その夜、風呂から上がってすっきりしたは、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した
グラスに手を伸ばした瞬間、ふと仕事用の鞄が視界を掠めた


「…そうだ、アイオリアが言ってた絵本…。」


飲み干して空になったグラスをサイドテーブルに置き、はベッドにごろりと横になった
緑色の表紙を一枚めくりながら、は幼い頃と同じときめきを覚えた


「なんか、本に対してこんなにどきどきするのってものすごく久しぶりな気がする。」


一人暮らしで他に誰もいない部屋に、はひとりごちた

アイオリアが勧めた絵本は、表紙をめくると一本の林檎の木と小さな男の子が描かれていた
『むかし、<ちいさなおとこのこ>と<りんごの木>があって、ふたりはとてもなかよし』の一文でその作品は始まった
そこから数ページに渡り、<ちいさなおとこのこ>と<りんごの木>が如何に仲良く、幸せに時間を共有しているかが描き出されているのを眺めているうちに、奇妙な既視感がに沸き上がった


「…あれ?私、なんだかこの話、どこかで見たような…。
 気のせいかしら…。」


なんだろう、この絵を見ていると酷く悲しい気分になって来る……こんなに幸せな描写なのに…

首を傾げて、は更にページをめくった







『<おとこのこ>と遊び、唯々幸せな<りんごの木>だったが、やがて少しづつ大きくなった<おとこのこ>は彼女の許を訪れなくなってしまう
 …それでも、彼女は待っていた

ある日、すっかり少年になった<おとこのこ>が彼女の許にやって来る
…彼女の喜びはいかばかりものだっただろう

昔のように私に登って遊びなさいと誘う彼女に、<おとこのこ>は笑って言う
「今更子供じゃあるまいし。それより僕は街で買い物をしたい。僕にお金をくれるかい?」

お金など持つはずもない<りんごの木>は、少し困って言った
「それでは私のりんごを持って行って売りなさい」

<おとこのこ>は彼女の実をすべてもぎ取り、さっさと持っていってしまった

しかし、それで彼女は幸せだった



そしてそれからまた数年、彼女は孤独を強いられていた
そこに、今や立派な青年になった<おとこのこ>が姿を見せた

<りんごの木>は、矢も盾もたまらず<おとこのこ>に語り掛けた
「さあ、ぼうや。私の幹に登ってあそびなさい」

しかし、<おとこのこ>は言う
「今更木登りなんてしないよ。それより僕はお嫁さんが欲しい。そのためには家が要る。
 僕に家をくれるかい?」

困った<りんごの木>は言った
「それでは、私の枝を切りなさい。それで家を作ることができるでしょう。」

<おとこのこ>は彼女の枝をみんな落として持ち去った

それで、彼女は幸せだった



そして何十年、<りんごの木>はまた孤独だった
そこにある日、すっかり中年になった<おとこのこ>がやってきた
<りんごの木>は喜んだ
「さあぼうや、私に登ってお遊びよ。」

<おとこのこ>は溜息を一つ落とすと首を横に振った
「今更木登りなんて。それより僕は、どこか遠くに行きたい。僕に小船をくれるかい?」

<おとこのこ>に合わせるかのように、<りんごの木>もまた一つ深い溜息をついた
「それでは、私の幹を根本からお切りなさい。それで船ができるでしょう。」

<おとこのこ>は、彼女の幹を根本から切り倒すとさっさと持ち去った

…それで彼女は幸せだった………



そしてまた何十年、すっかり老人になった<おとこのこ>が彼女の前に杖をつきつつその姿を表した
喜んだ彼女は言った
「さあ、私に登りなさい。そして私のりんごをお食べ。…でも私には枝も幹もりんごも無いねぇ…。」

すっかり老人になった<おとこのこ>は、力無く言う
「この歳ではとても木になぞ登れない。歯が弱くなったからりんごもかじることはできないよ。
 …ただ、休めるところがあったなら。」

すると、<りんごの木>は言った
「…ああ、それなら私のこの切り株にお座りなさい。私の切り株は、腰掛けるには丁度良い。」

今や老人になった<おとこのこ>は、切り株だけになってしまった彼女にその腰を下ろした

彼女は、それで幸せだった』







静かに本を閉じたは、何も言えなかった
…何を言って良いのかすら解らなかった
言葉を失ったままのが次に口を開いた刹那、流れを成して涙が次々零れ落ちた


「…こんな、こんな事って…。」


あとがきに、『彼女の献身は決して犠牲精神ではない』という旨の訳者の解説が施されていた

確かに、そうかもしれない。…少なくとも作者の属するキリスト教的見解に基づいたならば
…しかし、何なのだろう。この遣り切れない気持ちは

の脳裏に、今や切り株だけになってしまった<りんごの木>の姿が浮かび上がった
雨露の染みに古ぼけ、朽ち掛けた彼女は、それでも長いこと<おとこのこ>を待ち続けている

彼女は、本当に幸せだったのだろうか
そして彼女がその命を捧げるほどの価値が<おとこのこ>には本当にあったのだろうか
…私にはとてもそうは思えない
…少なくとも、私が<りんごの木>であったなら、そう思うだろう
それとも、「献身」とは唯の自己満足に過ぎないのか
………それでは、あまりにも寂しすぎる

は、涙に塗れた顔を枕に埋めた
頭の片隅に、青々と茂った<りんごの木>と幼い<おとこのこ>が親子の如く戯れる姿がちらりと横切った
…それは、古ぼけた<りんごの木>が何度も何度も夢に見た「幸福の光景」だったのかもしれない








