真、『清貧』に似つかわしい。

  前を行くにより開かれた、その扉の向こうに広がる空間を目の当たりにしたカノンは至極簡潔な感想を胸の裏(うち)に抱いた
  子供達の園に相応しい色とりどりの玩具や遊具などは一切存在せず、大きな木製のテーブルの周りに数多くの簡素な椅子が置かれている。ただそれだけだ
  凡そ、此処に初めて足を踏み入れた大人なら大概は驚きを隠し切れないものであろうが、背後の大男にはその種の表情が見られない事に、逆にの方が軽い驚きを抱いた
  …それもその筈である
  が知らないだけで、彼女の後ろに立つ男も目の前の空間とさして変わらぬ環境で育ったのだから


  「…それで、肝心の子供達は何処に居るのか。」

  「今は近くの小学校や中学校に行っている子が殆どです。
   貴方の国とは異なり、この国では教育が無償なのは中学までですから、私共の孤児院の子供達は基本的には中学までしか通わさせてあげられないのです。
   …中には、奨学金を頂いて高校に上がる子供もおります。」

  「つまり、慈善家のお心次第、と言う訳か。」

  「神のお恵み、と呼んで下さい。」


  と横並びの位置に立ったカノンは、詰まらないと言った風情にフッと息を漏らし、やがて腕を前に組んだ
  それは、静か過ぎるこの空間に於いて一つの事に気付いたからであった


  「小学生や中学生の学齢の子供は良しとして、それ以下の子供は居ないのか。」


  は横に立つカノンを見上げ、ふふ、と笑いを洩らした
  暗に気付くのが遅すぎると言いたいのであろうか
  揶揄されたと受け取ったカノンが横目を僅かに細め睨むと、も居住まいを正しテーブルの向こうを指した


  「幼子には常に休息が必要ですわ。」

  「…シエスタか。」


  おそらく、の指す隣室は子供達の寝室なのだろう
  はニコリ、と例の慈悲深き笑顔を浮かべ、そっと前へ足を滑らせた
  寝室の戸口まで来ると身を翻し、無言裏にカノンを手招きする
  ミシ……ミシ…
  木製の床は大男の歩くその重みに耐え兼ね、僅かな非難の声を上げた
  …本人はこれでも至って静かに歩いているつもりなのだ
  つまり、余程この建物が古いと言う事だろう

  女神もクリスマスの贈り物などとケチな事を言わず、どうせなら孤児院の改築費用でも捻出してくれたら良かろうに。
  …まぁ、本人がこの現状を目にしたならば、おそらくはそうするだろうが…。

  主たる『神』に対し内心何とも不敬窮まる考えを抱きつつ、カノンは極力音を立てぬ様そっと戸口に近付いた
  が扉のノブに手を掛け、ゆっくりと回す
  遠慮がちに半分ほど開かれた扉の向こうには、10人ほどの子供達が横たわっていた
  一瞥したところ、子供の年の頃には少しばかりの開きがあるようだが、どの子供も一様にぐっすりと眠っている
  毛布から体を大きくはみ出した子供の姿を捉えたがそっと室内に入り、元通りに毛布を整えてやる
  文字通り安らかな表情で眠る子供達と、それを見守る
  この日何度目かのチリチリした苛立ちを感じつつも、カノンはどうしてもその光景に背を向ける事が出来なかった


