水色









     「五月病」
     新しい環境に慣れたころに訪れる一種の憂鬱状態
     …今の私は、そんなものになっているヒマもない






     「あ―――、今日も晴れた―。洗濯物干さなきゃな〜。」

     私は大きく伸びをした









     一人暮らしを始めて丁度二ヶ月弱
     浪人した甲斐あってなかなか良い大学に入ることができた
     こんな遠くまで進学させてくれた父さん、母さん、ありがとう
     私は一人でもしっかりやれるからね!



     大学の授業が始まって一ヶ月半
     そろそろ自分のペースが見えてきたと感じてる
     ほかのみんなはバイトを探したり、サークルに入ったりしているみたい
     …だけど私は、これからが大変なのだ


     私の入った学部は、文学部
     定員は一括募集だったから、まだ専攻は決まっていない
     …というか、それを決めるのがこの一年の成績次第というシステムになっているみたい
     そして、私の希望する心理学専攻は学部の中でも一番の人気コース
     大半の子が、途中で志望を変えてしまうのが現実と耳にした


     …だから、ちょっとでもいい成績を取るためには、あまり遊んでいる訳にはいかない
     初めての一人暮らしの五月だからと言って、ユウウツになんかなっていられないわ












     その日の朝、昨日の夕飯の残りを朝食にして、私は大学行きのバスに飛び乗った
     相変わらずこの時間のバスは満員状態で、あまり背の高くない私はあっという間に周囲から埋没してしまう


     く、息苦しい…


     バス停で停車する度、回りの人間がこっちに傾いてきて圧迫される


     うう…、胃の中が逆流しそう


     「きゃ!」

     俯いていたら、急に背中が寒くなった

     …どうやら、満員状態の暑苦しさを見かねて、運転手が冷房を入れたみたいだった
     でも、噴出し口の側に立っている私には寒すぎる
     …半袖を着て来ちゃったから余計に


     早く着いて…


     私は半分、泣きそうな顔になって立ち尽くしていた




     ようやく大学に着いたのは1限目の始業時間ぎりぎりだった
     最初に出席を取られるとアウトなので、私は走って講義室に入った

     講義室は、まだ先生も来ていなければ、学生も殆ど皆無の状態だった

     「む―。急いでソンした。」

     私が内心、むくれていると先生が部屋に入ってきた

     ふぅ、間に合ってよかった



     西洋美術史について取り扱ったこの授業は、高校のとき世界史を選択していた私にとって興味深いものだった
     成績のためもあるけれど、聴いていて楽しかったので毎回欠かさず出席することにしている
     ああ、これぞ大学の授業ね!という感動がノートを取りながら少しは実感できた


     周りの学生は、私と同じように熱心にノートを取っていたり、朝一番の授業が眠たいのか居眠りをしていたり、ひっそりメールを打っていたりと様々
     …中には、堂々とメイクをしている子もいる

     …ここはパウダールームじゃないっての!

     私が内心、一人でツッコミを入れていると、急に胃のあたりが痛くなってきた
     キリキリと絞られるような刺激が胃を直撃している


     これは、痛い
     …ホントに痛いよぉ!


     脂汗に塗れながら携帯のインスピレーションウィンドウを覗くと、もう10分弱でこの時間が終了するところだった


     とにかく、もう少しだけガマンしよう


     私は、少し前かがみの姿勢になってお腹を押さえていた







     運の良いことに、先生が終業5分前にも関わらず授業を終わらせてくれた










     「どうしたの〜??」

     友人のが私の顔を覗き込んで来た

     「う―――、ちょっと胃が痛くって、ね。病院行ったほうがいいかなぁ・・?」

     私が青い顔をしているのを見たは、ちょっと考えてから言った

     「…う―ん…、あ!ほら、この講義棟の裏っかわのほうに、ホケカンがあったと思う。あそこに行くといいよ、。」

     「ホケカン…?」

     「保険管理センターだよ。内科とか外科とかの先生がきちんといて、格安で診療してくれるし、薬もくれるみたいだよ。
     う―んと、高校の保健室とかをもっと大きくした感じ。あそこに行ってみなよ、ね!」

