教皇代理からの出頭要請を受けたのは、鬱陶しい雨のしのつく2月のある日の事だった
――兄の代理でこの双児宮の常駐するようになってから、もう久しい。
各宮の黄金聖闘士が呼び出される事はさして珍しい事態でもなく、この日もまたどうせ下らない用件だろうと高を括って俺は教皇宮への長い階段を溜息交じりに登り始めた




風に折れない花




「…双子座のカノンだ。」

「はっ、どうぞ中へ。」


警備の雑兵が手にした槍を横へ避け、俺を内へと通した
一歩足を踏み込むと、連日の雨のせいで若干薄暗く感じる空模様の上に更に一層輪を掛けた様に教皇宮の内部は暗く、じめじめとした嫌な湿気が俺の周囲に纏わり付くのを感じて俺は頭を横に振った
跳ねた毛先を伝っていた雨粒が脇に抱えた聖衣のヘッドパーツの表面を滴り落ちる
落ちた水は趣味の悪い臙脂のビロードに吸い込まれ、みるみる暗い染みを広げた


「…外以上に鬱陶しいな、此処は。全く。」

「………主が鬱陶しい性格の持ち主なものでな。」


――聴いていたのか。
舌打ちをしたい気分を堪え、俺は声の主を一瞥した
3,40mはあるだろうか。宮殿の一番奥に設えられた豪奢な玉座に鎮座した教皇代理は片肘を手摺に凭れ、頬杖を突いたまま俺の方をじっと見降ろしているが、その表情は俺が予測した程には愉快そうではなかった
今回の用件の性質も恐らくは同様の物なのだろう
だが、それは俺には関係の無い事だ。俺とサガとでは全く別個の人格なのだから


「ご用件を、教皇代理。…猊下、とお呼び申し上げた方が宜しいか?」


殊更慇懃な俺の口調にサガの口元が一瞬ピクリと上がり、直ぐに元に戻った
ふぅ…と短い呼気を漏らした後、サガは玉座から立ち上がり俺の方へ数歩、歩み寄った
サガの法衣の裾がやけに黒光りしているように思えるのは、やはりこの宮殿の照明の暗さ故か。


「子供染みた悪ふざけは止せ。今日は公務でお前を呼んだ訳ではない。だから私の事はサガ、と呼べば良い。」

「…で、俺に一体何の用だサガ。」

「カノン、お前を憶えているか?」


兄の口から意外な名前が飛び出したので、俺は正直面食らった
余程意外な表情をしていたのだろう、サガは少し可笑し気に愁眉を開き、ムッとした俺の顔を見てまた元の渋い表情に戻った


「憶えているも何も、忘れる訳がないだろう。…そのがどうしたと言うんだ?」

「……ステファノス司祭が亡くなったと情報が入った。」

「司祭が…?何時の話だ。」

「昨夜遅く。……いや、今日の未明と言った方が早いか。心臓発作だそうだ。」


そうか…、とだけ応え、俺は顔を俯けた
意外な人物の意外な情報に驚かないかと言えば、それは嘘になるだろう
黙った俺の脳裏に、懐かしい『故郷』の素朴な風景が映し出された

――テバイ。神話の時代から『呪われた土地』と呼ばれた町が俺とサガの故郷だ。
昔は権勢を誇っていたが、今やすっかり片田舎となって久しいその場所で俺とサガは母に育てられ、9歳まで過ごした
ステファノス司祭は集落の小さな東方教会の司祭で、は彼の一人娘だった
俺達より4歳年上のは姉の様な存在で、病気がちだった俺達の母親からも娘の様に可愛がられていた

俺達が9歳の春、母親の肺病の容態が急変し、翌朝に死んだ。本当にあっと言う間の出来事だった
その時、ステファノス司祭が葬儀一切を執り行い、呆然とした俺とサガをが励ましてくれた
……聖域から使者が来たのはその直後の事だった
それきり、俺がテバイの土地を踏む事は無かったが、だからと言って俺が司祭やの事を忘れた訳ではない
無論、毎日思い出す存在…とまでは行かないが。

…あれからもう二十年近くの歳月が経つ
考えてみれば、別れた時13歳だったがもう30歳を超える歳に達している
それすらも思いを馳せる事が無かった事に今更気付き俺は少し項垂れたが、サガに弱みを握られるのも億劫なのですぐに頭を上げた


「…お前の情報網は随分と発達しているんだな、サガ。テバイの取るに足らぬ集落の訃報がこれほど早く入るのだからな。」


皮肉たっぷりに俺が言い放つと、サガは珍しく少し微笑して肩を竦めて見せた


「そう言ってくれるな。今回の情報を捉える事が出来たのは偶然でも何でもない。
 …昨春の五月に私達が女神より休暇を賜ったのは憶えているだろう。」

「ああ。」

「お前と違って私は休日に行く宛ても無いのでな。…行ってみたのだ、テバイに。」

「元気だったか?」

「ああ。息災だった。流石に最初はだとは気付かなかったが。
 私達の住んでいた家の前で立っていたら、あちらから声を掛けてくれてな。
 ……私達が28になるのだ、も大人になっていて何の不思議もないのだがな。」


