アスガルドの大地は、余す所なき長久の冬に覆われていた 
此処へ辿り着いた時にもに深い感銘と驚きを与えた雪と氷の景色だが、今再びの視界と心とを純白に染め上げる
ジークフリートと、尽きせぬ新雪を二人が踏むサクサクと言う音と、傍らのワルハラ宮殿のガラス窓を緩やかに叩く風以外には辺りには何の音も聞こえない


「…此処はいつでも新雪が降り積もっているのね。」


は、はぁ、と肺から呼気を一つ繰り出してみた
自らの吐く息すらも白く色付き、やがて周囲の景色に溶けて行く
が新雪に足を取られぬようにとその一歩先を歩くジークフリートが振り向き、その言葉に肩を竦めた


「これでも、人々が容易に歩く事が出来るように毎日同じ所を踏み固めているのだ。その部分を根雪と言うが、下は氷になってしまっている。
 春に…いや君達にとってはもう夏だろうが、その時節になると雪は溶け始める。だが、この根雪だけは最後まで溶けない事も往々だ。」

「…夏にも雪が溶けない所があるなんて…。」


信じられないと言った風情で感慨深げに呟いたに、ジークフリートはああ、と一言洩らして尋ねる


「…そう言えば、貴女の国が何処なのかまだ訊いていなかった。出身は?」

「日本、です。東洋の一番端にある小さな島国。」

「聞いた事がある。雪と氷に閉ざされたアスガルドと異なり、とても暖かで豊かな国だと。そうなのかな?」

「そう…かもしれない。確かにこの国よりは気候は暖かいと思う。でも、日本でも場所によっては随分気候は異なるわ。
冬の間、ずっと雪に閉ざされる所もあるし、逆に冬でも花が咲き乱れる所もあるの。」


ジークフリートは、そのの説明を聞きながら目を閉じ、そして徐に笑った
…どうやら、冬に花が咲き乱れるその様子を想像しようとしたものの、己の想像力の貧困さに可笑しさを隠しきれないらしい


「フ…、どうやら私には冬に咲く花など思い浮かべるのは無理らしい。」

「それは…ちっとも可笑しい事ではないわ。私だって『夏になっても溶けない雪のある景色』はとてもじゃないけど想像できないもの。」


のその慰めの言葉を素直に受け止め、ジークフリートは先程までの自嘲の笑みを優しく変じた


「…そうだな。いつか私も、その光景をこの目で見てみたい。」

「ええ。私もこの国の夏を見てみたいわ。…あっ、でもそれまで此処にずっと滞在するのは喜ばしい事ではないわね。
……だって、夏まで掛かっても神闘衣の修復が出来ないわけだもの。」

「案じなくてもいい。…きっと出来る、貴女ならば。」


ジークフリートのその一言に、は返答を返さなかった……いや、返す事が出来なかった
今のままでは、神闘衣の修復など自分には到底無理だ。他の誰でもない自身がひしひしとそれを実感していたからである
だがしかし、目の前を歩くジークフリートの広い背中を見ていると、彼の持つ優しさが自分に伝って来て、今のにはそれだけがただ嬉しかった
ヒヒーン、と言う馬の嘶(いなな)く高い音がの意識を現実に引っ張り戻すまで、はジークフリートの背に温かな眼差しを投げ掛け続けていた


「…さあ、此処が宮殿の厩舎だ。」


最早ワルハラ宮の敷地の片隅と言っても過言ではない一角まで歩き続けて、ようやくジークフリートはその足を止めた
二人の眼前に設えられた小さな厩舎――宮殿に比しての話だが――には数頭の馬が繋がれており、辺りの寒さにも拘らずその四本の足でしっかりと大地を踏みしめている
馬は外界の色彩同様白馬が多かったが、それはおそらくヒルダを始めとする高貴なる者のために集められたのだろう
何れにせよ、馬と言う生物をこんなに間近にしたのは、は初めてであった
数頭の馬を順に撫でるジークフリートの手つきを真似て、も恐る恐るその中の一頭に手を触れてみた
………温かい。
命ある物の躍動が、じわじわとの掌を通して身体全体に染み渡る
それは、幼い頃初めて動物園に行った時の驚きの感覚にどこか似ていた
のその仕草を横目で見遣り、ジークフリートが馬を選る手を止めて可笑しげに笑う


