まだかなり幼い頃、『自分が死んだらどうなるのか』について考えてみた事がある
朝になってもこの目は醒めず、朝食を食べる事もない
――ただ真っ暗で、何も感じられない自分の世界と、色鮮やかな世界の中で普通に生活する他の人達。
少し想像してみただけでそれはとても恐ろしく、私はすぐに考えるのを止めてしまった
死の訪(おとな)いを受けた自分を思うその恐ろしいほどの空虚さは、丁度、滅びた後の地球の姿を想像する事に似ていた
――何が原因かは判らないが、誰一人いなくなった地球の上にただ広がる墓標の群れ。
視界は徐々にフェイドアウトし、恐ろしく広い宇宙空間の中に取り残されたこの惑星の姿。
ほかの星に誰も生命が存在しないと仮定すれば、誰一人として何も思う事も無く、ただ時間だけ滔々とが流れて行く冥(くら)い宇宙
一人一人の上に確実に訪れる『死』とは、多分こんな物なのだろう
それが自分に訪れるのは恐らく当分先なのだと強く言い聞かせる事で、私はそれ以上『死』について考える事を止めた
…真っ暗な闇は、その一瞬後にも自分を包んでしまうかもしれないのだけれども。





此岸の花、彼岸の鳥





――聖域、初夏。

ギリシャの初夏の風は日本と異なり湿り気を殆ど含まず、カラカラに乾き切っている
その乾いた風に己の黒髪と純白のキトンを靡かせ、は此処白羊宮から続く階段を一歩一歩踏みしめて昇り始めた
しばしば任務で聖域外に出る事もあるは、これまでに何度、こうしてこの階段を昇って来た事だろう
双児宮脇にある己に与えられた泉守小屋に至る途上、徐々に視界が開けて行くこの道程がはとても好きだった
時折振り返ると、眼下の白亜の宮殿や闘技場が少しづつ小さくなり、まるで自分が鳥にでもなっかの様な気分になってふと嬉しくなる
――だが、今回は違った。

頬を掠める風が、まるで刃物の様に鋭利に感じる
頭上に広がる青空は唯々遠過ぎて、見上げる事すら無意味に思える
ましてや、後ろを振り返って己が身を鳥になぞらえる事など酷く空虚に思えて、はその目を伏せてただ自分の目の前に延々と繰り返す白い石段の群れだけを網膜に焼き付けるのだった

途上、白羊宮と金牛宮の住人はの前に姿を現さなかった
何時もであればムウはをお茶に誘うか、時間のない時でも多少の世間話をするために宮の表に顔を見せた物だ
ムウと比較すれば任務で不在がちのアルデバランも、宮殿に居る時は大抵表に出てきて一言二言挨拶くらいは交わすのが常だった
……聖闘士である彼らが、常人であるの気配を気取られぬ筈は無い。
彼らなりの思い遣りをひしひしと感じ、は心の裏(うち)でそっと彼らに感謝の意を表すのだった


一週間ぶりに戻って来た泉守小屋――我が家――は、をそれでも温かく迎え入れてくれた
…一週間前とまったく同じ小物が並び、そしてまったく同じ配置の家具
たった一週間留守にしただけなのに、自分の家が恐ろしい程色彩の無い世界に見える

…いや、変わってしまったのは、私の方。
七日間の間に、私の世界は酷く色褪せてしまった。

項垂れたまま、はただ力無くベッドに己の身を滑り込ませた
身を横たえるには日がまだ高い事など、今のには何の意味も無い情報に過ぎなかった





××××××××××××××××××××







翌朝、何時もより早い時間には目を醒ました
昨日は相当早い時間に床に入ったのだから当然と言えば当然かもしれないが、それでも日々身に付いた早起きの習慣は今のにこれからどうすべきかを優しく訴えかけている
ベッドから降りたは窓に近付くと、ガラス越しに外の樹々をぼんやりと眺めた
刹那、カーテンすら閉め忘れて眠ってしまった事に今更ながら気付き、は小さく己の頭を横に振った
外は少し風が強いのだろう、梢の葉が秩序を失って揺れているのが目に入る
窓を開けると、サアッとさやかな葉擦れの音がの耳を誘った
朝を迎えたばかりの森は僅かな湿り気を含み、の頬を優しく撫でた


