ギリシャ中部・キサイロナス山麓。
南のアッティカと北のヴィオティアを隔てるこの横長な山脈の一際高い頂で今、一人の男が足を止めた
標高1500m弱の頂上から見下ろせば、遥か南、眩い陽光降り注ぐ海が彼の青い瞳を一層深い青に染める
そこから少し左――詰まる所、南東側――に視線をずらすと、鬱蒼とした森林とまばらな町並みが視界に飛び込む
彼が立つキサイロン山から南東に50kmほども行けばこの国の首都・アテネがあるのであるが、彼が見ていたのはアテネの喧騒ではなく、その先にある静謐な森とそこに秘されるように佇んでいる白亜の宮殿群であった
『聖域』、と其処の住人は己の住処を呼ぶ
もう長い事、彼のアイデンティティの置き所だ。
――それに固執するが故に引き起こした己の大罪は、遠く離れてみたところで消える事は無い
山頂からの光景は、まさに彼にそう告げているかの様だ


「………解り切った事ではないか。今更愚かしい事を。」


…例え世界の果てまで逃げた所で何程の違いもあるわけが無かろうに…。

最後の一言だけは己の心の中のみに吐き捨て、男は肩越しにその端整な眼差しを北に振り向けた

山頂のすぐ下には県名であるヴィオティアの名を冠した平原が広がり、少しばかり北東にやや賑やかと表しても差し支えない小さな街が男の目を引いた
この地方特有の赤茶色の瓦屋根の家々が一所に固まって、まるで平原に花が咲いているようだ
―――ティーヴァ。それが男の郷里の名であった
ギリシャ語で書けばΘηβαと表されるその名は、厳密に発音すれば「スィーヴァ」と呼ぶのが正しいだろうか
…唯、日本では寧ろ古名の「テバイ(テーベ)」の称号の方が有名であろう
戦神アレスが愛した竜を倒してしまったが故に呪われてしまった王・カドモスの国と言えば頷く人もいるかもしれない
ディオニソスとも縁の深いこのテバイは、紀元前のポリス全盛期にアテネやスパルタと覇権を争った歴史深い土地でもある
21世紀を迎えた今では嘗ての栄光と神の呪怨の残滓は見る影も無く、人口2万強のごくごく有り触れた街である
少なくとも、街中に立って何やら禍々しい空気を感じる者は皆無ではないだろうか


「そうだ。呪われているのはこの街ではない。」


……この私こそが、神代よりの呪いを一身に享けているのだから。
アレスの呪いを享けたこの私が十三年の間そのアレスを称していたのだ。何たるお笑い種だ

俯いた男の整った口元からクックと嘲りの嗤い声が漏れる


「『呪われた国・テバイ』か。……私の故郷としてはこれ以上無い程相応しい呼称ではないか。なあ、サガよ。」


アレスを僭称していた己の本当の名前を呟き、サガは山頂からテバイの街へと続く緩やかな下り坂を辿り始めた






      帰郷







人口わずか二万人のテバイの、その更に片隅の小さな集落の入り口に佇み、サガはその双眸を眩しげにしばたかせた
五月のギリシャの日差しは日に日に勢いを増し、日向では軽い暑さを身に憶える程だ
白いシャツと黒いデニムと言うサガに取っては非常にラフな服装を彼らしくかっちりと着こなし、サガはこれからどうしたものかと僅かに首を傾げた
集落の目印代わりの古いオリーブの大木が、申し訳程度に葉を茂らせている


「私が幼かった頃はまだ青々と枝を茂らせていたものだが、流石に歳月の重みは身に堪えるか。」


…恐らく、数年のうちに枯死してしまうだろう。それだけ、私も馬齢を重ねたと言う事か…。

二十件弱の家々が軒を並べるこの集落からは、昼日中だと言うのに誰一人として姿を現す気配が感じられない
かと言って無人の集落と言う訳でも無さそうだ

それならそれで構うまいよ……殊更生者に会いに来た訳でもないのだからな。

無言の業を貫いたままサガは集落の最奥へと歩みを進め、小さな家の前で再び立ち止まった
木造の粗末な家はまさに小屋と称するに相応しいが、何処か温かみを感じさせるのはそれが本人の生家であるが故のバイアスかもしれない
どうやら空き家になって久しいのだろう。閉ざされたままの鎧戸の表面は苔生して本来の明るい色味を喪っていた