     「う、うん、分かった。じゃあ行く。…でも、建物の裏って、どのあたり?」

     私が怪訝そうな顔でに尋ねると、は突然私の片方の腕を自分の肩に乗せた

     「よし!じゃぁ、私がをホケカンに連れてってあげよう!」

     「あ、ありがと、…。」

     「ふっふっふ。その代わりこの後の授業がパアだから、ノートの調達はよろしくね!あと、お昼ご飯ゴチってことで。」

     は口の端を上げてニヤリと笑った

     …は―。どうせそんなことだろうとは思っていたけど、ホントにこの子は…
     根が悪い子じゃないだけに、私は別の意味で胃が痛くなりそうだった









     この大学の保健管理センター(通称:ホケカン)は、さっきまで私たちがいた講義棟から裏のほうに5分ほど歩いたところにあった

     想像していたのより遥かに大きな建物で、小学校の校舎ひとつ分ぐらいの規模だった

     に肩を貸されたまま、私は一階のエントランスとおぼしきドアから中に入った

     すぐ正面のカウンターに、事務のお姉さん(?)の姿が見えたので、が私を椅子に座らせて受付をすませてくれた

     「、内科は2階だってさ。行こ!」

     は私を再び引っ張り起こして、腕をぐいぐい引っ張って階段を昇っていった

     …――、腕のほうが痛いよう!




     二階の長椅子に少し横になって、私たちは順番を待っていた
     幸い、他の学生は誰も居なかったようで、たいした時間はかからない様子だった


     「ねえ、。」

     が私に尋ねてきた

     「この建物って、意外と中の照明が暗いねぇ。」

     「うん。」

     「…なんか出そうだね、

     「バカなこと言わないでよ、―。怖くなってくるじゃない。唯でさえ体があんまり動かないのに…。」



     ガタンッ!
     ……キイィ―――





     「ぎゃ――――――っ!」

     「あっ、―!」

     突如起こった物音と、開いたドアに、は驚いて猛ダッシュで階段を下りて行った

     「置いてかないで―、―っ!」

     立ち上がろうにも、体がよろよろしていて言うことをきかない
     私は、ものすごく情けない気持ちで、今にも泣きそうになった





     「貴方達、一体何をしているのですか?どうぞ、と言っているのに」


     廊下が暗いためあまりはっきり見えないけれど、先ほど開いたドアから、髪の長い…男性?…が私に声を掛けてきた

     「は…、はっ!すっ、すみません。あれは付き添いの友人でして…。」

     とてもじゃないけど恥ずかしくて、私の声はだんだんと小さくなった

     「…ふふ。随分と賑やかなご友人ですね。…準備に少々時間が掛かりましてね。さあ、貴女、どうぞこちらへお入りなさい。」

     「…はい。」

     私は、顔から火の出る思いで男性の示した部屋へと足を踏み入れた














     「内科」と入り口に記されたその部屋は、建物の外観からは想像もできないほどこじんまりした造りになっていた
     しかし、よく手入れは行き届いているようで、さっぱりとした雰囲気が漂っていた


     「さあ、そこにお掛けなさい。」


     さっきは暗くてよく分からなかったけど、光のあるところで改めて先生を見上げて驚いた


     …すごく、大きくて透き通った瞳
     菫色の、綺麗な長い髪を背中の中ほどで緩やかに纏め、
     …そして、小柄な私から見上げるほどの長身



     こ、こんな人がこんなところに居たとは…!



     「フフ。まだ、口は開けなくてもいいですよ。」


     あっ、と私は慌てて口を押さえた

     …ふ―、恥ずかしい…


     「わたしは、ムウ、と申します。で、貴女はどうなさったのですか?さん。」


     ムウと名乗るその青年が突然私の名を呼んだので一瞬驚いてしまったが、良く見ると彼の手には私のカルテが握られていた

     そりゃそうだ、さっきカウンターで受付したんだし…

     私はまた、赤面した


     「あの…。どうも今朝から胃がちょっと痛むのですが。」


     私がおずおずと顔を上げると、ムウはにっこり微笑んでいた


     「そうですか、それでは診てみましょうね。」


     聴診器を当てられるのがこんなに恥ずかしいと思ったのは小学生以来のことだった


     「う―ん、胃が痛いとおっしゃいましたが、それ以外にも他の症状はありますか?。」

     「…ええっと…、そう、少し寒気もします。…多分、朝のバスの中でエアコンが利きすぎていたのが原因だと思いますが…。」

     「…そうですか。それでは、こちらで少し横になって休んでお行きなさい。」


     ムウのその優しい言葉を耳にして、嬉しかった反面私は少し慌てた


     「いえ!私まだこれ以降の授業に出なければなりませんから。」

     「どうして、そんなにしてまで授業に出なければならないのですか?」


     ムウは、少し不思議そうな顔をして私を覗き込んで来た

     …そんなに顔を近づけないで下さい、ムウ先生


     「何か…、そう必修の授業でもあるのですか?」

     「…い、いえ、ただ休むわけには行かないんです!ちょっとでも良い成績を取らないと希望の専攻に進めませんので。」


     緊張から逃れるためか、私の声は裏返りかかってしまっていた


     「?………。ふ―む、、貴女どこの専攻を希望しているのですか?…あ、いえ、差し支えなければ私にお話して頂けると嬉しいのですが。
     ……えっと、は確か…文学部の学生さんでしたよね。」