「そう…ね。私には果たすべき任務がある。……今は唯…。」


それに身を任せよう。
最後の一言は声に出さず、は窓を閉ざすと裾の聊(いささ)か短いキトンをクローゼットから選び身に纏った
己の姿を鏡に映し、おかしな所がないのをチェックして部屋を出る
寝室のドアを閉ざす寸前にクローゼットの脇に昨晩から放置されたままの鞄の存在にふと気付き、は鞄の中から小さな写真立てを取り出した
中に収められた写真には、柔らかに微笑む女性が佇んでいる


「今日から此処に居てね………。
此処が今は私の『家』なのよ………母さん。」


少しに似た面影に僅かな笑みを作り、は写真立てをベッドの脇の小さなテーブルに置いた





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年年歳歳変わらずに乾き切った五月の風が森の木々を揺らし、の横顔にチラチラと小さな光と影を交差させる
足捌き良く衣擦れするキトンの中でゆっくりと脚を前後させて、は小屋からすぐ近くにある聖域の「泉」へと一歩一歩、歩き出した
昨日ののろのろとした足取りに比すれば若干軽快さを感じさせはするものの、やはり何時ものの軽やかさからはほど遠い
唯、それでも今のに取っては十二分な心のリハビリではあった
ザザザァッ
木々の間を吹き抜けた一陣の風がの髪を俄かに後ろから前へと強く撫で上げた
掻き鳴らされたハープの弦の様にさらさらと不規則に揺れた横髪が頬に纏わりつき、がそれをそっと指で掻き上げると、広くなった視界の端に小さな青い塊が掠めた
泉の傍らに佇むそれは、よくよく見ると人間の背中であった
片膝を着き、若干背中を屈め地面を窺う様に伏せた頭部の後ろから流れる長い後ろ髪の色が、の網膜上に「青い塊」を形成していたのだった

…あれは……確か、教皇補佐のサガ様…?

泉守と言う職務上、度々教皇宮殿に報告に上がるは、其処で何度か教皇補佐のサガに遭遇する事があった
大抵、教皇シオンのおわす謁見室の前の回廊や、補佐官用の居室付近での事だが、顔を合わせると一言二言くらいは言葉を交わす、その程度だ
だが、それだけの事であっても、には今、自分の前で背を向けるこの男が紛れも無くサガである事は断言できた
サガには、同じ顔の弟・カノンが居る
教皇宮に詰めている兄に替り、双児宮には大抵この弟が駐留しているのだが、顔や体つきこそ同じこの弟をはすぐに看破出来た
兄と弟では表情や仕草、服装が相当に異なるからだ。
今、の眼前に佇む男は丈の長いヒマティオンを身に纏っている
それは、サガがこの聖域において教皇宮以外の場所で身に着けている物であり、それに対して弟カノンは雑兵や訓練生が身に着けるトゥニカとボトムを常に纏っている
後背から表情や仕草は窺い知れないが、服装だけは今のからでも辛うじて判別が出来ると言う訳だ
…だが、目の前の人影がサガだと言う所まで来て、は俄かに躊躇いを感じた

サガ様は一体何をしているのだろう…?

自分に背を向けたまま、教皇補佐は屈み込んで一体何をしていると言うのか
少し距離もあり、更に後ろからなので仔細には判り難いが、サガの腕が僅かに動いているように思える
地面を見詰めていると思しき顔はピクリとも動かず、手先だけ小刻みに動いているその様はに取って一種の違和感を抱かせるには十二分と言えよう
…今のサガに声を掛けるのは、流石に憚られる
かと言って今自分が何がしかの動きを取れば、きっとサガはの気配に気付いてしまうだろう
は唯、サガの邪魔をしたくなかった
出来うる限り呼吸も小さく落とし、が周囲の木々と紛う程に気配を消すこと暫し、サガはようやくその場に立ち上がった
木々の葉擦れと水の湧く音以外、しんと静まり返った泉にフゥ…と小さなサガの溜息が零れる
立ち上がったサガは項垂れたまま、地面に向けて何か小さく言の葉を紡いだ
にはサガが何を言ったのかまでは聞き取れなかったが、地面に向けて手を翳すその仕草からきっと祈りの言葉の類ではないかと推量した矢先、サガはに背を向けたまま双児宮へと続く道を歩き去った
ヒマティオンに包まれたサガの背中をたっぷり見送った後、は今の今までサガが佇んでいたまさにその場所へと歩み寄った