  「…よく眠っているでしょう?これでも昼過ぎまではこの部屋が狭く思える程に遊び回っていたのですよ。」


  子供達の側から離れ、そっと扉を再び閉ざした後では小声で話し掛けた


  「ほら、今日はこの通り天気が良くないでしょう?何時もは外を駆け回っているから、雨の日は余計に力が有り余っているみたい。」


  のその言葉には返事をせず、カノンは窓を叩く雨をじっと見遣った

  故国の冬と同じく、この国でもまた冬は鬱陶しい雨模様が続くのだろうか
  日本に来る直前に調べた資料では、乾燥した冬が訪れる国であると書いてあった筈だが

  カノンが殊更に気候の事など考えてみたのは、内心の苛立ちを鎮めるために他ならなかった
  外に向けられたままのカノンの横顔をはじっと見詰め、その襟元に隠されるようにして下がる一つの物体に気付くと俄にはっとした
  『神』を信じない――いや、おそらく憎悪していのであろう――この男に凡そ似つかわしくないそのモチーフは、子供の暮らす空間としては相応しからぬこの殺風景な部屋と同じく酷く異質に映る
  だがは見ぬ振りを決め込み、モノクロの衣服に包まれた身体をクルリと翻した


  「折角ですからお茶を入れましょう。今日は少し冷え込みますしね。
   …コーヒーの方が宜しいかしら?」

  「…ああ。」


  カノンは相変わらず窓辺を凝視したまま、気の無い返事を寄越した
  は銀色に鈍く光るケトルに水を入れ、コンロに火をくべると脇の食器棚の前に立つ
  コーヒーは子供の飲み物としては些か不適切である
  それ故、戸棚の一番高い所に隠されるようにして置かれたコーヒー豆の袋には手を伸ばした
  教会ほどではないが、やはり天井が高く造られている孤児院の戸棚は思いの他大きく、高さもかなりの代物だ
  が懸命にその腕を伸ばしても残念な事に僅かに足りず、踵を浮かせて距離を稼ぐ
  あと少し。もう少しで手が届く
  は更に爪先立って手を伸ばした
  …当然の事ながら、この状態では棚を探る己の手元が見える筈は無い
  コーヒー豆の紙袋らしき物にようやく手が触れたと思った矢先、の手の甲の端が何か固い物に当たり、その位置が俄にずれた


  「………あっ……。」


  次の瞬間、の身体はひやりとした何かに包まれていた
  爪先立っていた筈の足先は両方とも完全に宙を漂っている
  後ろを振り向き掛けたの項が、斜め上に突き上げられたカノンの逞しい二の腕にぶつかり、そのままの状態で留められた
  背後のカノンは片腕での身体を抱き締める形で持ち上げ、もう片方の腕で棚から落下し掛けたコーヒーミルを押さえていた


  「…カノン…さん…。」


  …己の胸の早鐘を、聞かれたくない。
  はこれまで経験した事が無いほどの胸の高鳴りを悟られまいと、背後で自分を抱く男の名を声に出して呼び掛けた
  だが、それでも隠し切れぬ鼓動がカノンの身体に流れ込む
  カノンに自分の浅ましい高鳴りが伝っている
  その確かな現実に、の脳裏が真っ白に染まり掛けた

  …チリリ…リ…
  自分を見失い掛けたの理性を再び呼び戻したのは、の耳元に届いた鎖の音だった
  カノンの胸に下がった敬虔なモチーフが、丁度の耳の近くに位置していたのであった
  モチーフのその形に無意識に反応してしまうのは、の聖職者たる所以であるかもしれない
  若干の強張りをその身に残しつつ、は再びカノンの名を呼んだ


  「カノンさん……あの、もう大丈夫です。」


  カノンはその呼び掛けに対し、無言でコーヒーミルを戸棚の奥に一旦押し遣るとの爪先を床の上に開放した


  「ミルが落ちて来そうだったんですね。危ないところをありがとうございます。」

  「物音で子供達を起こしたくないのだろう。…ただそれだけだ。」


  ミルを押さえていた腕でコーヒー豆の紙袋をひょいと掴み、カノンはにミルと共に手渡した
  そして戸棚の扉を元通り閉ざすと静かにテーブルに近付き、大人用の椅子に腰を下して足を投げ出す
  大男に相応しいその長い足をはただじっと見遣った
  無言の二人の間を、ケトルから上がり始めた蒸気の音が横切る
  …こうして湯が沸き始めるまでの、ただほんの数十秒の間の事であるのに、に取ってはその十倍程にも長く感じられた
  逐一思い出すと、カノンの胸のひやりとした感触までもがやけにリアルに蘇り、再び胸が躍りだしそうになる
  は話題を変える事に決め、戸棚の低い位置に仕舞い込まれたコーヒーカップに手を掛けた


