人間は、当然の場所に当然たる物がある場合、それに対し毛ほどの注意も払わない
  意識の喚起はつまり、何らかの違和感を抽出する事に他ならないだろう
  いつもと同じ場所に相応しからぬ物体を発見した時に抱く違和感と、また逆の場合――見知らぬ場所で馴染みのある物体を見付けた場合――のそれとの何れがより強いのか、
  それはまだ詳らかには解明されていない
  …だが、後者の場合、そこには幾許かの感傷染みた感情が発生する事が多い
  人はそれを『郷愁』と呼ぶ







Gaze into the haze








  生憎の荒れ模様をそのまま映し、カテドラルの内部は薄暗く静まり返っていた
  それもその筈である。外界の光を最大限取り込み反映させることで神聖な空間を演出する構造を持つ聖堂は、それ故に悪天候の日や夜間には打って変わって不気味に感じさせる脆さをも併せ持つ
  球形に切り取られた仄暗い空間の奥には、直立する大きな十字架が鈍い金色の光を放ち更に不気味な雰囲気を醸している
  閉ざされた扉を背に、男はコツコツと足音をわざと響かせ絨毯の脇を進んだ

  彼に取って、暗闇は決して恐怖ではない
  …寧ろ他者が恐れるこの状況こそ、それ故に彼に取っては一つの快感であると言っても良いだろう
  その証拠に、男は口の端を微かに上げて薄ら笑いすら浮かべている

  男は俄に足を止め、目を凝らすとやがて形の良い顎に片手を掛けた


  「…ほう、こんな国<ところ>でこいつにお目に掛かるとは思いもしなかったが。」


  独りごちる男の低い声が聖堂の内部に拡散し、すっと吸い込まれて消えた
  …彼の視界の先、重苦しい光を放つ十字架のそのずっと奥には、一枚の絵画が仰々しく下げられている
  髭を生やし、胸から血を流した痩身の男を描いたそれはフレスコ画と呼ばれる独特の平面的なタッチにより構成されており、宗教色を帯びる場合には別名でイコンと呼ばれる事もある


  「世界中、何処に行っても有名人とは結構な事だ。」


  ……くだらん。

  内心、至極冷淡な感想を吐き、男はふいと視線を背けた
  彼の正面にあるそのイコン以外にも、堂内には別の人物を描いたと思しきフレスコ画が点在していた
  中には幼子を胸に抱いたうら若き女性の作品も掲げられている
  母親の理想像と目されるその女性の表情は仄かな憂いを含み、見る者に無上の慈愛を感じさせると言うが、目の前に立つ男に取っては今更何の感銘も生じさせはしなかった

  母親など、何程の事がある。
  己の子供が成長した暁にはただ疎んじられるのみ。

  母を知らぬその男には、憂い顔の女性もその胸の中で安らかに眠る幼子も、ただ苛立ちを感じるだけだ
  苦々しさを露に、男は両の腕を軽く組んだ



  「…何かお悩みですか?」



  突如、閉ざされたはずの後背から声が届き、男は僅かに身構えつつ振り返った
  何の気配も感じさせずこの男の後ろを取るなど、常人には成せぬ業であったからであるのだが
  …声の持ち主は、ある意味常人ではなかった
  大部分の黒と、僅かな白。モノトーンのみにより構成された衣服を纏った一人の女性が絨毯の上に立っていた
  修道女と思しきその女はまだ幾許かの若さが残り、重暗く古めかしいこの聖堂には酷く不釣合いに思えて男は眉を顰めた
  男のその訝しげな表情に臆する事も無く、女性は目を細めて笑みを浮かべた


  「…悩みなど、無い。」


  目の前の女性の笑みとフレスコ画の女性の笑みが妙にシンクロする事に男は更なる苛立ちを抱き、短く吐き捨てると背を向けた
  聖堂の入り口側に立つ修道女に背を向けると言う事は、十字架越しに男性のイコンを正面に見据える体勢に戻る事になる
  漆喰の上から水彩で描かれた黄色基調の絵画を暫し凝視し、男は背後の女性に一つだけ付け加えた