「…これ、何かを……」


…埋めた…?

草生(む)す泉の滸(ほとり)に、一箇所だけ土が露出した場所があった
丁度大きな緑の画用紙を丸く刳り貫いた様な茶色のそれは、サガが手を翳して何かを唱えていた箇所だった
よくよく観察してみると、僅かに土が盛り上がっているのが判る
やはり、サガは此処に何かを埋めたのだろうか
無論、この大きさから言って大した物では無い事だろう
恐らく、せいぜい握り拳程度の小物ではないだろうか
…しかし、そうは言った所でそれが一体何なのか、は気に掛からないと言えば嘘になる


「……でも、やっぱり止めておこう。」


…サガ様の触れてはならない部分に私の手を伸ばすのは。

此処聖域に在籍する事となってまだ年の浅いとて、サガにまつわる過去の暗い噂は何度か耳にした事がある
しかも、恐らくその噂が根も葉もない唯の「噂」ではなく、動かしがたい事実である事も。
だが、それとは無関係に、サガの心の中を無断で覗いてしまうのはやはりには躊躇われた
時折言葉を交わす現在のサガは、に取っては敬愛すべき清らかな心根の持ち主以外の何者でもないのだから。

そんなに気に掛かるなら、サガ様に直接尋ねてみれば良いじゃないの…

眼下の茶色い小山と頭上の青い空を交互に見詰め、は溜息を落として泉へと踵を返した








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よ、報告は以上か。」

「御意。」

「大儀であった。退がって良いぞ。」

「は。…では、失礼いたします。」


抑揚を抑えた教皇シオンの声が謁見室に響いた
――教皇宮殿・謁見室。
其処は、この聖域を総べる教皇・シオンが常駐し、大小数多の任務・決裁を日々下す聖なる場所である
昼下がり――と言うよりはほぼ夕刻に近付いた時分、は朝方に採取・分析を終えた泉の銀星砂のデータを報告書の様式に纏め、シオンに提出するために参上していた
報告書の概要を口上でさらりと述べたであるが、週に一度のこの報告の際は毎回、実は相当に緊張している
眼前の教皇はその玲瓏な表情の奥底に厳然とした品格を漲らせており、うっかりミスでも犯そうものなら瞬く間に厳しく窘められてしまうと専らの噂であったからだ
幸い、今日は一分の滞りもなく報告を終え、はほっと安堵の面持ちを浮かべ、謁見室を辞す事が叶った
去り際、のその表情に気付いたシオンが内心で思わず苦笑した事は言うまでもない

ギギギ…と古色蒼然たる音を醸し、背後の扉が閉ざされる
改めてほぅ…と一つ安堵のため息を落とし回廊に敷かれた真紅の豪奢な絨毯の上を歩き出したは、突き当りに近付いた所でふと人影に気付いた

………サガ様だ。

回廊の突き当りを曲がった所には教皇補佐サガの部屋がある
丁度、自室から出てきたばかりの所だったようだ
これから外務に当たる予定なのだろうか、何時ものヒマティオン姿ではなく金色の鎧姿のサガの端正な横顔にはその場で足を止め、無意識に息を呑んだ


。猊下の元に報告に参上したのかな。」

「…はい。」


の方に顔を向けたサガが、柔らかな笑みを湛える
思わずドキリとしてしまっただが、ふっと今朝のサガの後姿が脳裏をよぎり俄かにその愁眉を寄せた
の様子に気付き、サガもごく僅かに首を傾げた