この扉は確か白く塗られていた記憶があるが…。
私達が此処を去った後、誰一人住んでいなかったのだな

サガが鎧戸の苔を軽く叩いて落とすと、下から黒っぽい不規則な曲線が薄っすらと浮かび上がった
湾曲した筋を縁取る様に点々と黒く小さな楕円と更に小さな真円が散りばめられているその姿は、見る者に蔓性の植物を彷彿とさせるだろうか
サガが長いその指先で黒い筋を辿ると、その脳裏に如何とも表現し難い郷愁が小さな染みを拡げ始める――絵筆とペンキを手に、スツールの上で鎧戸と向かい合っている母の後姿が。

『母さん、枝も葉も実もみんな同じ色で描くの?』
『そうね、でも扉が真っ白だからこの色が一番綺麗だと思わない、サガ?』

息子の素朴な問い掛けに振り返った母の顔には満面の笑みが浮かんでいた
本当の幸福とは一体何であるのか?それを母はきっと知っていたのだろう
幼いサガが母の笑顔に釣られる様にくすくすと笑った次の瞬間、母が手元を滑らせてペンキの缶をひっくり返した
窓の桟が見る間に白から深緑へと変わって行く

『サガ、道具箱からリネンを持って来て!』
『待ってて母さん、すぐ取って来るよ!』

そして、薄いグレーから黒っぽい緑に染まったリネンを見て……そうだ、私たちは笑ったのだ。『窓の桟からやり直しだね。今度は白いペンキを持って来よう。』と。
そして、私と母の笑い声を聞いてリビングに走って来たカノンが後ろで目を丸くしていた…。

母の残したオリーブの筆跡をじっくりと指でなぞり、サガは俯けたその目元を僅かに細めた





××××××××××××





集落の裏手から少し上手にある丘から村を見下ろし、サガは頭上遥かな空を見上げた
梅雨の無い五月のギリシャの空には雲ひとつ無く、トルコ石の様に澄み渡った天に吸い込まれてしまいそうだ
普段、聖域から見上げている物と同一である筈なのに、サガに取っては今、自分を取り巻くこの大気の層は途轍もなく果てしない存在に思えた

眩しすぎる。

僅かに目を細めたサガの横を湿度の低い風が通り過ぎ、彼の長い髪をさわさわと撫でて行く
ぐるりと見渡してもオリーブの園が広がる荒涼とした大地が続くばかりだ
『呪われし土地・テバイ』。その名がサガの脳裏を一瞬掠めたが、同時に彼の口元からは彼一流の乾いた微笑が漏れ出す


「この光景が『呪われし土地』であるなら、アッティカはおろかこのギリシャ全土が『呪われし土地』であろうよ。」


…遥か古代、自分達の土地が農耕に適さない程痩せて居る事に悩んだギリシャ人たちは遂に自分達の土地を捨て、船に帆を掛けて洋外へと乗り出した
世に言う『ディアスポラ(離散)』である
今で言う所のイタリア本土やシチリア、南仏などの『良い土地』に根を下ろした彼らはそこにポリスを築き、農業や商業、漁業などで繁栄を極めた
ギリシャ語で『新しい街』を意味する『ネア・ポリス』に語源を持つナポリや、シチリアのシラクサなどはギリシャポリス起源の街として現在でも有名である
つまり、それほどまでにギリシャ本土は荒涼とした土地にしか恵まれなかった
…その土地が一朝一夕に豊かな土地に変貌する筈も無く。
サガの郷里だけが呪われているのだとしたら、この国はもっと裕福であるに違いない
何処に行っても一様に荒涼とした大地にはオリーブ以外に適した作物が無く、それ故に同じ光景が繰り返すばかりの国。それがサガの故国ギリシャの姿である

