しのつく雨は、一向に止む気配も無く聖域に降り注いでいた

       …まるでサガの心の中のようだ、と私は濡れながら密かに思った
       冷たい雨に、私の体温は徐々に奪われて行く
       でも、今この瞬間、もっと冷たい悲しみにサガが包まれていると思うと体以上に心が打ち震えた

       サガ…今の貴方に、この胸の裏を余す所無く伝えたい
       私は貴方の側に居たい
       それが私にとって最上の歓びなのだから
       だから…二度とその手を離さなくても良い
       …離さないでいて、私のこの手を



           「サガ……。」



       最早、私の口はその名を刻むことに何の抵抗も無かった
       …例え、カノンが側に居ようとも

       私の口からその名が囁かれる度、カノンの表情は短い間酷く曇ったものになった

       カノンの気持ちに気が付かない訳ではなかった
       寧ろ、泉で話をした時、私は強く彼に惹かれていた
       …だが、私が真に求めているのは……サガなのだ
       サガを…あの孤独な人を、私は守ってあげたいとまで思ってしまう
       サガが時折見せるあの寂しい微笑を、そのまま包んであげたい、と
       私も……サガに出逢うまでは彼と同じように寂しく微笑んでいたのだろうから
       総てとはいかないまでも、同じ痛みを分かち合えると、そう信じたい



       サガ………早く、貴方に会いたい






















       俺とは、あいつの…サガの行方を捜していた

       この国では珍しいほどの長雨に、俺の気持ちがイラついているのが自分でもよく分かった
       …いや、雨のせいではないこともはっきりと自覚していた
       だが、……俺はそれを認めたくなかった


       雨に打たれ続けて、の身体は冷え切って震えていた
       がたがたと小さく震えるを見ていると、俺は無性に総てをブチ壊してやりたいような衝動に駆られた

       …あいつは、こんなを見ても平気で居られるというのか?
       が自分のためにこんなにも打ち震えているのに、それにすら気付いてやれないのか?
       …俺が、俺がもしあいつだったなら…!



       「。お前そんな濡れ鼠で寒くはないか?」

       「…いいえ、平気。それより早くサガを見付けなきゃ。」



       …こんな時にまで、あいつのことを心配している
       俺は、の言葉にイラついて眉を顰めた
       俺はあいつが見付かるまで何時までもこのイライラした心境に甘んじなければならないのだろうか
       あいつへのの気持ちが俺にも残酷な程伝わってくるだけに、余計に胸の裏がざわついていた
       勿論、冷え切ったの為にも、一刻も早くあいつが見付かれば良い…と思わなくもない
       だが…あいつが見付かったその瞬間、俺は敗北者の烙印を押されるのだ
       この世界で最も憎む兄と、最も愛しいの二人の手によって
       まるで俺自身を罰するためにこうして一歩、また一歩と地獄の穴へ自ら足を進めているようではないか
       そう思うと、更にイラついた気分に襲われた
       サガにも、目の前のいじらしいにも……そして愚かで無力な自分自身にも




       「ごめんね、カノン。ずっと付き合わせちゃって。」




       俺に対するの謝罪の言葉を耳が捕えた瞬間、俺の中の何かがパシン、と音を立てて弾け飛んだ




       「カ…ノン?」

       「…何も言うな、。」



       俺は、を自分の腕の中に抱きしめていた
       俺の髪から伝う雨の雫が、の身体に落ちてゆく
       の身体はぞっとするほど冷たく硬くなっていた
       …あいつの、サガのためにはこんなにも冷たくなって、それでも尚…



       「…、お前を温めてやる。」


       俺は、腕に力を込めてをかき抱いた
       の身体が、一瞬強張ってビクリと震えた


       「カノン…駄目。…やめて…。」

       「何も言うな、と言った筈だ。」



       雨に濡れそぼって、のシャツは既に衣服の役割を果たさないほど彼女の身体を透かしていた
       見ていられる筈がない…こんなの姿は
       俺は、指が食い込むほどの背中をきつく抱きしめた
       をこのままこの場で壊してやりたい
       壊して、あいつから奪い去ってやりたい

