隣国との国境に辿り着いたを待ち受けていたのは、無残な姿を晒した小さな集落だった
蹂躙しつくされた家々の影に最早事切れて久しい村人の身体が転々と転がっているのを見て、はひっ、と小さな悲鳴を漏らした
側に寄り添うシドも、見るに耐え兼ねると言った風情で愁眉を寄せる


「……そんな…、何故こんな事が…。」

「隣国の奴らだ。」


後ろから聞こえた声に、二人が時を同じくして振り返る
…そこに立っていたのは、の隣に立つ男と同じ姿容を持つ男だった


「…バド…兄さんが何故此処に?」


どうやら二人より少し前からこの村に辿り着いていたのだろう、バドはその長い腕を組んで壊れた家の柱に凭れていた
よくよく目を凝らすと、組んだその腕の下に隠れた腹部から鮮血がポトリポトリ、と滴っている
血相を失ったシドは、慌てて兄の許へ駆け寄る


「…兄さん、これは一体…!?」

「フン、これがあいつらの手口さ。…俺はヒルダ様から密命を帯びて隣国に潜り込んでいた。」


ふぅ、とバドが一つ呼吸をすると、その口元から紅い筋が大地に向けて緩やかな曲線を描いた
弟に支えられたバドの脇に、も小走りで近付いた


「…じゃあ、ヒルダさんが言っていた偵察って、バド、貴方の事だったのね?」

「…そうだ。俺は元来、シドの影星の宿命を持つ男。日陰者の性分が身に染みているもので、な。偵察や間諜を命じられても、今更何の感慨も持たんさ。」


たっぷりアイロニックな笑みを浮かべた直後、バドは損傷した腹部を襲う激痛に顔を顰めた
己の身体を横たえようとする弟を制止して、バドはを見遣った
弟と同じく不安げに自分を覗き込むの、その腕に握られた短剣に彫られた名を目にして大方の事情を察し、バドは己の長い指で一つの方向を指差した


「それより、…と言ったか。この村の外れに小さな井戸がある。お前は其処へ急げ。
 …ジークフリートが居る筈だ。」

「…えっ…?」

「隣国の奴らは、この国に再び現れたと言うニーベルングの指輪を欲している。
 指輪については何も知らぬこの辺境の村を襲ったのは、国境周りをしているジークフリートを倒すためだ。
 …指輪を手にするためには、まずは邪魔な神闘士から片付けるのが得策と踏んだのだろう。
 奴らの動きを察した俺は、後を付けた。…だが、奴らの方が一枚上手だった。
 俺はまんまとに陽動に乗って引き離され、奴らはジークフリートの巡回予定だったこの村を襲ってジークフリートをおびき寄せた。
 …そして奴らは、ジークフリートのその性格を利用したのさ。…あいつらは、村人達を人質に取った…。」

「…なんだって!?それは本当か、兄さん。」


シドが兄の身体を揺らすと、バドは苦しげに眉根を寄せた
隣に立つは、バドのその話に全身から総ての血の気が引いている


「…あいつらは、この村人達を人質に取って、そしてジークフリートの動きを封じると………村人とジークフリートを同時に傷付け始めた。
 俺は陽動されたその先で、手先どもを蹴散らしてようやくこの村に辿り着いたが………遅かった。
 残った雑魚どもを片付けた後で、まだ息のあった村人に事情を聞くのが精一杯だった。」


はバドの話をそこまで聞くと、無言でバドの指差した方角へと駆け出した
同じく無言のうちに顎で弟に合図をしたバドに一つ大きく頷いてみせたシドが、その後をやや離れて追った





×××××××××××××××





村の外れの井戸――既に破壊しつくされた今となっては、最早その機能を果たさないだろうが――を見付けたは、この村に辿り着いた時以上の激しい衝撃を全身に受け、危うくその場に崩れ落ちかけた
の目の前に、満身創痍でピクリとも動かないジークフリートが横たわっていた
端整な顔には血のこびり付いた彼の長い髪が覆いかぶさり、その表情がには具に判らない


