Eden







  パタンッ、カシッ



  「あっ…と、肝心な物を忘れてたわ」


  はもう一度、閉じたドアのロックを外し、後部座席から帆布製のトートバッグを取り出した


  パタン、…カシッ


  「これで、よし、と。」



  かなりの台数の車を停めることが可能な駐車場を後にし、は前方の大きな建物を見上げた


  「前の古い感じの建物も好きだったんだけどね。…やっぱり最新設備の整っているほうが、利用する側としては便利よね。」



  大型の自動ドアをくぐると、吹き抜けのエントランスホールが広がる










  ここは、の住む街の図書館

  …最近、新しく建て替えられたこの建物は、コンピューターによる蔵書・利用者データの管理と、週末に行われる映画の無料上映会、
  そして昔から現在に至るまでの膨大な蔵書の閲覧・貸し出しサービスが住人の人気を博し、建て替え以前に比して利用者は大幅な増加傾向にあった


  …も、そんな利用者の一人


  高校時代は、帰宅途中に寄り道をして以前の図書館をよく利用したものだったが、大学入学を機に、殆ど寄り付くことが無くなって久しかった

  結局、生まれ育ったこの街に就職を決め、自宅と職場の往復生活にも慣れた時期に「図書館リニューアルオープン」のニュースを聞き付け、
  高校時代を思い出すように久々にやってきたのはほんの最近のこと


  最初は、自身が高校時代に読んだ本を見付け歩くだけだった
  しかし、以前の建物と比べ、格段に広くなった蔵書の空間を見上げているうちに、それまでは踏み込んだことのないコーナーにまで分け入るようになっていた

  例えば、地理書、科学書のコーナーから……児童書や料理書のコーナーに至るまで


  文学作品ばかりを読み耽っていた高校時代とはまた一味違って、それらの書物に触れているだけで新鮮な雰囲気を味わえること、
  それ自体がは気に入っていた


  週末に行われる映画の無料上映会も、新社会人の密かな楽しみだ

  …最も、上映作品の殆どは、子供向け作品であったり、所謂TVのロードショーで何度も放映されているような類のものであったが、
  時折、知名度は低いが不思議と心に染み込んで来るようなセンスの良い作品が上映されることがあり、
  仕事に疲れたの精神は束の間の、しかし深い癒しを得るのだった


  「ん――、今日の映画は…子供向けみたいね。来週に期待しましょ。…じゃあ、いつものところに行きますか、と。」


  は「本日の上映予定作品」のボードを一瞥すると、書架の奥の方へと向かった










  「やっぱり、綺麗な風景が一番良いわね―。」


  一冊の本を手にとって、パラパラとめくってみる


  …今の一番のお気に入りは、「写真集」のコーナーだった


  何故かこのコーナーだけは人の姿が殆ど無く、が熱中してその場に半ば座り込んでいることがあっても、誰も気が付かなかった
  は、そのポイントも気に入っているようだ


  「北海道かぁ…、いいなぁ、行ってみたいな。…でもこんな湿原は、入ったら怒られそうね。」
  「これは、どこの国の風景かしら?…こんなに綺麗な湖、見た事無いわ。」
  「ふふふ、この写真を撮った人は、なかなかセンスが良さそうね。こんなものをクローズアップするなんて、変わってる。」


  書架の片隅で、妙齢の女性が屈み込んだままヒソヒソと独り言を呟くその姿は、他の利用者や職員が見かけたら少々奇異に映るかもしれない

  しかし、それほどまでにはこのコーナーが気に入っていた




  …生まれ育ったこの地に繋がれて、どこにも行くことのできない自分
  …仕事に埋もれて、寸分のゆとりもない心




  そんな自分の寂しい現状を、少しでも忘れ去ることができたなら


  の目の前のたくさんの風景は、そんな小さな願いを束の間、叶えてくれるようだった





  「あれれっ……?」


  は、写真集の棚を物色しながら、小さく呟いた

  「おかしいわ。確かあの写真集、先週はここにあったのに。…誰かに借りられちゃったのかしら?折角今週借りようと思っていたのに…。」

  今回のお目当てらしい本が見当たらず、は少し残念そうに肩を落とした

  「しょうがないわね。…あの本はまた来週にしましょう…。」








  「………何か、お探しですか?」







  俯いていたに、突如後ろから声が降りてきた



  が振り向いて少し上のほうを見上げると、一人の男が立っていた

  淡いクリーム色のワイシャツに深緑のタイを絞めて、濃紺のスラックスを身につけている
  …身なりからすると、どうやらこの図書館の職員のようだが、その男の容姿には一瞬、自分がどこか写真集の中の国にでもいるような錯覚に襲われた