  「東の果てのこの国にも、正教会は沢山あるのか?」


  一旦は拒絶とも思える態度を示した目の前の男が、今こうして一つの問いを発したのは良い兆候かもしれない
  修道女は男の背後でニコリと笑んだ


  「…いいえ。この国にある教会は、殆どがカソリックかプロテスタントのものです。私達の教派は、残念ながら数えるほどの教会しか持ちません。」

  「………そうか。ではこのイコン自体がこの国では非常に珍しい物と言う訳だ。」

  「そうですね。このイコンも随分昔に外国で描かれた物だと伝え聞きます。」


  イコン表面の漆喰のひび割れは、この絵が風雪に耐えた何よりの証であるのだろう
  男は再三フレスコ画にその視線を傾けた
  ………それは、彼に取っては実に珍しくも何とも無い物体であった



  ――東方教会。
  この国では馴染みの薄いその単語は、宗教用語に分類される
  ユダヤ人イエスに始まるキリスト教は、紀元1〜2世紀にユダヤの土地より徐々に西に浸透し、やがて帝政ローマ全体に波及した
  多神教文化であるが故にしばしば彼らを狂信的として罰する事のあったローマ帝国も、313年時の皇帝コンスタンティヌスが遂にキリスト教を公認するに至り、
  一定の宗教的市民権を得、以後は布教活動も盛んに行われるに至る
  395年の東西ローマ分裂、476年の西ローマ帝国滅亡後もキリスト教はヨーロッパ全域に広まり続けたが、
  8世紀初頭に旧西ローマ帝国部で布教の為に使用していた偶像の可否を巡り東西で論争が勃発し、長い争いを経て遂に1054年に教会は二つに分裂した
  以後、ローマに基を置く西方の教会はローマン・カソリックと呼ばれ、逆に東ローマ帝国の都コンスタンティノープルに本部を置く東方の教会はオーソドックス(正教)と称するに至った
  現在、正教はロシア正教、ギリシア正教、セルビア正教など国単位で呼称される事が多いため、これを総称して東方教会と呼ぶ
  カソリックとオーソドックスの境界線は、旧イリリア・ダルマティア地域であるスロヴェニア・クロアチアあたりと目して良いだろう
  そして、歴史的にはよりオリジンに近い東方教会では、教義や信条についてカソリックと異なる点が多い
  カソリックでは当然の事とされている原罪論の存在自体が見られない点や、キリストに人格を認める点、また一部を除いて聖職者の妻帯を認める点などがそれに含まれるが、
  一番有名であるのが東西の争いの根源となったキリストの立体像の拒絶であろう
  偶像論争が巻き起こった当時には一切の像の使用を禁じた東方教会だが、9世紀以降は絵画、つまり二次元像に限りその使用を認めて今日に至る
  ………故に、キリストや彼を抱くマリアの二次元像であるイコンを祀るこの聖堂は、東方教会の教会である事が判るだろう
  なお、日本では歴史的な経緯から国内の東方教会の事をロシア正教と呼ぶ事が多い
  東京のニコライ堂などが正教の教会としては有名である



  「…差し詰め、帝政ロシアあたりで描かれたイコンか。」

  「よく御存知ですね、カノンさん。」


  修道女に名を呼ばれた男は肩越しに頭部だけ振り返り、整った眉根を寄せた
  逞しい肩のラインに長い髪が掛かる


  「…何故俺の名を知っている。」

  「ギリシャから今日、代理人がいらっしゃると伺ったものですから。」


  驚いた様子のカノンを前に、修道女は謎解きの答えをその一言で示して見せた
  ――ヘブライ語のメシアをギリシャ語に訳したものである『キリスト』と言う表現でも判る様に、ギリシャは正教徒として非常に古い歴史を誇る国である
  元来がディアスポラ傾向の強い海洋民族であったが故であろうか、二世紀前後にローマ帝国領内でいち早く東からキリストの教えを輸入し、受け入れたのはギリシャ人であった
  彼らは今現在でもその歴史を誇りにしており、故に敬虔な正教徒であると言う一つの事実は世界中のキリスト教国に知れ渡っている
  ……日本人とは言え、列記とした東方教会の修道女であるこの女性が一連の会話でピンと来るのも道理であろう
  なるほどな、と言わんばかりにカノンは軽く頷き、イコンの前で組んでいた腕を解いた


