根の国・冥界を流れる大河に、ステュクスがある
多神教の文化の多くにも見られるように、その名「ステュクス」は神の名に由来し、また神そのものである
神話の時代、ゼウスと敵対したティタン神族の一人である女神ステュクスは、神族同士の戦いにおいて己の神族ではなくゼウス側であるオリュンポス神族に味方した
勝利を収めたオリュンポス神族は彼女に深く感謝し、以降重要な約束は総てステュクスにその誓いを立てた
「ステュクスに誓って」とは絶対の約束であり、破れば即煉獄の苦しみが待ち受けている事を指す
そして、彼女そのものであるステュクスの河は、澱む事無く冥界を九十九(つづれ)に巡る
オリュンポスの神々の敬意を一身に受けるこの河の水には、それ故不思議な力があると言う
『生身の人間がそれに触れたならば、その者を永劫に死より解き放つ』
…無論、生者が冥界に辿り着けたならば、の話ではあるが
海の女神テティスは、人間の男との間に生まれた我が子――半神であるが故にやがては死すべき運命にある我が子――を不死身とするため、その子の身体をステュクスに浸した
だがこの時、テティスが我が子を河に落さないためにと掴んでいた足首部分だけが水に浸らないままであった
やがて成長した子は、トロイアの戦でその足首に矢を受けて死んだ
………有名な、アキレウスの話である








玉葉






…珍しい。今日は一段と澄んでいる

朝靄の散り失せた空を見上げ、はそのまなじりを細めた
日本から此処、聖域にやって来て初めての冬、あまりの雨の多さに毎日気が滅入っていたのももう随分と昔話に思うようになっていた
ギリシャと日本では四季こそ同じで気温の分布も似たようなものだが、大きく異なるのが湿度の分布だ
…夏の乾燥は苛烈を極め、全ての植物は枯渇し、逆に冬のしのつく雨を受けて、春への勢いを取り戻す
冬晴れ、と言う単語はまさにこの国では貴重なものだ
パタン。
今となっては住み慣れた自分の家・“泉守の小屋”の扉をそっと閉じては外に一歩、己の守護し奉る“泉”への道を踏み出した
微かな湿り気を帯びた空気がの頬を柔らかに刺激する

…温かい。この分では、今年はこの聖域に雪が降る事はないかもしれないな
海皇の呪いのせいなのか、年々暖冬が多くなっていると聞くけれど、郷里はどうだろう
風の便りでは、日本は今年の冬はあちこちで今までに無い積雪が観測されていると言う事だけど

幼い頃に一度大雪になった時の事を思い出し、はくすり、と笑い声を漏らした

…そうそう、確か授業も休みになって皆でかまくらを作った
何日経ってもなくならない雪の固まりにびっくりしたんだった
…いつかまた、郷里であの雪景色を見る日が来るのかしら…

故郷の雪景色を思いながら泉へと近付いた刹那、水面に立つ白い影にはドキリとして立ち止まった

…泉の中に、誰かいる…

見つかってはいけない。自分が守る“泉”であるのに何故かはそう感じ、そっと近くの木陰にその身を隠した

雪…だわ、そう、まるで

こちらに背を向ける形で泉に身を浸す人影の、その肌のあまりの白さにはごくりと息を飲んだ
ヒュウッ
冬のギリシャの湿った風が水面を掠めると、先端を水に浸した灰銀の長い髪が緩やかに揺れる
縛めを解かれた亜麻糸の束の如く柔らかなうねりを描くその髪は、陽光を遍く反射して水面を照らしていた

どうしよう、目が離せない…

泉の深さは誰よりもよく知っているの事だ。人影の立つその高さからそれが「男性」であるのは最初から判っていた
…そして、この泉が稀に外部から訪った人間の「禊」に使われる事も
いや「彼」が外部の人間なのは、後ろから見たその抜けるような肌の白さだけで充分に理解できる
太陽の慈愛を一身に受けるこの国の男たちのそれとは全く違う
…無論、此処聖域にも洋の東西を問わず様々な容姿の男たちが暮らしている
だが、時間の経過に連れて誰もが例外なく日に焼け、徐々にこの国の男たちに似た肌になるのだから
では一体、この男は誰なのだろう…