「どうした、?」

「………いえ…。」

「何もない、と言う顔ではなさそうだが。」


サガが回廊の突き当りからゆっくりとこちらに近付いて来る
その顔には懐疑と言うよりはこちらを心配している表情が刻まれており、はサガが近付いて来るのをただ黙って待つより他に術が無かった
のすぐ傍まで来たサガが、顔を覗き込むようにを見下ろした

…そうよ、この人は『悪の化身』などではないわ。決して。

若干俯き加減だった自分の顔を上向け、は自分のすぐ傍にあるサガの顔を見上げた


「……今朝、サガ様をお見かけしました。………泉の側で。」


のその一言に意表を突かれたのだろうか、サガは俄かに目を細め、ああ…と遅れて返事を返した


「見ていたのか、。」

「はい。…申し訳ありません。」

「いや、君が謝罪する必要は何一つ無いよ。……しかし、どうしてその時私に声を掛けなかったのかな。」

「それは………。」


…サガ様のお邪魔をしてはいけないような気がしたから。

その一言を告げようとして若干の逡巡を感じたが口を噤む
俄かに掻き曇ったの表情をじっと見詰め、サガはの背に大きな左手でそっと触れた


「此処で立ち話を続ける事もないだろう。……私の執務室へ。」

「…え…っ…?でも…サガ様はこれから聖域外<そと>へいらっしゃるのではないですか?」

「今は外務より、君と話したい。……ああ、無論後で外務にはきちんと赴くから君は何一つ気に病む必要は無い。…さあ。」


其処まで言われて、に断るべくもなく。

……温かい。

唯、こうして背中に置かれたサガの掌の温度が心地よい。…それだけで十分ではないか?
脳裏に過り掛けたサガの『黒い噂』を払拭する様に己の頭(こうべ)を軽く左右に振り、はサガに促されるまま、教皇補佐執務室の敷居を超えた








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「こんな場所が在ったんですね、聖域<ここ>に。」


突如視界一杯に広がった絶景に、は眩しげに眼を細めた
教皇補佐官室のテラスからは、エーゲ海が文字通り一望出来た
遙か彼方まで延々と続く深い藍色の水面が初夏の陽光をきらきらと反射し、思わず声を失ってしまう
の隣に立ったサガはフッ…と口元を綻ばせた


「ああ、なかなかの景色だろう。…このテラスは教皇宮の正面と真逆に面しているから、丁度十二宮と逆側の方角に開けているのだ。
 余人禁制の女神神殿を除いて聖域<ここ>で一番高い場所にあるのがこの教皇宮だが、普段この宮殿に用事のある者は大抵正面側にしか足を踏み入れない。
だからこの景色を目にするのは私くらいのものかもしれない。」


サガ様の居室からこの景色が見えるのなら、教皇猊下もご覧になっているのではないですか?
そう訊ねようとして、は咄嗟にはっと言葉を飲み込んだ
気付いたサガが僅かに苦笑する


「…教皇猊下の居室は保安上、どの部屋も四面総てが壁で覆われているのだよ。」


はサガのその言葉に返事を返さず、唯黙って頷いた

…そうよ。この人はそれを知っている。十三年も教皇宮に居たのだから…。

悔いすぎる程に己の前非を悔いているその男を前に、自分は何と浅はかで無神経な事を口の端に乗せようとしていたのか
は自分自身が酷く愚鈍な存在に思え、肩を落として己を深く呪った
傍らのサガはに慰めの言葉を掛けようと口を開き掛けたが、再び口を噤んだ
――自分が今、何を言った所での後悔を完全に払拭する事は出来ないと、そう解っているからだ
二者二様のまま、長い様で短い、短い様でいて途轍もなく長い時間が流れた――実際の所は、ものの数分くらいのものである事を目の前のエーゲ海の潮の鼓動が教えてくれるのだが