「…やはり遅かったのか。…なんてことだ…!」


背後でギリギリと歯噛みしたシドを、はキッと睨め付けた
の怒りの形相の凄まじさに、シドがその場に釘付けになる
は、その瞳を潤ませて拳を硬く握った
もう片方の腕には、ジークフリートが贈った短剣がしっかりと握られている


「ジークフリートが死ぬなんて…そんな事あるわけない!」

「……。」


シドには、それ以上の言葉は言えなかった
は踵を返すと泣きながらジークフリートの側へと歩み寄り、そしてアスガルドの凍土に膝を突いた
アスガルド第一の勇士の、その身体にゆっくりと手を触れる
…まだ、温かい
うつ伏せに倒れたジークフリートの背は紅一色に染まっていたが、無論それは敵の物も幾許か交えるにしても、やはり本人の血液が大半を占めた
の掌を、べっとりと鮮やかな血糊が彩る


「…ジークフリート…。なんでこんな事に。…私、まだ貴方に謝らなくてはいけない事があったのに…。」


ジークフリートの白銀の髪をそっと掻き分けて、はその端整な頬に掌を添えた
彼の淡き瞳は硬く閉ざされ、長い睫だけが外界の風にさわさわと揺れる
ポトリ。
近づけたの白い頬から、涙が一筋ジークフリートの頬に滴った
…ピクリ。
その刹那、凍土に臥したジークフリートの瞼が微かに震えた


「…!…ジークフリート!!」

「………う……うう…。」


狂喜に紅潮する頬に憂いを交え、がジークフリートの身体を抱き起こして揺さぶると、ジークフリートは低い呻き声と共に、水の色を映した瞳をゆっくりと…そして僅かに開いた
安堵の嗚咽に咽ぶの呼吸が、小刻みに震える


「…その声は………か。」


苦しげに呟くジークフリートの視線が、の周辺を彷徨う
に触れようと挙げられたその手も、空を切るばかりでの身体の側を何度も通り過ぎた


「…ジークフリート、私が見えないの……?」


は満面に苦渋を湛え、ジークフリートの手を取って強く握った
ああ……、との手の感触に一息洩らし、ジークフリートは己の血に汚れたその顔に僅かな笑みを浮かべた


「…まだ、あまり良く見えないのだ。私の負った傷は余程深いらしい。」


絶え絶えに答えたジークフリートの口元から、咳と共に血が噴き出した
…このままではジークフリートが死んでしまう!
はその悪しき予感に、かたかたと震えた
の身体から直に伝わる震えを感じ取ると、ジークフリートはの手を握った


「…震えているのか、。」

「話さないで…!」

「泣くな、。…私のために泣いてくれるな。」


自分を慰めようとするジークフリートのその一言に、の涙腺が一気に緩んだ
ジークフリートは、泣き声を上げるの方角をゆっくり見遣る
…徐々にではあるが、その視界がはっきりと映り始めて来た
一向に泣き止む気配の無いの…その左腕に、見覚えのある短剣が握られていた