サガはそう言うと、フッと短く笑った
そんなつもりは無かったのだが、俺も釣られて笑ってしまった
サガは玉座の階段を降りると、俺のすぐ傍まで来て立ち止まった


「傍らに幼い娘が立っていて、すっかり母親の顔になっていた。
 …だからだろうな、どこか懐かしく思えたよ。やはりあの場所には母の匂いがまだ強く残っている。
 彼女の口から『娘の名前は、ゾイ。』と聞いて尚更不思議な心地がした。」

「…良い休暇だったと言う事だな。それで、お前は俺にどうして欲しいと?」


――メランコリーと言う単語の似合う男だな。
思いがけず…いや、思い通りと言った方が妥当だろうか、俺はサガの横顔を見てこの時正直にそう思ったが、敢えてそれは言葉には出さなかった
畳み掛けるような俺の一言にサガはつい、と身体を横に反らし法衣の胸の前で両の腕を組んだ


「ステファノス司祭の葬儀に列席して欲しい。…無論、聖域の教皇代理の、更にその代理としてではないぞ。」


――上手い事を言う。
サガの言葉の最後の部分に笑いそうになりながら、俺はサガの眼を真っ直ぐ見据えた


「解っている。お前もその立場ではそうそう聖域を空ける訳にも行くまい。」

「…済まないな。昨年の経緯上、私も列席したいのだが。」

「………お前の代理としてじゃない。俺は俺の意思で列席する。ゾイの息子・カノンとしてな。」


俺がそっぽを向いてサガの背中にそう投付けると、背後の兄の顔が笑っているのが何故か判った


「何が可笑しい?」

「いや。可笑しくは無い。……お前がお前自身の意思で行ってくれるのならそれが最善だと、そう思っただけだ。
 村人は昔より減っているが、長く司祭の立場にあった方だ。恐らく近隣より多くの人々が列席するだろう。目立たない程度に上手く溶け込んでくれ。」

「ああ、言われずともそう徹するとも。…長い事お前の『影』だったんだからな。」


それを言ってくれるな。
振り向いた俺の視界の中のサガの口元が奇妙に歪んだ


「……それで、には何と?」

「司祭のご冥福をお祈り申し上げる。………列席能わず申し訳無い、と。」

「それだけか?」

「…力を落とさないで欲しい。」

「長年教皇職に在った割には今一つ月並みな台詞だな。」

「こう言う時は、美辞麗句を並べるより簡潔な言葉の方が誠意を感じて貰える物だ。
 …それに、直接言うならまだしも、弟のお前の口から伝えてもらうのに今更格好を付けて何とする?」


――それも道理だな。
妙に得心し、俺は無言で再びサガに背を向けた


「くれぐれも、の様子に気を配って欲しい。……お前に頼めた義理では無いのは重々承知している。」


背後から届いた兄の声に片手を挙げて応え、俺は薄暗い教皇宮を後にした






××××××××××××××××××××





キサイナロスの山頂から見下ろしたヴィオティア平原は、純白一色に覆われていた
標高1500m弱に達するキサイナロスの頂は兎も角、麓の平原までもが積雪に見舞われるのは、中部ギリシャのこの地方では例え2月と雖も珍しい
聖域での昨日の鬱陶しい雨模様を思い出し、俺は目の前の雪原に深い溜息を落とした
…ギリシャの冬は湿度が高い。
俺の口腔から外界に放り出されるなり忽ち白く濁る呼気に、やはり今は冬なのだな、などと馬鹿げた事を再認識し、俺は苦笑を交えつつも山を降り始めた
テバイはヴィオティア平原随一の街だ。とは言え、人口4万程度の田舎町ではあるのだが
…だが、俺の――俺たちの郷里は、更にその辺境に位置する


「…少し急ぐとするか。」


サガの情報では、司祭の葬儀は今日の夕刻に執り行われるとの事だった
だが昼を回ったばかりとは言え田舎の話だ、儀式の準備などで既に村人は忙しく立ち働いているだろう
早めに現地に着いておくに越したことは無い
俺は山道を下る足取りを少し早めた






××××××××××××××××××××






ほぼ20年ぶりに帰郷した蕩児を出迎えたのは、集落入口のオリーブの古木だった
――まるで、母親が不孝息子を出迎えているようだな。
古ぼけて苔むし、半ば変色した上に雪に埋もれた根本を目の前にして、俺は妙に胸の奥がちくちくとささくれ立つのを感じた
母が死んで村を後にしてから19年、俺は一体何を為して来ただろうか?
不善ばかり為して来た俺を、母は――そしては、どんな顔をして出迎えてくれるのだろう
そこまで考えて、俺は今更ながらはっとした
…此処に来たのは、そんなセンチな用事のためじゃない。俺は何を馬鹿な事を考えているんだ
『郷里』などと言う単語の持つ妙な重苦しさに俺は少し苛立ちを感じ、記憶の地図の中に残る教会へと足早に向かった