  腰を覆い尽くすほどのストレートの金髪に、青く透き通った瞳
  日本人としては少しだけ大きい方に属するの身長からでも、思わず見上げてしまうほどの長身
  緩く閉ざされた口元は、男の纏うその静かな雰囲気を物語っていた



  「え…?…あ、ええ。…でも、もう誰かに借りられてしまったみたいです。」

  正気に戻ったが慌てて答えると、男は少し目を細めて微笑んだ

  「…お探ししましょう。検索サービスを利用すればどちらに貴女の御希望の本があるか、すぐ分かります。…本のタイトルはご存知ですか?」

  「あ…、えっと…『空想紀行』という写真集なんですけど…。」

  検索用の端末に向かおうとした男は、の言葉を聞いてその歩みを止めた


  「ああ…、あの本でしたら、確か音楽ソフトが付属になっていましたので、書庫の方に先週、収納しましたよ。」

  「そ、そうです。確かCDが付いていて、ピンク色の表紙だったと思うんですけど…。書庫に行っちゃったんですか。
  …どうりで探しても見当たらないはずですね、はは…。」

  が少しバツの悪そうに耳の後ろを掻いているのを目にして、男は口を僅かに緩めて柔らかく笑った

  「あの本は、書庫にありますが……ご希望でしたら、お貸しできますよ。」

  「ええっ!本当ですか!!…是非、お願いします!!」

  その本はもう二度と借りられないと思っていたので、は男の申し出に驚いた


  「フ……、肩を落としたり、恥じ入ったり、そして驚いたり…。まったく貴女は面白い女(ひと)ですね。…しかし、ここではお静かに願いますよ。」


  男は付け加えながら、堪え切れないように、クク、と喉の底から小さな笑いを漏らした

  「………。す、すみません…。」

  は赤くなったまま、またも俯いて小さく呟いた


  「いえ…。唯、こう言った場で毎日働いている身にはとても新鮮に映っただけですよ。
  …こちらこそ、女性に対して笑うなどと、とんだ失礼をしましたね。私は、この図書館で司書を務めております、ルネと申します。
  …さあ、それでは書庫にご案内しましょう。どうぞ、こちらへ。」

  「ありがとうございます!あ…、私はと申します。」

  は、俯いていた顔を上げた
  ルネと名乗る男は、穏やかに微笑むとを先導するように踵を返した

  さらり、とルネの長いストレートの髪が弧を描いて空を切る

  その様子や、ルネの優雅な物腰に、はすっかり毒気を抜かれていた





  …日常の徒然を離れた風景は、大好きな写真集の中ではなく、今の目の前にあるのだから












  その扉の中は、紙が発する特有の甘い匂いで満ちていた

  「さあ、こちらです。どうぞ。」


  ルネに導かれるまま、は書庫の奥へと足を踏み入れていた

  普段、職員以外は使用しないためか、表の書架に比べると少し埃っぽい
  棚と棚の間隔も、人がようやくすれ違える程度のものだった
  蔵書もみな古いものばかりで、重厚な濃紺や臙脂の表紙もほつれて取れかかっていたり、紙が茶色っぽく変色してしまっているものが多かった
  上部の蔵書は2mを軽く超える棚に収納されているためか、いくつかの書棚ごとに木製の梯子が立て掛けてあった

  音を感じさせないそれらの風景が、ルネの持つ雰囲気にぴったりだと、はルネの後ろを歩きながらぼんやりと考えた

  ルネの綺麗な髪が、歩みの度にその背中に流れる
  髪の一筋でさえも、静かに波を刻んでいる

  その様子をすぐ後ろでまじまじと目にしながら、は小さく溜息をつかざるを得なかった

  「どうかしましたか?さん。」

  先ほどのごく僅かな溜息までその耳に捕らえたのか、ルネが立ち止まって振り返った

  「い、いえ…なんでもないです。…あ、あの、この書庫って、私みたいな一般人が入っても良かったんですか?」

  ルネの胸にぶつからないようにつんのめりながら、は思い出したようにルネに尋ねた

  「ああ、そんなことですか。…そうですね、普通はやはり入れないようですが、貴女のような事情であれば別段構わないようですよ。
  …さあ、写真集の棚はこちらの奥のほうです。」