ふと目を凝らして見れば、男のすぐ近くの木の枝に本人の物と思しき衣服が掛けられている

聖域の修業生や雑兵のものと似たボトムと…それと、何か少し変わった上着みたいな…

もう少し詳らかにそれを見ようとが木陰から身を乗り出した瞬間、泉に波紋を描き男がこちらに身体を翻した
…その場に固まったと、男の視線が真っ直ぐに重なる
を直視するその蒼い目の色までもが、驚くほどに淡い


「…あ、…えっと、その………。」


咄嗟の事に、は何と言って良いのかわからない
の背筋を、じっとりとした汗が一筋下った

まずい。これでは只の覗き見女と思われてしまう
…いや、確かに彼を覗き見していたのは嘘ではないけど…
そうだ!私はこの泉の管理人なんだから別にこれはおかしい状況じゃない…筈。

気を取り直したは再びその口を開き掛けたが、失ったままの言葉は到底出て来そうにも無かった
男が無言のまま面を伏せ、両の手で優雅に泉の水を掬い上げたからだ

…なんと白い手だろう。手だけじゃなくて顔も…

男の皮膚の、そのあまりの白さに再三感心しただったが、俄かにはっとした


「あのっ…その水は飲まない方が良いですよ。透き通ってはいますが、お腹を壊すかもしれない成分が入っていますから…!」


先程までの緊張はどこへやら。慌てて木陰からその姿を現し、は男のすぐ近くまで足早に歩み寄った


「…此処の水はとても温かい。」

「…え……?」


水面に向けていた顔を上げ、男はに向けて柔らかに笑んだ
近くで見るとがますます驚くほどに、男の顔立ちは端整極まりない
白磁の肌、緩やかなウェーブを描く灰を交えた白銀の髪。そしてアイスブルーの瞳
郷里の日本でも、此処聖域でも目にした事の無いほどにノーブルな……そう、まるで子供向けの絵本からそのまま出てきた貴公子
またしてもは続けて発するべき言葉を失ってその口をただぱくぱくさせた
サアッ
そんな二人の間を強い風が吹き過ぎた
男が衣服を掛けた木の枝から、ひとひらの葉がくるくると弧を描いて水面に落ちる
己のその白い腕(かいな)を軽く伸ばして枯れ葉を拾い上げ、男は今度は悲しげに目を細めて呟いた


「冬にも凍てつかぬ大地とは、ともしい事だ。」

「………?」


思いがけない言葉にが顔を上げると、男は憂いを潜めて再び穏やかな笑みを湛えた


「…ところで、私は何時この泉から上がれば良いのかな。」

「あっ、…ごめんなさいっ…!」


頬を朱に染めると慌てて背を向け、は更に両の手で自分の顔を覆った
それは決して己の視覚を遮蔽するためだけではない
…声が聞こえた訳ではないのに、後ろに立つ男が笑っているのがはっきりと分かる
ぱしゃり、と静かに水を掻き分ける音と草を優しく踏みしだく音が背越しにの鼓膜を軽やかにくすぐった

…ああ、恥ずかしい………男の人の裸に見とれてしまうなんて。しかも、仮にも禊中の姿なのに…!

しかし、人間は忘れよう忘れようと強く思うほど、なかなかうまく行かないもの
網膜にしっかりと焼き付いた男の体の見事なまでの造形美と端正な面立ちが、の脳裏にちらついて離れない
は小さく頭(かぶり)を振って、湿り気を帯びた空気をゆっくり吸い込んだ

…泉守にあるまじき煩悩だわ…!


