翌日の昼下がり、の住む小屋を訪う男の姿が見られた
器用なその指先に相応しく柔らかなノックの音に、は茶を入れる手を止めてくすり、と笑いを零した


「ムウでしょう?…どうぞ、中に入って。」

「…毎回、よく私だと判りますね、。」


パタン。
何時もより心持ち広角にドアを開き、ムウは滑り込むように家の敷居を潜った
カップを一人分増やすために食器棚の扉を開くの背中に、この男にしては素直に感嘆の眼差しを向ける
ムウに背を向けたまま、が笑う


「そりゃあね。だってこの家を訪ねてくる人って、限られているもの。」

「…限られているとは言っても、他に何人もいるのに私だと判るものですかね。」

「何人、いいえ何十人いたとしても貴方だと判るわよ。…だって、貴方のノックが一番優しいもの。」


を訊ねる自分以外の男の存在に少々刺々しい物言いをしてしまったムウは、の最後の一言に口元を緩めた
と一番親しいのは、この私以外にはありえない。この男が内心に優越を感じるのは今に始まった事では無かった
尤も、それはの管理する「泉」の砂に含まれる銀星砂を縁に、この二人がティータイムを共にする機会が多いと言うだけの話なのだが……少なくとも、の側はそう思っているだけのようだった


「…で、今日も『銀星砂』を取りに来たの、ムウ?」


今度はムウのカップに添えるスプーンを入れた引き出しのつまみに手を掛けて、が尋ねた


「…いいえ。今日は『銀星砂』とは関係ありません。」


ゴトリ。
背後のテーブルに置かれた何か堅そうな物音にが初めて後ろを振り返ると、あっと声を洩らした
ランチョンマットの側に置かれていたのは、燦然と煌く黄金のマスクだった
椅子に座らず立ったままのムウの身体を被うのは、何時もの麻の衣服ではなくマスクと同じ素材の鎧――牡羊座の黄金聖衣――だ
事情を察したは、手にしたカップとスプーンをテーブルに置いた


「…女神が、貴女と私をお呼びです、。」

「何かしら…。」

「さあ、私は何も存じませんが…。」


軽く首を傾げるムウを横目に、の脳裏を一つの予感が過ぎった

…もしかして、昨日の男(ひと)と関係あるかもしれない。あの男、確か「拝謁」と言っていたもの
でも、何で私とムウなのかしら…?
…まあ良いわ、どうせ邪推しても始まらない。第一、私はあの男が何者なのかすら知らないんだし


「判ったわ。ムウ、ちょっと支度をして来るから少しだけ待っててもらえる?
 …あっ、ポットにお茶が入っているから、もし良かったらその間に飲んでいて。カップは其処ね。」


バタバタと自分の寝室に駆け込むを見送って、ムウは肩を竦めた

…やれやれ、寝室の扉も閉めないで、本当に無防備ですね。
それだけ私が「無害な存在」と思われているすると、ちょっと寂しくもありますが…まあ、時間はたっぷりありますし、ゆっくり距離を縮めるのも一つの手です

のあられもない姿を間近にするのはもっと後日の楽しみとして、ムウはくるりと身を翻した
小奇麗に片付いたリビングに設えられた本棚の前まで近付いたムウの視界の端に、小さな布切れが引っ掛かった
分厚い本と本の間にブックエンド代わりに挟まれた小さめの天球儀の手前にそっと置いてあるその布の…間から何か覗いている
の私物ゆえに一瞬逡巡したが、ムウは白いその指先でそっと布をめくってみた
…綸子の布の下から姿を現したのは、昨日が草叢で見付けた黄金の短剣だった


「ムウ、そこで何をしてるの?」


ビクリ、と一瞬身体を強張らせ、ムウはその焦りを隠すためにわざとゆっくりと振り返った
寝室を出てすぐの所に、謁見用のキトンに着替えたが立っている
やや大きめの窓から差し込む昼間の日差しを反射して、真っ白な布が更なる光沢を生む
キトンは木綿で作るのが古よりの作法だ。しかしまるで絹の様な光を放つその姿に、ムウは軽い眩暈を覚えた