  「それに、『悩みの無い人』は日曜でもないこんな日に教会になど足を運ばないでしょう?」


  修道女が少し可笑しげに首を傾げて笑う
  カノンはギロリと彼女を睨め付けたが、やがて肩を竦めて見せた


  「確かにその通りだな。…名は?」

  「、と申します。この修道院の修道女を務めております。」

  「だろうな。その出で立ちで修道女ではなかったら妙だろう、シスター・。」

  「『シスター』は付けなくても結構ですよ、『悩みの無い方』は。」


  上手くやり返したつもりがさらに見事に返されて、カノンは再び沈黙に落ちた
  穏やかに笑うを前にたっぷり一分近く黙し続け、カノンはようやく口を開いた


  「…で、俺に用事があるのは此処ではないだろう。」

  「そうですわね。…では参りましょうか。」


  が先導する形で、二人は聖堂の入り口に向かって歩き出した
  扉に差し掛かると今度はの方が肩越しにカノンを振り返り、感慨深げにその双眸を細める


  「このような小さな教会にまで恵みを与えてくださり、城戸沙織様には本当に何と感謝申し上げたら良い事でしょう。」

  「…慈善家とは得てしてそんなものだ。今更仰々しく礼を述べるまでもあるまいよ。」


  クッ、と何とも皮肉な笑みを洩らし、カノンは喜びに紅潮したの横顔をチラと見遣った
  はカノンのその言葉に対し幾許かの困惑を交え、眉尻を下げて笑う


  「…でも、こうして今日此処に無償で来てくださったのは貴方でしょう?貴方の裏(うち)なる神も、きっと喜んでいらっしゃいます。」

  「………神など、この俺には必要無い。俺は上から言われて此処に来たまでの事だ。」


  ――『神』。その単語を耳にするや、不快を露にカノンはにべも無く撥ね付けた
  いや、不快をも越えた……そう、怒りに似た感情が彼の内部を隈なく蹂躙しているのだろう
  再び拒絶されたは愁眉を寄せ、ただ押し黙ったままカテドラルの古い扉を外に向け押した
  掻き曇った冬空は昼間にも拘らず暗く、とカノン、二人の間を氷の様な雨が虚しく隔てた





××××××××××××××××××





  話はこれより数日前に戻る
  ――ギリシャ・聖域。
  古より女神アテナを庇護神と奉ずるこの組織には、護りの要として十二の宮殿とそれを守護する戦士が各々に配されている
  牡羊座から魚座までの十二の星座を冠した宮殿には、同じ名称を持つ黄金聖闘士と呼ばれる男たちが駐在する決まりだ
  …無論、彼らは常時自分の宮殿に張り付いている訳では無い
  ある者は何がしかの任務を帯びてどこか別の場所に赴いている事もあれば、また別の者は宿直として最上部に聳える女神神殿に控えている場合もある
  要は、聖域の守護に必要な最低限の人数が揃っていれば良しと言う事であろう
  何せ、彼らはこの地上に100人近く存在する屈強の聖闘士の、そのまた頂点に立つ実力の持ち主であるのだから
  特に、総ての聖戦を終え、地上を始め海界も冥界も凪の如く静まり返っている今現在のような“平時”においては尚の事である
  …勿論、この“平時”が恒久ならざる物であるのは総ての構成員が理解しているのであるが

  その十二の宮殿を入り口から数えて3つ目、双児宮
  この宮殿においても上で述べた事情には大差なく、サガと言う名の正式な守護者は目下、教皇代理として女神神殿の直前に控える教皇宮殿に詰め通しであった
  故に、守護神女神はサガの双子の弟であるカノンを専らこの宮殿の守護に当たらせている
  兄であるサガ同様、このカノンにも嘗てはこの聖域に弓引いた過去が付き纏っている
  だが、此処ではそれを口にする者は居ない。……少なくとも表立っては
  ――諍いの後には罪を犯した者さえも許し、組織の構成員として迎え入れる。
  所謂『寛容(クレメンティア)』の精神は、女神の掲げる尊ぶべき精神の最たる物であるのだから


  ギリシャの冬は大抵の地方で湿度が高く、滅入る様な雨の日が多い
  この日もその類に漏れず、聖域はどんよりとした厚い雲に覆われ、朝から小雨がしのついていた
  昨夜から一向に止むところを知らぬ雨音で目覚めたカノンは、朝食を取ろうともせず双児宮の自室の椅子に腰を下ろして小さな本のページを捲っていた
  …いや、本は決して小さくはない
  ただ、それを手にする男の身体が丈高く屈強であるため相対的に小さく見えるだけだ
  本は、今それを手にする男の物ではなかった