       ……だが……

       …俺ではないのだ
       を、幸せにしてやれるのは

       の目が、訴えている
       の身体総てが、求めている
       …あいつに、サガに会いたいと
       会って、その想いを伝えたい、と

       ………


       「、目を閉じていろ」


       俺は、自分の小宇宙を彼女に送り込んだ
       のボロボロの身体が、僅かでも温かくなるようにと
       …サガと違って、俺はヒーリングはあまり得意ではない
       だが、今のを見ていると、そんな悠長なことを言う気にもならなかった

       時間が経つに連れ、の顔に生気が戻ってきた
       徐々に顔に赤味が差し、表情も徐々に強張ったものから穏やかなものになってゆく
       冷え切っていたその身体も、温もりを取り戻していた

       ……俺が、俺がにしてやれるのは此処までだった
       後は…あいつがのこのひたむきな心を潤してやれるのを祈るだけだ
       無力な事この上ない自らの存在に、俺は怒りすら感じていた
       胸の中を血が出るほど掻き毟りたい思いで一杯だった


       「…りがとう。…ありがとう、カノン。」


       俺の腕の中で、が安らかに微笑んだ
       それは無条件で目の前の人間に総てを委ねる様な、安堵に満ちた表情だった


       「…そんな表情(かお)をするもんじゃない、。その表情は、あいつに…サガのために取っておいてやれ。」


       意識して精一杯穏やかに言ったつもりだが、俺の顔は苦悶に歪んでいたかもしれない
       兄に奪われる痛みを、ひたすら耐え続ける事が俺の運命なのだろうか
       呪ってしまいたい神の存在を、俺はこれ以上知らなかった























       「………サガ………。」


       何よりも先に、その名を呼んでいた


       私とカノンがサガの影をようやく見付けたのは、私がサガに助けられたあの小高い丘の上だった
       聖域中枢部の縁に位置するこの丘はあの日と異なり、雨によって崩れ落ちそうな程足元が覚束無かった
       その丘の上に、サガは一人で立っていた
       俯いたその瞳は、何処を見るでも無く闇を漂っているようだった

       深く深く、何かに傷付いた自分を更に深い悲しみの淵に沈めようとしている
       二度とは這い上がって来られないほど、深い処まで

       「罪に塗れた自分自身を愛している」とカノンはサガの事を表現した
       きっと、今サガが映し出している表情のことをカノンはそう受け取ったに違いない
       …でも、それは違う
       信ずるものを…信じたいものを総て失った時、人は己の魂を傷付けることでしか生きているという感触を得られなくなってしまうのだ
       流れ出す血の温もりだけが「生」の実感の証明たり得るのだ
       それは、なんと寂しいことだろう
       なんと悲しいことだろう
       しかし、闇の底の住人にはそれ以外に成す術は見つけられない
       ……闇の底には、それ以上の闇しか無い
       上に昇ろうと光を求めれば求めるほど、闇の底に追いやられてしまう
       …いや、気付くと自ら望んで飛び込んでいる
       永劫に続く『負』のサイクルに捕われ続ける
       「自分など、居なくなってしまえ」、と己の存在を呪う

       …嘗ての私が、そうであったように



       ……サガ、一筋の光が差すその瞬間を、決して諦めないで
       貴方の道を仄かにでも照らす光に今、私はなりたい…!




       「サガ……!」



       精一杯の想いを込めた私の呼びかけに、サガが今、振り返る…


























       どれくらいの時間が経っただろうか
       それすらも私は判らなくなっていた
       おそらく…昨晩だろうか、私は弟であるカノンから驚愕すべき事実を伝えられた



       『……私が愛しているのは、結局のところ私自身である』と



       …それは真実であろうか?
       「そうでは無い」とはっきり拒絶しようとして、私は一瞬躊躇してしまった
       何故か判らない、ごく僅かな間だけだが、自分自身納得してしまったのだ
       「確かに、そうかもしれない」、と

       私はを愛している…そのつもりだった
       だが、カノンに言わせれば、その気持ちすら自己満足以外の何物でも無かった
       の孤独な気持ちに己の心情を重ね合わせていただけではないか、と
       確かにそう…かもしれない