「……鳥だ。とても小さな。」


二人の間を隔てた扉を開いたのは、サガの方だった
サガの口から発せられた一言の真意が解らず、眉を顰めたは隣に立つサガの顔を見上げた
訝しげなの表情をじっと見詰め、サガは少し目を細めてまた眼前の海に向き直った
サガの視線の先、まだ日の入りには程遠い水面は、燦々と降り注ぐ陽光を次々に反射させる事で緩やかな時を刻んでいる


「昨晩遅く、私が休もうとした時だった。この窓に飛び込んで来たのだ。
 この窓はこの通り大きな一枚ガラスだ。…だから、きっと此処が開けた空間だと思ったのだろう。……可哀そうな事をした。」


其処まで聞いて、はあっ…と呼吸を止めた

…そうか、今朝のあれは小鳥だったんだ……。

一夜明け、冷たくなった小鳥をそっと埋めるサガ。
容易く喪われた一つの命に、深い鎮魂の祈りを捧げるサガ。
それは何と尊く敬虔な行為なのだろう
今朝、たとえ一瞬と雖も、この人の『噂』を思い起こしてしまった自分が恥ずかしい

再三己の存在を今すぐにサガの前から滅却してしまいたくなったの脳裏を刹那、二つの像が去来する
――今朝のサガと、一週間前の力無き己の姿が。
冷え切った小鳥の死骸を掌に包むサガと、もっと冷え切った母親の身体を前に項垂れる自分。
その二者がぴたりとシンクロし、の心の底に色濃い染みを滲ませた

傍らのサガは、何も言わない。
それは、今のが何を思い起こしているのかをサガ自身が一番よく理解しているからに他ならない
彼一流の思い遣りなのだ
…いや、サガだけではない。ムウも、アルデバランも、聖域<ここ>に息衝く総ての人が、昨日が帰って来た時から、沈黙の姿を取った深い思慮と哀悼をに対して静かに示し続けているのだ
絶えず『死』と隣り合わせの――寧ろ日常茶飯と言ってもいい程の――この場所であっても、否、だからこそ、この聖域の住人達はただ静かにの悲しみを見守っている

の頬を一筋の涙が流れた
滲む視界の中で、エーゲ海に反射する陽光が幾つもの小さな光の珠になり、の網膜上に白い痕跡を次々と形作った


「…泣きなさい、。」


傍らのサガが、ゆっくりとを向き直る
は目の前の金色の鎧の胸に顔を埋め、激しく嗚咽を漏らして母を呼んだ


「辛かっただろう。…、今は泣きたいだけ泣きなさい。」


肩を震わせて激しく泣くの髪を、ふわりとした温かさが包んだ
サガの大きな掌が、の髪をゆっくりと撫で下ろしている
何度も何度も繰り返されるその動きは、眼前の海のうねりと不思議に似ていた






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「…母が危篤になったと、一週間前に突然連絡が入ったんです。」


テラスに設えられた白い椅子に腰かけ、はぽつりぽつりと話し始めた
サガはテラスの手すりに背を預け、陽光を背にして傍らのを見下ろしている
サガの表情は逆光になって見えにくい筈であるのに、不思議とには今のサガの穏やかな顔がはっきりと感じ取られた
相槌を入れるでもなく促すでもなく、サガはただじっとの話に耳を傾けている
『聖職者の真髄とは聴く事である』と記した偉人が居たが、それは真に正鵠を射ていると言えるかもしれない
すっかり涙の乾いた目元を少し細め、は煌めく水面を眩しげに見詰めた


「…急いで帰りました、最後に母にどうしても一目、会いたくて。でも………日本は途轍もなく遠かった。
辿り着いた時にはもう………。」


初夏のエーゲ海を映したの目尻をツ…と透き通った滴が一筋伝った
先程までサガの胸で泣きに泣いたおかげで、今はもう激しい嗚咽が喉を突いて出て来る事は無い
唯音も無く静かに伝い落ちたの涙がテラスの大理石の床に滴り、ポタリと幽き音を醸した


「……そうだったのか。」


サガは呟く様に一言だけ答え、静かに頷いた
後から後から湧いて来ての視界を滲ませる涙をごしごしと擦ると、は視線を海からサガに遷しごく微かに唇の端で笑顔の形を作って見せた