     「あ…はい。」


     ムウのような男性に個人的な質問をされたので、私は意味も無くどぎまぎしてしまった
     …でも、決して悪い意味ではなくて


     「あ…、えっと…心理学希望なんですけど。」

     「ああ。そうでしょうね。文学部で希望者が最も多いのはあそこの専攻だと記憶していましたから。心理学に進んで、何かになりたいのですか、。」

     「は…、えっと、できたらカウンセラーか何かになりたいな、と思っているんです。
     …なるのもなってからも大変だっていうことは知っていますけど。…どうしてもなりたいんです。」

     「…そうですか、。それは休むわけにはいかないでしょうねぇ。」

     「はい。…ですので、よろしくお願いします、ムウ先生。」

     「………。」


     ムウはしばらく黙って考え込んでいたが、突然私の腕を掴んだ


     「えっ…、ムウ先生?」


     私は、彼の突然の行為に勿論慌てた


     「何を慌てているのですか、。貴女授業に出たいのでしょう?ですから、今から胃の痛み止めの注射を打ってさしあげようとしているのですよ。」


     ムウは、私の瞳を除きこんでにっこりと微笑んだ

     …わ―、この人の瞳、薄紫ですっごく綺麗…


     ぽかん、とした私にフフフ、と軽く笑って、ムウは私の左腕に素早く注射をした
     その慣れた手つきは、彼の手先がとても器用であることを如実に証明しているようだった
     やはり呆気に捕われている私の頭を、ムウはその大きな手で優しく撫でた


     「さあ、これでしばらくしたら、痛みは退くはずです。授業にお行きなさい。…ああ、もうお昼ですから、午後の授業からは出られると思いますよ。」

     「あ、ありがとうございます。ムウ先生。」


     私は、上気して顔がどんどん赤くなってくるのを彼に見られないように、慌てて診察室を出た






     「フフフ。…まったく面白い子ですね。…さて、私もお昼にしますか。……この後の準備もしておかなければいけませんし、ね。」

     ムウは窓の外を足早に歩く、の後姿を見下ろして微かに笑った













     お昼を過ぎて、胃の痛みは少し良くなってきたようだった
     ムウ先生のあの注射が、効いてきたみたい

     無理をしないようにゆっくり昼食を取ったためか
     3限目の授業の教室に入ったら、もう大教室は人が一杯で、前のほうの席しか空きがなかった


     「あ―、ついてないなぁ。…これじゃまた体調がぶり返したら居眠りもできないなあ。」

     私は一人ごちながら、しょうがなく前から3列目の席に着席した
     300人収容のこの大教室は、講義棟の中でも一番大規模な部屋だった
     中は所謂、国会や映画館のような構造をしている
     …ここで居眠りでもしたら、教壇の先生はもとより、後ろの学生からも丸見えになってしまう

     …ちゃっかり後ろの席に陣取っているあたりからは特に良く見えるだろうな、…もう



     授業がいつも通り始まって、およそ一時間が過ぎたころ、私は急な悪寒に襲われた
     体中から力が抜けて、ガクガクする感じがする
     …本能的に、これはかなりの高熱が出ているのが自分でもわかった


     …どうしよう


     後30分も、持つかどうか分からない…多分、無理


     酷い眠気もして来たし、どうにかすると意識が飛びそうになる

     トイレかなんかに行くフリをして教室を出ようにも、こんなに前の席じゃ目立ちすぎる
     …それに第一、その手の行為はあまりしたくない


     ……ああ―、ホントにどうしよう
     このままじゃ倒れる……


     体がぐらぐらと大きく横に揺れて、今しも崩れようとした時




     「さあ、。私に捉まりなさい。」




     私に手を差し伸べたのは、意外なことにあのムウだった



     「…ム、ムウ先生…?」

     「、さあ私にしっかり捉まっていなさい。」

     「…!!」



     教室に、ざわめきが起こった

     ……ムウが、私を所謂「姫抱き」して抱え上げたのだった




     「ムウ…、先生。」

     「、あまりしゃべってはいけません。さあ、行きますよ。」


     ムウは、周りの視線など柳に風とばかりに受け流して私を抱えたまま、あまりのことに教壇にぼんやり立ち尽くしている教授に
     小声で事態を説明すると、座席と座席の間の階段を悠々と上がって行った