  ルネは右手を広げて一つの棚を指し示した

  棚の向こうに、換気の為か、一つだけ設けられた大きな窓があり、ブラインドから傾きかけた陽が零れていた


  「確か、さんがお探しの『空想紀行』は、こちらの棚の左上のほうにあったと思います。」

  「あっ、いいですよ、ルネさん。私、自分で探しますから。」

  「いえ、私は職員ですし、構いませんよ。これも仕事のうちです。…それに、書架と違って、この書庫の棚は高さが格段に違いますから、
  さんよりは私のほうが探し物も見付け易い筈です。」

  「は…、じゃあ、お願いします。」


  は、ルネの提案に従って少し後方に下がった
  ルネは、立ち尽くしたまま細い顎に手を当てて暫く考え込むと、傍にあった梯子を一つ持って来て、徐に一段、二段と登り始めた
  ミシ、ミシッ、と木の軋む音だけが辺りに響く

  棚の上部は、2m50cmを超えるため、長身のルネも流石に見難いのだろう

  は、更に後方に下がって、遠目で本を探し始めた
  …少しでも、ルネの助けになるように









  「あっ!ルネさん、ありました!ありましたよ、『空想紀行』。」

  が突然、大きな声を上げたので、ルネは驚いて梯子を踏み外しそうになった

  「…どこにありますか、さん。教えてください。」

  は梯子の下まで戻ってくると、ルネに本の場所を示した

  「えっと…、上から2段目の、左から15〜6冊めくらいだと思います。」

  ルネは体勢を立て直して梯子から身を乗り出すと、の言った辺りを向いて探り始めた
  やがて、ルネの左手が、ピンク色の背表紙に当たった


  「あ…、ああ。これですね。ちょっと待っていてください、さん。すぐに取り…ああっ!!」

  「きゃああっ!!」


  ルネが本を引き出そうとした矢先、梯子がバランスを崩して大きく揺れ、倒れた
  梯子の下に戻って来ていたは、突如上から落ちてきたルネの下敷きになってしまった











  「……………さん…。」






  すぐ耳元で囁かれた声に、は固く閉じていた瞼を開いた

  ……の黒い瞳のすぐ前に、ルネの群青の瞳がある





  「…ル…ネ……。」





  夕日を受けて更に輝きを増したルネの金髪が、さらさらと音をたてての頬に、首筋に落ちてくる
  やがて細い黄金の鎖のように、の胸元を飾る

  先ほどのショックでまだ芯がぼうっとした頭で、は時が止まったようにルネを見つめていた

  白く透き通った肌、海のような瞳、筋の通った鼻、…薄く閉じられた唇
  本の中のどこか遠いところではなく、今自分の目の前に真に美しいと思えるものが存在する
  …瞳で、手で、唇で触れていたい
  そんな衝動も、今はとても自然なものに感じる
  ……自分を組み敷くルネの体の重みが、こんなにも心地よく感じることも












  「…すまない…。私の注意が足りなかったようだ…。」

  緩やかに体を起こしながら、ルネは眉を顰めた

  「怪我はなかっただろうか?…その…重くはなかったか?」

  ルネは、少し困ったような表情をして、に手を差し伸べた

  「ううん。……ルネ…さんこそ、あんなに高いところから落ちたんだから、お怪我はないですか?
  ……もともと、私が本を探しとていると言ったのが原因なんですし…。」

  「いや、私はなんともない。…肘から、血が出ているではないですか。ちょっと待ってください。」

  ルネは、スラックスのポケットからハンカチーフを取り出すと、の肘を一度軽く押さえてから巻きつけた
  その手つきが流れるように鮮やかであったため、はまた感心してしまった

  「ありがとう…ございます。ルネさん。」

  「……ルネ、でいいですよ、さん。」


  ルネは、の無事な方の手を取り、優しく引き起こしながら、微かに笑った

  「あ…、じゃあ、私も、と呼んでください。あと…、その敬語も使わなくていいですよ。さっきみたいに、普通に話してください。」

  「いや…あれは、少しうろたえた時に出てしまうのですよ。普段はこの通りに話すのです。…先ほどは本当に失礼しましたね、。」

  ルネは、少し照れたような表情を浮かべて、そして右手を軽く挙げた

  「、貴女の探し物はこれですか?」

  ルネの手の中には、『空想紀行』と記されたピンク色の表紙の本が一冊、納められていた
  おそらく、梯子から落ちたときにもしっかり握り締めていたのだろう

  「ああ…!それです。ありがとう、ルネ。」

  はルネの手から本を受け取ると、嬉しそうにパラパラと数枚、ページをめくった
  …青、群青、碧
  がめくるどのページも、海や波、水中の風景で一杯だった


  「その本は、私も好きなのです。水が沢山写っているでしょう。…見ているだけで、気分が落ち着いてくるのです。
  添付のCDを聴きながら眺めると、また格別ですよ。…残念ながら、CDはお貸しできないのですが。」