  此処双児宮の膨大な蔵書――他宮と比べて、の話であるが――の数々は、少数の例外を除いては男の兄であるサガの物である
  陰と陽、相反する両極の様にこの双子の持つ特質は多くの面で異なる
  読書に対する態度もその一つで、様々な分類の本を好む兄に対し、弟のカノンは読書自体を疎んじる傾向が幼少から見られた
  多くの行動について、型から入るのを幼少時より好む兄はまず資料を得る事――つまりは書を読む事である――から始める場合が多かったが、
  カノンは逆に己の体で動く事から始める事が多いため、自然と書物に接する必要を然程感じずに育った
  …もしかすると、兄と同じ行為を踏む事自体が疎ましかっただけかもしれない
  勿論、子供の頃ならいざ知らず、大の大人になった男が今以て全く書に触れぬ訳は無い
  双児宮をこうして共有するようになった現在では、カノンの所有する書物もそれなりの量に達している
  ただ、兄の蔵書量が傍目に非常識なまでに多いだけであった

  ――閑話休題。
  カノンが今ぱらぱらとページを繰っている本は、兄の物である所まで述べた
  随分と年季の入ったその本は、子供が開いたならばかなり大きく見える代物だ
  それもその筈で、それは子供向けの本であったからである
  『クリスマスキャロル』。それがその本のタイトルだった
  150年以上もの長きに渡り世界中の子供達に連綿と読まれ続けているこの本は、ヴィクトリア時代を代表する英国の文豪・ディケンズの手に成るものである
  タイトルが示す通り、中身はクリスマスにまつわるストーリーであるのだが、此処で「女神奉ずる聖域の住人が、異教の慣習に基づく本など読む事を許されるのだろうか?」と至極適切な疑問を抱く人もいるかもしれない

  ――キリスト教やムスリムなどの所謂「一神教」と異なり、「多神教」とはそれ自体がより多くの神の集合を意味する存在であり、故に他教の神の存在を真っ向から否定・排除するものではない
  何せ、多神教の価値観では「護ってくれる神は多ければ多いほど良い」のであり、断じて「私以外の何者をも神と認めてはならない」訳ではないのである
  身近な例で考えてみれば、我々日本人もまったく同じなのだ
  『キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝ってバカ騒ぎをするなど、狂気の沙汰も良いところだ』と思うクリスチャンは多いだろうし、
  自身はクリスチャンでなくとも一神教の教義や習慣に理解を示す日本人の中には同様に思う人もいるだろう
  …だが、古来より日本人の価値観は多神教文化に基を置くのだ
  つまりは、他の宗教の神の存在に対してほどほどに寛容なのである。キリスト教に対してもその例外ではない
  故に、キリスト教そのものには例え帰依しなくとも、その祝日の一つくらい一緒に祝ってみても罰は当たらないだろうと考えても別段おかしな事ではないのではないか
  …無論、これは一神教文化で育った人にはそれこそ絶対に理解できない概念であるのだが

  話が再び脱線気味になったが、此処聖域を治める女神の説く教えもまたこの多神教文化に基づいている
  何せ、黄金聖闘士の中には仏の教えを説く者までその存在を許されているのだ
  従って、まだ幼かったサガがクリスマスキャロルを熱心に読んでいても、それを咎める者はこの聖域には存在しなかった
  おそらく、彼は毎年クリスマスの時期になるとこの本を読み込んだのであろう
  タイトルだけ聞く分には楽しそうな話に思えるこの作品は、随分と重暗い短編である
  まずもって強欲な老商人が主人公であるだけでなく、彼の前に3人のクリスマスの精霊が次々現れては彼の過去・現在・未来を見せてその生き方を改めろと戒めるのだから、
  愉快な要素はまず感じられない
  …今現在のサガの性格や行動から考えると、ある意味彼が好みそうな話ではある


  「………くだらん。」


  最後のページを捲り終えたカノンは、心底つまらなさそうに本を閉じてポイ、と近くの机の上に放り投げた
  本の脇に置いていたマグカップに手を伸ばすと、まだほんのり温かいコーヒーを一口だけ含み、カップをまた机に戻す


  「精霊とか言う小煩い存在にわざわざ自分の生き方を説教されるなど、俺は真っ平だがな。」


  …そもそも、この老人が精霊に責められる程悪い人生を送っていたとも思えん
  生業の商売とて、結局は欲する人の許に必要な物を届ける立派な仕事ではないか。まさかそれが悪魔の職業だとでも言うのか?
  多少あこぎな方法で商っていたとしても、最終的にはそれによって文明的生活を維持できた者は必ず存在しているのだ
  さもなくば、彼の商売が仕事として成立する筈はないのだから。…需要なき所には職業は成立しない
  彼の扱う商品を手に、喜ぶ人々の顔を思い浮かべてみれば己の人生にわざわざ罪悪を感じる必要もないだろうに