「それは…、私の剣…。持って来てくれたのか。」

「ジークフリート…見えるの、この剣が?」

「ああ。」


短く答えて、ジークフリートは笑った

…そうか、私の剣をは持っていてくれたのか…。


「…私、貴方に謝らなくてはいけないの、ジークフリート。この国の古い言い伝えを私、知らなくて…。貴方にこの剣を返すなんて言ってしまってごめんなさい…。」

「…いや、私の方こそ何も知らずに貴女を傷付けてしまったようだ。…すまない。
 ……その剣は、、貴女を護ってやれただろうか。」

「ええ、勿論。今こうして私が貴方に会えて話が出来るのも、きっとこの剣のおかげに違いないわ。」

「…そうか。それなら良かった……。」


ジークフリートの語尾が、再び鮮血に遮られた
の呼吸が、一瞬止まる
…しかし、ジークフリートは苦悶の顔をすぐに笑顔に変え、の腕の中にある己の短剣を掴んで言った


「…、これから私の言う事をよく聞いて欲しい。」


は無言で頷いた
ひゅうっ、っと音を立ててジークフリートが空気を吸い込むと、背に開いた傷口から血が吹き出したが、それには構わず彼は言葉を継いだ


「…私は、どうやら長くはない。」

「…ジークフリート………!」

「…聞くんだ、。この傷を見れば自分でもそのくらいの事は判る。…だが、私はどんなに深い傷を負っても、死ねぬ運命の下にあるのだ。」


ジークフリートは掴んだ剣に体重を掛け、ゆっくりとその身体を起こした
井戸の周りに積もる白銀の雪が、みるみるうちに紅に染まる


「私は神話の時代からの運命によって、死から遠ざけられた。…いくら深手を負おうとも、永遠に死ぬ事は許されないのだ。
 …人はそれを羨むかもしれない。しかし私にとっては、それはとても辛い事以外の何物でもないのだ。
 これまで幾多の人々と死に別れ、友の死を見送り続けた。…その上、今度は、貴女の死をもいつか見送らねばならない。」


ジークフリートが表情を曇らせたのは、何も傷の痛みのせいではない


「可笑しいだろう?そんな遠い先の事、と。…だが、私は怖いのだ。、貴女に置いて逝かれる事、ただそれだけが。
 貴女と共にあり、そして共に滅びたくとも、この身の運命故、私は自らの命を絶つことを禁じられている。
 貴女への愛に気付いた時から、私にはそれが耐え難かった。…だが、その苦しみももう終わりだ。」


そこまで言うと、ジークフリートは己の短剣をに渡し、身体を背けた


「…どんなに深手を負おうとも不死身の私だが、唯一そうでない場所が一つだけある。それが此処だ。」


ジークフリートがに示した場所、それは彼の背中の一点だった
…其処は既に傷を受け、鮮血を噴き出している
息を呑むに、わかっている、とジークフリートは一つ頷いた


「…そう、既に此処は傷を負っている。私を襲った奴等もどうやらこの事を知っていたのだろうな。…だから最初に言っただろう、私はどうやら長くないと。」


ジークフリートは口を片方だけ上げて苦笑し、優しくの手を取った


「奴等の負わせたこの傷も、私を即座に死なせるには僅かに浅かったようだ。…おかげで、貴女とこうして少しばかりの話をする時間くらいは残った。
 …だが、間もなくその時間も終わる。だから、貴女に私を解き放って欲しい。」


シュッ、と豪奢な金色の鞘から剣を抜き放ち、ジークフリートはそれをの手に握らせた


「さあ、その剣で私の背の傷を刺し貫いてくれ。…この苦しみから貴女の手で救って欲しい。」

「…嫌。…私にはそんな事、できない。ジークフリート、貴方を私の手で………。」


剣を握るの手が、ふるふると振動する
ジークフリートはそんなを見ると、淡い瞳を細めて笑みを湛えた


「…、貴女は私を臆病と笑うか?アスガルド第一の勇士でありながら、永遠に生き続けるその苦しみに耐えられぬ私を。」

「…貴方が死んだら、私は独りになってしまうわ。なのに、どうしてそれに手を貸すような事が出来るって言うの…!?」

「それは違う。…私は、遅かれ早かれ死ぬ。ならば、この苦しみを、貴女に終わらせてもらいたい。……頼む。」


ジークフリートの笑顔から顔を背け、はそんなことは出来ないと首を横に振った
子供の駄々を遠巻きから傍観するように、ジークフリートが苦笑を浮かべる

…このままでは、本当にジークフリートが死んでしまう!一体どうしたら…

ジークフリートの致命点から音も無く流れ出る血液を見詰め、は下唇を噛んだ
これだけの血が流出してなおその身体が動くのは、おそらく彼の上にある残酷な運命の成せる業なのだろう
…しかしながら、その稀有な運命の力ももう、長くはない
時間を追うごとに、ジークフリートの顔からは血の色が薄くなる

折角誤解を解いて謝ったのに……ようやく想いが通じたのに、これで終わりなんて酷すぎる
…どうにかして…どうにかしてジークフリートを助けたい!