「いいえ、別に。貴女がどんな本を読むのかと少し気に掛かっただけです。」

「殆ど日本語の本よ。貴方が読んで楽しいかどうかはわからないわ。」


この国で古くから『永遠』を意味する円形の渦巻き紋様を刻み込んだ腕輪を手首に通しながら、はムウの近くまで歩み寄った
その顔に浮かべた笑みが、途端に収束する
…ムウが覆いを退けた綸子の間から、例の短剣が大きくはみ出していたからだ


、わざとではありません。…ただ、ほんの少し見えていたのです。」

「…ええ、貴方がそんな人じゃ無いことくらい判ってるわ。」 


ムウはややばつの悪そうな顔で、に非礼を詫びた
…がやはり彼も『細工師』の一人。気に掛かって仕方の無い事に対してはあくまでも正直だった


「…しかし、これは貴女の物ですか?」

「…どうして?」

「いえ…珍しい細工なので少々気に掛かるのですよ。これは、明らかにこちら<ギリシャ>のものではなさそうですし。
 失礼ですが触れても良いですか?」


が無言で頷くのを確認すると、ムウは本棚の上から剣を持ち上げた
身に纏うその聖衣と短剣の色が同化して、のキトンを金色に照らす


「何か判る…、ムウ?」

「そうですね。…多分、これは北の物ではないでしょうか。例えば、この紋様の部分ですが。」


ムウはの手を取り、その人差し指の上に己の指を重ねて紋様の上をゆっくりとなぞった


「判りますか?この…部分です。ほら、紋様が立体的に絡まりあっている様に感じられるでしょう?」

「え…ええ。」

「この国古来の紋様では、このような立体的な構図は殆ど見られないのです。平面的な幾何学模様ばかりなのですよ…例えば、貴女のその腕輪の紋様のようにね。」


…何時の間にか、の背にムウの身体が密着している
いくらムウの身体が聖衣に覆われているとは言え、は落ち着かない様子でムウから身体を少し離した


「…で、これは北の国のものなのね。」

「ええ。おそらくは。」


やや残念そうな面持ちで、ムウは視線をから剣に移した


「しかし、貴女これを何処で…?」

「ええ、と…。」


剣の細工一つでこれが何処のものか判ってしまう程だ、今更言い繕ってもムウにごまかしは通用しない
…それに、自分にはやましい事は何一つ無いはずなのだから
ついでに、共に女神に呼ばれている事も気に掛かる


「…実はね………。」


最早観念して、は昨日の出来事を語り始めた





×××××××××××××××





「…そうでしたか。」


の話を聞き終えると、ムウは一つ頷いて見せた
手にした短剣の刃と束の間に彫られた文字を、白い指でゆっくりとなぞる


「昨日、私は聖域<ここ>を留守にしていたのですが、そんな男が…。」


ジークフリート。ムウは剣に刻み込まれたその名を念じた
ムウ自身はその男の国を訪れた事は今だ嘗て無かったが、彼のごく身近な知り合い達が過去にそこで彼らと文字通り死闘を繰り広げた事は知っている
一連の顛末の後、かの地はヒルダと名乗る神の代行者により復興を遂げたと聞いていた
だとすると、その男が今此処・聖域を訪れる――ひいては女神に拝謁する――とは、何らかの尋常ならざる事態が発生したとしか考えられない
しかも、向こうはどうやら「泉」について幾許かの情報を持っているようだ


「その、ジークフリートと言う男は、貴女にまた後日会うだろう、と言ったんですよね?」

「ええ。どう言う事なのかはよく判らないけど…。初対面の私の事を『泉守』と、そう呼んだわ。…私は何も言っていないのに。」


ムウは両の腕を胸の前で組むと、のその返答に首を少しばかり傾けた

…つまり、彼は『泉守』のに用事がある、と。
ひょっとすると、彼らは『泉』そのものについてではなく、『泉守』についての何がしかの情報を手にしているのかもしれない
…だとすれば、思い当たるのは………

遠い昔、師である教皇から『泉守』について聞かされた話をムウは思い出した
それは先代…もう百年以上前にこの泉を守護した女性の話だった
「かの女性(にょしょう)は、泉の恵みを一身に受けていた」
師の言葉を反芻し、ムウはちらりとを一瞥する
傍らに立つキトン姿のは、テーブルの上に置かれたジークフリートの短剣を見詰めていた
衣服が儀式用のものであると言う事を除けば、今ムウの横に立つは何時もの彼女と何ら変わりはない…「泉」の管理を受け持つ、ただの女性
自分自身にとって魅力的か否かの次元の思惑は総て取り去っても、今のからは師が語った『特別な力』の類は感じ取られない