…今更呪いも何もあるまいよ。

肩を竦めてくるりと村に背を向け、サガは丘を挟んで村と逆の方向に道を辿り始めた
丘を下る事暫し、オリーブの姿がまばらになるのと反比例してサイプレス(糸杉)の尖った嵩高い群れがサガの視界を占拠し始めた
一際糸杉がみっしりとした一帯に差し掛かると、荒れた大地から養分を吸い取る様にして白い十字架が大量に生い茂っている
白い大理石製の物もあれば、最早木片としか呼び様の無いボロボロの木組に至るまで種々雑多な十字架が立てられているが、『死者が眠る墓標』と言う意味では実に統一の計られた意匠ではあった
墓地をぐるりと取り囲む糸杉の群れと墓地のほとんど境界線付近に足を踏み入れ、サガは小さな木製の十字架の前で立ち止まった
『Ζωη』(Zoi)。小さな墓標に相応しく控えめに刻み込まれた文字は、嘗てサガ自身が彫った母の名だった
『生命』を意味する『Ζωη』をその名に持つ母は皮肉な事に生命力に恵まれず、夭折する運命を天から与えられた
サガと弟のカノンが物心付いた頃には既に母は肺を病み、時折床に伏す事もあった
だがそれでも彼女は母親として出来るだけの喜びを息子達に与えたかったのだろう
鎧戸にオリーブの絵を描いたのもその一つであった
青白さと黄疸の混じったお世辞にも健康とは呼べぬ顔に沢山の笑みを載せ、母はサガとカノンのために家の中を明るく取り仕切った

……そんな母の容態が急変したのはサガが9歳の時だった
ある日の夕刻、二人の呼び掛けに母が殆ど反応を示さなくなった
カノンがテバイの街まで夜道を縫って医者を呼びに行き、深夜に喀血し始めた母は夜明けと共に神に召された
母親の墓を作り、埋葬するより他に二人には為すべき事は残されていなかった
聖域からの迎えが来たのはその三日後の事だった。

………母が死んでいなければ、私やカノンはどんな道を歩んでいただろうか。
そして、母はどの様な人生を辿っていただろうか。

今更考えてみても仕方の無い仮説がサガの心で大きく膨らんだが、サガ自身がそれを厳しくシャットダウンする

…否。総ての原因を母に帰結するなどお門違いも良い所だ。
多くの命を奪い、更に多くの命を苦しめたのは他ならぬ私自身であろうに。弟の事も同様だ。
………呪われるのは私一人で十分だ。



「………サガ……?」



背後から名を呼ばれ、サガは片膝を突いていた身体を大地から引き剥がして立ち上がった
振り返ったサガの視界の中心に見慣れぬ女が一人、映っている
否、顔こそ見慣れないが、彼女の首から下がる十字架には見覚えがあった
僅かな驚愕の色を表情に滲ませ、サガは彼女の輪郭をもう一度見詰めた


「………なのか。」


と呼ばれた女が微笑を浮かべ、一つ頷く


「やっぱりサガだったのね。………ゾイさんのお墓の前に居るのだもの、サガだと思った。」

「どうして私だと?………息子は二人いるのだから、カノンの可能性もあるだろう?」

「…そうね。でもやっぱりサガだと思った。………カノンは元気にしているの?」

「…ああ、元気にやっている。」


短く答えて愚弟の話題を切り上げたサガの視界の中のが少し目を細めて笑うと、目尻に小さな皺が浮かび上がった
言葉を喪ったサガの表情を見遣って、がくすりと笑い声を洩らす


「…あれからもう19年ですもの。私も13歳の少女のまま…とは行かないわ。」

「済まない。そんな意図があった訳では無いのだが…。」


サガがばつの悪そうに眉間を寄せると、はふふふ…と堪え切れずに声を上げて笑った


「やっぱりサガね、貴方。……そう言う所は19年前とちっとも変わってない。
 ……ゾイさんの墓前では何だから、あっちのベンチで話さない?」

「…ああ、そうだな。」


墓地の入り口を示す糸杉の脇に移動すると、サガとはそこに設えられたベンチに揃って腰を下ろした
丘を挟んでいるために集落は見えないが、二人とも村の上に無限に拡がる青空をじっと見上げる
はチラとサガの横顔を一瞥し、また空に視線を移した


「二人とも今は何をしているの?……ゾイさんが亡くなった後に迎えに来た人とアテネの方に行ったと聞いたけど。」

「…ああ、今はアテネで暮らしているよ。街中でちょっとした仕事などをしている。」


サガは嘘を吐(つ)いた。
――母が亡くなった直後にサガとカノンを訪れた男は聖域の使者だったのだが、村の人間はそれを知らない
双子座の聖闘士はその特殊な性質故に、候補生と言えども外部にその存在を知られてはならない
故に、使者は二人の母の親戚と騙り、二人をアテネに連れて行くと村人を偽ったのだった