ギリシャ本土特有のオレンジ色の瓦葺き屋根の教会は、19年前の母の葬儀の時と何一つ変わっていなかった――主である司祭が不在になってしまった事と、雪に覆われている事を除いては。
教会の入り口付近の人々が奇妙にざわついているのは、折からの悪天候の上にこれから執り行われる葬儀の様相が通常と異なるからだろう
先刻山の麓でサガから借りた黒衣に着替えていた俺は、近隣の村人の振りをして教会の中に足を踏み入れた
縦三列に隊列を為して並べられている質素な長椅子は、19年前と全く同じ物の様に思えた
毎週日曜の礼拝に使い続けて来た割にまだ小奇麗なのは、手入れが行き届いているからなのか。または使う村人の数が減っているからなのだろうか
冷え込む聖堂の隅で視線を椅子から上に移すと、俺の記憶の片隅に未だぶら下がっていたモザイク画が目に留まった
――母と育った村の教会の、幼子を抱いた聖母のモザイク。
さあ泣けと言わんばかりの演出ではあるが、兄と違って感動の演出には却って興醒めする性格の俺だ。敢えて何の感慨も無くただその像を見上げ、そのまま視線を戻した

祭壇の前に棺が置かれているが、角度が悪いせいか詳らかには見えない
恐らくはステファノス司祭の遺体が横たえられているのだろう
……そして、その前に一人の女の姿があった
あくまでも後姿なので断定は出来ないが、かなりの高確率でなのだろうなと思った刹那、女が俄かに振り返り俺の視線と彼女のそれがぶつかった


「………サガ?」


たっぷり二、三秒程の時間が流れ、俺が否定するより僅かに早くの口から「違うわ」と呟くような言葉が零れ出た


「カノン。…貴方はカノンね。そうでしょう?」


俺は黙って頷いた
父親の棺の傍らから近付いて来たは、驚くほど小柄だった
――いや、彼女が小柄なのではなく、俺達が巨大になってしまったと言うべきか
俺の記憶の中の13歳のは俺達より背が高く、随分大人びて感じたものだ
無論、彼女も13の頃から背が伸びて大きくなっている。だが思い出の中の縮尺のまま固まってしまった残像と今現在のの姿とではすぐにしっくり来なくて当然だろう
『30を過ぎた』…と言うのは、この任務を引き受けた時から幾度も想像しそれなりの覚悟も決め込んで来たのだが、やはり現物を目の前にすると己の想像力の乏しさに気付かされるものだ
良い意味で意外な方向に、俺の想像力は欠如していたようだ
サガの奴が『母の顔になっていた。』などと微妙な表現をしたので俺はてっきり老け込んだ方向にが変わってしまったのかと考えていたのだが、今目の前に立つは活き活きとした魅力をその容貌に浮かべ、瑞々しさすら漂わせているように思えた
――いや、父親の死の渦中には相応しくない表現かもしれないが。
漆黒一色に覆われたの口元が、僅かに綻んで見えた


「来てくれたのね、カノン。」

「…ああ。今回の事、残念に思う。……まだ老齢と言うには若かっただけに。」

「ありがとう。父も貴方のその言葉に喜んでいると思うわ。…しかも、こんなに久しぶりに此処まで足を運んでくれたんだもの。」


の謝辞に頷いた所で、俺はもう一つの用件を思い出した


「…サガは来られない。どうしても外せない任務があってな。『済まない』と謝っていた、と司祭に。」

「…良いのよ。…そう、二人とも今は本当に立派に仕事をこなしているのね。私の記憶の中の貴方達はいつまで経っても9歳の子供のままだから。
 サガは去年此処に来てくれたけど、それでもやっぱりすぐに私の記憶は入れ替わらないものね。」

「俺だってそうだ。が大人になっている事を想像するのは難しかった。俺の中のも13の時の姉の様な姿のままだ。
 ……だが、これが現実だ。俺とサガはいい大人になり、は立派な妻、そして母親になった。それも決して悪い事ではないだろう。」