「今月の初めに、母に花を贈ったんです。母の好きな、小さな向日葵の花を。」

「…母の日の贈り物、だな。」

「ええ、そうです。私が聖域<ここ>に来てから、毎年この時期に贈り続けて来たんです。
 …故郷から遠く隔たった私にはそれくらいしか出来る事はありませんでしたから。………でも……。」


は静かに自分の話に耳を傾けるサガの瞳をじっと見詰め、それから頭上遙かな空を見上げた
サガも釣られる様に上空を仰ぐ―――昨日の今頃はあの小鳥が軽やかに羽ばたいていたであろう、澄んだ空を。


「母が息を引き取ったばかりの病院に辿り着いたら、病床に飾ってあったんです……私の贈った向日葵が。
 母の具合が良くないのは前から判っていました。でも、その花を贈った時は母は紛れも無く生きていたんです。『花をありがとう』って嬉しそうに電話もくれて。
………なのに、私が辿り着いたら、母はもう………。その枕元で向日葵だけが大輪に咲き誇っていて、それを見たら私………!」


上空を向いた目元から、涙がボロボロと湧き出した
顔を上向けているためだろう、涙はの頬を掠め耳の中にまで入り込んだ
サガはやはり黙ったまま、再三の表情をじっと見遣る
やがては視線を海に戻し、下顎に残る涙を指で拭った
その唇は硬く硬く引き結ばれていて、サガは思わず眉根を寄せた


「母はきっと私に会いたかったんだと、そう思います。だから、今か今かと私をずっと待ちながら息を引き取ったに違いない、と。
…間に合わなかった私を、きっと母は心残りのまま……いいえ、きっと恨んでいたかもしれない。私は最期まで母を苦しめてしまった自分自身が許せないんです。」


下唇をきつく噛んだの口元に、微かに血が滲んだ
いや、唇だけではない。膝の上に置かれた両の手も硬く握りしめられ、爪が指の腹に食い込んで悲鳴を上げている
サガは愁眉を寄せたまま、静かに口を開いた


「それは違う、。」

「いいえ、違いません!……そうやって私を宥めないで下さい、サガ様。私は母を傷付け、苦しめてしまったんです。許される筈がないじゃないですか。
 死を目の前に唯一人きりで、母はどれだけ苦しんで怖かった事か…!
 許されてはいけないんです。大きな罪を犯したこの私が………!」

「………。」


自分の名を低く通る優しい呼ばれて、ははっと我に返り顔を上向けた
気が付くと、と海との間を遮るようにサガがのすぐ傍まで歩み寄り、の顔を覗き込んでいる
その端正な顔には慈愛の他に何故か切な気な――否、儚げな、と表した方が妥当だろうか――表情が微かに滲んでいて、はその場で言葉を失い、唯サガの整った顔をじっと見詰め続けるより他に無かった
視界の中のサガはの瞳の向こうに何か遠い物を見詰めているように思えて、は形の無い悲しみを胸の奥底に感じた
少し緩められたの拳に己の大きな掌を添え、サガはゆっくりと包み込んだ
に伝わるサガの熱は穏やかでとても温かい。


「それは違うんだ、。…君の母君は、決して君を恨んだりはしていない。」

「でも……母はきっと、間に合わなかった私を許さないと……。」


まだ少しだけサガに食い下がるにニコリと笑みを投げ掛け、サガはゆっくりと頭(こうべ)を横に振った
に向けて細められたサガの瞳は正に聖母の様に神々しくもあり、また同時に生身の人間の持つ脆さをも感じさせる
それをすぐ目の前に見るのは不思議な感覚ではあったが、唯一つだけ言えるのは、サガは恐ろしい存在ではないと言う事だ。
を見詰めたまま、サガは緩やかに口を開いた


「私の母が亡くなったのは、私が9歳の頃だった。…母は長い事肺を患っていた。
 当時私はまだ聖域に上がっていなかったから、母の看病は私と弟のカノンの二人でやっていたのだよ。」