…今思えば、それで良かったのかもしれない。もし私が双子座の聖闘士の候補生として聖域に上がったと知っていたら、私はあの後やこの村の人間を………。

今は生死も定かではないあの時の使者に、サガは今更ながら深い感謝の念を抱いた
何時の間にか苦虫を噛み潰した様な表情で自戒の念に捕らわれていたサガの横顔を覗き込み、は慈しみに満ちた笑みを浮かべた


「…辛いのね、サガ。」

「いや、何でもない。……、君は今は此処で何をしているのかな?父君と母君はご健在か?」

「父は元気にしているわ。…母は9年前に亡くなったわ。病気で。テバイの病院に入院していたのだけれど、最後までこの村に帰りたがっていたわ。」

「そうだったのか…。」

「父はまだ村の教会で司祭を勤めているわ。…でももう、村人もすっかり少なくなって。
 私は父の手伝いをしているの。六年前に隣の集落の教会の司祭が亡くなってしまったので、父だけで二つの教会を運営するのは大変だから。」

「ああ、隣村のヤニス司祭はご高齢だったからな。…そうか、ステファノス司祭も君も大変なのだな。」


サガは互い違いに組んだ両の指の上に顎を乗せ、丘の頂上に聳え立つオリーブの大木を見詰めた


「村の入り口のオリーブももう寿命の様だ。…一見何も変わっていないように見えて、19年の年月は確実に我々の上に流れている。」

「そうね…。サガ、貴方も大きくなって、こんなに素敵な男性になるとは思わなかった。」


は傍らのサガの顔を覗き込むとクスリと笑い、オリーブの丘越しに村を見た


「あの家にはもう行ったの?」

「…ああ、先程。私達が住んでいた家には今は誰も住んでいないようだが。」

「ええ、19年前にサガとカノンが出て行ってからは誰も住んでいないわ。
 でも時々、父と私が家に風を通しに行っているの。…だんだん、そんな家が増えているわ。」

「そうか、ありがとう、。……君には世話になりっぱなしだな、私は。
母が亡くなった時の事、まだ憶えているよ。」


サガはと視線を合わせ瞳で笑顔を作ってみせたが、その口元は悲しみの記憶にきつく引き結ばれたままだ
聖域を巻き込んだ苛烈な弑逆劇の大罪人と言ってみたところで、サガも人の子以外の何者でもなかった




母が息を引き取った朝、その遺骸の前で力無くがっくりと項垂れていたサガに最初に声を掛けたのは他ならぬだった


「…泣いて良いわ、サガ。
愛する人を喪った時は泣ける内にしっかり泣いておかないと、時が過ぎるに連れて悲しみと向かい合えなくなるから。」


を見上げたサガの背後で、弟のすすり泣く声が聞こえる
ぽっかりと穴の開いた様な暗い目で視線を注がれ、は頭を横に振った


「カノンを羨ましいと思っては駄目。…サガ、貴方も泣いて良いの。
永い事病に苦しんで苦しんで、そうして生を生き抜いて、今人生を完結させたお母さんの顔をしっかり見てあげて。
今きちんと見ておかないと、これから先に思い出すお母さんの面影がきっと歪んでしまうわ。」

「………。」


目の前に立つ、たった13歳の少女の名を呼んだ途端、サガの瞳から大きな涙の粒が零れた
堰を切った様にぽろぽろと、次から次へと涙が溢れて来る
はサガのすぐ傍らに屈み、サガの背中にそっと触れた
刹那、サガの体がびくりと強張るのをは感じたが、そのまま手をサガの背から離さず置いたままにした
サガの背中から、の掌のぬくもりがじんわりと伝い身体に吸い込まれて行く
………声は出なかった。
否、どうやれば哭声を上げられるのか、サガには解らなかったと言った方が近い
その意味では背後のカノンがやはり羨ましかったが、その代わりにサガは涙を流す事が叶った。それだけで充分だ

そのまま30分も時が流れただろうか、サガはようやく涙を止め、母の亡骸の前にゆっくりと立ち上がった
顧ると背後のカノンも既に泣(きゅう)するのを終え、冷たい石の床に両膝を崩してぺたりと座り込んでいる
サガはカノンの前まで歩いて行くと身を屈め、弟の肩に手を置いた
呆気に取られた様な表情で、カノンがサガの顔を見上げる