  カノンは渋い表情で再び本を手に取った
  徐に開いたページの右側には挿絵が入っている
  …それは『未来のクリスマス』の精霊が、おそらくこの老人と思しき人間が何年か先に迎えるらしいクリスマスの光景を夢の形で見せている構図であった
  この老人と思しい、と言うのは、その人間は何らかの原因でクリスマスに死し、すでに遺体となってシーツに包まれているからである
  遺体は見るも無残な状態で衣服は日雇いの女に剥ぎ取られ、身の回りの物は総て盗まれ浅ましい古物商がそれを捌いている、そんな恐ろしいシーンが克明に描き出されている
  …そして、夢の中で自分の墓標を前にする老人の姿
  自分の身に置き換えて考えてみたら、読者の誰しもが自分の過去の罪を思い起こして後悔の念に囚われるであろう、非常に見事なストーリー運びである
  …だが、残念ながら今このページを前にしている男だけは違った
  冷ややかな眼差しで墓標のシーンを睨み、カノンは口の片端を上げて薄ら笑いを浮かべた


  「死んだらそれで終わりだ。…なまじ死後の世界など信じるから、ありもしない影に怯える羽目になる。
   自分の遺体から衣服を剥ぎ取られようが、自分の持ち物を盗まれようが、死んだ本人の知った事ではないだろうにな。」


  少なくとも墓標は立てて埋葬してもらえているのだ。それで充分ではないか
  持ち物などそもそも死した身には必要ないだろうし、それを片付けるのが盗人だろうが自分の子孫だろうが大した変わりはあるまい
  寧ろ、なまじ財があって子孫がいるがために災禍を招いた者の例は古今後を絶たない
  …サガも実にくだらん本を愛読していたものだ

  カノンは再び本を閉じ、机に置くと居室の窓から外を眺めた
  しとしとと降り続く雨は、一向に止む気配を感じさせない


  「鬱陶しい。」


  …外の天気も、この本も。

  元来が薄暗い双児宮が、益々以て陰鬱且つ息苦しく思え、カノンは苛立たしく椅子を立った
  気晴らしに外の空気でも吸いに行こうと思っているのだろう
  生憎の雨模様とは言え、外は宮殿内よりは遥かに新鮮な空気に満ちている筈だ
  居室の扉に足を向け、ドアを開こうとしてカノンはその場に立ち止まった
  扉の向こうに人の気配を感じたからであった


  「入るぞ。」


  ドアの向こうからは、カノンも能く知った男の声が届いた


  「ああ。」


  カノンが気のない言葉を返すと同時に扉は開き、其処にはカノンが先程まで読んでいた本の持ち主が立っていた
  教皇代理の任を務めるが故に漆黒の法衣に身を包んだ兄が、粗末な衣服の弟を一瞥する


  「何をしていたのだ、カノン。」

  「…別に、何も。」


  兄の口調は、断じて弟を嗜める類の物ではない
  だが、言葉を掛けられた方はただ自分が詰問されてでもいるかの如くに感じたのだろうか、素っ気無い返事をしただけでふいと背を向けた
  仕方なく弟の背を眺めていたサガの視線が、机の上にある一冊の本を捉える
  話をそらで語ることが出来るほどに読み込んだ懐かしい本を弟が今の今まで読んでいた事に気付いたサガは、ふっと口元に柔らかな笑みを浮かべた
  その空気を察したカノンが背を向けたまま兄を咎める


  「…で、一体何の用事だ。」

  「カノン、折り入って貴方に用事があるのはサガではなく、この私なのです。」


  後背から届いた女性の声にカノンは肝を冷やし、すぐさま振り向くやその場に跪礼した
  目の前に立つサガの強靭な身体の後ろから、聖域の「神」が小柄なその姿を現した
  俯けたカノンの口から、常の不遜を百里先に追い払った神妙な声音が発せられる


  「我らが女神におかれましてはご機嫌麗しく。」

  「免礼。」

  「…しかし、わざわざこの双児宮まで御身を煩わせるなどなさらずとも、私の方こそ御身の御前に参じましょう程に。」

  「良いのです、カノン。顔をお上げなさい。」

  「…御意。」


  やや俯きがちなカノンの視線が、女神のそれとぶつかった
  慈愛に満ち満ちた笑顔を浮かべた少女の姿をあまり正視せぬ様、カノンは細心の注意を払いつつ頭を再度俯けた
  女神の後ろに立つサガがどこか満足げに弟のその様を見遣る