  「…当日の24日は、学校に通っている子供たちもお休みなので全員が此処に集う事になります。そうですね…凡そ30人程度でしょうか。
   貴方は何時頃、此処にいらっしゃるのかしら?」

  「さあな。催し自体は昼間なのだろう。であれば、その時間に来る以外にあるまい。」

  「皆、とても楽しみにしています。今年、当院が城戸様の贈り物の順番に当たった事が、どれだけあの子達の励みになっている事でしょう。
   …親の無いあの子達には、ごく普通の家のクリスマスの光景すら遠い存在なのです。」


  のその言葉で、カノンはつい先日読んだクリスマスキャロルの内容をふっと思い出した
  …『ごく普通の家のクリスマスの光景』に縁遠い存在には、他ならぬ自分自身も含まれるのだ
  この場合のクリスマスとは、彼の育った聖域が多神教文化であるが故にそれを本式に祝った事が無かった事実を指すのではない
  宗教的な祝日でも誕生日でも、通過儀礼でも構わない。とにかく『何かを家族で祝う』と言う行為自体と無縁であった己の子供時代が、
  クリスマスキャロルの老商人やこの孤児院の子供達と奇妙にシンクロするのだ
  そして、何故かその彼らの後ろには聖堂で見たフレスコ画の聖母の姿があった

  …馬鹿らしい。『家族』など、俺は一度も必要と考えた事すら無いものを

  辺りに漂い始めたコーヒーの香りに鼻腔を順応させつつ、カノンはシャツの内に隠した銀の十字架を指先で弄んだ
  彼自身をじわじわと襲う苛立ちから気を紛らわせるためのその仕草は、無意識に彼が身に付けたものだった
  筋肉で厚く隆起した胸の谷間から敬虔なそのモチーフが時折姿を現す
  カップにコーヒーを注ぐ手を止めて、はカノンのその指先に視線を落とした


  「…貴方も正教徒なのですか?」


  至極真っ当なのその問いに対し、カノンははっとして手を止めると短く舌打を発した
  否、とだけ返答をしたカノンの表情には明らかに不快が滲んでいる
  触れてはいけない事を訊いてしまったと、は少し肩を落とした

  …そうよ、『神』など必要ないと、さっきこの男(ひと)ははっきりと言っていたじゃないの…

  己の軽率さに慙愧の念を抱いたのは、だけではなかった
  他人に心を覗かれるのを極端に嫌うカノンもまた、の前で自分の事を曝け出してしまった事に臍を噛んだ
  伏し目がちにコーヒーを注ぐを暫し凝視した後、カノンは短く息を吐くと重い口を開いた


  「この十字架は母親から貰った物だ。…当時の俺は赤子も同然で、全く憶えていないがな。
   母とはそれきりだ。顔すら知らん。」

  「…そうだったのですか。それは申し訳ない事を訊いてしまいました。どうか許してください。」

  「気になど掛けてはいない。憶えてもいないものを気にしても、栓の無い事だ。」


  カノンの今の話には嘘は無い様だった
  これまで彼から発せられた数々の言動も、それでこそ得心が行くと言う物だ
  『神』など、必要ないと。
  …だが、なんと寂しい話なのだろう


  「同情は真っ平御免蒙る。…俺は今まで己一人で生き抜いて来た。そしてこれからもそうする、ただそれだけだ。」


  の表情を横目で一瞥し、カノンはにべも無く言い捨てた


  「神の教えや慈愛を否定するつもりは無い。…だが、世の中の人間全員がそれを欲している訳ではないと言う事だ。
   俺の様に、そんな物など無い方が楽に生きられる人間も幾許かは存在する。」