       を助けたあの日、私は彼女の足の傷を完全に癒す事ができなかった
       …それは、をすこしでも私の側に置いておきたかったからだ
       なんと、子供じみた動機だろう
       の立場や人生のことを考慮すれば、全く浅薄な行為と言われても仕方が無い
       私は、そこまで彼女のことを考えてやれなかったのだ
       カノンが私を詰る(なじる)のも、道理に適ったことであろう
       結局のところ、私は己の欲望を優先させて彼女を自分の人生に巻き込もうとしていただけだった
       私は…私という存在は、どうしてこうも他人を傷付けてしまうのだろう


       …私の存在は、最早自分では如何ともし難い程黒く染まり、罪深い
       こんな私の為に、もう誰一人として傷付いてはならない
       それがたとえ…であったとしても
       いや……だからこそ



       ……だが。




           『どうせ誰も、いないもの…。』


       の心の声が、私の心に冷たい旋律を描く
       私はあの時、確かに感じたのだ
       「と、同じ気持ちを分かち合いたい」と
       …「この私の心の底から、を信じたい」、と
       『共感』などという単純な単語で決して片付けたくはない
       同じ心境にあった二人だからこそ紡ぐことのできる深い絆がある、と


       この気持ちすらも、やはり私一人の身勝手なのだろうか
       私は、自分の感覚を信じる事さえ適わないのだろうか


       私は…一体どうすれば良いのだろうか?



       諦めに似た迷いを抱え、私は俯いた


       …
       君はこんな私を愚かと笑うか?
       …それとも…

       、私に答えを教えてくれ
       君の声を…聞きたい
       こんなところに君が現れる筈もないと判っているけれども








       「サガ……!」






       …刹那、私の耳が聞き覚えのある声を捉えた


       聞き間違いだ、そう思った
       …だが、自らの心に抗い切れず、私の身体は大きく振り返った
























       「………か?なのか…!?」


       サガの瞳が大きく見開かれた
       此処に居る筈の無い人間が、今己の前に立っている
       驚愕の色を濃く眼に浮かべ、サガはその名を口にしていた
       …勿論、俺の存在なぞあいつの視界の端に映ってはいなかっただろう
       そして、その事実が一層、あいつのへの想いを強く濃く炙り出していた



       「…サガ。」


       サガの問い掛けに対し、もその名を呼び返すことしかできずにいた
       がたがたとの体が小刻みに震えるのは、寒さのためだけではない
       …いや、寒さのためでは決して有り得ない


       「サガ…私……私……」


       の唇が空気を含んで小さく振動を刻む
       その瞳は、今のサガの如く大きく開いて、その後緩やかに細められた
       抑え込んで来たものが、今にも堰を切って溢れ出そうとしてた
       …涙が、声が、……そしてその想いが……



       「さあ、行け。……行くんだ、。」


       俺は、の背を押すように軽く触れた
       これだけの行動を起こす為に…たったこれだけの行動の為に、俺は一生分の力を使い切ってしまったような脱力感に襲われた
       『どうしても手に入らないもの』の存在を、俺は今まで唾棄したくなる程に思い知らされて来た筈だった
       …しかし、それすら今のこの俺の惨めさの前では塵に等しいだろう
       この今の状況を、俺はどうしてこれ以上正視していられるだろうか…?


       俺は、がよろよろと歩き出すのを確認し、そのまま後ろを向いて歩き出した
       …そう、二度と後ろを振り返ってはならない
       悪事を重ねてきた自分の半生同様に……
























       「……どうして此処に…。」


       …本当に夢ではないだろうか
       私は、自らの腕の中にを受け止めていた
       あれ程渇望した存在が、今私の腕の中に在る
       私には到底許されざる、温かな存在が…


       「貴方が此処に居ると、そう思ったから。…貴方の心の悲痛に満ちた囁きが、私の耳に聞こえたから…。」


       は、私の胸にその顔を埋めたまま、小さく…だが強く呟いた

       その言葉が、私の胸に染み込んで行く
       の言葉をひとつひとつ吸収する度、私の胸の奥底で暗い何かが上へ上へと押し上げられるような感触がした



       「…ああ……。」



       私は………涙を流していた
       どうしてだろうか、よく判らなかった
       何かを言いたかったのだろうが、最早言葉などどうでも良い程に体が先に反応していた