「……サガ様……。」

「私たちは親子三人だけの暮らしだったが、周囲の人たちが皆親切にしてくれたおかげで私と弟は交互に看病に当たる事が出来た。
 …だが、それでも母が永くない事は解っていた。無論、医師がそれを教えてくれたのもあるが、母の顔を見ていると幼子にすらそれが解ってしまう。」


サガはそこまで語ると、俄かに目を閉じた
…おそらく20年近く前のその光景を思い起こしているのだろう
は先程のサガの表情の中の脆さの正体を察しつつ、黙って話の続きを待った


「どの時点を以って母が危篤に陥ったと断言するのは難しかった。母は自宅にいて、私たちがずっと付いているだけだったから。
 唯、夕刻に母が呼び掛けに途切れ途切れにしか応えなくなった。だからカノンがすぐに医者を呼びに行った。医師は夜道を急いでやって来て、明日の朝までが精一杯だろうと言って帰った。
 ……それから夜明けまで8時間、私たちは母の傍でじっと『その時』を待った。」

「………。」

「途中、何度も吐血した。その度に私とカノンは母の口元を拭ったが、泡の様になった血が次から次へと出て来てな。
これだけ沢山の血が無くなったら失血だけで母は死んでしまうのではないかと思ったが、今から思い起こせば実際の吐血量は大した事は無かったのかもしれない。
そして明け方、母の呼吸がおかしくなって来た。顎が細かく震えて、短い息ばかりになった。…恐らく、吐く息の量に比して吸う力が無くなって来たのだろう。
息が吸えなくなって来たら、後は自然に心臓の鼓動が小さくなって行く。………そして、母の生涯は幕を閉じた。」


淡々と語るサガの言葉に、は何も言えなかった
……サガの話の内容に言葉を失ったのもある。だが、自分には何かを言う資格は無いと、は寧ろ自分を戒めたと言った方が正しかった
そこまで語り終えて、サガは目の前のに再度優しい笑みを浮かべて見せた


「幼子の私に取って、そうしてじっと母を送るのはとても辛かった。…恐らくは弟のカノンもそうだっただろう。
 だから、私は気付いた。―――送る者の辛さに比べたら、死ぬ事は遙かに恐ろしく無いのだと。
 聖闘士であるこの身は常に死と隣り合わせだ。
…だが、愛する者を送る辛さを知ってしまえば、自分が死を迎える瞬間がやって来たとしても、微塵も恐ろしくはないだろうと、そう思う。」

「送る辛さ………。」


私は…それを知らない。

その一言だけは飲み込んで、は短く言葉を漏らした
サガはの飲み込んだその言葉を察したのだろう。のもう片方の拳を掌で優しく包み込んでその場に立たせた
…サガの澄んだ青眸がの顔のすぐ上にあり、優しく笑う


「きっとの母君もその事を知っていたと、私はそう思う。…だから、自分の最期に間に合わなかったを、母君は決して恨んではいない。
 きっと安らかな気持ちで天に召された事だろう。」

「サガ様……。」


は堪え切れず、サガの胸に己の顔を埋めた
………今度は悲しみや悔恨ではなく、喜びの涙に。
サガはそっとの背に腕を回し、優しく抱きしめた


「実は、私は君に一つだけ嘘を吐いていた。」

「………え…?」


突然の告白に驚いたがサガの腕の中で顔を上げる
不思議そうに自分を見詰めるに、サガは眉尻を少し下げて笑って見せた


「今朝、君が泉で私を見ていた事に本当は気が付いていた。」

「ええっ…?ではどうして……。」

、君とこうして此処で話したかった。…だから気付かぬ振りをしてそのまま帰って、先刻君が謁見室を下がるのに合わせて回廊で待っていた。」

「サガ様……。」

「勿論、今回の事で落ち込んでいる君を励ましたいと、そう思ったのが一番の理由だ。」


そこまで言って、サガは殊更わざとらしく数回咳払いを繰り返した
サガの腕の中で、はくすくすと軽やかな笑い声を上げた








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