  「ええ、それは判っています。人が迷い、救いを欲する時にだけ、我々は手を差し伸べるのです。
   …でも、本当に迷っている人ほど自分が迷っている事に気付かない事も往々にしてあるのかもしれません。」


  フン、とカノンは如何にも可笑しげに鼻で笑った


  「俺が迷っていると?」

  「…いいえ、そうは申しておりません。ただ、そのような方もいらっしゃると言うだけのお話です。
   貴方は強い。…きっと、想像を絶する多くの困難を自分自身で乗り越えていらしたのでしょう。それが貴方を強くさせているのでしょうね。」

  「随分俺の事を知った風に言ってくれるものだな。総てお見通しの聖職者様は、さぞご立派な親の薫陶を得たと見える。」


  形の良い唇の端を吊り上げ、カノンはアイロニックな笑いを浮かべた
  …見方に拠っては、皮肉を通り越して虫唾が走っている様子にも思えるかもしれない
  或いは、その双方である可能性もあるだろう
  当のは暫し黙していたが、やがて少し困惑を交えた不思議な笑みを見せた


  「私は…生後まもなく、この孤児院の前に捨てられていました。後日、親を探す手掛かりになるような物は一切携えられていなかったと聞きました。」


  …の口から零れたそれは、到底笑顔と共に話される類の内容では無い
  カノンは途端に色を失い、蒼い双眸を脇に伏せた


  「……それは…すまなかった。」

  「いいえ。確かに私は此処に捨てられてはいましたが、拾って下さった此処の院長でもある神父を始め、共に暮らす総ての人たちが今では私のかけがえの無い家族です。
   神は人間を善なるものとして造りたもうたのだから、きっと私を捨てた両親にも止むを得ぬ事情があったと、今ではそう信じています。
   そして、こうして此処で皆で支え合う事にこそ自分の生きる意味があると信じる、…私はそんな弱い人間なのです。」


  ゆっくりと穏やかに、だが確信を持って、は自らの思いをカノンに白した
  カノンはのその話に答える事すら能わず、言葉を紡ぐの横顔を、ただじっと苦渋を交えて見遣るのだった
  テーブルを挟んで向かいに座す二人の間をコーヒーの湯気が静かに流れ、喪われて行く温度と共に過ぎ行く午後の時を刻んだ





   ××××××××××××××××××





  クリスマスパーティーの当日、遂にカノンはその姿を孤児院に現さなかった
  施し主である城戸沙織が手配したのか、それともカノンが手配したのかは不明だが、立派としか表現し様の無いほど巨大なケーキやオードブル、
  飲み物などが次々孤児院に届き、子供達は一様に目を丸くした
  前日から子供達が部屋に施したと思しき装飾は、些か地味ながらも彼らの懸命な努力の痕跡が感じられて微笑ましい
  ささやかな装飾に反比例する豪華なパーティーメニューと喜びを隠せない子供達を交互に見遣り、は窓の外を振り仰いだ

  …カノンさんはどうして来ないのだろう…

  今や歓声に沸き立つこの部屋に、欠けているものが二つだけあった
  子供達へのプレゼントの包みと、それを届ける筈の男の姿である
  普段から慎ましい生活を送っている子供達はその事には気付いていない様子だったのが、に取っては唯一の救いでもあった
  だが、何れはその事にも誰かが気付くであろうし、そもそも施し主の代理人が現れずしてパーティー自体を始めてしまっても良いものか、とも気を揉んでしまう
  現に、子供達は目の前の七面鳥やケーキを一刻も早く口に運びたいとうずうずしている様がには痛いほど伝わって来るのだ


