時 の 河  










 中学一年の冬、生まれて初めて身内を亡くした





 それは所謂「大伯父」という人で、元来付き合いもさほどあるとは言えず
 祖母の家に遊びに行った時、何度か姿を見かけた程度のものだった

 だから、特に悲しいとか辛いという感情が生じることもなく
 無論、涙など出るはずもなかった



 両親に連れて行かれた大伯父の家は酷く山奥に位置し
 自分の家から車で小半刻ほどの距離しかないにも関わらず恐ろしく冷え込んでいた
 否、そう感じたのは大伯父の家が盆地にあるだけでなく
 「死人(しびと)のいる家」という独特の暗い響きからかもしれない


 街灯もまばらなその集落の中で
 「御霊前」と記された提灯だけが薄ぼんやりと闇夜に浮かび上がっていた


 日付も変わろうかという時刻のためか、近所の人間の姿もなく
 それが却って幻想的な世界を醸し出していた
 セーラー服一枚の私は寒さも忘れ、門の前に立ち尽くした



   「



 父に名を呼ばれることがなければ、私はそのまま闇の中にぼうっと立ち尽くし続けていたかもしれない








 初めて入る玄関というのは、少々戸惑ってしまう
 なぜなら、その家特有の匂いというものがここでは一番強く感じられるからだ

 ましてや、今回の来訪は普段とは違う
   「死人を弔(とぶら)う」
 私が自身を以って初めて経験する、死というものとの静かなる対話なのだから





 大伯父の家は、私の家とは異なり、所謂昔風の造りをしていた


 玄関を上がると、長い長い廊下が真っ直ぐに伸び、廊下の片側は庭に面していた
 …おそらく、これがTVなどで目にする「縁側」というものなのだろう
 イメージの中でそこにあるはずの暖かな光は、夜の底に沈んで今は欠片も存在しない
 昼間であれば明るいものしか降り立つことのできないその空間も、
 この夜の闇の中では奇異なものが跳梁したとて微塵も不思議に感じなかった
 …異形なるものの集う淵
 たかだか一つの廊下を見ても、私はそう思わずにはいられなかった



 廊下の庭に面していない側には、いくつかの部屋が設えてあった
 どの部屋も、入り口は障子で仕切られ、昼間の陽光をふんだんに取り入れられる造りを呈していた
 夜の時刻は、逆に室内の灯りを透かし、外に向かって人々の影を送り出すのだろう
 …今宵が、多分そうであったように



 廊下沿いの複数の部屋のうち、いくつかは弔問客の帰宅とともに既に照明が落とされ、それが一層気味悪く感じられた
 父と母の後について、私は一つの部屋の前まで歩みを進めた

 淡いオレンジ色の灯りが映し出された障子を父が横に引くと、ふわっと白い空気が流線を描いて廊下に流れ出した
 部屋の中には人っ子一人姿が無く
 …否、一つの「それ」がもうもうとした煙の中に横たわっていた



   白木に横たわっているであろう「それ」は最早、何も語らず、何も為す事は無い
   ただ、鉛の如く、その身を重く沈めている
   此処に来る道すがら、ずっとその光景だけを私は思い描いていた
   …「死」とは、そういうものなのだ
   13の私は、車の後部座席で私なりの答えを出した





 大伯父の姪に当たる母が、白木の小さな窓を開けた


 蝋のような、といえば月並みかもしれないが、本当にそう表現するほかには言葉が思いつかなかった
 白く、青く
 魂が抜けると、人間の身体というものはこうも恐ろしく透き通ってくるのかと不思議で仕方がなかった
 そして、何故かずっしりとした重さを感じさせた
 生きているということは、その身を軽くさせるのだろうか
 …そこでは、物理や化学の法則は全く意味を持たないようだった


 白木の小窓を開いたまま、父、母の順に霊前に線香を挙げた
 母の後、私の番が回ってきた
 …なんでも、宗派の決まりということで、線香は立てずに、横に置くようにと言われた
 私は、一本の線香を2回折り、蝋燭の火を点す
 明々と燃え上がる小さな炎を振ってすぐさま消すと、既に灰だらけの鉢の中に横倒しにした
 数珠を手に掛けて頭を下げ、特に何を考えるでもなく暫し後に再び上げた
 …儀式は、それで終わりだった


 私の番が終ると、父、母、私の3人は腰を上げ、部屋を出る前にもう一度白木の窓を覗き込んだ
 …蓋を、再び閉じるために
 私が大伯父の顔を一瞥し、母が蓋を閉ざそうとした時、父が私に静かに言った