  「あ…いいえ、いいんです。この本を借りられるだけでも。それに…」


  それに…、この本の中の景色より美しいものを、私は見つけたのだから


  その言葉は、口には出さずに心の中でだけそっと呟いた



  暫く黙っての方を見ていたルネが、やがて口を開いた

  「さあ、それでは貸し出しの手続きをしますので、表に出ましょうか、。」

  「ええ。お願いします、ルネ。」

  は笑って返した



  ルネに続いて書庫を出るとき、は少しだけ中を振り返った
  …この部屋には、二人だけの秘密が隠されているような気がして














  一週間後の土曜日、は再び図書館の前に車を停めた
  エントランスホールを潜り抜けて、図書の貸し出し・返却カウンターへと向かった

  図書館の蔵書の貸し出し期間は、丁度一週間
  借りた本を返しに来た…というのもある
  だが、がここに来る一番の理由は、それだけではなかった


  「あの…、今日はルネさんはこちらにいらっしゃらないのですか?」

  は、本の返却を済ませながら、大胆にもカウンターの職員に尋ねた

  「ルネさんかい?…ああー、彼は今日はお休みだよ。土日の休みはシフト制だからね。」

  「…そうですか。」

  男性職員は、残念そうなの声を聞いて、ふと顔を上げた

  「ああ、でも今日の映画は彼が選んだものだよ。彼はなかなかセンスが良いから、あまり知られていないような作品の中から名作を掘り出してくるんだよ。
  …私らは面倒くさいから、子供向けや有名作ばかりを選んでしまうんだがね。先々週の『愛と精霊の家』も彼のチョイスだよ。他にも…」

  男性職員の口から出た作品は、殆どと言って良いほどがここで初めて観て感動した作品ばかりだった

  あの人、ほんとに凄いわ…

  は、改めてルネのその人柄について感心した







  結局、はルネには会えなかったけれど、ルネが選んだという映画だけは観て帰った

  今日の映画は、イギリスを舞台にした、オックスフォードの教授とアメリカからやってきた女性という壮年カップルの話だった
  アクション性はまったくと言って良いほど無く、ただ静かに、しかしやがて激しく流れて行くストーリーに、は知らず知らずのうちに涙を流してしまっていた

  そして、こんなに自分の心に染み込んで来るような作品を選んでくれたルネを、心底貴重な存在に思うのだった









  翌週の土曜日、は再び図書館に出かけた

  職員の話では、土日の休みはシフト制になっているらしい
  …だから、今週は彼の勤務日の筈
  そうであって欲しい

  …それに、今日は…







  「ルネ。」

  は、薄暗い閲覧室の机を磨いているルネを見付けると、近づいてうれしそうに声を掛けた

  「ああ、。いらっしゃい。よく来てくれましたね。」

  ルネは手を止めて顔を上げると、に微笑みかけた

  「先週は、土曜がお休みだったんですね。いらっしゃらなかったんで、残念でした。」

  「…それは…失礼しました。シフト制になっているので、どうしても休まなければいけない時もあるのです。」

  心底残念そうなの表情を目にして、ルネはその青い目を細めて口元を綻ばせた

  「何をしているんですか、今。」

  「もうすぐ閉館ですから、こうして机を掃除しているのですよ。土日は特に利用者が多いですから、念入りに、ね。」

  「…大変なんですねー。…それじゃあ、私、お邪魔しないようにあっちのコーナーに行きますんで。」

  が踵を反そうとした瞬間、ルネが俄に引き留めた

  「。…その、もし良ければでいいのですが、閉館後、少しお時間を頂けませんか?」



  は、予想だにしなかったルネの提案に、正直驚いて目を丸くした


  「え…、あ、はい。…喜んで!」

  「…それでは、閉館15分後ぐらいに、表の喫茶店に参りますので、そちらで待っていてください。よろしいですか?」

  「分かりました。…お仕事、頑張ってくださいね、ルネ。」

  は、すっかり上気してしまい、足取りも軽く写真集のコーナーへと消えて行った
  ルネは、のその後姿を見送りながら、僅かに笑みを湛えた











  「お待たせしましたね、。さぞ退屈だったでしょう。」

  ルネは、の表情を覗き込むように対面に腰掛けた

  「いえ、こうやって誰かを待っているのもなかなか楽しかったです。…ルネも、お疲れ様でした。」

  は、手にしていたロイヤルミルクティーのカップを、静かに受け皿に置いた
  ルネは、店員にストレートのダージリンを頼むと、に向き直った
  顎を乗せるために前で組まれたその両手に、金色の細い筋が落ちてくる
  その光景を見ていると、書庫でのあの出来事を思い出してしまい、は自然と顔を赤くした