  「ねえ、シスター・。まだ食べちゃダメなの?」


  一人の子供がに疑問を投げ掛けた
  …時刻は昼を回っている。カノンに前以て告げておいたパーティー開始時刻からは、既に一時間強も過ぎていた
  彼がこの国の時間感覚に詳らかな人間でないとは言え、幾らなんでも来るのが遅すぎる
  それに、僅かな時間ではあるがカノンと実際に接触を持ってが得た感想では、カノンは時間にルーズな類の男には思えなかった
  は、カノンと過ごしたつい数日前の事を思い起こした
  『神』は必要ないと、忌々しげに吐き捨てたカノンの横顔がの心の片隅に突き刺さる
  この国の男にはまず見られない、文字通り彫刻の様に整った美しい横顔には深い憎悪の色が刻まれていた
  一体、何が彼をそうさせてしまったのだろう
  それを知る手掛かりを、彼は決して他人に見せようとはしない
  …母の事は憶えてもいないとに言った、たったその一言を除いては。

  偶然とは言え彼の心の裏(うち)を垣間見てしまった私を、彼は疎ましいと思っているのかもしれない
  …いいえ、偶然ではない。私はあの時、どうしてか彼の事を知りたいと、そう願ったのは紛れも無い事実
  彼のあの厳しい双眸の中に潜む、冷たく強い怒りの光に私は触れてみたかった
  きっと、彼はそれに気付いてしまったのだろう
  己の禁忌に触れようとする者を厭うのは、人間誰しも同じ事なのだから
  私は、聖職者としては失格に値する罪を犯してしまった
  ………きっと、カノンは此処には来ない。

  は、深い溜息を吐いた


  「シスター、どうしたの?何でそんな顔をするの?」


  傍らに立つ子供が、を見上げて不安そうに小首を傾げた
  はっとしたはすぐさま膝を落とし、子供の高さまで己の身体を屈めると何時ものにこやかな笑顔を浮かべた


  「いいえ、何でもありません。…ただ、これだけ沢山のごちそうでしょう、皆が食べ過ぎてお腹を壊してしまうのではないかと思っただけよ。」

  「あはは、変な心配するんだね。」


  …いけない。今はこの子達の幸せな一時を護る事を何より第一に考えないと。

  見えざる手で己の両頬を軽く叩き、は自分の前で屈託無く笑う子供の背に手を掛けた


  「さあ、みんな、そろそろパーティーを始めましょう!
   ジュースを貰ったら席に着いて。…神様にみんなで感謝のお祈りをしましょう。」


  興奮しあちこちで大声を上げていた子供達は、のその一言で静かに席に座った
  あどけない大きな瞳を閉じ、厳かに手を組み祈る子供達に倣い、も己の両手を胸の前に組んだ

  …善なる心を忘れ、一人の男性を傷つけた私をどうぞ御赦し給う…。

  深い悔恨と忸怩たる思いを正直に吐露し終えると、はゆっくりと顔を上げた
  窓の外に拡がる庭木には冬の朗らかな陽光が反射し、クリスマスの装飾を明るく彩った





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  聖日の前夜を祝う宴は無事にはね、子供達は胃袋と心の双方を満たして早々に眠りに落ちた
  幾分か年かさに当たる中学生の子供達は幼児たちよりも遅くまで起きて片付けに従事していたが、それでもやはり疲れていたのだろう、日付変更線を跨ぐ少し前には揃って床に就いた
  終始、誰もプレゼントを抱えたサンタクロースの不在に言及しなかったのは、彼等に取って目の前のご馳走だけで十分その役割を果たしていたからである
  年長の子供達と共に後片付けに携わりつつ、はこの素朴な子供達の欲の無さを神に感謝し、更なる祈りを捧げたのだった
  総ての子供が寝室で健やかな寝息を奏で始めたのを確認すると、は一人、すっかり何時もの空間に戻った広い居間の椅子に腰を下した
  見上げる窓の外は随分前から深い闇の色に染まり、半分欠けた月が窓辺にか細い光を投げ掛ける

  やっぱり来なかった……。

  ほう、と今度は誰憚る事無く、大きな溜息がの口を突く
  子供達に囲まれている間は極力考えないようにしていたものの、こうして一人になってみるとやはりの胸中はカノンに対する罪の意識で一杯に満たされてしまうのだった