「…馬に乗った事は?」

「…いいえ。触るのも初めてよ。」


の返事にそうか、と一つ頷くと、ジークフリートは馬の群から一頭の白馬を引いて文字通り颯爽とその背に跨った
…白馬に乗った王子様とはまさに彼の事を指すのではないか
馬の脇で呆気に取られたまま見上げるに、ジークフリートはその白い手を差し出した


「………?」

「手を。貴女は馬に乗った事はないのだろう?私の馬に乗ると良い。」

「あ…はい。」


が躊躇いがちに手を差し出すと、馬上のジークフリートはいとも優雅な身のこなしでその手を取った
…その様は、あたかも舞踏会の一場面のようだ


「…私が手を引き上げるので、はそのタイミングに合わせて身体を上に。」

「分かったわ。」


小さな掛け声と共に、は大地を蹴ってその身体を弾ませた
次の瞬間、ひょい、と身体が中に浮き、視界が突然高くなった


「…心配せずとも、もう大丈夫だ。」

「…あ……ええ。」


…ジークフリートの声が、すぐ側に聞こえる
馬の背に横乗りする姿勢になったがその頭を声のする方角に向けると、すぐ側近くにジークフリートの端正な笑みがあった
その厚い胸板がの肩に触れる


「馬が初めてなら、後ろより前の方が良い。急に止まっても、前にいたならばこの手で容易に受け止められる。
雪に馬の足を取られる事もある。だが私にしっかりつかまれば安全だ。」


ジークフリートはにそう説明すると、長い左腕での身体を包み込んだ
…それは、馬の名手であるからこそ出来る芸当である
もう片方の腕で手綱を握り、ジークフリートは己の胸の中のを見おろした


「もっとしっかり掴まって。」


ジークフリートに言われるがまま、はジークフリートの背に回したその両の腕(かいな)に力を込める
しっかりとその背を抱きしめるほどに、の顔がジークフリートの胸に埋もれた

…ジークフリートに見えませんように。

は紅潮した自分の顔を見られぬ様、頭をやや俯けた
強く押しつけたその耳に、アスガルド第一の勇士の鼓動が大きく木霊する


「よし。では出発しよう。」


ハッ、とジークフリートが短く呼気を漏らすと同時に、白馬はその両の前足で高く宙を蹴った
の身体が大きく後ろに傾ぎ、おのずとジークフリートの胸に深くめりこむ
走り出した馬の速度に徐々に慣れてきたは、おずおずとジークフリートの厚い胸板から顔を上げ、うっすらその眼を開いた


「…綺麗………。」


…視界総てを埋め尽くす白銀の世界
地平線を象る白一色のランズケープは、馬上から見下ろすの呼吸を止めてしまう程の美しさに満ちていた
よくよく目を凝らして見ると、所々に白い人影の様な物がぽつりぽつりと立っている


「…あれは樹氷だ。冬の深いこのアスガルドでは、樹木でさえも長い間厚い雪に覆い尽くされる。」

「でも、とても美しいわ。…昔読んだ絵本の中の景色みたい。」

「…そうか。私達に取っては逆に暖かな陽の光の国こそが絵本の中の世界だが。」


の正直な感想に苦笑を漏らしたジークフリートの眼は、どこかとても遠い所を見据えていた
この一面に広がる雪原は、にしてみれば空前の絶景であるかもしれない
だがアスガルドの人々に取っては、この美しさはまさに死と隣り合わせの現実を意味するのだから
ジークフリートの瞳に映る深い悲しみを察し、は黙りこくった

…かつて、陽の光を欲した人々は、何度もこの地を捨て争いにその身を投じようとしたと言う
それはが先日ヒルダの口から聞いたばかりの話だ
しかも、ごく最近にもそれは引き起こされていた………海皇の企みであったとは言え
他者の陰謀に利用されたと言う事は、それだけこの国の民が「陽の光」を求めて止まない事実を表しているのではないか
…そして、今再びこの国を何者かが脅かそうと画策している。それなのに、自分はいつまで経っても事態を打開できるかもしれないその能力(ちから)に目覚められないでいる
何とも表し難い忸怩たる思いが、の全身を駆け上がった
忽ちのうちに愁眉を寄せたに気付き、ジークフリートは馬を止めるとの身体を支えていた左手に加え、手綱を持っていた右手をの肩に置いた