  「カノン、実は貴方に頼みたい事があるのですが、聞いてくれますか?」


  女神の発言はカノンの意向を尋ねる形ではあるが、この聖域ではそれは命令を意味する
  少なくとも、言葉を投げ掛けられた方はそう受け取るのが当然なのだ


  「御意。…何なりと。」


  選択の余地の無い返事をしたカノンに、女神は近付いてその手を取った
  刹那、ビクリとカノンの身体が硬直したのは、彼に同様の経験があまり無いからであろう
  女神はニコリと微笑み、その大きな双眸でカノンを見詰めた


  「今日こうしてお願いに上がったのは、ごく私的な用件なのです。ですから敢えて女神神殿に来ていただくのではなく、私からこちらに来させていただきました。
   …カノン、今は何月でしょうか?」


  「……12月ですが、それが一体…。」


  話題が急に飛び、カノンは話がよく判らないと言った風情で俯けていた顔を上げるとその秀麗な眉を顰めた


  「そうです、今年も残り僅かになってしまいました。
   …私共のこの聖域では馴染みの少ない話ですが、世界の多くの地域ではこの時期、クリスマスを祝う習慣があります。」

  「存じております。」


  生真面目に返すカノンに対し、女神は少し可笑しげに口元を緩めた


  「そうでしょうね。このギリシャも、聖域以外の地域はキリストの教えを護る敬虔な人達の国ですから。
   此処を一歩出ると、実に沢山の教会がある事に驚かされます。
   しかし、奉ずる神は異なれども、彼らの説く人の善なる心を信じる教えは私共と何らの違いもありません。」

  「……は。」


  …それで、一体何の話なのだろう。
  カノンは内心少々じれったい思いを抱きつつ、女神の次なる言葉を待った
  その心情を酌んだのだろう、女神は話を更に一歩進めた


  「私の育った日本でも、クリスマスを祝う習慣が根付いています。
   彼らの大部分はキリストの教えを護る人達ではありませんが、それはこの聖域同様、数多の神々を受け入れる土壌を持つためです。
   …勿論、キリストの教えを受け入れた人達も生活しています。
   日本では、多くの孤児院が彼らキリスト教の教会と共にあり、そこでは身寄りの無い子供たちが小さな身を寄せ合って暮らしているのです。」

  「はい。」

  「そこで私は、毎年この時期になると彼らに小さな贈り物を届け続けているのです。…女神としてではなく、あくまでも城戸沙織一個人として。
   しかしながら、総ての孤児院に贈り物を届ける事は残念ながら不可能です。ですからせめて、年毎に一つの孤児院を選び順にプレゼントをするのです。」

  「…判りました。つまり、この私は日本に赴けば宜しいのですね。」


  チラ、とカノンは女神の目を見た
  随分と長い前置きが話に挟まるのは、専ら発言者の意図を聞く者に悟ってもらうためである
  一連の会話もその類に漏れない
  女神は、自分の真意を察し短い返答を以てそれを了解してくれたこの男に対し、深い感謝の意を込めて笑い掛けた


  「一個人の立場としては聖域を離れる事の出来ない私に代わり、どうか宜しく頼みます。
   今年選んだ孤児院には…つまりその孤児院を管理する教会には、既に連絡が行っている筈です。
   後は、あちらで教会の方と会っていただく事になると思います。」

  「…仰せのままに。」

  「昨年は私が代理で日本に参ったのだ。なかなか良い国だった。」


  女神の後ろに立つ法衣の男が一つ付け加えた
  フン、と鼻で軽くあしらい、カノンは男の存在を隅に追い遣る
  その様子をただ黙って見ていた女神は表情に僅かな憂いを加えたが、握っていたカノンの掌を自分の鎖骨に当てるとゆっくりと頷いた


  「この件はあくまでも私用ではありますが、きっと貴方に取って良い結果になると確信しています。
   くれぐれもよろしくお願いします、カノン。」

  「過分なるお言葉、この胸に刻みまして。」


  恭しく答えたカノンの脳裏には、まだ見ぬ国のクリスマスの光景が曖昧に浮かんでいた
  想像の中の心底幸福そうな家族や子供達の笑顔に先程まで読んでいた本の内容が重なり、カノンはえも言えぬ苛立ちを胸に抱くのだった







<BACK>          <NEXT>