  もし次に会えたら、その時は彼に私の浅慮を謝りたい。彼の心を覗き、そして誰にも触れられたくない部分にこの手を伸ばそうとした事を
  …だけど、こうしてクリスマスの施しを終えた今、彼に会う手掛かりは何一つ残されていないじゃないの…

  テーブルの上で組んだ己の両の手に額を載せ、は顔を俯けた
  最早留まるところを知らぬ風情で吐息が零れ落ちる
  罪悪と悔恨と、そして謝罪
  複数の思いが重く暗いマーブルを描き、を大きく取り巻いた
  ふと顔を上げると、の視界に大きな戸棚が映る
  それは、あの日コーヒー豆の袋を探してが手を伸ばしたあの戸棚だ
  の背中には、今だあの日のカノンのひやりとした胸の感触が残っている
  …そして、の項に強く押し当てられた硬い二の腕と、この身体を抱くもう片方の長い腕の記憶も
  カノンの身体の感触を思い起こすだけで、驚いた事にの胸は再び早鐘を打ち始めるのだ

  …判っている。多分これは恋だ………到底、報われ様の無い。
  私と言う存在は、どうしてこうも救い難いのか…


  「……もう寝ましょう……。」


  次第に自分が情けなくなって来て、は椅子から立ち上がった





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  その夜更け、は微かな物音に目を覚ました
  シスターであるの眠る部屋は、子供達のそれの更に奥にある

  まさか、泥棒だろうか。…この何も無い孤児院に。

  目を凝らして傍らの時計を見ると、四時を指し示していた
  冬の時節故、まだ外は暗いが、物音が子供達の寝室から聞こえたのは間違いなかった

  いいえ、きっと誰かがトイレに起きたのかもしれないわ。
  皆何時もよりあれだけ早く床に就いたんですもの、起き出す子が居てもおかしくは無い。…ジュースだって沢山用意されていたのだし。

  は身体を起こし、布団の周囲を探ってカーディガンをさっと羽織った
  トイレを急くあまり失禁してしまう歳の子供だっている、きちんと確認せずにはいられない
  物音を立てないようにそっと足音を忍ばせて隣室へのドアに近付くと、はノブを回した
  指が二、三本通る程度の隙間から様子を窺ったは、思わずあっと声を上げそうになりその寸手の所で必死に抑えた
  …子供達は、誰一人として起きる気配は無い
  問題は、その夢の住人達一人一人の枕元に色とりどりの箱が置かれていた事だった
  箱は、大きな物もあれば小振りの物もある
  一様にパステルカラーの包装が施され、赤や緑、金色の大きなリボンが更に上から取り巻いていた
  勿論、大人であるの枕元にはそのような物は置かれていなかったが、目の前のこの光景こそがに取っては何より大きな贈り物であった
  感銘のあまり掌を口に当てて涙を零しそうになったの耳に、また一つの物音が掠めた
  先程の物音よりは余程小さいそれは、更に離れた所から生じている事を示唆している
  おそらく、子供達の寝室の更に向こう――居室から届いたのではないか
  我に返ったは一つの予感を胸に、静かに子供達の寝室を横切ると居間を抜けた





   ××××××××××××××××××





  「…やっぱり貴方だったのですね。」


  初めて出会った時よりも遥かに深い闇に抱かれたカテドラルに、の小さな声が木霊した
  開かれた戸口に立ったは、こちらに背を向けて立つその男の方へとゆっくり歩みを進めた
  夜明けをまだ少し先に控え、漆黒に彩られた聖堂の高窓から差し込む仄かな月の光が男の広い背を象る