は、私たちのこの国の事を大切に思ってくれているのだな。
…だが案じるな。私とてこの国随一の神闘士、陰謀を企てる者が幾人(いくたり)居ようとも決して屈しはしない。」


言い放ったジークフリートの淡い色の瞳に、強い光が宿った
堅く引き結ばれた口元からも、彼の並々ならぬ故国への思いが感じられる
まさにアスガルド第一の勇士。は自らを包み込む男を見上げ、両の目を眩しげに瞬(しばた)かせた

…ああ、この男(ひと)の神闘衣を修復できたなら……!


「…私、早くジークフリートの………皆の神闘衣を修復したい。今すぐに…!」

「焦らなくて良い。私達は、神闘衣が無くともこの国を護る事はできる。アスガルドを護りたいと言う思いのある限り。…、貴女も同じだ。」

「…え?」


ジークフリートは、外気に抗して紅潮するの頬を両の掌でゆっくり挟むと、その目を細めて優しく微笑んだ


が私達の事を大切に思う気持ちは、誰よりもこのジークフリートがよく分かっている。…貴女の心には影が無い。だから私はを信じ…そして案じている。」

「ジークフリート………。」


すぐ目の前で微笑むジークフリートに口付けてしまいたい衝動に駆られながら、は必死でジークフリートの瞳の中に潜む真意を探った

…これは一体、どう言う事なのだろう?間違いなく私は彼に惹かれているけれど…
彼の中に、愛のサインが見えるようで見えない
二人きりで、ジークフリートの腕の中に在るこの現状
だがしかし、結局の所アスガルドの事にしか及ばない話題
どうにもジークフリートの匙加減が分からない
……いや、良く考えたら今はそれどころの話じゃないわ

自分からアクションを起こそうかとたっぷり迷った挙句、は自らに課せられた急務の存在を思い出して現実に引戻された
それ以上近付いて来る気配の無いジークフリートを見上げ、は歯を見せて笑った


「ありがとう、ジークフリート。焦るなと言ってくれて。…私、貴方のこの国のために頑張るから。」

「ああ。…いや、礼を言わねばならないのはこちらだ。もしも何か困った事があれば、その時は私に言ってくれると嬉しい。」

「…ええ。」


の頬に触れていた右手を手綱に戻し、ジークフリートは馬首を翻した
どうやら、束の間の散策を終えて宮殿に戻るらしい
焦りに煮詰まっていた自分に息抜きをさせてくれようとした、ジークフリートのいかにも彼らしい思い遣りに感謝の意を抱きながら、は再び彼の背に手を回してしがみついた

…今はとにかく彼のためにも、一刻も早く神闘衣を直さなくては…

胸の中のときめきは一旦後回しにして、は早くも宮殿に帰ってからなさなくてはならない諸事に思いを致した

…まずは、貴鬼に追加で頼んでおいた修復の道具の手入れと整理から始めよう。部屋ももう少し片付けて…


「あっ………。」


部屋の片付けと言う単語に行き当たり、はずっと忘れていた一つの事を思い出した
それは、小箱に入れたまま与えられた部屋の片隅に置きっぱなしになっていた物だ
咄嗟にが上げた短い声に気付いたジークフリートは、馬を発するために一度引き上げた手綱を元に戻して胸の内のを見おろした


、どうした?」

「…ええ、ちょっと思い出したの。」

「…何を?聖域の事か?相変わらず貴女は仕事熱心だな。」


はは、とを揶揄するように笑うジークフリートの呼気が白く染まる


「いいえ、そうじゃなくて。…私、貴方にあの短剣を返すのを忘れてた。」


のその一言を聞くや否や、今度はジークフリートの表情が一転して掻き曇った
それは、まるでギリシャの眩い陽光がアスガルドの薄暗い寒空に変じたかのようだ
ジークフリートの豹変に驚いたは、唯一思い当たる事を不安げに訊ねた