 「、死んだ人の顔を良く見ておきなさい。薄っすらと眼を開けているだろう。……この表情は、仏像の…仏様の表情なんだよ。」






 父のこの一言に、私は深い衝撃を受けた
 …大伯父の顔をもう一度、よく凝視してみた


 大伯父の目元は、微かにだが開いていた
 上瞼に押されるように三日月の形に細く開いた、その目
 その表情は、映像でもお寺でも、家の仏壇でも良く見る…「仏」そのものだった






    「人は死ねば、仏になる」





 幼い頃聞いた、その言葉の意味をようやく悟った気がした
 勿論、全てを悟った訳ではなく、もしかするとそれは逆の因果関係かもしれない
 …ただ、何かを掴みかけたような感触がした
 此処に来る途中、「死」について車の中で考えていた以上の物を手にしたような、そんな実感が残った








 大伯父の一件以降、幸運なことに私が身内の死に目に遭う事はなかった
 …それが、本当に幸運なことかどうかは解らない
 ただ、私自身は少なくともそれは不幸なことではない、と思っていた

 大伯父のことも、それ以降は殆どと言って良い程思い出すことは無かった


  ……ただ、あの時目にした表情と父の言葉は、私の心の深いところに止まっていた


 TVで仏画を見る度、実家で仏壇を拝む度、繰り返し繰り返し私の中で蘇った
 そんな時、私は酷く粛々とした気分になるのだった












   それから8年後、私は大学3年生になっていた


 文学部に入学した私は、3年の春、宗教学の研究室に配属された
 …それは、勿論私の希望で
 両親には反対されたけど、どうにかなるからと跳ね除けた

 …あの時、あんなことを言った父にも責任はある、と言ってやりたかったけど

 それほどまでに、あの日に受けた衝撃の影響は尾を引いた




   人が生きること、そして死ぬこと
   それにはどんな意味があり、人々はそれをどう受け止めるのか
   世界中の人たちの、古今東西の考えを知りたかった
   …答えが出る類の話ではないということは勿論解っている
   ただ客観的に…多くの考えに接してみたかっただけだった




 宗教学の研究室のある建物は、文学部棟と呼ばれる大きな建物から少し離れたところにある
 周りには木が多く、地面も露出している部分が多い
 そのため梅雨時期には足元が覚束無いことこの上ないが、それだけ自然の多いこの環境を私は少なからず気に入っていた



 「ああ、ご苦労様でした。」

 「はい、それでは失礼いたします。」


 研究室に配属された、と言っても、まだ3年になったばかりでは訪れる機会も殆ど無い
 今日も、週に一度の演習の授業のついでに、レポートを助手に提出するためにやって来ただけだった

 エレベーターが一階に到着し、ドアが開いた瞬間にムッとした空気に圧倒された
 久々の晴れ間とは言え、やはり梅雨真っ只中であることには変わりなく、湿度を含んでもったりとした空気に一瞬息苦しくなった
 しかし、建物の外に出てみると、空気は相変らず重たいものの周りの木々から発せられるオゾンを含んでうっすら色づいているように感じられた



  「――――っ。」



 私は、無言で大きく深呼吸をしてみた
 肺の中に、一気に緑の粒子が入り込んでくる
 大昔の人々も、こんな空気を吸っていたのだろうか、と考えて流石にちょっと笑いたい気分になった


 見上げると、木々の合間から陽光が差し掛かっていた
 さわ、さわ、さわ
 束の間の日照に、苔や草の葉が茂る音が聞こえる
 研究棟の壁も、日に日に蔦が這い上がって、もうじき壁面が見えなくなりそうだ



     「んん…?」


 研究棟を見詰めていた私の瞳は、壁伝いにスライドした後、3階の非常階段で静止した


 「……。」


 階段の踊り場に、人影が見える




 …背の高い…多分男の人?




 その男の人は、踊り場の金属製の手摺に僅かに身を凭れ、少しだけ乗り出す姿勢で上のほうを見詰めているようだった

 風が吹くたびに、金色の長い髪の毛がさらり、さらりと揺れる
 しかし、本人は髪の毛に吹く風など一向に構わぬ様子で顔を前に向けたままだった



 …あの人、一体何処を見ているのだろう?



 そんな素朴な思いに駆られて、私はもう少し目を凝らしてみた


 「……!?」


 よく見ると…彼の瞳は閉じたままだった

 …間違いなく、何処かを見ているようなのに
 『不思議な人だな』
 私はそう思うと同時に……気が付くと再びあの「仏の眼」を思い出していた







    「何も開いているばかりが、『眼』の役割ではないのだよ」





 えっ!?