最早祈る心地で、は自分の胸の前で両の手を組んだ
…カツン
その刹那、の手に首から提げたペンダントが当たって揺れた
それは、聖域を離れる前に女神より下賜されたもので、中が空洞になっている小箱状のポイゾンペンダントだ
、貴女が本当に必要だと思った時に、この小箱を開けなさい。判りましたね。』
ペンダントヘッドを手にしたの脳裏に、女神の言葉が閃く

…そうだわ、今こそきっと『その時』に違いない!

小箱の正面を上に向け、はそっとその蓋を開けた

…女神、どうぞ私に御力を………!


「…え……、こ、これは……!」


銀の蓋が開き、中から姿を現したのは白銀に輝く一掬いの粉末だった
…見覚えのあるそれは、が何時も守り続けている物質だった


「…これは…銀星砂…!?」


意外な物が姿を現した事に、は正直な所、驚きと落胆を隠せなかった

…この銀星砂を…一体、どうしろと…?

はがっくりと肩を落とし、その場に座り込んだ
女神は一体どのような意図で、小箱に銀星砂を入れたのか
本来、聖衣を修復する用途にのみ使用されるこの砂を入れたと言う事は、修復に励めと言う一種のメッセージなのだろうか
…そもそも銀星砂自体、も袋一杯の分量をこのアスガルドに携えて来ているのだ
それなのに、わざわざに身に付けさせる必要があると、そう言う理由が何かあるのか…
は白い砂をただじっと見詰めた…何の変哲もない、ただの銀星砂を

…もしかして、銀星砂にはもっと別の力がある…?傷を癒すとか、そんな効用が…。
いや、そんな訳はないわ。だって、これが溶け込んでいるせいで泉の水が飲めなくなってしまうくらいだもの。人体に使えるとは思えないわ…
……ちょっと待って。『傷を癒す』と言えば、何か思い出し掛けたんだけど…ええと……

抱え込んだの頭の片隅で、貴鬼から聞いた話が微かにスパークした
『修復とは癒す事。そして癒す事は深く愛する事』
ムウが語ったという、修復の極意だ

…癒す事…深く愛する事…それが、修復に繋がる、と。
神闘衣の事ばかり考えていたから気付かなかったけど、もしかして、『修復』って何も聖衣や神闘衣に限らないって事なの……?

の記憶の中のムウは、その問いに対して何も語らない

…判らない。でも…やってみるしかないわ…!

は徐に小箱の中から銀星砂を取り出した
匙一杯程度のそれが、の掌の上で雪明りを反射する


「…ジークフリート、少しだけ我慢してね。」


は出血止まぬジークフリートの身体を僅かに裏返し、背の致命点の傷口に銀星砂をさらさらと零した
ぐっ、とジークフリートが小さな呻き声を洩らす
…やはり、銀星砂は人体に害を成すのかもしれない

…ごめんなさい、ジークフリート。でも今の私にはこれしかできない…

苦悶に顔を歪める事さえ適わぬ最愛の男を抱きしめて、は心の中で詫びた
…だが、その想いにも拘らず、腕の中の男の傷は何らの変化も見せない
は愁眉を寄せて、男を抱く腕の力を緩めた

…ジークフリート…。もう駄目なの…?

目を伏せ、諦め掛けて顔を背けたの視界の端に、雪の中に転がる黄金の短剣が光った
何時だったか、青銅聖闘士達の傷付いた聖衣を、黄金聖闘士の血によって蘇らせたと言う逸話がの脳裏を掠める
は無言でジークフリートの剣――彼がに贈ったその剣――を拾うと、己の左手の人差し指にその切っ先を当てた
ツ…、と一筋の血がの指を滴る
そのまま、その指先をジークフリートの背に翳す
ポタリ、ポタリと数滴の血液が傷口に落ちた

…女神よ、…そしてアスガルドの神々よ、どうか私の腕の中に横たわるこの勇士を救い給え。
ジークフリート………今こそ私のこの愛を………!