「……カノン、母さんを送ろう。それが出来るのは私達しか居ないのだから。」

「…うん、解った。俺、ステファノス司祭の所に行って来るよ。」

「……頼んだぞ。私は此処で弔いの支度を整える事にするから。」


弟が家を出て行ったのを確認して、サガは部屋の端に立つを振り放(さ)け見た
文字通り家の中は灯を落とした様に暗いにも拘らず、眉を顰めたの表情が今のサガには具に見えた


「ありがとう、。……何と言えば良いか解らないけど…。」

「何も言わなくて良いわ。ゾイさんには私、とても良くしてもらっていたの。『私には息子しか居ないから。』って。
…サガ、貴方とカノンと私と、そして村の皆でゾイさんを送りましょう。」

「うん、も父君の…ステファノス司祭の所に戻らないと。
今カノンが行った筈だけど、私達は葬儀の作法が能く判らないんだ。」


―――サガは独りになりたいのだ。

はそう気付き一つ頷くと家の戸口を振り返ったが、すぐに立ち止まってサガを再度顧た
徐に襟元を探り、は立ったままのサガの掌の上に自分の手を重ねた
が手を離すと、サガの手の上に無数の褐色の塊が姿を現した
サガが空いている左手で一つの塊を摘み上げると、カチャカチャと軽やかな音を立てて他の塊が数珠繋がりに宙に浮く
丸や四角などの塊に混じって、一つだけ神の子を象った十字の金の飾りが鈍い光を放った

……ロザリオだ。


、これは……?」

「…サガ、貴方に。ゾイさんに貰った物を貴方に返すわ。これは貴方が持っていて。」

「……母さんが…?」

「さっき言ったでしょ、『私には息子しかいないから。』って。
 これはゾイさんがゾイさんのお母さんから貰った物で、代々娘が引き継ぐ物なんだってゾイさんは言ってた。
 ゾイさんには娘がいないから私にって…。でも、これはサガ、貴方が持っていた方が良いと思う。
例え家の教えに反しても、ゾイさんの血を引く貴方にこそ相応しいわ。」


サガは己の掌の上の神の子を無言でじっと見詰めた
サガの傍らに立つは、その姿に俄かに眉を顰めた

…9歳の幼子から母親を奪い去る事も神の子の意思なのだろうか?

褐色の琥珀の鎖が軽やかな音を立ててサガの掌から零れ落ちる
は棒の様に立ち尽くすサガを残し、今度こそサガの家を後にした



…翌日、の父であるステファノス司祭の導きの下に母の葬儀は滞りなく終わり、村は何時もの姿に立ち戻った―――サガとカノンを除いては。
そして更にその二日後の朝、サガとカノンの元に正体を伏せた聖域の使者が訪れたのだった
昼下がりに聖域へと旅立つに際し、サガは見送りに来たに一つの預け物を託した
サガから手渡された物を見たは驚き、サガに問い質した


「……サガ、どうしてこれを…?」

「それは貴女に持っていてもらいたいんだ、。」


の手に握られていたのは、三日前にから手渡されたロザリオの十字架のモチーフの部分だった
ギリシャの陽光を反射し、神の子は正に神々しいほどにきらきらと光り輝いて眩い

……さして多くも無い荷物を二人が纏めていた際、聖域の使者がサガの胸元に光るロザリオの存在に気付いた
申し訳なさそうな表情を浮かべた使者をチラリと一瞥して、サガは総てを悟った


「…そうか、聖域はアテナの総べる神域なのだな。」

「…申し訳ありません。」

「…ならば、十字架だけを置いて行こう。」

「ご配慮痛み入ります。」


サガはロザリオの中心から神の子の象形をそっと取り外し、ボトムのポケットに仕舞い込んだのであった




「…それは貴女に持っていてもらいたいんだ、。」


村の入口のオリーブの木の下で、サガはの掌に金の十字架を乗せた
意外そうに真意を問い質すを笑顔で優しく制するサガの表情はあどけなさとは程遠く、僅か9歳のものとはとても思えない


「それは母さんから貰った物だから、これから母さんの一番側にいてくれる人に持っていてもらいたいんだ。
 …私はアテネに行って多分長い事帰って来られない。……だから、貴女にそれをお願いしても良いだろうか?」