  「もう此処へは来てくださらないと、そう思っていました。」


  男から数歩の距離を置いた地点で足を止め、はすぐ目の前にあるその背中を凝視した
  その場から微動だにしない二人は、教義により此処での使用を禁じられている彫像の様でもある
  最初に足を踏み入れた時と同様に、男は一枚のイコンを見ていた
  …幼子を胸に抱く、一人の女人の絵を。
  男の視線の先にある物を悟ったは、殊更悲しげに眉根を寄せた


  「私の無礼をどうか許してください、カノンさん。」


  カノンは答えない。後ろからでは詳らかに見えないが、おそらくその表情は毫も変じていないであろう事がには判った

  …やはり、私は彼を深く傷付けてしまった…

  再三溢れ出す後悔の念と共に視線を落としたは、暫しの沈黙の後それでも再び口を開いた


  「カノンさん…私はあの時、貴方の触れられたくなかった部分に立ち入ってしまいました。
   謝って済む話ではない事は判っています。…だって、詮索してしまったのは私の方ですもの。」

  「………違う。」


  故国の著名な博物館に展示された古の彫刻の如く動きを留めていたカノンは、この時初めてその視線をフレスコ画から僅かばかり上げた
  え……と小さな声を洩らしたに背を向けたまま、カノンは続ける


  「同情は要らないと、俺はあの時そう言っただけだ。
   親を知らないで育ったとか、親の記憶が殆ど無いとか、そんな『原因』は俺に取っては何の意味もない。重要なのは俺が生きてきた、ただその事実だけだ。
   俺は、ただ一人で生き抜いて来た自分の人生に、何一つ後悔はしていない。今の俺を形作っているのは俺の過去の総てだからだ。…紛れも無くな。」


  ――『神』は要らない。カノンがあの日此処で言ったその言葉が、の心に再度去来する
  冷酷な拒絶の言葉の裏側には、一体どれだけの重苦しい過去が隠されているのだろう
  それには決して触れてはいけないと、判っているのに
  背後で俯くの様子を察し、カノンはフッ…と微かな呼気を洩らした
  笑いの意を含むとも受け取られるそれは、彼なりの呼び掛けの一つの形だった


  「お前は、捨てられて育った事にもきっと何かの意味があるのだから、親を恨む気持ちはないと、そう言った。
   …それは、俺と同じだ。『原因』はどうでも良い、その『原因』に同情してもらうつもりもないとな。」


  前に立つカノンには見えないと判りつつ、は黙ったまま頷いた
  カノンは縹深き目を閉じ、上向けていた頭を僅かに俯ける


  「抗いようもない己の『原因』を気に掛け、そして他人の『原因』に同情を寄せる事は、一面に広がる深いもやの中で必死に目を凝らすようなものだ。
   深いもやは、決して晴れる事は無い。だったら目を凝らすより、先が見えずとも前に進む方が余程良い。…自分の足で。
   俺はずっと、己の信じる道を自分の足で進んで来た。…だがな。」


  カノンはそこで言葉を一旦切った
  俄に二人の間を隔てる無言の時間は、彼の心に生じた躊躇いの何よりの証だ


  「、お前の口から親に捨てられたと聞いた時、俺は一瞬、お前に対して同情を抱いてしまった。
   …それは、これまで前向きに生きて来たお前とお前の人生を侮辱する事に他ならない。俺はそんな自分が無性に許せなかった。」

  「カノンさん……。」

  「お前が言った通り、俺はずっと一人で生き抜いて来た自分は強いと、心底そう思っていた。だが、それは違った。…本当に強いのは、お前の方だ。」


  一息に断言したカノンが、初めてその身を翻した
  正面からを見据える意志の強いその瞳を直視してしまったは、ドキリとして再び言葉を失う
  彼の人生そのものを示す険しい光を湛えた眼(まなこ)はそのままに、カノンは唇の片端を上げて見せた
  それは彼の何時ものアイロニックな笑みとは異なる、少し柔らかな表情だった


  「何者をも恨まず、そして自分を『弱い』と認める、そんな人間こそが最も強いのではないか。
   それに気付いた時、自分を強いと言い張って来た自分自身が情けなく思えて仕方なかった。…だから、昨日は顔を出せなかった。お前の前には。」