 私の…心の中?に直接誰かの声が聞こえてきた
 驚いて顔を上げると、3階の非常階段からあの男の人がこちらを見ていた
 …いや、眼は開いていないのだから「顔がこちらを向いていた」と言うべきか



   そ、それはどういうこと…?



 私が咄嗟に心の中で呟くと、彼は唯、口元をうっすらと上げて笑んで見せた
 彼の薄い唇が、ごく僅かに弧を描く



  「『眼』とは、最も重要でありながら、それ故最も当てにならぬもの。…それは、『眼』の本来の役割を人間が忘れがちである、そのことに起因する。」



 再び、私の心に声が届いた
 …おそらく、この声は彼が発しているのだろう
 …しかし、最早そのこと自体は私にとってさして重要ではなく、その内容の方が遥かに大事なものだった



   …では、貴方の仰る『眼』の真の役割とは…?



 私の返事に対して、彼は再び口元を緩めただけだった
 そして、彼のほうを真っ直ぐに見上げる私に背を向けて、建物の中へ消えて行った








 暫しの間、私はぽか―ん、としていた


 はっ、と気が付いて、辺りを見渡してみても、周囲には誰もいない
 …勿論、3階の階段の踊り場にも


 「…白昼夢?」


 二度寝をした時に見た悪夢のように、頭の芯がすっきりしない
 …ただ、何か重い感じがした

 ずっと、自分が不思議に思って追いかけ続けているものを掠ったような、そんな気持ちだった



 「3階…ってことは、同じ宗教学の人かしら…?見た事無いけど…。」


 殆ど研究室を訪れないに等しい新人の自分を棚の上に上げて、私は考え込んだ
 …が、考えても答えが出るはずも無く、やがて研究棟を後にした













 「…という訳ですので、各人フィールドワーク実習の計画を立てておいて下さい。」

 助手から、3年生全員に資料が渡された



 …もうじき夏休みも迫る7月上旬
 普通の学生であれば、帰省の計画や、バイトの計画に胸を躍らせるこの時期であるけれども、私達の専修はちょっと事情が異なる


 …宗教学や、文化人類学といった分野の学問では、フィールドワークと言って、どこかに直接出かけ、そこに滞在しながら一つのことを調査したりする
 研究者によっては、一年の半分近くをそこで過したり、また何十年ものスパンで一つのことを調査し続けたりすることもある


 夏休みや春休みなどの長期休暇は、まさにこのフィールドワークにもってこいで、普段授業を抱え込んでいる大学院生などにとっては最も重要な期間と言える

 で、我々3年生も、一応「宗教学」に所属している以上、そのフィールドワークなるものを体験してみなければいけないのだった

 勿論、新人の私達が何らかの理論に基づいた本格的な研究計画を立てられるはずもないので、本人の関心事項に合わせて助手がマスターやドクターの大学院生に割振り、その院生と一緒にフィールドワークを体験することになっている
 3年生にとっては、フィールドワークの手法を直に教えてもらうことが出来、また自分の研究の方向性や卒論のテーマまで決めることができる可能性もある
 大学院生の方としては、フィールドワークの際のこまごまとしたことを3年生に任せることができるし、また海外に行く場合にも同行者が出来るので心強いというメリットがある
 …そして研究室にとっては、縦の連帯を深めることが出来、学問の衰退を防ぐこともできる
 言わば、一石が数鳥にもなる計画であるのだった