「…もしかしてあの短剣、貴方の物じゃなかったの?貴方の名前が彫ってあったから、てっきりそうだとばかり思ってた…。」

「…いや、あれは私の物だ。」

「そう、やっぱり貴方の短剣だったのね。」


剣の持ち主がジークフリートで間違いなかったと知り、はほっと安堵した
…だが、安心したとは裏腹に、ジークフリートの表情は硬いままだ


「貴方の物なら、やっぱり返さなくちゃいけないわ。」

「…貴女の手からは受け取れない。」

「…どうして?」


の至極尤もな質問には返答を与えず、ジークフリートは無言で手綱を握った
ハッ、と一声掛けて馬に鞭をくれるその表情は、何やら恐ろしげでもある
走り出した馬の背の上で、はただ黙って流れる景色を見送るしか出来なかった

行きとは異なり、結局一言も交わすことなく終えた帰途はには非常に短く感じられた
ワルハラ宮殿に辿り着いたものの、ジークフリートは相も変わらず硬い表情のままを馬から下ろすと馬場に消えてしまった

…私、何かいけない事をしてしまったんだろうか…

困惑したまま立ち尽くすの背に、アスガルドの冷たい風が強く吹き付けた





×××××××××××××××





それから一週間後の昼下がり、はヒルダに呼ばれて歓談の一時を送っていた
…結局、ジークフリートはその後一度としての前に顔を見せる事は無かった

…やっぱり、私、ジークフリートに何か悪い事をしてしまったんだわ。

ジークフリートを怒らせた原因がはっきりと判らないだけに、モヤモヤとした形の無い後悔がをより一層苛んだ
自然、神闘衣修復に向けるエネルギーにもブレーキが掛かる
結局、一週間が過ぎてもを取り巻く事態は何らの進展も見せなかった
…いや、寧ろ退行し掛かっていると言っても過言ではない
目の前に置かれたティーカップに指を掛け、は一つ溜息を落とした


「…どうしたのですか、さん?」


ヒルダの傍らに座るフレアが、金色の巻き毛を揺らして首を傾げた
隣のヒルダも、何か不安げにを見ている


「…いえ、ちょっと色々と行き詰っておりまして。ご心配をお掛けして申し訳ありません。」


…いけない、いくら自分が落ち込んでいるとは言え、この二人にそれを悟られてはいけないわ

はっとして居住まいを正しただが、やはりその瞳の奥の色は暗い
思った以上に、ジークフリートの一件はの心に響いているようだ
少し眉根を寄せて、ヒルダは笑みを浮かべた


「焦りは禁物ですよ。…大丈夫、心配には及びません。大神オーディンのご加護がきっと貴女にもあります。」

「そうですわ、さん。貴女ならきっと…!」


ヒルダとフレア、二人の表情を交互に見比べてはゆっくりと大きく頷いた
それを受けてにっこりと微笑むフレアの緑深き瞳が、暖炉の炎をゆらゆらと映し出す

…そう、今は神闘衣の修復だけに集中しなければ…!この人たちのためにも

目を閉じると、の脳裏に傷だらけの神闘衣の破片が山を成す


「どれだけ時間が掛かるのかはまだ分かりませんが、きっと総ての神闘衣を修復してみせます。」


は意識を集中させ、被損傷前の神闘衣の姿を想像してみた
それは自分なりに考えた修復法の一環で、所謂イメージトレーニングのようなものだ
それがどんなものなのか、自分でも想像できないものを創り出す事はまず不可能だろう
まだ見ぬ八体の神闘衣を一つづつ脳裏に描き、更にそれを身に付けた神闘士達を想像してみる
シド、バド…と一人づつ順を追い、最期にジークフリートの事を思い描く
…一番損傷の激しいアルファローブは既に塵にも等しい姿を留めるのみで、現状ではほとんど形すら成さない
だが、はそれでも神闘衣を纏ったジークフリートを思い浮かべた………強く
アスガルド第一の勇士に相応しい、優美で雄雄しい神闘衣……
と、そこまで考えて、は無意識に再び溜息を落とした