その瞬間、ジークフリートをかき抱いたの身体から、純白のオーラ…小宇宙が放射状に辺りを包んだ
側に立つシドは小宇宙のその眩しさに、一瞬目を細めた

…なんと。の身体から、恐ろしく強い小宇宙が立ち上っている!

シドをも席捲するその小宇宙は、彼の主・ヒルダの持つ小宇宙に微かに似ていた
微かに、であるのは、がジークフリートに抱いているその想いがヒルダの持つ「慈愛」とは少々異なるからであったが、それはシドには知らぬ事である
光にようやく順応した目を凝らしたシドは、今度はその息を呑んだ
の腕の中に横たわるジークフリートの…その背に深く刻まれた致命傷が、徐々に収束し、やがて完全に消え去ったのだった

数分後、を取り囲む白い小宇宙は霧消した
優しく微笑むと、それに応えてゆっくりとその長身を起こすジークフリートの、二人の姿を己の視界に認めたシドは、無言の内に背を向けて歩き出した
…二人の邪魔にならない、どこか遠くへと





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「…これは、なんと素晴らしいのでしょう!」


の修復部屋に足を踏み入れたヒルダは、思わず感嘆を洩らした
…ヒルダの目の前に、聖域との闘いの前と寸分違わぬ8体の神闘衣が並べられていた
無論、それを成し遂げたのは、その部屋の主であるである


「素晴らしいですわ、さん。…なんとお礼を申し上げたら良い事か…!」


ヒルダは、白磁と紛うばかりのその指先で一体づつ神闘衣に触れた
昔日の損傷は、面影すら見当たらない


「…いいえ、お礼を申し上げるのはこちらの方です。神闘衣の修復技能すら持たぬ私を、かくも温かく見守ってくださったおかげです。」


面映くなったは、微笑して僅かに顔を伏せた

…あの日、ジークフリートの傷を癒した事により、は神闘衣の修復の術を身に付けた
『修復とは癒す事。そして癒す事は深く愛する事』
驚いた事に、ムウのその台詞は正鵠をピタリと射ていたのであった
銀星砂と、泉守自身の僅かな血。…そして、神ならぬ愛の想い
それが、神闘衣を修復する真の鍵。 
それに目覚めたは、ようやくにして自分に課せられていた運命を克服できた
……そして、その傍らにはの愛する男の姿があった


「それにしても、8体総てのローブがこれほど見事に修復できただけでも驚きましたが、…中でもこのアルファローブは白眉ですわね。」


半ば本音、そして残りの半分は揶揄交じりにヒルダが呟くと、は忽ちに頬を染めた


「…その…、最初に修復したのがアルファローブなのです。その時は、まだ本当に修復できるのか自信がなくて…。」


がしどろもどろに応えると、ヒルダは笑って応えた


「アルファローブは8体の中でも最先(いやさき)に位置しますものね。順に修復しようと思ったら、まずアルファローブからでしょう。
 …私はそれ以上の意味を込めて申し上げた訳ではありませんよ。…ふふふ。」

「…恐れ入ります……。」


…一本取られた!
ヒルダのその意味深長な笑いに、はますます気恥ずかしくなって頭を下げた


「…それは冗談としても、さん、本当にありがとうございます。聖域の泉守である貴女を、長い間お借りする事になってしまいました。
 あちらでも成すべきお仕事は沢山ございますでしょうに、女神に何とお詫びを申し上げたら良いか…。」


ヒルダが眉根を寄せてぽつりと呟くと、の顔からも笑みが姿を潜める
…そう、神闘衣の修復が無事相成った今、それはがこのアスガルドを後にする事を示していた
本来なら嬉しいはずの聖域への復命も、今のにはジークフリートとの辛い別れ以外の何物でもない
ヒルダの隣に立つフレアが、の硬い表情を察して口添えをした