     教室を出たあたりでムウが何かを言った気がしたが、私の意識はもう深い眠りに落ちていた














     「………んん……。」

     見上げれば、白い天井
     この部屋の消毒薬の匂いには、覚えがあった

     …たしか、あの部屋…



     「ああ、、ようやく気がつきましたか。貴女、授業中に倒れたのですよ。」

     「…はい、覚えています。……ごめんなさい…ムウ先生…。」

     菫色の髪の持ち主は、フフフ、と笑って私を覗き込んだ


     「やはりね、こうなると思っていたんですよ、私は…。」

     「え……?」


     「最初はね、風邪の症状かな、と思ったんですけれど、貴女が授業に出る、と言い張るのを聞いて、これはストレス性の病気だと気がついたのです。」

     「ストレス…ですか?」

     「ええ。たまにいるんですよ、こういう『頑張る』人の中に。自分でも気がつかないうちに少しずつストレスが蓄積して、
     いつのまにか突然体を壊してしまうのですよ。…丁度、地震が引き起こるメカニズムのように、ね。」


     ムウは、片目を閉じて笑って見せた


     「………。」


     「希望の専攻に行くために頑張るのは良いことですよ、。でも、それで自分の体を壊しては意味がありません。
     だいたい、カウンセラーになりたいという人が、ストレスを溜めて倒れているようじゃ本末転倒ですよ、違いますか?」

     「………。」

     私は、返す言葉が無かった




     「フフフ。私はね、、貴女に一緒に働いてほしいのですよ。」


     押し黙っていた私に降って沸いた突然のムウの発言に、私は正直面食らった


     「え?どういうことですか?」

     「フフ、そんなに私と一緒の職場で働くのはイヤですか?」

     「い、イヤなはずないです!私もムウ先生と一緒に働きたいです!」







     はっ、しまった!







     私はすごいことを言ってしまった気がして、思わず口ごもった



     「本当ですか!…、私と一緒に働いてくれますか?」



     途端、私を見つめるムウの瞳が、更に大きく見開かれた
     私は、そんな彼の反応に驚いた


     「あ…は、はい。……でも、どうして"一緒に働く"のですか?」

     「ああ…そのことですか。実はこの建物、内科や外科だけじゃなく、カウンセリングルームもあるんですよ。
     …学生の健康を守る、と言っても、調子が悪いのは体だけじゃないですからね。学生の様々な悩みに応じるのです。」


     …そんなところもあったのか、と私は自然と頷いた



     「で、、貴女には一刻も早く、ここで働いて欲しいのですよ。私の傍でずっと、ね。」


     ムウは近づき様に私の耳元で囁くと、診察台の上に横たわる私を、その見た目よりはずっと逞しい腕で抱え上げると傍のソファに横たえた


     「先生…!?」

     「どうしました?…もう終業時間ですからね。私はただ、部屋を片付けるために貴女をこちらに移しただけですよ。…フフ。」

     「先生の意地悪…!あ!先生、あの注射結局効いてなかったんじゃないの!?あれは何だったのよ!」


     私は、恥ずかし紛れにムウに食って掛かった


     「ああ、あれですか?あれは偽薬<プラセボ>ですよ。ああでもしないと貴女は大人しくしそうになかったですからね。
     …で、私は貴女が倒れそうな時間を見計らってあの講義室に出向いたまでのこと。
     折り良く、貴女は倒れてくれましたので、私がここまで連れてきたのですよ。…何かいけませんでしたかね?」

     「……偽薬…。先生、私を騙したんですか?」


     私の懐疑的な視線に、ムウはフフ、と笑った


     「ほら、昔から言うじゃないですか。『敵を欺くにはまず味方から』とね。さあ、片付けも終わったことですし、夕食でも食べますか。
     …あ、、貴女にはまだ診療費を頂いてませんから、御代は今晩の夕食でいいですよ。…勿論、貴女の手料理でね。」

     「せ…先生!ちょっと、どこに行くつもりですか?」


     ムウは、私を再び抱え上げると私の顔を覗き込んではぁ、とわざとらしくため息を吐いた


     「ああ、貴女、良く考えたら病み上がりでしたね。…う―ん、それでは残念ですが、私の料理でガマンしていただきましょうか。
     …こう見えて、結構料理好きなんですよ、私。……良かったですねぇ、。」

     「何がですか!それに第一、どこへ行こうって言うのですか!?」


     ムウの腕の中で抵抗しようとする私に、ムウは言った


     「勿論、私の家ですよ。…、貴女の病気が完治するまで、私は貴女を看病する義務がありますからね。フフ。」


     素早く診察室の鍵を閉めると、ムウは足取りも軽く私を抱えたまま階段を降りていった









            ああ、私、本当にカウンセラーになって良いのでしょうか?








     私は、ムウの腕の中でこれから目指すべき自分の将来のことを思って、ため息を吐きながらも密かに笑みを零した