…もしかすると二度と此処へは帰って来られないかもしれない。明日には冷たい骸になっているかもしれない生活がこれから私を待っているのだから。

それは口にせず、サガは唯一つに頷いて見せた
サガの粗末な襟元からは褐色の琥珀の連なりがチリチリと揺れて、降り注ぐ陽光に鈍い煌めきを返している


「…半分は持って行くよ。……母さんの事をきちんと思い出せる様に。」


三日前の自分の言葉をサガが反芻している事に気付き、はニコリと小さな笑みを作った


「解ったわ。この十字架は私が預かっておくわ。」

「ありがとう。母さんの事、宜しくお願いする。」

「ゾイさんにはもうお別れは済ませたの?」

「……ああ、先程。カノンと一緒に。」


二人の会話の文脈を察し、『そろそろ出立の時間だ』と例の使者がいかにも親戚の口調でサガを促す
使者に対し黙したまま一つ頷いたサガは村の墓所の方角を一度振り仰ぎ、また直ぐにを顧た


「…、さようなら。ありがとう。」

「気をつけて。何時までも元気でいて…ゾイさんの分も。」


村の入り口に立つ二人の頭上で、オリーブの白く小さな花が開き始めていた





墓地のベンチで自分の傍らに座るのその胸元に、金色の十字架の鈍い光が煌いている


「ずっと持っていてくれたのだな。…ありがとう、。」


サガは引き結んでいた口元を少し緩め、フッ…と小さな笑みを零した


「だってあの日約束したでしょう?
…でもこうして今貴方が帰って来てくれて、きっとゾイさんはそれを一番喜んでいると思うわ。」

「そう……だと良いのだが。」


サガはシャツの襟元を寛げ、胸元に掛かる褐色の琥珀の連なりを静かに取り出した
19年の間に随分傷だらけになってしまったそれは、サガが教皇を騙って法衣を纏っていた間にも彼の胸元を飾り続けていたロザリオだ
あの日十字架の部分を外したのは自分の意思ではなかったが、結果として己の一番傍らにロザリオを肌身離さず置く事が叶ったのはサガに取っては十二分に喜ばしい事ではあった
――尤も、13年の長きに渡り己の為し続けていた悪行を母が喜んで見守ってくれていたとは到底考えられないのではあるが。

女神や神の子が赦しを与えてくれた所で、母はきっと私を赦しはしないだろう。

サガの表情にさっと影が差す
はその様子をじっと隣で見守っていたが、徐にサガの前に両の手を揃えて伸ばした


「ねえ、サガ。貴方のそのロザリオ、少し貸してくれないかしら?」

「………私のロザリオを?」


サガは少し驚いた表情を浮かべたが、暫くして己の胸元から琥珀のロザリオを手繰り寄せに手渡した
長い琥珀の連なりをは一旦自分の膝の上に置き、自らの襟元から金の鎖で繋がれた神の子の意匠を取り出すと鎖とモチーフを切り離した
の襟元を飾っていた十字架の部分とサガの胸元を守っていたロザリオが再び邂逅する
一つの姿に戻ったロザリオをサガの大きな掌に戻し、がにこりと笑った


「おかえりなさい、サガ。」


…母の言葉がの口から発せられたのか。

サガは目を細め、の顔を眩しげに見詰めた
は笑顔を浮かべたままサガの手を優しく取り、ベンチから立ち上がらせた


「行きましょう、これを返しに。…ゾイさんの所へ。」


母の名が刻まれた粗末な木の十字架に、サガは手にしたロザリオをそっと掛けた


「ただいま。………母さん、今帰りました。」


サガから少し離れた所で、が頑健で広いその背中をじっと見詰める
サガが母親と内心で一体何を語らっているのか。それは彼だけが知っていれば良いのだから

五分もそうしていただろうか、母の墓前から立ち上がったサガは遥か後方にそっと佇むに気付き、その目元を少し緩めてゆっくりと歩み寄った
こうやってすぐ傍に立ってみると、9歳の時には自分より大きかったは随分小さく見える