「その目を覆わずとも、後ろを向いていれば見えないのではないか。」

「…!?」


すぐ背後から声が届いたのに驚いてが咄嗟に振り向いた拍子に、鼻が白い壁にぶつかった
視線をゆっくりと上になぞると、幾重にもドレープを描く絹布がの視界を真っ白に染め上げる
風の流れを捉えて揺れるそれは男の頑健な肩から伸びて胸を経由し、背後まで続いていた
丈の長い上着から伸びる長い足は、シンプルなボトムに覆われてはいるものの、形良く引き締まっているのがその布越しに十二分に感じられるだろう
何れにせよ、見た事の無い衣服に見た事のない容姿。はまじまじとその姿を見詰めた


「あの…貴方は何方ですか…?」


男は無言のまま一つ肩を竦めて見せると、クルリとその長身を翻した
ふわり、と衣服のドレープが風をはらんで舞う
木々の合間に泉の形をそのまま繰り抜いたように広がる青空を見上げて、男は眩しげに太陽を目で追った
色素の薄い瞳を瞬(しばた)かせ、時刻を読む


「じき、拝謁の刻限のようだ。これにて失礼する。…泉守殿。」

「……、です。」

「…そうか。」


この男(ひと)、どうして私の事を泉守だと知っているのだろう
…それ以前に、「泉守」の存在を知っているのも気に掛かる

一向に名乗らぬ男に自分の名を告げながら、は男の広い背に訝しみの眼差しを投げつけた
…暢気に仕事をこなしているように見えても、も聖域の立派な構成要員である
そんなの気配を読んだろう、男はフフ、と肩越しに不思議な微笑を浮かべた


「私は敵ではない。だから何れ貴女にはまた会う事になろう……。」

「………?」


謎めいた台詞だけを残し、サクサクとまっすぐ草を踏みしだきながら男は木々の間に消えた
男の背中が見えなくなるまでたっぷりその後姿を見送った後も、は暫し黙したまま泉の畔(ほとり)に立っていた

…何れまた、って…どう言う事かしら…


「…!?」


キラリ。
何時の間にか頂を極めた太陽が投げ掛ける光に、すぐ足元の草叢が微かに反射した
はその場に跪き、丈の短い草を両手で掻き分ける
…まだ青みを帯びた草の根元に隠れるようにして置いてあったのは、金色の光を放つ短剣だった
その鞘にはびっしりとそれは見事な彫刻が施されており、中心に青い石が一つ埋め込まれている
束にも鞘と揃いの細密な紋様が刻まれ、それによって滑り止めの役割も果たしているようだ
カボションにカットされた鞘の青い石がギリシャの太陽を含み、幾筋もの条光を発する


「綺麗……。でもこれ、あの男(ひと)の忘れ物じゃないのかしら?確か昨日は此処には無かったけど…。」


それは、貴公子然としたあの男にはまさに相応しい豪奢な持ち物かもしれない
は手に取った短剣の束を右手に持ち、もう片方の手でスッと鞘を抜いた
金色の鞘から姿を現した剣の部分は、一点の曇りも無く白銀に反射した
基本的に武器の所持を認めないこの「聖域」の世界でが見掛ける武具と言えば、聖闘士に値しない雑兵たちが持っている矛や槍くらいのものだ
ましてや、自分の生まれ育った国では厳しい法律の下、銃火器や刀剣の類は厳重に管理され、のような常人の目に触れる所にはそれらは存在しない――したとしても、博物館や台所の包丁くらいのものだろう
…初めて間近にした宝剣の、なんと美しく恐ろしい事か
キラリ、と鋭い光を放つ刃の部分を覗き込んでは溜息を一つ落とし、刃を裏返した
表と同様、裏もしっかりと磨き抜かれ燦然とした光を放っている


「…あれ…?」


…良く見ると、剣と束の継ぎ目の部分に何かが彫り込まれているのには気付いた
紋様と異なり、少々荒々しく刻み込まれていたのはどうやら文字のようだった
剣を逆の手に持ち換え、が右手の人差し指で文字列を一文字づつゆっくりとなぞる


「S・i・e・g・f・r・i・e・d、………ジーク…フリート……。」


…ギリシャより遥か北方を意味する響き。それがその男の名だった






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