翌日、休館日の図書館の裏手に、は一人横たわっていた
の勤務するこの図書館の裏には、それは見事な草原(くさはら)が広がっている
…と言うと聞こえは良いが、唯単に誰も手入れをしない空き地同然の場所だった
そこは丁度図書館の裏手と言う立地条件もあってか誰も出入りが無く、がたまに一人で一息つく一種贅沢な場所と化していた


「ふう………。」


殆ど無言のまま、はぼんやりと空を見上げた
遥か彼方の上空で、筋の様に伸びた雲がゆっくりと時を刻む

…休館日で仕事もオフなのに、此処に来てしまった

今日何度目かの溜息を落したは、寝転がった姿勢のまま、身体の横に放ってある仕事用鞄から緑色の本を取り出した
両手で持ち、頭の上に掲げてパラパラとページをめくる
冒頭に描かれた「幸福の光景」が網膜にくっきりと焼き付いて悲しくなったは、本のページを開いたまま、顔の上を覆った

昨日はあれから一晩中、心の中が得体の知れない感情でモヤモヤして殆ど眠れなかった
『休みの時はしっかり休む』というのがモットーだっただけにちょっと悔しくもある
だがそれ以上に心底すっきりした気分になれないのは、この本のテーマのあまりの深さに自分がまるごと飲み込まれて
どうにも動きが取れない状況にあるからだろう
…答えは無いと、そう解っているのに







「此処にいたのか。…緑色のお嬢さん。」


が本の隙間から上を見遣ると、昨晩この本をに薦めた張本人が立っていた


「…アイオリア、居たの?」

「ああ、さっき此処を通りかかって君に気が付いた。」


アイオリアは近付くと、の横にごろりと並んで横になった
アイオリアの体重に押し潰された周囲の草から、ヘキセノールの匂いが微かに香り立った


「…なかなか良い場所だな、此処は。」

「ええ。」


は本を顔に載せたまま、短く応えた
アイオリアはその様子をちら、と一瞥すると、頭上遥かなる青天を見上げた


「…驚いたかい?」

「…ええ、充分すぎる程。そして思い出した。
 …私、この話を昔読んだ事があるわ。確か…中学の頃、英語の教科書に載っていたの。原文のままだったけど。
 …その時も泣いたような気がするけど、今回はその時とはまた違った事に気付かされた。
 多分、十年後、二十年後に読んだならまた違った事に気付くんだと思う。」


は、アイオリアに悟られぬよう、なるべく声を細くして喋った


「この本はな、英語タイトルで『The Giving Tree』と言うんだ。」

「……この木は、貴いわ。昔、マザー・テレサは『与えなさい、痛みを感じるまで』と言った。でも、この木はそれ以上の事を成し遂げた。
 痛みを感じるどころか、持てる身体全てを彼に差し出したのだから。…誰もこの木には敵いはしない。」


か細い声で話しながら、脳裏にくっきり描かれた「幸福の光景」を思い浮かべてはその肩を静かに震わせた
アイオリアは、そっと自らの上半身を起こすとその指での前髪を掬った


「…きっと、母の『愛』は見返りを望まないんだろうな。『Give And Take』ではなく、『Give And Give』なんだ。
 …子供が幸福であれば、それで良い、と。」

「『Give And Give』……。」

「…でも、俺はその精神は母子の『愛』だけに存在するものではないと思う。」


の前髪を梳いていたその指で、アイオリアはの身体を抱き起こした
緑色の表紙が、の頭の上から草の上にころがり落ちて辺りの色に溶け込む


「愛する人が健やかで、幸せでいてくれたなら、それが俺に取っては一番の幸福だ。
 …二番目、三番目の幸福は、それはもしかしたら『欲望』かもしれない。
 それでも、…俺は、君がこうして側に居てくれるただそのことが何よりも重要で、至上のものだと、そう思っている。」

「…アイオリア…。」


驚いた様に顔を僅かに上げたの頬に、アイオリアはその大きな手を添えた


「…俺はいつも闘いに身を投じ続けて、何時死ぬかも解らない人生を送ってきた。
 多分、これからもそうだろう。
 …だが、もし何処かで命を失ってしまうとしても、それが君の幸福を守るためなら、俺はその瞬間を恐れはしないだろうと、そう思う。
 その想いは、この木がこどもに抱いた想いに似ている。そう思ったから、君にこの本を読んで貰いたいと思った。」


アイオリアの『死』という言葉に、は動揺した


「…『死』…?…アイオリア、貴方…。」

「いいんだ、その事は気にしないでくれ。いずれ解る。…今は、唯君の気持ちを訊きたい。
 …いや、これも一種の『欲望』かな。」
     

アイオリアはもう片方の手での髪を再び手に取ると、困ったように破顔した
嘘偽りの欠片も見られないその眩しい笑顔に、は目を細めて笑った


「…『全て与える事』は決して自己満足じゃないのね。
 私も、そうやって貴方の<りんごの木>になれるかしら…。」


は、短く応えると両の腕をアイオリアの背にそっと回した
精一杯伸ばしてみても両腕が届かないその大きな身体を、は<りんごの木>だと思った


      …そう、私だけの<りんごの木>
      そして、私もまた…


温かな<りんごの木>の幹に顔を埋めたの耳元に、アイオリアがそっと低い声で囁いた


、<りんごの木>は死んではいない。切り株からは新しい息吹が芽吹くんだ。
 ……俺たちも、きっとな…。」


上気して赤く染まったの首筋に一つキスを落して、アイオリアはその身体を緑の中にゆっくりと傾けた








…「」と言う名の林檎の味は、黄金の獅子だけが知っている…






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