「そうね。9歳の子供が青年になり、13の少女は32歳に。…そしてその父親は昨日天に召され、今こうして横たわっている。
 時間は流れて行くと、そう言う事ね。」


来て、とは俺に目くばせをし、俺を伴ったは司祭の棺の前に戻った
死人を見慣れた俺の目には、司祭が非常に満ち足りた表情をしているのが手に取る様に伝わって来た


「良い表情をしている。…良い人生だったのだろうな。」


長い事教皇職に在ったサガだったらもっと気の利いた台詞を吐けたのだろうが、今の俺にはこの一言が限界だった
だが、は俺の言葉に少し愁眉を開くと俺の横顔を見上げた


「ありがとう。…見て、父も喜んでいるみたい。……貴方は、嘘は吐けない人だから。」


――『嘘を吐けない』どころか、神を欺いた大罪人だったのだぞ、俺は。
うっかり口を滑らせ掛けたが、何より死者の前である事と、のその有難い記憶に驚き俺が何も言わずに少し顔を俯けた所で、聖堂の中が俄かにざわめき始めた
じき、葬儀が始まるのだろう。見慣れない顔の若手の聖職者が聖堂脇の控室から姿を現した
年齢から察するに、サガから聞いていたの夫とやらかもしれない
俺の視線の先を察し、が答えた


「テバイの街教会のゲオルギス司祭よ。此処も司祭が居なくなってしまったので、今日は臨時で街から来てくれたの。」

「テバイの街教会には、お前の夫が居ると聞いたが。」

「夫は輔祭(司祭の下の位階)の修行中なの。この教会の新しい司祭になるにはまだ時間が掛かるでしょうね。」


その夫は今日は列席しないのだろうか?
訝しさを剥き出しにして周囲を窺う俺の顔に、が肩を竦めた


「夫は今、サラエボに長期研修に行っているの。
 昔から正教会(東方正教会)は国単位で纏まっているけど、その垣根を取り払って融和を図ろうと言う試みが始まっていて、その一環で修道士の少ない地域に研修に出ているのよ。
 …じき、帰って来ると思うけど、任期は本人が決めて良い事になっているから私にも分からないの。だから今日は列席は無理ね。」


仕方無いとは言え、今日みたいな時こそ夫に傍に居てもらいたいのではないだろうか
に対しては絶対に言えないであろう本心をぐっと腹の底に追い遣り、俺が無言で頷くのと時を同じくしてゲオルギス司祭とやらがに目配せをした
遂に葬儀が始まるのか。俺はに軽く会釈し、一番後ろの長椅子の更にその端に静かに腰を下ろした
19年前に母を送ったのと同じ教会で、今度はその母を送ってくれた人を送る儀式が始まった






××××××××××××××××××××






教会での儀式は滞りなく終わり、一行は続いてステファノス司祭の棺を埋葬するために村外れの墓地へと移動を始めた
…ステファノス司祭にはとその娘の他に、親戚と呼べる人間も居ない。
結果、集落の男達が司祭の棺を担ぐ事になったのだが、これまた押し寄せる高齢化の波には抗いようも無い
雪道の中、高齢の男達ばかり駆り出されるのを見てこちらが正直肝を冷やしそうになった所で、参列者の中でも一際頑強そうな俺の所に仕事が回って来た――実際の所、俺一人の力でも棺は持ち上がるのだが。
母の葬儀では世話になった第一の恩人だ、司祭の棺を担ぐ事が叶うのは俺自身ありがたい話でもあった
何より、棺の後ろを行くが俺に感謝してくれているのが伝わって来るのが心底嬉しいのは言うまでもない

一行は無言を護ったまま墓地を意味するサイプレスの木立を過ぎ、敷地内の墓標の群れのほぼ中心に司祭のために掘られた穴が見えて来た
棺を担いだままの俺は墓地の片隅を一瞥したが、これは完全に識域下の行動だった
記憶の底の薄い痕跡が、俺を振り向かせたと言っても良いだろう
――Ζωη(ゾイ)、簡潔に掘られた文字が俺の視界を掠める
19年前にサガが刻んだ、他ならぬ俺達の母の墓標だ
そしてその十字の墓標の中心に見覚えのあるロザリオが琥珀特有の鈍い光を反射しているのに気付き、俺は少々驚きを禁じ得なかった

……サガの奴、あのロザリオを返したのか。

それは母が祖母から貰い受けたと言う伝来の品で、娘の様に可愛がっていたに嘗て母が譲ったのだが、母の死の後にがサガに返しに来た
葬儀の翌日、村を発つに際しサガがロザリオの十字架の部分だけをに再度託したのを俺は横目で見ていた
サガは教皇を僭称している間も本体の部分をずっと肌身離さず身に着けていた筈だが、何時の間にか再び十字架のモチーフと一つになった姿を見るに、昨年此処に帰った時にと二人で母の墓標に戻したのだろう
不意に俺の知らない二人だけの世界を見せ付けられた気がして、俺は指先を折れそうな程ぐっと強く、黒塗りの棺桶に食い込ませた

…俺は嫉妬しているのか、サガに?
違う。そもそもは人妻ではないか…しかも母親だぞ。俺達兄弟に取っては姉の様な存在だった筈だ。これは恋愛感情ではなくて……そう、『家族』みたいなものだ