…これは、に取って今回の事態は少々骨が折れるかもしれませんね
それにしても………

ムウは、の視線の先にある黄金の剣をじっと見据えた
鞘の中央に据えられた青い石が、絶えず白い条光を育む

あの男、なかなか油断のならない輩である事だけは間違いないようです…

ふう、と小さな溜息を洩らし、ムウは剣を見詰めたままのの肩に手を置いた


「さあ、。そろそろ女神神殿に参りましょう。おそらく、何か込み入った話になりそうな気がします。」

「あ…、ええ。」

「…取り敢えず、その剣は此処に置いて行った方が良いでしょう。女神の御許に武具は都合が良ろしくないでしょうから。」

「…確かにそうね。ただの忘れ物でしょうし。」


…ただの忘れ物、だと私も気が楽なのですが

小屋のドアを閉め際、ムウはテーブルの上の短剣に苦々しげな視線を送った





×××××××××××××××





サァァァァ
外に降り注ぐ雨の音が、神殿の中まで届くほどにその勢いを増していた
それは、とムウが人馬宮を過ぎたあたりから降り始めたものだった
女神の玉座の前に跪く二人の横で、燭台に灯りが灯される
まだ昼下がりの時刻の内に灯りが入るのは、無論この天候による


「…お待たせしましたね、、ムウ。」


バサッ
真紅のビロードの天幕をかい潜り、女神・沙織が奥の居室よりその玉体を現した
とムウが時を同じくして面を伏せると、沙織はその白い手を差し出して軽く制止する


「我等が最高神・女神におかれましてはご機嫌麗しく。」


沙織が玉座にその身を沈める気配を察し、顔を下げたままのムウが胸に手を当てて決まり口上を述べると、沙織はほんのりと笑みを浮かべた
両脇に設えられた燭台の灯が風にちりちりと揺れ、三者三様の頬の形を描き出す


「…二人とも、いつも役目大儀です。今日、二人に来ていただいたのは、実は折り入ってお願いがあるのです。面を上げなさい。」

「…は。」


ムウを僅かに遅れて、もその顔を上げた
目の前に腰掛ける女神は、陽光の下と同じくこの暗い神殿の中においても見る者総てに神々しさを感じさせる
…だが、今日の沙織はその神々しさを打ち消すほどの憂いを満面に湛えていた。…そう、まるで外をしのつく雨の如くに
の心の裏(うち)に、えも言えぬ一抹の不安が過ぎる
視線の先に心もとなげな表情を浮かべた泉守の姿を捉えると、沙織は二人を手招きした
二度、三度と段階を踏み、二人は女神のすぐ近くまで膝を進めた


「実は…昨日、私の許を訪った者がおりました。」


…ジークフリート<あのひと>だ…!
沙織のその一言に、とムウはちらり、と無言裏に目と目を見交わした


「ムウ、貴方はアスガルドについては存じておりますね。」

「御意。」


深い事情を知らぬを除く二人の脳裏に、冷たく暗い闘いの記憶が横切った


、此処聖域より遥か北に、アスガルドと呼ばれる小さな国があります。…嘗て、異なる神を戴く彼らと私達との間で、とても悲しい諍いが生じました。
 …何時の世も、争いが絶えぬのは辛い事です。」

「…はい。」


目の前の沙織の語る言葉以上に、一連の出来事には何か複雑な事情が隠されているようだったが、はそれには触れずにただ頷いた
神々の争いは、人間の与り知らぬところ
はその事を十二分に理解していたからだ


「…しかし、和解なった後、彼らは元通りの営みを取り戻しました。かの地の神・オーディンの地上代行者たる女性・ヒルダの人徳のなせる業でしょう。
 …ところが、その平生の静けさを今再び揺るがそうと企む者がいる、との事なのです。」

「…何と!」


ムウがその菫色の瞳を更に大きく見開いた


「昨日私の許に参ったジークフリート……かの地の誇る第一の勇者が申すには、その疑いがある、と。
 あくまでも噂の段階のようですが、どうやら楽観は出来かねる様子でした。」


