薄暗い回廊の更にその奥で、その部屋は果て無き闇を生み出していた
  …少なくとも、部外者であるにはそうとしか感じられなかった

  …微かに、ごく僅かだが空気の振動を感じる

  最早、ぴったりとそれから逸らす事の出来ない視線と裏腹に、居室のドアに凭れたの手が小刻みに震えた
  豪奢な廊下を挟んで斜め向かいに面するこの部屋に、一体何があると言うのだろう
  ほんの僅かに開いたそのドアから、『それ』が発する闇が自らに向けて漏れ出てくる

  は、先刻控えるようにと神官から申し付けられた部屋の扉を音も無く滑り出た
  …の上にある有象無象の監視の目を誤魔化すためではなく、ただ目の前の空間に息づく『それ』に自らの存在を悟らせない、ただそれだけのために

  一歩、また一歩
  の足は、できるだけ摩擦を減少させたまま臙脂のビロードを交互にゆっくりと辿った

  あと一歩
  は左足を踏み出し、ドアの前に静かに着地する
  『それ』に気付かれないように、ドアには手を触れず、視覚と意識だけを隙間に集中させた、その刹那。

  「……う、うぅぅぅ………、う…」

  ひっ、と声を漏らしそうになって、は必死に飲み込んだ

  …人の……声?

  『それ』がどうやら人間らしき事を悟り、は少しだけ安堵した
  だが、時を置かずしてまたビリビリと僅かな空気の振動がの足元に伝わる

  「…う……ぐ…、う…うぅ……」

  振動が途切れた途端、また唸りに似た声がドアの隙間から漏れて来る

  …怖い……。だけど…だけど何か苦しそう……

  は廊下を顧みた
  ぽつり、ぽつりと壁面の上部に灯が点された煉瓦造りのその廊下は延々と続き、誰一人として他の人間の存在を照らし出していない

  …誰かを呼ぼうにも、これでは如何とも

  どうして自分をこんな場所に待機させているのか、とは少々腹立たしくも思い始めていたが、ドアの隙間から再び漏れ始めた『それ』の声に現実に引き戻された
  僅か数センチの空間が、今はの総てを惹き付けている
  『隙間』と言う名の見えざる手が、を強く招き寄せる

  …どうしよう……

  数十秒――本人に取ってはその十倍に感じられたが――、たっぷり氷の如く自らの動きを封じた後、はようやく意を決した
  一度は後退させた自らの顔を、再びドアの隙間にゆっくりと近付ける

  気付かれないように、気付かれないように

  できるだけ気配を消し、意識と視覚に総てを集中させた

  暗がりに慣れたの視細胞が、その部屋の姿を今、映し出す

  ……灯り、だわ…

  燭台だった
  部屋の隅に、一つだけぽつんと燭台が置かれている
  灯に照らされて顕になった燭台の上部には、アラベスクの様な細かな紋様が刻み込まれている
  金で出来た軸の部分が闇と炎をマーブル模様に映し出し、何とも不気味な光を発していた

  そして、闇に順応したの目が、部屋の真中に置かれた豪奢な椅子を捉えた
  燭台同様、これも一つだけぽつりと置かれ、他には何の調度も見当たらない
  やはり金色に鈍く光り、ベルベットの間に細かな紋様が浮かび上がっている
  そして………其処に座す、『それ』の姿

  の角度からでははっきりとは見え難いが、『それ』は人間の男性の姿をしているようだった
  この闇に溶け込むかの如き漆黒の長い寛衣を纏い、椅子から身を僅かに乗り出して背を前に傾けている
  時折、苦しそうな唸り声を漏らすその顔は両の手と長い髪で覆われ、表情は窺い知れない

  …どうしよう、やはり誰かを呼んだ方が…

  が躊躇したその刹那、男が長い息を吐くと共にその顔を上げた

  ………あっ!!

  再び声を上げそうになるのを堪えながら、は自らの目を疑って咄嗟に視線を下げた
  の心臓が思わぬ事態に早鐘を打つ

  …まさか……!

  もう一度覗き込むが、既に男は再び顔を手で覆って唸り声を発し始めていた
  はその隙に足音も無く自らの居室へ後ずさると、元通りドアを静かに閉じて椅子に腰を下ろした

  ……薄暗がりだったんだもの、もしかしたら私の見間違いかもしれない
  …………でも………

  青ざめたの額から、一筋の汗が滴り落ちた










              白虹、日ヲ貫ケリ










  ギリシア

  総ての聖戦の後、地上世界の砦たる此処聖域は女神の先導の下、復興を遂げた
  嘗ては壊滅的な被害を被った十二の神殿を始め、闘技場から雑兵用の宿舎に至るまで、総ての建造物が見事なまでに以前の姿を取り戻した
  いや、真新しい白亜のマーブルに燦然と彩られたその姿は、以前より豪奢で見る者の目を奪う
  …もその一人かもしれない

  「…凄い。これは見事ですね。」

  は眼前の…いや視界の枠を凌駕して頭上遥かにまで聳え立つ荘厳な柱の群を見上げ、溜息を落とした

  「そうですか。そんなに驚かれるとこちらも何やら面映ゆいですね。…こちらの皆で尽力した結果ですよ。」

  の隣を歩きながら、淡い菫色の髪の男が小さく笑った

  「私は訪ねた事はまだありませんが、そちらも順調に復興しているのではありませんか、
  …おっと、これは秘密事項に触れましたか。失礼しました。」

  さして悪びれる気配の無い男の表情に、隣に立つもくすり、と笑いをこぼした

  「いいえ、ちっとも。秘密事項だなんて、そんな馬鹿な。
   あちらはまだ、此処まで完全に元通り、と言う段階ではありません。…いくら海界の本拠地でも。お恥ずかしながら。」