  …ああ。
  私と言う人間は、二つもの眼(まなこ)を持ちながら結局彼の事を何も見ていなかったも同然だ。
  今、私の目の前に立つこの男(ひと)こそが、真に善なる人間の心を持つ事を私に教えてくれているのに。

  は天を仰ぎたい思いを抑え、カノンを見上げて穏やかに微笑んだ


  「人は弱い。だからこそ他の人に優しくなれるのです。」


  のその笑みは、二人を傍らで見おろすイコンの女性のそれと同じ曲線を描いていた
  カノンはそれに気付いたが、これまではただ形にならない苛立ちを感じるだけだったその笑みに対して今は微塵も負の感情を抱かない事に驚き、そしてそんな自分を静かに受け入れた
  …だが、カノンの心境の変化とは裏腹に、穏やかな慈愛の笑みを投げ掛けていたの表情がみるみる掻き曇る
  カノンは整った眉を顰め、に一歩近付いた


  「…どうした、。」

  「…でも、私はあの時、貴方の奥底に秘められた禁忌に――『原因』に触れてしまいたいと欲しました。
   それは、貴方の事をもっと知りたいと言う欲望だったのです。深く立ち入る事で貴方を傷付けてしまうと、そう判っていたのに。
   私は、自分が弱い人間だと自覚しています。ですが、それなのに貴方に対して優しくなれないのが何より悲しいのです。」

  「それは違う。」


  苦渋に満ち満ちた表情で己の罪を白したに対し、カノンは柔らかに口元を緩め、否定した
  と拳一つ分の距離まで近付いたカノンは、そっと黒衣に包まれたその両肩に掌を置いた
  困惑に陥ったが見上げると…カノンはそれまで見たことも無い、驚くほど優しげな笑顔をしていた
  それは、噴出すのをどこか堪えているようにも見える
  蒼き双眸を緩やかに細めたカノンがに語る


  「母の『愛』は、お前が今言った通りそれを自覚する事によって他人に対し優しくなれる。
   だが、『愛』は何もそれだけでは無い。…男と女の間の『愛』は、互いの奥底に隠された秘密を共有したいと思い、そして実際にそれを共有する事だ。」

  「男女の、愛……。」


  はゴクリと息を呑んだ


  「…私は、確かに貴方に恋をしているのかもしれません。貴方を傷付けてしまっても、それでも貴方の事を深く知りたいと思ったのですから。
   でも…カノンさん、貴方はそれでも構わないと、そう思いはしないのでしょう…?だったら、それはやはり私の一方的な欲望に過ぎないのではないでしょうか。」


  困惑を通り越して混乱に陥った様子のを、カノンはフッ…と笑い、肩に掛けた手をの背に滑らせた


  「『恋』が『愛』となるか、それとも『恋』のまま終わるか。…それは畢竟、一人では決められない。」

  「…!カノンさん………。」


  カノンはの背に回した腕をそのまま前に引き寄せ、の身体を抱き締めた
  薄く整った唇をの耳元に寄せたカノンが、ぞっとする程低く透る声でそっと囁く


  「、お前が俺の事を深く知り、そして俺がお前の奥底を知る。…それは『愛』だ。ならば、愛を躊躇う理由はどちらにも無い。」

  「…私は……聖職者です…。」


  カノンに縛められた身体を小刻みに震わせながら、は小声で答えた
  はぁ…、と苦しげな吐息を漏らすその唇を、カノンは己のそれで塞いだ


  「…俺を知る事を恐れるな。俺もお前の事を知りたい……今、此処で。この『愛』の姿を、神は決して咎めない。」


  ――『愛』、その言葉にただ無言でカノンを見上げたに、カノンは再度口付けた。…今度は深く、そして長く
  カノンに占領されたの視界の片隅で、赤子を抱いた女性が穏やかにその目を細めた気がした







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