………『郷里』と言うヤツは、全く以って厄介この上ない。

チリチリと俺を苛む優しい空気を一掃する様に、俺は棺桶を担ぐ手を抱え直した

司祭の埋葬を終えたその身で、俺は郷里を後にした
………母の墓標にもにも、今は何も言いたくはなかった






××××××××××××××××××××





――5月、聖域にも初夏がやって来た
夏特有の乾いた風を頬に感じ、俺は双児宮から北の方角を見上げた
キサイナロスの山々から100q弱離れた此処聖域からは、山脈の影すら目にする事は叶わない
あれから三か月以上の時間が流れ、郷里も今は少しづつ夏を迎える準備をしている時期だろう
…やはり、距離が隔たっていると言うのは良いものだ。
あれ以降、俺はあの時強く感じた得体の知れぬ苛立ちからは完全に解き放たれた日々を送っていた――つい先程までは。
先刻、教皇代理たるサガの許を辞し己の宮に戻って来た俺は、纏っていた重々しい聖衣を脱ぎ捨てるや否や大きな溜息を一つ落とした
教皇宮を訪れた俺にサガが持ち掛けた提案はこうだ。

「今年の誕生日の休暇に、テバイに行って様子を見てきたらどうだ。」

…言うまでもないが、これは提案と言う衣服を纏った命令に他ならない
異論を挟みかけた俺の口を「昨年の休暇では私が行ったのだから。」の一言で制し、サガは文字通り有無を言わせず俺を教皇宮から追い払った
2月に俺が司祭の葬儀に列席するためテバイに赴いたのはあいつの中ではカウントに入っていないのだろうか
兄の独断については今更文句を言ってもどうにもならないどころか余計状況が悪くなる事は既に学習済なので、俺は渋々今年の休暇を一日返上する事にした

…まあ良い、どうせ聖域に居ても酒場に繰り出す位しかやる事が無いのも事実だ。今回一度くらい遠出するのもまた良いかも知れん

自室のカレンダーを俺はチラリと一瞥した
5月30日。休暇である俺の誕生日は丁度一週間後に迫っていた






××××××××××××××××××××





テバイと聖域とではこれ程にも初夏の雰囲気が異なっていただろうか?
思いがけなく湿り気を帯びた空気を肺一杯に吸い込み、俺は声に出さずに唸った
郷里の集落をどっしりと見下ろす様に南に聳えるキサイナロスの山々を仰ぎ、俺はああ、そうかとようやく気付いたのだった
キサイナロスの山影に位置するこの集落は、盆地の地形と南側を山に遮られた日照の影響で若干空気が湿り気を帯びているのだろう
そう言えば、2月に来た時も聖域より雪が深かったのを思い出した
聖域はこの時期のギリシャの気候の特徴に漏れずカラカラに乾き切って草が枯れ始めているものだが、この集落では木々や下草がまだ青々と茂っている

…9年もの日々を此処で過ごしたにも拘わらず、俺は郷里の事を何も分かって居なかったと言うのか。

再び俺の心を煽り始めた焦燥感に苛立ちを隠せず、俺は集落の入り口の巨大なオリーブの古木の葉を一枚引きちぎった


「………木を苛めないで。」


背後から届いた声に驚いた俺が振り返ると、すぐ傍に小さな少女が立っていた
5歳くらいと思しきその少女に、俺は見覚えがあった


「済まない、ゾイ。」


今度は少女の方が驚きを隠し切れない表情を浮かべ、俺を見上げて尋ねた


「どうして私の名前を知ってるの?」

「俺は君のお母さんと古い知り合いなのさ。…それに、2月のお祖父さんの葬儀に俺が居たのを憶えていないのか?」

「うーん………あっ、そうだ、お祖父ちゃんの棺を担いでいた人だ!お母さんのお友達なの?」


…まあな、と簡潔にだけ答え、俺は自分の母の名を持つ少女の顔を改めて覗き込んだ
言うまでもないが、母とは似ていない。似ていたらそれこそ大変な話だろう
サラエボに行っていると言うの夫の顔は知らないが、それを抜きにしてもこのゾイはに似ている
今のと言うよりは、俺の記憶の中の少女だったに、だ
それも当然で、今のよりも13歳だったの方がこの子の今の年齢に近いのだから。
この子も後20年も経てば今のの様な雰囲気になるのだろうか?
そこまで考えて俺は今日の来訪目的を思い出し、小さなゾイに一つ尋ねた


「ゾイ、お母さんは元気か?」


俺が母の友人と聞いてニコニコしていたゾイの顔から、一瞬のうちに喜びの色が掻き消えた


「ううん。お母さん、少し元気がないの。…ちょっと前までは元気だったのに、昨日の昨日の、そのまた昨日くらいからちょっとおかしいの。」

「何があったのかは……分からないか。」


うん、とゾイは首を縦に振った
子供には分からない…否、分からせたくない何かがあったと言う事か。
ゾイの話から察するに、病床に臥せっていると言う類の話ではなさそうだった
俺はゾイの視線まで身体を低く落とし、ゾイの顔を真っ直ぐに見ながら言った