 一週間後
 私は、「『生』と『死』の持つ意味〜宗教観を通して〜」といういかにも抽象的なテーマを用紙に書き込むと、助手に提出した


 「『生』と『死』…ねぇ。う―ん、もっと具体的に何か無い?」


 私の予想通り、助手はちょっと眉を顰めると私に尋ねた


 「ええっと…、その、具体的、というと…?」


 私がおどおどしながら答えると、助手は僅かに笑った


 「いや、別にいじめてるわけじゃないから。…そうだな―、例えば「葬儀における死者の位置付け」とか。」

 「死者の位置付け…ですか。」

 「いや、別にそうじゃなくてもいいんだよ。ただ、研究のテーマとして展開しやすいものに具体化したほうが他の人にも分かり易いだろう?」

 「…ええっと…。」


 私が再び困っていると、助手は苦笑しながら言った


 「…じゃあさ、どうしてさんはこのテーマにしてみようって思ったわけ?何かきっかけみたいなものがあるのかな?」

 「ああ、それでしたら…。」


 私は、中学生の時の経験を簡単に語った
 助手は、じっと私の話に耳を傾けていたが、しばらくすると顔を上げた


 「そうか、成る程、『仏の眼』か。…うん、よし!君にピッタリの院生を紹介するから、この夏休みは彼と一緒にフィールドワークをしておいで。」

 「か、彼ですか…?」

 「いや―、心配しなくてもいいから。」


 心配するな、と言われてもそれは無理な話で
 いくら研究室の先輩とは言え、男性と一緒にフィールドワークってのも…


 不安そうな私をよそに、助手は部屋を出て奥の方にさっさと行ってしまった
 …院生は奥の院生室あたりにいることが多いので、きっと呼びに行ったのだろう

 この研究室の院生は一風変わった人が多いらしいので、私はどんな人が来るのか心配でしょうがなかった





 私がこの部屋にぽつねんと取り残されて5分も経過した頃だろうか、廊下のあたりで複数の足音が聞こえてきた
 …だんだん、こっちに近づいて来る


 「ああ、さん、待たせたね。…いや―、彼、あんまり院生室にいないので探し回ったんだよ。ごめんごめん。」


 ガチャっとドアが開くと同時に、助手が笑いながら入って来た


 「あ、いいえ、こちらこそお手数をお掛けして…。」


 腰を浮かせかけた私は、助手の後ろについて部屋に入って来た男性を見て驚いた



 「あ……、貴方、あの時の人…!」



 「…ん?さん、彼と知り合いなのかい?」

 「いえ…そういうわけでは…ないです。」

 「そうかい?…かれはインドからの留学生でね、博士課程2年のシャカ、だ。夏は国に帰るそうだから、一緒に付いて行ってフィールドワークをするといいよ。」

 「…い、インドですか…?」


 あの男性が研究室の先輩だったというだけでも相当な驚きなのに、更に彼と一緒にインドまで行け、と言われて私は正直面食らった


 「ん―、いや、君の話を聞いてると、彼の事を思い出してね。…ちょうど良いだろう?他にも院生に付いて海外に行く3年生も結構いるし、ね。さん、君、パスポートは持っているだろう?」

 「あ…はあ、はい。」

 「そうか。それなら良かった。…今から申請すると、間に合わないこともあるからね。じゃあ、シャカ、後は君に任せたよ。」


 助手は、そう言うと自分の机の方へと踵を反して行ってしまった



 後に残された私と、シャカと名乗る青年は言葉も無くその場に立ち尽くしたままだった
 暫し、無言の時が流れる



    ……いけない
    この状況をどうにかしなければ…!



 私が内心、焦ってそう思った瞬間だった
 すっ、とシャカが右手を差し伸べた
 …どうやら、握手をするつもりらしい

 私はその手を取って、驚いた
 彼の手の、…なんと細く白いことか
 まるで女性のように、というと失礼かもしれないが
 彼の容姿は私が今まで持っていたインド人のステレオタイプから遠く離れたものだった
 …だいたい、髪の色からして違う



  「眼に映る姿容(かたち)とは、ほんの仮初のもの。それに気を取られると、物事の本質を見失う。」

  「…は?」


 シャカの突然の発言に、私は狼狽した
 …この間と言い、今と言い、どうしてこうも返答に困る発言ばかりをこの人はするのだろう
 そもそも返答自体、して良いものかどうか判断し難い

 そう言った意味では、やはり変わった人であることには変わりない
 …ただ、私の心のどこかにずっと引っかかっていたものを思い起こさせてくれるような、そんなふうに思えて仕方がなかった



   …生きることの意味とは、一体何なのか
   …それでは、死ぬとは一体どういうことを指すのか
   死んだらその後どうなる、ということではなく、人間にとっての「生」と「死」そのものの意味付けとは



 シャカの顔を見ていると、私はついそんなことばかりを考えてしまっていた



 「…どうやら、君は合格のようだ。」

 「え?」

 「名は…なんと言ったかな。」

 「あ……、です。3年のと申します。」


 まだ呆然としている私を見て…というか私の顔の方を向いて、シャカはフッ、と微かに笑った


 「、か。…良いだろう、私に付いて来たまえ。…私の名はシャカだ。」

 「はい…シャカさん、ありがとうございます。」


 シャカは、そのまま身を翻して非常階段の方へ消えて行った







 こうして、私の大学3年の夏が始まろうとしていた





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