…駄目だわ、やっぱりあの日のことが気に掛かる…


「無理はしないでくださいね、さん。」


を見守るように傍らで黙していたヒルダが、静かに口を開いた
対面に座すヒルダは、大神の地上代行者を見る者総てに感じさせるだけの慈愛と威厳に満ち満ちている
意外に心の奥深くで引っ掛かっているあの日の出来事にがっくりと肩を落としただったが、こうなったらヒルダにジークフリートの事を訊いてみるのも一つの手かもしれないとふと気付いてその身を前に乗り出した


「…あの、そう言えば一つお尋ねしたいのですが、ジークフリートは今何処に…?」

「ジークフリートがどうかしましたか?」

「…いえ、ここ一週間ほど彼を見掛けないので…。」


唐突にジークフリートの名を口にしたに不思議そうな表情をしたヒルダは、のその返答に少し表情を暗くした
ヒルダに替わって、隣のフレアが答える


「…ジークフリートは今此処を留守にしているのです。」

「…え?」

「…実は…。」


ヒルダは自分の口元に指先を当てて話し始めたが、それは何か心配事を抱えた時に彼女が示す仕草だった


「前にさんがこの国にいらしたばかりの時、『この国に対する不審な噂がある』とお話しました。」

「ええ。」

「実は、その事で一つ判った事があるのです。…噂の出所は不明なのですが、『アスガルドに再びニーベルンゲンリングが現れた』と言うのです。」

「ニーベルンゲンリング…。『ラインの黄金』から作られたと言う、あの指輪がですか…!」


驚愕を隠し切れないに、ヒルダは一つ頷いた


「よく御存知ですね。…そう、ラインの黄金から出来たそのニーベルンゲンリングが現れたと…しかも大神オーディンの像の御前にて。」

「それは……本当ですか!?」

「…少なくとも、毎日欠かさず大神に祈りを捧げる私はその影すら見ておりません。だから単なる噂だと思うのですが…。」


そこまで話して、ヒルダはその整った眉目を一段と顰めた


「ただ、『それを手にする者は世界を手中にできる』ニーベルンゲンリングの伝説は、この国に留まらず近隣諸国にまで遍く知れ渡っています。
 その指輪がこの国に現れたと言う噂が広がったのですから…」

「…なるほど、隣国はそれを狙っているのですね。」

「ええ。隣国とは常に一触即発に近い状態が長く続いておりました。…ともすると、噂自体もそこが出所なのかもしれません。…疑う事はしたくはないのですが…。」


隣人を疑うなかれ。
ヒルダの悲しげな表情を目の当たりにして、は改めてこの女人の慈愛の深さを痛感した
『「陽光の国」すらも手に出来る力』を欲しているのは、何もこの国の古人たちだけではないのだろう


「では、それでジークフリートは隣国へ…?」

「隣国には別の者を遣って調べさせています。ジークフリート程の剛の者は、近隣のどの国でもその名と姿を知られておりますからね。
 彼には、国境の巡回をお願いしています。国境の住人たちはいつも隣国の侵入を怖れておりますから、彼のような人間が近くにいてくれると思うだけで安心できるのですよ。」

「…そうですね。」


ヒルダの説明に答えるの表情は自然と明るくなった

…そうか、ジークフリートは国境付近に行っているからこの一週間、その姿を見なかったんだ…

…しかしそこまでは理解できたものの、やはりの腑に落ちないのがあの日の帰り際のジークフリートの豹変振りである
いくら考えても自分には何が悪かったのか分からない
…であれば、直接本人に訊ねるしか手立ては無いだろうが、それを思うと気分がまた暗くなってくる
ついでに言えば、彼がいつ此処に帰ってくるのかもこの現状では分からないのだ
明るくなったり暗くなったり、くるくると表情を変えるに、フレアが訊ねた


さん、どうしたの…?さっきから何か悩んでいるみたい。」

「…え…ええ。」


自分を心配する二人の姉妹の視線に、嘘偽りの陰は何一つ無い

…だったら、やっぱりこの二人に訊いてみよう…!