「ねえ、お姉さま。こうして綺麗に修復した神闘衣ですもの。
 そんなに頻繁にとは行かなくても、時折さんにいらしていただいて、お手入れをしていただいてはいかがかしら?
 …細かい傷だって見つけていただけますわ。」


白い手を握って必死に訴えかける妹に、ヒルダはくすり、と笑むと頷いた


「そうですわね。折角アスガルドにいらしていただいたのですもの。聖域でのお仕事に差し支えが無い時には是非お願いします、さん。
 …その折はまずこちらから『使者』を立てる事にいたしましょうか。」

「…寛大なるお心遣い、ありがとうございます…!」


の顔に笑みが戻ったのを見遣り、二人の姉妹はにっこりと微笑んだ





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いよいよ、がアスガルドを発つ日がやって来た
貴鬼と共に帰途に着く予定のは、いつになく早朝に目が覚めてしまった

…今日、私は此処を離れる
ヒルダの計らいにより、今後も時折アスガルドを訪れる事はあるだろう
頭でもそれは判っているだが、今はこの別れが何より辛い

寝室の窓際に歩み寄り、はカーテンの前に立った
アスガルドの白銀の光景も、今日で暫く見納めになる
緑深きギリシャへ帰っても忘れぬよう、しっかりとこの景色を焼き付けておきたい

シャッ、とカーテンを引き、は眼下に広がる世界を鳥瞰した
白く染まる遠い地平線、そしてそこから手前へと視線を移し、窓のすぐ下まで来てははっとした
…宮殿の自室の窓の下から…一人の男がを見上げていた

…ジークフリート…!

と目が合ったジークフリートは、あの優雅な笑みを浮かべた
今すぐにでも窓から飛び降りたい気持ちを抑えて、は宮殿の階段を静かに駆け下りた



「…ジークフリート!」


は、何ら臆する事無くその厚い胸に飛び込んだ
外まで一気に走ってきたのだろう、の少々荒げた呼気が白く染まる
その呼気ごと、ジークフリートは腕の中のを抱きしめた


「…きっと、貴女が窓辺に立つと思っていた。」

「待っていてくれたの…?」


が見上げると、自分を包む男はその目を細めてああ、と一つ頷いた
嬉しい気持ちと拮抗する程に、の心の裏(うち)に悲しい思いがじわじわと沸き上がる
ジークフリートの胸に押し付けたその顔をますます深く埋め、は小さく囁いた


「…帰りたくない。私、ずっとジークフリートと居たい…!」


声を震わせたの髪を一筋掬い、ジークフリートはを正面から見詰めた


「…必ず、会いに行く。そして、貴女を迎えに行く。」


は、無言で頷いた
ジークフリートは、の頬に描かれた涙の軌跡をその長い指でツ…となぞり、頤まで達するとの顔をくい、と上向かせた





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「…まぁ、お姉さま、あれを…!」

「…フレア、覗き見はいけませんよ。」


宮殿の窓から、二人の姉妹は雪の中の光景を見おろした
…姉として妹の所業を咎めながらも、そのヒルダも部屋のカーテンを閉じる気配は無い
やがて、二人の男女の姿への熱い視線を戻したフレアは、一つ思い出してヒルダに訊ねた


「ねえお姉さま、前仰っていたあの事は本当ですの?」

「例の…百年前の泉守の事かしら?」

「ええ。」

「本当ですよ。…当時のアスガルド第一の勇士に連れて来られた聖域の泉守は、傷付いた神闘衣を修復した後…その勇士と結ばれたのです。
そのお話をさんにしようと思った矢先にジークフリートの危急を察したので、結局さんには話さず仕舞いになってしまいましたけれど。」

「…でも、その伝説通りになったのですから素敵ですわね。」


アスガルドの姉妹は、互いに目を見合わせるとくすり、と笑った



        



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