  「きょ、今日はどうなさったんですか…?」

  頭の中で膨れ上がる記憶に耐えられなくなったは、ルネに切り出した


  「…今日は、これを、貴女に…と思って。」


  ルネは、皮の茶色い鞄から、綺麗にラッピングされた平らな包みを取り出してに渡した


  「…?開けてもいいですか?」

  「…どうぞ。」


  が包みを開くと、中からピンク色の表紙の本が姿を現した


  「あ…!これ、『空想紀行』…!これ、ルネが私に……!?」

  ルネは、に向かって小さく頷いた



  「今日は君の誕生日だろう?…おめでとう、。」




  は、自分の耳を疑った

  「え…?でもどうして、ルネがそれを??」

  ルネは、それを聞くと俯いて呟いた

  「…君の、図書館の利用者カードを見た。あのカードには、生年月日が記載されているから…。」

  ルネは、すっかりバツが悪くなったように、顔を赤くした

  「その…決して悪気があって見た訳ではないのだが、…許してくれるだろうか。」

  「許すも許さないもないわ、ルネ。…ありがとう、貴方が私の誕生日を知りたいと思ってくれただけでも、私は嬉しいもの。それに、この本。」

  は、ピンク色の本を大事そうに両の手で抱えた

  「…いや、君がその本をとても気に入っていたようなので…。折角ならCDも添付されている新品を、と思ったのだが。」

  「ありがとう、本当に…!…なにより、ルネ、貴方がこの本を贈ってくれたことそれ自体が、とても嬉しいわ…!」

  「そうか…、良かった。君が喜んでくれて。」


  店員が、手にした銀のトレーから、ルネの前に紅茶の入ったカップを置いていった
  ルネは、ティーカップにその薄い唇を付けると、一口分の紅茶を含んだ
   ルネの喉を、暖かい液体が潤いを与えながら下って行く

  ほうっ、とルネは息を吐いた


  図書館に併設するこの喫茶店は、土日は利用者で賑っているとは言え、閉館後のこの時間は誰もいないことが多かった

  店員も奥に行ってしまったため誰もいない静かな空間を、ルネは目を閉じたまま、しばし楽しんでいた

  …自分のすぐ傍では、が本のページをゆっくりとめくっている音だけが聞こえる


  こんなさりげない時間が、幸福というものかもしれない
  そして、という一つの存在を、何よりも愛しく感じる

  ルネは唯ぼんやりと考えていた







  「…ルネ、ここ、そろそろ閉店時間じゃないかしら?」

  ルネは、の言葉に我に帰った

  「ああ…、確かに。ではを車までお送りしましょう。…と言っても、すぐそこで申し訳ないですが。」

  「ううん…ありがとう、ルネ。今日は本当に良い日だった。…いままで一番、ね。」

  普段の調子を取り戻したルネは、にっこり微笑むの手を取って立ち上がらせると店の出口に向かって静かに歩き出した


  「ねえ、ルネ。」

  「あっ…!」


  先を歩いていたが、突然立ち止まって振り返ったため、ルネはにぶつかり、勢い余ってビロード張りの床に倒れ伏してしまった
  ……またもやを下敷きにして







  「ルネ…。」





  ルネの目の前に、再びの瞳がある
  の黒い瞳の中に、自分の姿が映っている
  …を欲して止まない、一人の男の姿が





  「…。」





  ルネの低い囁きに、は自分の目が潤んでくるのを感じた


  「今度は……私を受け入れてくれるか…?」


  小さく見開かれたの瞳は、やがて静かに閉じられた


  の小ぶりな紅い唇に、ルネの端正な唇がそっと重なる








  喫茶店に流れる静かなBGMさえ、今の二人の耳には届かない
  どんな音も、二人は必要としないから
  …必要なのはただ、互いの感触と体温だけ









真実の心の癒しは、本当はきっとすぐ傍にある…