表情」について常人よりも洞察を得る機会に恵まれて来た
  だから、今目の前で寂しく笑うサガを見ていると、は内心が痛々しいほどの感情で急激に満たされて行くのを感じずにはいられなかった
  もしかすると、あの呻き声はサガが発したものなのかもしれない…だが

  …この男(ひと)が昨晩の男だったかなんて考えるのは今は止めよう
  この男は、それを敏感に感じ取ってしまう。そして更にその傷を深くしてしまうから

  は肩に回されたサガの温もりに頭をそっと凭れた
  サガの鍛え抜かれた腕にの頬が意図的に触れたその瞬間、ビクリ、とサガが僅かに強張って震えた

  …他人に触れられるのが怖いのね。おそらく、外面(からだ)以上に内面を触れられるのが
  一体、何が彼をこんな所まで追い詰めていると言うの…

  の脳裏に昨晩の不気味な光景がチラチラと見え隠れする
  …が、すぐに心の中で頭を横に振った
  はキトンが落ちたときから両胸を被っていた手を、サガの腕の上に添えた
  サガが押えている白い布――どうやら彼の聖衣のマントのようだが――が直に皮膚にあたり、の胸の形を描き出す


  「ありがとう、サガ。」


  きゅっと、の手がサガの手の甲を包み、温かなその熱が徐々に伝わる
  そしてゆっくりと、サガの強張りの波が引いて行く
  が見上げると、サガの表情から不安の気配がほんの少しだけ消えていた

  …完全に払拭は出来そうにないけれど、良かった


  「…君の名前を聞いていなかった、勅使殿」


  安堵に胸を撫で下ろしたの耳元で、低く通る声が鼓膜を揺るがした
  その響きには今の同様、安堵に満ちたどこか柔らかなものが含まれているのが感じ取られて、はくすり、と微笑を浮かべた


  「…、よ。」

  「分かった、勅使殿。」

  「『勅使殿』はやめてもらえると嬉しいわ、からかわれているみたいで。」

  「…そうだな。悪かった、。」


  が困ったように言うと、サガがフ、と初めて声に出して破顔した
  …それはまだどこかぎこちないけれど、本心からの笑み

  ………だが、微笑みながらサガの瞳を覗き込んだは、その瞳の奥底にまだ暗い影が時折ちらつくのを見逃さなかった










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