「ゾイ、お母さんの所に俺を連れて行ってもらえるか?俺はカノンだ。今日はお母さんに話があって此処に来たんだ。」

「うん、分かった。じゃあお家に行こう。」


次の瞬間、小さなゾイが俺にその小さな手を差し出した
俺は一瞬戸惑ったが、直ぐに小さな手を握って集落の中へと歩き始めた
ゾイの手は、想像するよりも遥かに柔らかかった





××××××××××××××××××××





「カノン、来てくれたのね。」

「……ああ。」


三か月前と全く同じ会話を交わし、ゾイに付き添われた俺は教会に併設されたの家の玄関を潜った――言葉こそ同じだが、状況は全く異なるだろう事は予測の上だったのだが。
『カノンって人が来たよお母さん』とゾイが先に家の中に入り、母親に許可を得るのを外で待ったのは言うまでもない

先程のゾイの話から予測はしていたが、やはりは病に臥せっている訳ではなく、リビングのキリム張りのソファに足を伸ばして座っていた
俺の姿を捉えると同時に足を床に下ろし立ち上がり掛けたが、俺は片手でのその動きを制した


「いや、そのままで構わない。」

「御免なさいね、カノン。折角此処まで来てくれたのに。…でも、お茶くらいは出させて頂戴。」


は椅子から立ち上がりキッチンに向かった
そのふらふらと揺蕩う様な足取りから一瞬たりとも目を離さず、俺が己の両の腕を組み直すために壁から背を僅かに浮かせた刹那、傍に立っていたゾイが俺の片腕を引いた


「座って、カノン…お兄ちゃん。」

「…ああ、有難う、ゾイ。お前も座ったらどうだ。」


うん、と答え、ゾイが俺が座った場所のすぐ隣に腰を下ろし掛けた所で、キッチンからの声が届いた
物音から察するに、どうやらケトルを火に掛けているようだった


「ゾイ、貴女は少し外で遊んでいて頂戴。ママはカノンとお話があるの。
 ルクマデス(蜂蜜掛けのボール型イーストドーナツ)を作ってあげるわ。出来上がる頃には呼びに行くから、ね。」

「分かった。…じゃあお外でソフィと遊んでるね。」


子供の居るべきでない状況を察したのだろう。ゾイは頷くとすぐに外へ出て行った
5歳くらいの子供の割には恐ろしく物分りの良い子だなと俺は少し薄気味悪くなったが、よく考えてみれば聖職者の娘の子だ
教育が行き届いていても何一つ可笑しくはない
何れにせよ、折角座ろうとしていた所を追い出されたゾイが俺は少し気の毒になった
ソファに腰掛けたまま耳を澄ますと、キッチンから幾つもの器具を取り出すような独特の金属音が俺の耳を掠めた
少し気が引けたのだが、俺はソファから立ち上がるとの居るキッチンへと無言で歩み寄った
はキッチンの作業台の前で小麦粉とイーストを量っていた


「まさか、本当にルクマデスを作っていたのか。あれは時間の掛かる菓子の類だろう。」

「…ええ。約束は約束ですもの。」


俺がキッチンまで来たのが意外だったのだろう、は手にしたボウルと粉ふるいを脇に置いて俺を見上げ、少し笑って見せた

…笑顔を見せる余裕はあるのか。

俺は正直な所安堵し、張り詰めていた力が全身から若干抜けるのを感じたのだが、それが正しかったのか否かが判るまでには物の数分も要さなかった


「…御免なさいね。折角の誕生日なのに、こんな状態でしか貴方を迎えてあげられなくて。」

「憶えていてくれたのか。」

「…カノン、貴方やっぱりサガと双子の兄弟なのね。」

「あいつも同じ事を言ったのか、去年。」


ええ、と短くは答え、数秒挟んで少し不可思議な物を見るような目で俺を再度見上げた


「…怒らないのね。貴方達、確か昔はあまり仲良く無かったのに。」

「俺ももう良い歳だからな。今更あいつと比べられて気にする程の事もない。」


…これは嘘だ。
もし本当だったとしても、そんな境地に至ったのはごくごく最近の事だが、何故だか俺はに己の惨めな過去を曝け出す事を躊躇った
姉の様なには、敢えて弱みを見せたくなかったのだろうか…少し背伸びをしてみせる弟の様に。
俺のそんな子供染みた強がりを察したのだろう、は無言で頷くとまた小麦粉を量り始めた
イーストの灰色の粉にぬるま湯を入れる慣れた手つきを見ているうちに俺は奇妙なデジャヴに襲われたが、その正体に気付くより前に、覗き込んだの表情から異常なまでに生気が消え失せてしまっている事が俄かに俺の注意を引いた
表情を無くしたまま、ただひたすらルクマデスを作り続ける
まるで何かを忘れるために一心に打ち込む姿は、傍で見ていても十二分に痛々しかった