  「そうですか。しかし、元を糺せば海界(そちら)に甚大な被害を直接加えたのもこちらの者達ですから。
   …一刻も早い復興を願っていますよ。」

  「お心遣い感謝いたします、ムウさん。」

  は、傍らのムウを眩しげに見上げた

  そう言えば、地上に出てくるのは久しぶりだ………視界が眩いのも無理からぬ事。

  神殿から下界を見渡せば、アッティカの荒涼とした大地がの視覚を、極端に湿度の低い空気がの触覚を柔らかく刺激する

  その昔、この土地を巡ってポセイドンとアテナが諍いを起こしたと言うけれど、それも道理だわ

  「…やはり、地上は違いますわ。」

  宮殿脇のオリーブの葉に手を伸ばし、は感慨深げに呟いた







           ××××××××××××××××××







  ムウに案内され十二宮を抜けたが薄暗い教皇宮の一室に入ったのは、およそ一時間前の事だった

  「海皇の勅使」、それがの肩書きだった
  言うなれば対外的なスポークスパーソンのようなものだが、所謂秘書とはまた違い、その活動の場は表舞台が主である
  海皇の意志を携えて、地上や冥界、はたまた天界を行き来するのがその任務
  聖戦の折りにはの様な各界の名代が、間諜(うかみ)とは別口に活躍する
  …無論、聖戦だけが仕事時ではない
  恒久ならざる平和な一時も絶えず各界と連絡を密に取り合い、互いの政治的均衡を取り続ける激務をその一身に担っているのだ
  …尤も、ここしばらくは海界も急務の復興一本ばりで、もそちらに駆り出されっぱなしだったのだが

  そのが今回久々に聖域を訪れたのは、他でもない女神に拝謁し、海界との誼(よしみ)を深めるためである
  …復興に当たり、外患は須く排すべし。
  それが海皇の御心であるのだから

  教皇宮に辿り着いたを一人の神官が迎え出た
  ムウに礼を述べ、は神官の後ろに付いて宮殿の細い通路を幾度も曲がった
  最早自分がどこの方角に向けて歩いているのかも分からない

  …成る程。機密性が増すにつれ、外部の人間にその細部を記憶させない建築構造と言うのも道理に適った事かもしれない
  まぁ、流石にここまでやられたら些か最高指導者か製作者の悪意を感じないでもないけれど

  煉瓦造りの壁をちらりと見遣り、は軽く頷いた

  …それにしても、此処の何と暗い事。引き換え、抜けて来た十二の宮殿は光を取り込む構造の所が多くて開放的な感じがしたのだけれど

  ムウと共に歩いた数多の神殿群を思い出し、現在再建中の海底神殿のデザインもあんな感じにしたら良いかもしれない、とぼんやり思いついたの顔が神官の背中にぶつかった

  「わっ……!どうも失礼しました。」

  神官はの謝辞に返答せず、傍らのドアを指した

  「どうぞ、こちらでお待ちください、勅使殿。」

  「…どの位待つ事になりそうでしょうか?」

  「さぁ…私には如何とも。猊下は何分ご多忙の身にあらせられます故。
   勅使殿のお時間になりましたら、またお呼びいたします故、それまではこちらの部屋でお待ちください。
   …くれぐれも、部屋の外にはお出になりませんよう。」

  「…判りました。」

  では、と言い残して、神官はスタスタと踵を返した
  回廊の向こうに神官の長い影が消えるのを確認し、は指定された部屋の敷居を跨いだ

  「それにしても、聖域<こちら>の人間の態度の居丈高な事。慇懃無礼とはこの事だわ、まったく。海皇の使いを何だと思っているのかしら。」

  誰にも聞こえぬほどの小声で一人ごちてドアを閉めかけたところで、は回廊のはす向かいにドアがある事に気が付き、手を止めた
  細い回廊の両側は何がしかの空間であるのだからドアがあるのは当たり前なのだろうが、がこのドアを気に留めたのはそれがうっすらと開いていることだった
  外界の人間が此処に居ると言うのに、無用心と言えば無用心かもしれない

  …でも、この『微かに開いている』って言うのがちょっと気持ち悪いわ

  暫く向かいのドアを見遣ったものの、変化は無い
  無用な詮索はしないに限る、とはそのまま自分の部屋に入ってドアを閉じた
  …件(くだん)の部屋から微弱ながら異常な小宇宙を感じ、が回廊にそっと滑り出たのはそれから約一時間後の事であった








           ×××××××××××××××××××××××××








  向かいの部屋から急いで自室に戻ったは、ガクガクと力なく椅子に腰を下ろした
  その背筋にはびっしりと冷や汗が筋を成して流れている

  「ま……まさか、そんな筈が…。」

  ドアの向こうに意識を飛ばし、は暗闇の中で垣間見た男の面影を反芻した

  …あってはならない事だ。気のせいに決まっている

  男の面影を思い起こすほどに、の全身に戦慄が走り、全身の血流がみるみる速くなる
  コンコン。

  「ひっ……!」

  突然聞こえたノックに、はビクリとたじろいだ

  「猊下がお会いになります。疾く参らせます様。」

  先ほどの神官の声にはようやく人心地がついた気がした
  あれほど慇懃無礼としか思えなかった神官の声が、今は救いの神のようにも感じる

  「判りました。只今参ります。」

  神官に合わせてやや無機質なトーンで応えながらも、は一刻も早くこの部屋から離れる事が出来ることを心底嬉しく思った
  居室の回廊を更に奥へと曲がるその刹那、はもう一度だけあの部屋を顧みた
  …扉の隙間は、何時の間にかぴたりと閉ざされていた












<BACK>          <NEXT>