…そうか、やっぱりあの男(ひと)はジークフリートと言う名前なのね
では、あの剣はやはりあの男の忘れ物…

眼前に座す女神の口から紡ぎ出されたその名を耳にして、は事態の深刻さからは少々遠ざかって昨日の事を思い出していた
…貴公子然とした、一人の男の事を
『アスガルド第一の勇者』。沙織の言葉を、何度も何度も反芻する
の新しい記憶に刻み込まれたその男は、確かに『勇者』の名に相応しい清冽な雰囲気と仕種の持ち主ではあった


「…そこで、貴女にかの地に赴いて欲しいのです。」

「…え…。」


長くなりそうなの回想を中断したのは、沙織の呼びかけだった
心此処に在らずと言った風情のの様子を横目で見遣り、ムウが小さく溜息を落す


「わ…私がアスガルドに?しかし女神、私は其処にて一体何を…。」


沙織はのその至極当然な質問に対して直に応えず、代わりにムウに向けて直った


「ムウ、貴方にお願いしたいのは、貴鬼をお借りしたいのです。よろしいですか?」

「御意。…私の代わりが勤まる程の者ではございませんが。」

「…、貴女にはかの地に『銀星砂』を届けて頂きたいのです。…貴鬼と共に。」

「『銀星砂』をアスガルドに…?」


事情を総て察したムウと沙織は目を見交わして頷いたが、当のには二人の意図するところが未だ理解できない
一人だけ小首を傾げるに沙織は微笑みを交えつつ語り始めた


「先程、私は『アスガルドに不穏な噂あり』と申しました。つまり、誰かがかの国を再び陥れようとしている可能性があるのです。」

「はい。」

「しかし、かの地には『神闘士』と呼ばれる北極星を守護星に戴く七人の勇者がおり、その国と民を守っています。彼らがある限り、アスガルドには磐石の守りがあると言えましょう。」


『神闘士』。聖闘士の誰かからその名前は聞いた覚えがあるわ。
七人の勇者…きっとジークフリートもその一人に違いない


「聖闘士における聖衣同様、『神闘衣』と呼ばれる鎧が存在し、彼らの身を守っているのですが…先の諍いにおいて神闘衣は酷い損傷を受けたままなのです。」


そこまでの事情を聞き、流石のも『泉守』の自分が呼ばれた意図を解した


「…判りました。それで私はアスガルドに『銀星砂』を届ける必要があるわけですね。」

「その通りです。『銀星砂』は此処聖域の泉からその総ての生産量が上がっていると言っても過言ではありません。
 これまでは、聖域外にまで砂を持ち出す用事はありませんでしたが、これも泉を管理する貴女の役割の一つです。
 遠い国まで赴くのは大変かもしれませんが、引き受けてくれますか?」

「…かしこまりました。過分なるお言葉、痛み入ります。」


が恭しく応えると沙織は玉座を立って壇を下り、のすぐ向かいに立ちその手を取った


「ありがとう。貴鬼は先の争いでアスガルドの地理や人々を知り尽くしています。きっと、貴女の役に立つ筈です。
 …かの地では、今までに無い試練に立たされるやもしれません。しかし、その困難に打ち勝った時、『泉守』としての貴女の真の姿に目覚める事でしょう。」


…北の果ての国、アスガルド。そんなにも恐ろしい所なのか……

沙織の言葉の響きに、はゴクリ、と固唾を呑む
視線をと同じ高さにまで落とし、沙織はの瞳をじっと見詰めた


「女神として、祈る事以外に私が貴女にしてあげられる事は他にありませんが……せめてこれをお持ちなさい。
 危急の時に、貴女を導いてくれる標となる筈です。」


沙織は傍らの小さな革袋から、銀色の小さな塊を取り出した
…それはの親指の先程の大きさで、小箱の型をしたチャームの付いたペンダントだった
銀で出来た箱型のチャームは開いて中に物を入れられる作りになっており、所謂『ポイゾンペンダント』と呼ばれている
そのペンダントの鎖を自らの襟元に繋ぎ、沙織はの両肩に優しく手を置いた


、貴女が本当に必要だと思った時に、この小箱を開けなさい。判りましたね。」

「女神…ありがとうございます…!」

「良いですか、決して命を無駄にするような事だけはあってはなりませんよ。
 もし、かの地に流れる不穏な噂について何か知っても、一人で足を踏み入れないで、貴鬼を介してまずはこちらと連絡を取るのですよ。」

「…必ずや!」


沙織に手を取られて立ち上がったの首筋に、銀色の小箱が揺れた








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