…止めさせなければ。

俺はキッチンの中に踏み込むと、ボウルの中で粉を捏ねていたの右手首をぐい、と引いた
力を加減したつもりだったのだが、はあっ、と声を上げて俺の胸の中に倒れ込んだ
俺達の脇で主を失ったボウルがくるくると回り、作業台の片隅で静かに停止する


「……何があった?一体何がお前をこんな事にしてしまったんだ?」

「痛いわ、カノン。手を放して。」


の手首を掴む俺の指に無駄に力が入ったのだろう、が小さな悲鳴を漏らした
咄嗟に俺が力を緩めると、は両の手で俺の胸板を強く押し人一人分の距離を作って俺から遠ざかり、くるりと背を向けた
すぐ目の前で震える小さなその背中を俺はこの時無性に後ろから抱きしめたくなったが、寸手の所で己を制御した
はキッチンの壁に凭れ、がっくりと倒れ込みそうな自分の体を必死に支えて震えていたが、やがて観念した様に俺に背を向けたまま話し始めた


「三日前、サラエボから連絡があったの。……あの人が…あの人が自殺を図ったって。」

「お前の夫が……。」


文字通り、俺は絶句した。そしてそれ以上自分からは何も訊けなかった
たっぷり2、3分もそのまま時間が流れ、背中を震わせていたは少しだけ落ち着きを取り戻したのだろう、ゆっくりとこちらを向き直った
姉と慕っていたその人の涙に濡れそぼったその表情は、正直な所直視するには厳しかった
…だが、今俺がの不安な気持ちを受け止めないで、他の誰が受け止められると言うのか?
サガにすら、俺はその役割を譲りたくは無かった
は俺の顔をすぐ間近に見上げ、すいと少し視線を横に向けて肩を落とした


「…カノンは『民族浄化』って聞いた事ある?」

「………ああ。」


民族浄化。それは子供を持つ母親の口からは恐らくは最も発したくは無い単語だ。
90年代初頭に旧ユーゴスラヴィア地域の一部で引き起った悲劇と言っても良いだろう
この地域では古来、複数の民族が入り組んで生活していたのだが、内戦を契機に民族間でありとあらゆる暴力や排除行為が起きた
その中でも最たる汚点がこの民族浄化だ
殺害や略奪などを指すこともあるが、この地域で起こった民族浄化は特殊な暴力の様相を呈している
対立民族の女性を集団で暴行し、堕胎不可能な時期まで監禁した挙句に放り出して自分たちの子供を産ませると言う卑劣極まりないこの行為によって、多くの女性が強制的に心に傷を負った未婚の母となった
遥か遠い昔の蛮行の様にも思えるが、この時生まれた悲劇の子供たちは今現在まだ25歳前後なのだ。
バルカン最南端のギリシャは旧ユーゴと国境を接するだけに、この手の情報は内戦中もリアルタイムに伝わっていた


「あの人、その被害者の救済プログラムに参加していたの。
 …今、40代から50代になっている被害者の女性の多くは、国から補助を貰って一人で子供を育てているの。そのカウンセリングの一部を国教会が担当していて、そこで彼女達の悩みを聞いたりしていたみたい。」

「そうか…。」


女性達の告白は余程ショックな内容だったのだろう
月に一回、補助金給付日に開かれると言う被害女性の集会では半ば気の触れた状態の参加者も居て、時折異様な光景に包まれると聞いた事がある
――被害者の多くはムスリム系女性で、加害者はセルビア人が多かった
そのセルビア人が帰属する国教会がカウンセリングを担当していると言うのも皮肉な話だが、罪滅ぼしと融和の一環に位置付けられているのかもしれない
ともあれ、当事者ではない一ギリシャ人であるの夫には衝撃が余程強かったのだろう。ましてや、妻や幼い女児を持つ父親の身としては
被害者達の恐怖はそのまま自分の家族の恐怖の様に感じられる事も多かったに違いない
いや、中には国教会に恨みを持っていて、それをそのままの夫にぶつけて来る被害者もいたかもしれない
…聖職者とは言ってみた所でやはり一人の人間だ。


「一か月くらい前からあの人、少し調子を崩して安定剤を処方されていたらしいの。
 ……それを大量に服薬して病院に運び込まれたと連絡が入って…。」


…一命は取り留めた。だが問題は其処では無い
俺は吐き出したかったその一言をぐっと飲み下し、を無言で見詰めた
は俺の顔を見上げたまま、声を殺して涙を流していた


「三日前に国教会から連絡が入って、私、すぐにサラエボに行こうとしたの。…でも、教会内の規約で赴任中に家族は会えない事になっているから来てはいけないと言われたの。」