「…あの、実は………。」


意を決して、はあの日の帰り際の遣り取りを話し始めた



×××××××××××××××



「…まあ、そんな事があったのですか!?」


神の代行者とは思えないトーンで、ヒルダは感嘆の声を洩らした
…やはり、彼女も一人の若い女性に他ならないのだろう
隣に座るフレア共々、の話の一部始終をまさに興味津々と言った面持ちで聞き入っていた
…一方のは、やはり話さなければ良かったかと早くも後悔し始めていた
何せ、目の前の二人が何やら大層楽しげな顔をしているのだから

…うう、何か恥ずかしいわ…


「…と言う訳で、どうやら私はジークフリートを傷付けてしまったみたいなのです。」


二人に話すのが恥ずかしいながらも、やはりジークフリートを傷付けたと言う自責の念の方が遥かに勝ったは、話が終わりに近付くに連れてその肩を落とした
先程まで興味深げに話を聞いていた二人も、のその様子を察して少し姿勢を正す


「だから、彼が帰って来たら謝ろうと思うのですが…一体どうしたら…。」


最早途方に暮れ始めたを見て、二人の姉妹は互いの目を見合わせた
少し笑みを浮かべたヒルダが、僅かに首を傾げる


「…貴女が謝る必要はありませんよ、さん。」

「…え……?」


意味が判らないと言った表情で口を開けたままのに、今度はフレアが笑って訊いた


「ジークフリートは、その時『貴女からは自分の短剣を受け取れない』と言ったのですよね?」

「…え、ええ。そうですが…。」


のその返事を聞き、二人はもう一度互いの顔を見て頷くと、代表してヒルダが口を開く


「誤解しているのはジークフリートの方ですよ。…さんはこの国の人ではないのですから。」

「……?」

「このアスガルドや周辺の国には、古くから一つの風習があるのです。それは『愛する者に、自分の身に付ける物を贈る』と言うものなのです。
女性は、愛する男性に自分のアクセサリーを、…そして男性は愛する女性に自分の短剣を贈るのです。いつでも自分に替わって相手を護ってあげられるように、との願いを込めて。」

「……ええ!?」


は驚いてその目を丸くした
その様子を目の当たりにして、の目の前の二人は可笑しげにクスクスと笑い声を上げる


「ジークフリートったら、さんが短剣を返すと言ったので、自分は拒まれたんだと思ったに違いないですわ。」


フレアの説明も、今のに取っては素通りしそうな勢いである

…愛する女(ひと)に短剣を、って…

自分の脳内処理のキャパシティを遥かに越え、は無表情にハハハ…とただ笑うしかなかった
乾いた笑い声を上げるに、ヒルダが珍しく揶揄するような顔で説明する


「きっとジークフリートは、聖域で貴女に出会った時からその心に決めていたのでしょう。だからその時、わざと剣を置いて行ったのでしょうね。
…そして、それは決して可笑しな事ではないのですよ。何故なら……」


言葉を継ぎ掛けたヒルダの身体を、次の瞬間に強い戦慄が貫いた
…それは、大神オーディンの代行者たるヒルダにのみ感知する事が適う、ある種の予感であった
目を見開いた後、俄にその場に崩れ落ちた姉を、フレアが咄嗟に支えた


「…お姉さま!」

さん、一刻も早くジークフリートの許へ!」

「…!?」


青褪めた顔色のヒルダは、必死にの腕を掴んだ


「…ジークフリートが、何者かに襲われています。………誰か!」


間髪を入れずに扉が開き、外に控えていたと思しき一人の男がヒルダの側に駆け付けた
も見覚えのあるその男は、双子星を守護星に戴く神闘士だった


「…シド、すぐにさんを連れて国境へ!ジークフリートを助けてください。さん、ジークフリートを頼みます。」

「…は、はい!」


シドが、無言での腕を取る


「…シド、少し待って!」


フレアが、今にも駆け出そうとするシドを止め、急いでの居室へ走りそして駆け戻った
…その白い手には、ジークフリートの短剣が握られている


さん、これを持って行って!…ジークフリートの想いが、きっと貴女を護ってくれるはずだわ!」

「……ありがとう」


は、金色に輝く短剣をしっかりとその胸にかき抱いた








<BACK>        <NEXT>