「ありがとう、。君のおかげで母と19年ぶりに会えた気がする。」

「…良かった。」


サガを見上げるも、記憶の中の9歳の男の子の成長を間近に感じ取っているのだろう
僅かに頬を染め、サガの端整な面持ちを眩しげに見詰めた


「村に戻りましょう、サガ。」

「…ああ。休暇が短いので、今日はもうアテネに戻らなくてはならない。」

「…そう、残念ね。折角19年ぶりに貴方に会えたのに…。
…だったらせめて、村の入り口の所まで送っていくわ。」


無言ではあるが満ち足りた気持ちで二人は丘を越え、集落の入り口の所まで辿り着いた
19年前に別れた村のシンボルのオリーブの下で、二人は再び向かい合って立った


「また来られる…?」

「…解らない。確約出来るような事は、今は言えない。」


…聖闘士である身には、死は隣り合わせだから。

19年前と同じく『死』の一言は秘し、サガは少し申し訳なさそうにを見下ろした


「28になってもまだそうやって昔と同じ顔をするのね、サガ。
………おめでとう。」

「………ああ、そうか。そうだったな。」


今日は5月30日だったのか。

元々誕生日と言う名目で女神から休暇を賜ったにも拘らず、サガ自身すっかりその事を忘れ去っていた

…それにしても、19年も離れていたが私の誕生日を憶えていて、私自身が忘れていたとは…。


「憶えていてくれたんだな、私の誕生日を。…私自身、すっかり失念していたものを。」


少しばつの悪そうなサガの横顔にはふふふ…と柔らかな笑い声を洩らした後、急に真剣な面持ちになってサガを見上げた


「今日は貴方の生まれた日。……そしてそれは、ゾイさんが身の危険を顧ず、貴方とカノンをこの世界に産み落としてくれた特別な日なのよ。
 そんな日に自分の元を訪れてくれて、きっとゾイさんも喜んでいるわ。」

「…そうだな。私以上に、母に取っては今日は特別な日だったのだろうな。
 そうか…誕生日とは自分が生まれた日ではなく、母が自分を懸命に産んでくれた日だったのだな…。」

「そう。そして大きくなってゆく貴方を喜ぶ、特別な日。それが誕生日。」

「君には何時も大事なことに気付かされるな。…ありがとう、。」


サガがの肩に手を触れようとしたその刹那、集落の奥の方から声が聞こえて来た
遠くから徐々に近付いてくるそれは、サガに取っては聞きなれないトーンの物であった
サガに向かい合って立ったがその身体をすい、と横に交わし、声のする方に大きな声で返す


「こっちよ、ゾイ!」

「ママ!」


の足元に駆け寄ってきた幼子の存在に、サガは心底驚きを隠し切れない表情を浮かべた


…この子は君の…?」

「ええ、私の娘。ゾイって言うの。」

「結婚していたのか…。」

「ええ、5年前に。夫は今、テバイの街中の教会で輔祭(司祭の下の位階)の修行中なの。だから、今は教会には私と父と、この子の三人暮らし。」


サガはの肩に置こうとしていた手を下ろし、少し困惑したような笑みを浮かべた


「そうか…、君も母になったのだな。…だから、私の母の思いが解るのか…。」


サガの母と同じ名を持つ娘の頭を撫ぜ、は温かな笑顔をサガに向けた


「ゾイさんと同じ名をこの子に付けたの。……ゾイさんの分もしっかり生きられるように、と。
 サガに黙って名前を付けてしまってごめんなさいね。」

「いや…母は喜んでいると思う。私からも礼を言うよ。
……そして、この子に幸多い人生が訪れますように。」


サガがゾイに右手を翳し唱えると、がフフフ…と笑い声を洩らした


「サガったら、まるで司教か教皇みたい。……でも、貴方には良く似合うわ。」

「………ありがとう、。」


『教皇が似合う』か。そんな事を言ってくれるのはだけだ。
…私自身も似つかわしく無いとずっと己を責めて来たものだが…。

自分が歩んできた道は、決して悪いものばかりでなかった。
目の前の『母』の顔を持つがそう教えてくれている気がして、サガは胸の裏(うち)が急に熱くなるのを感じた
――『ありがとう』などと言う単純な謝辞では言い表せない程に。


「ねぇねぇ、ママ見て!ほら!!」


に纏わり付くゾイが、突然頭上を指差した
二人が見上げると、集落のシンボルのオリーブに小さな白い花が咲いていた


「…すっかり弱って、今年はもう咲かないと思っていたのに。」


陽光に透かして眩い白い小花をと幼子は見上げた
サガの視界の中でも、白く可憐な花がその身を精一杯広げている

『常に何者にも染まらず、純白であれ』
5月30日の、今日と言う日に母がそう教えに来ているような気がして、サガは熱くなった目頭をギリシャの遥かな青空に向けた





<BACK>