…ふざけるな。人の生死の掛かった事態に、規約も何も無いだろう
そんなくだらん宗教なら信心など捨ててしまえと俺は内心で怒りを沸々と滾らせた


「意識はもう戻ったのか?」

「………ええ、今朝。あちらの病院の医師から連絡が入って、時間は掛かるけど身体は元に戻る筈だ、と。」


…『身体は』、か。医師も上手い事言ってくれる物だ
目の前でただ無力に涙を流し続けるを見ているうちに、俺は段々自分が腹立たしさを抑え切れなくなって来ている事に気付き、尚一層の事強い苛立ちを感じた
この苛立ちは何かに似ている―――そうだ。『自分の罪は許され難い』などと尤もな御託を並べて、残される他人の事など顧みず、ただ己の苦しみからの解放だけを望むあの男に。
苛立ちの正体を知った所で俺がそこから解放されるかと言えばそんな事も無く、寧ろ余計に怒りが俺の体内を駆け巡り荒れ狂った
気が付くと、俺はの身体を正面からきつく抱き締めていた
の小さな身体が俺の腕の中で困った様に身動ぎする


「…カ…ノン、何を……!?」

「お前は……お前はそれで良いのか?」

「良いのかって…何が……?」

「お前とゾイの手を振りほどいて、勝手に命を投げ出そうとする男を許せるのか?
 己が苦しいからと言う理由で、お前たちが苦しもうが悲しもうが御構い無しに自殺する男を、お前は夫として愛せるのか?」


俺の腕の中では両の手で自分の顔を覆い、頭を激しく横に振った


「違う!違うわカノン。」


必死に否定するの身体が小刻みに震えている
俺がのその顎に手をあてがい上向かせると、の瞳は流れ出す涙で一杯になっていた


「違うものか!…現に今こうしてお前は不安に苛まれている。行く事すら能わないこんな遠い場所で、だ。
 本当にお前たちの事を愛していたら、そんな無責任な事など出来るものか。…俺だったら、お前を絶対に悲しませたりはしない。絶対にだ!」

「カノン………。」


俺の腕の中で、の身体が突如ぐったりと弛緩した
……力の抜けた女の身体はこんなにも重く感じるのか。
俺はその感触に心底驚き、抱き締めたの身体をしっかりと抱えリビングのソファへとゆっくり下ろした

をこのまま、俺の手で壊してしまいたい。

俺の脊髄を強く激しい衝動が駆け抜けたが、ソファに横たわるの目を覗き込んだ瞬間にその思いは掻き消された
俺を見上げるのその瞳には柔らかな笑みが拡がっていた


「…ありがとうカノン。私、貴方にそう言って貰えて嬉しかった。……心の何処かでは、やっぱり不安で仕方なかったんだと思う。
 あの人は今どうしているんだろう、そしてあの人がこの世から消えてしまったら私達はどうやって生きて行けば良いのだろう、冷たくなってしまったあの人を目の前にしたら私は…?
 もし身体が生きていたとしても、心が死んでしまっていたらどうすれば良いのだろう。
 あの子には夫のした事ををどうやって伝えたら良いのか、それともずっと黙っていた方が良いのか…ずっとそんな事ばかり考えてた。
 ……あの人の優しさと、その裏側にある弱さをずっと知っていたから、いつかこうなってしまうかもしれないと思ってた。でも、それは私の考えすぎであって欲しいと。…でも、それが現実になった。
 幾ら予測してみた所で、実際に目の当たりにすると人間はやっぱり不安で押し潰されそうになるものなのね。
 でもカノン、貴方の一言でその不安な気持ちが消えた。」

「……。」


ソファに横たわったままのが片方の手を差し出したので、俺は思わずその手を取った
俺の掌をの柔らかなそれが優しく包み込んだ


「だから私、信じてみるわ。……あの人をこの先も支えて行ける筈だと。
 もしかしたら遠くない所に終わりがあるかもしれない。あの人の苦しみはあの人の物で、私は替わってあげられはしないから。
 でもそれと同じ様に、私の人生は私の物。誰にも替りは出来ない。…そして、ゾイに取って私以外に母はいないのと同様、あの人以外に父親はいない。
 だったら、私とゾイとあの人の三人でこれから先も精一杯生きて行くのが一番良い方法なんだと、そう思うの。
 …でも。」

「………でも…?」

「でも、もし辛い事があったら、今日のカノンの言葉を思い出す。『俺だったら、お前を絶対に悲しませたりはしない。』って。私、もう不安に悩まされなくても良いんだって。
 …だからカノン、私はもう大丈夫。………ありがとう。」


の笑顔は慈愛に満ち満ちていて、俺の心をチクチクと刺した―――『母』の優しさと言う、僅かに残酷さを含む郷愁が。

ソファの脇から膝を起こしに背を向けた俺の背後から、小さな、だがしっかりとした声が届いた




「…誕生日おめでとう、カノン。」




俺は無言で背後のに片手を挙げて見せ、玄関のドアの前まで歩き去った
チラリと一瞥したキッチンでは、昔母が俺達に作ってくれたのと同様にルクマデスの生地がふんわりと発酵し、イーストの良い香りを放っていた








<BACK>