       「…もっと、泣いて。泣いて…サガ。
        総ての貴方の罪は、それで許されるから。」




       のその言葉に、私は地にがっくりと膝を付いた
       どうすれば良いのか判らない程、涙が溢れ出した



       「苦しかったでしょう、辛かったでしょう。…他人を憎む程に、そして自分を憎む程に。
        …でも、もう憎まなくていい、誰も…貴方自身も。
        この世の総てを…そして苦しんできた貴方自身を何よりも許してあげて。」



       屈み込んだの手が、私の背中に優しく触れた
       の掌から私の身体に溶け込んで来る温もりの、なんと暖かなことだろう…
       次から次へと流れ出す涙の合間から、私はを見上げた
       …そこに在る慈しみの表情は、神の如く無限の慈愛から発されるものでは決して無い
       同じ痛みを…同じ寂しさを知っている、そのことに起因する微笑み

       すうっ、との気道が静謐な音を立てた
       の背中が空気を吸い込んで小さく膨らみ、上下に揺れた



       「サガ……。私、貴方と居たい。…これからもずっと。」



       の腕(かいな)が、私の背にそっと回された



       「サガ、貴方のその痛みを、私と分かち合って。…もう、寂しくないから、貴方も…そして私も。」



       俯いたまま、も泣いていた


       「同情だとか、傷を舐め合うだとか、始まりはそこからかもしれない。
        …でも、それ以上のものがきっとあると、私はそう信じてる。
        どれだけ時間が掛かっても良い、二人の間に、何かを築いて行きたいの。
        だから…もう二度と、私の手を離さないで居て、サガ。」



       私は、の背に自らの腕を回して、強く引き寄せた
       その温もりをもっと感じられるように、力を込めて抱きしめてみる
       ミシ、と軽く音を立てるの背を、私は掌を広げて包み込んだ



       「私は…私には、、君を愛する資格があるのだろうか。…この私が…。」

       「ええ、そうよ。…貴方は何時も、何かの影に怯え続けて来た。
        でも、もう怯えなくても良い。…貴方の涙で総ては償われたのだから。
        だから、一番苦しみ続けてきた貴方こそ、今は幸せにならなければいけないのよ。
        少しづつでも良い、前へ前へとゆっくり進んで行きましょう、二人で…。」



       の背が、震えていた
       私の一指づつが、の震えを伝えていた
       私よりも小さなその背中を、私は何よりも愛しいと心底思った
       …それは、決して自己満足でも同情でもない

       今、はっきりと誓える
       …これが私の『愛』である、と



       私は、震えるの背から右手を離し、の左頬に添えた
       優しく上向かせたの頬には双眸から涙が伝っていた
       …私の為に、そしてと私…二人の為に注がれるその涙の、何と清らかなことだろう…!


       「…サガ……。」


       の瞳が、うっすらと細められた
       その目の動きに合わせる様に、頬に更に涙が伝う



       「…ああ、…。二度と私を一人にしないでくれ…永劫に。
        私は…もう一人では生きられないから。」



       私は、の顔を覗き込んだ
       は、涙を流しながら微かに笑みを湛えた



















               聖域の澱んだ灰色の空に一筋の光が差した
               その先に拡がる地平に、比翼の小鳥が羽根を広げ、今飛び立った















管理人より


ようやく完結いたしました。…初の連載とは言え、完結までに半年を有してしまい、皆様をお待たせしてしまいました。
…この作品は、今から丁度一年前に、修士論文を書きながら少しづつ書き進めていたものです。
(勿論、このサイトを開いてから執筆した文量のほうが遥かに多いのですが。笑)
星矢に再燃してかれこれ2年近い日々が過ぎようとしています。…本当に早いものです。
その間、ず――っとサガ本命でいるわけですが、彼に対して私が抱いているイメージも殆ど変化はないようです。
このように内面を抉った作品というのは、実は私の得意とするところではないのですが、お相手がサガなればこそ、
このようにゆっくりとした流れで思いを綴る事が出来たのかもしれません。
読んでくださっていらっしゃる皆様に、退屈な思いをさせてはいなかっただろうか、こんなサガはありえないと思われはすまいか、
と心配しながらここまでどうにか辿り着くことが出来ました。偏に皆様の励ましやお寄せいただいたご感想のおかげだと痛感いたしております。
…次の連載の構想が実はもう出来上がっていたりましますが(笑)、そちらも是非読んでいただけると幸いです。
このような私の妄想に塗れた作品を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます!






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